深まる秋のメモラビリア「ねえ、育斗くん」
女性の声が耳元で君島の名前を呼んだ。君島は驚き、顔を上げる。
「いつまで本読んでるの?」
彼女が座っていたソファにはタイトルもジャンルもバラバラな雑誌が数冊乱雑に置かれ、退屈しのぎにも退屈したことがわかる。
「今日は忙しいと言ったでしょう? それなのに来たのはあなたですよ」
君島は内心ため息をつきながら答える。
「本読んでるだけじゃない」
「一人でゆっくりする時間を取るのも大変なんですよ、あなたにも分かるでしょう。それにしないといけない連絡もまだあります」
「じゃあ連絡早く終わらせちゃってよ」
君島が座るデスクから女性はふくれっつらで離れ、本棚――三分の一ほどは君島が載っている雑誌で埋まっている――を眺める。
まったく自分勝手で困ったものだ。君島は曖昧な返事をしながら本を置き、パソコンを開いた。君島の部屋でごねる女性――もとい君島の恋人――は、いつだかのドラマで共演した俳優だ。相手役とかそんな撮影後のロマンスが用意された役ではなく、言葉を交わした場面は二、三。メインキャストの君島とは違い、数話だけのゲスト。普通は撮影が終わり、さよなら、またどこかの撮影で会うかもしれませんね。そのていどの人だ。ところが彼女は君島をいたく気に入り、猛アタックをかけてきた。その当時の君島はフリーかついい加減アタックを流すのが面倒になってきたため、承諾した。
しかし現在、君島育斗は恋人を作ったことを後悔している。そういえば以前恋人がいたときも同じ思いをしたのだったと今さら気づく。
彼らは、優しく言えば、わがままなのだ。君島が嫌がっても自分の望むままに君島を動かそうとする。それなのに君島が渋ると自分のことが好きじゃないのかと君島を責める。「優しい君島育斗が愛する私」が好きなのだ。不本意であっても嫌な男のイメージが広がってしまうと仕事に支障が出るため、柔らかな笑顔で彼らをなだめ、結局言うことを聞く。
(ではどうやって恋人と別れるのか、気になる人のために軽く説明しておくと、こうして言うことを聞き続けていれば今度は恋人の君島に対する興味が薄れ、他の男に目移りする。人間みな優等生が好きだが、得てして非のない人間には飽きやすいのだ。そうして大した禍根なく君島の元から去り、君島は晴れて自由の身だ。今君島をいらつかせている彼女も近々同じように離れていくだろう。)
「あ、これ育斗くんが高校生の時の?」
恋人が棚から引っ張り出したのはテニス雑誌だ。U-17代表特集と表紙に書いてある。そして懐かしい面々。
「そうですよ」
「あんまり変わらないのねー」
恋人はページをめくりながら言う。本文を読む気はさらさらないようで、君島の写真が載っているページでしばらく手を止め、満足したらまたページをめくっていく。
「この頃から大人っぽいっていうか。あ、この人とダブルス組んでたの? 彼モデルだったりするの?」
「いいえ、そんなことはないはずですよ」
恋人が君島に向けて見せた雑誌の中、君島と同じコートで写真に写っているのは遠野篤京だ。ずいぶん長い間ダブルスを組んでいた、嫌なプレイスタイルの男。彼は処刑と言って人を傷つけることを楽しんでいた、端的に言って非常に問題のある人物だった。
君島がゆっくり自分の時間を過ごしているところに割り込み、処刑法の話をしてきたことは一度や二度ではない。興味がないと言っても話し続けるため、高校三年の合宿が終わる頃には彼の十三の処刑法とその元ネタについてかなり詳しくなっていた。
振り返ればいいやつだったかもしれない、などと思うことなどなく、今でも卑劣な男だと思っている。彼がどう社会に出るのか、どうすれば社会に出られるのか、まったく想像がつかない。敵味方かまわず――そもそも彼にとって他人はみな敵だったのかもしれない――周りの人間にひどいことをする男だ。だが、そう、君島は彼からひどいことをされたことがなかった。あれだけ乱暴で卑劣な男の側にいて、イラつくことはあれど――というよりも君島は遠野と接しているときはほぼ常にイライラしていた――彼が君島を傷つけたことはなかった。
根っからの八方美人、好印象の権化ともあろう君島は、遠野にだけは口にするのもはばかられるほどひどいことをしたというのに。あろうことか遠野はひどいことをした君島をなじることも毛嫌いすることもなく、パートナーとして扱った。
ひどいやつだとでも言ってくれれば、責められて謝罪して禊ぐこともできたのだが、わざとか否か、遠野は罪を手放すことを許さず優しく赦したのだ。
そんな遠野が君島の裏切りをすでに知っていて、そして君島がまだ遠野が気づいていることを知らなかったとき。君島が未だに詳細に思い出す出来事がある。
***
「おい君島」
「処刑の話を聞くほど暇ではありませんよ」
君島が休憩ルームで温かい紅茶をお供に読書に勤しんでいたところ、遠野の高めの声が君島の名を呼んだ。遠野が名前を呼ぶときはろくな用事ではない。君島は先手必勝とばかりに――実際は意味がないのだが――遠野のお気に入りの話題を拒否する。
すると予想に反して遠野はつまらなさそうな顔で静かに君島の向かいに座った。君島は座り心地が良いからとソファが対になって置かれているテーブルを選んだことを後悔した。
「そうじゃねぇよ。お前疲れてるだろ」
「そりゃあ、毎日ハードな練習をしていますからね」
「キミ様活動もだろ」
「キミ様……芸能活動のことですか?」
「そうそう」
「あなた私がいないことに気づいていたんですね」
「バカにしてんのか?!」
「で、心配でもしてくれてるんですか?」
「いや、疲れてんなと思っただけだ」
「そうですか……」
疲れているように見えるのならそっとしておいてくれれば良いものを、君島にとって遠野の相手をすることがどれだけ疲れるか知らないとでもいうのか。遠野が療養に入り君島は他の選手と組むようになった。そのため遠野と話す機会は一気に減ったが、君島はそのことを快適だとすら感じていた。
遠野との会話はそこで途切れ、君島は遠野の存在を無視して読書の続きに集中することにした。普通であれば相手に話す気がないと知るとその場を去るのだが、普通が通じない遠野は他にも空いている椅子はいくらでもあるのに君島の向かいに座ったまま、黙ってスマートフォンを見ている。指の動きを見るに、雑誌でも読んでいるのだろう。
「遠野くん、お茶でもいかがですか? アップルパイではありませんが、りんごの焼き菓子があるのを思い出しました」
十分ほどが経ち、会話もなく同じ時間を過ごす居心地の悪さに音を上げたのは君島だった。焼き菓子が余っているのは事実だ。遠野はスマートフォンから顔を上げ、細めた目で君島を見た。
「なんだ気持ち悪い」
「食べてしまわないと悪くなりますから。偶然あなたが来ただけですよ」
「そうかよ」
遠野の了承とも拒否とも取れない返事を聞きながら、君島がティーポットを確認すると、あとほんのひと口ほどしか残っていない。君島はそれをカップに注ぎ、飲み干した。
「用意してきますから、待っててください」
「茶ぐらい淹れてきてやるよ」
君島を追って遠野が立ち上がる。君島は驚いて眉を吊り上げた。
「あなたに紅茶が分かるんですか?」
「あ? 熱湯入れりゃいいんだろ」
「おや、正解です。ではティーバッグは僕の部屋にあるので給湯室に行く前に寄りましょう」
遠野がティーポットを手に、おとなしく君島について歩く様は珍しいらしく、道中すれ違った何名かが振り返った気配を君島は感じた。この状況が珍しいのは君島にとっても同じだ。
「ではこれでよろしくお願いします。ポットは一度ゆすぐだけで大丈夫でしょう」
「おう」
君島の部屋に着き、君島はティーバッグを遠野に手渡した。遠野はティーバッグの包みとティーポットを持って給湯室へ向かった。君島は机の上に置いてある洋菓子店の箱を開ける。仕事相手からもらったものだ。一人で食べるには少々多く、皆で分け合うにはあまりにも少ない。君島が今どこを拠点にしているのか少しは考えてもらいたいものだ。焼き菓子にしては大きめの袋を二つ取り、また蓋を閉じる。残りはあと二つだからどうにかなりそうだ。
皿とフォーク、遠野の分のカップも用意して元いた部屋に戻ると、遠野はすでに元いた場所に座っていて、テーブルに置かれたティーポットからは湯気と深い香りがたちのぼっている。
「遅かったな」
「あなた走ったんですか?」
「んなわけねぇだろ。お前がトロかったんじゃねーの?」
「はぁ、そうかもしれませんね」
君島が食器をテーブルに置こうとした際に、1番上に置いていた焼き菓子の袋が滑り落ちあっと声が漏れた。手のひら大の袋はテーブルに落ちる前に、遠野にキャッチされた。
「ありがとうございます」
「皿じゃなくてよかったな!」
「どうぞ。落とさないでくださいね」
ケラケラ笑う遠野に皿とフォークをひとセット差し出し、そのまま使用するよう促す。遠野は先ほどキャッチした袋を破り、中身を皿に出した。重みのあるしっとりとしたかたまりが鈍い音を立て、皿の中央から少しずれた位置に落ちる。遠野はフォークで軽くつつき、真ん中に寄せた。
ティーポットの中を覗いて十分に色濃く出ていることを確認し、君島は二つのカップに紅茶を注ぐ。片方を遠野の方に押しやり、君島も自分の焼き菓子の封を開けた。
「お口に合いましたか?」
「ん、美味い」
遠野は案外静かに食事をする。これは偏見と言っていいイメージだが、彼のような言動を取る者はまず食べるさまが汚い。尊大で下品で食べ物に対する敬意が一切ないことがほとんどだ。ゆえにはじめて遠野に会ったときには穏やかな食事を諦めたのが懐かしい。しかし君島の予想に反して食事中の遠野はおとなしく、マナーも悪くなかった。今も用意されたフォークをていねいに使っている。
「芸能人様はこんなもんよくもらってんのかよ」
「好きではないものも嬉しそうに受け取らなければならないんですよ」
たとえ好物であっても収録後の食事に誘われるのはまた別の意味で困るが。
「これは?」と一切れ刺したフォークを君島に向けながら遠野が尋ねた。
「何が?」
「好き? 嫌い?」
「美味しいですよ。これならまたいただいても嬉しいですね」
「ふぅん」
遠野との会話はたいてい、遠野の気まぐれな問いに真面目なたちの君島が答え、遠野が曖昧な反応を示して終わる。たった今のように。君島もとっくに慣れてはいたが、仕事が立て込んでいたりするとやはり多少なりとも気に障る。君島は自分を落ち着けるために深く息を吸い、温かい紅茶の香りで胸を満たした。本を開き、一ページ読むごとに一口。
君島が菓子をようやく半分ほど食べ顔を上げると、ちょうど遠野は最後の一口を口に入れるところだった。
飲み込んだらしい遠野がすぐに立ち上がり、どうしたのかと君島が思っていると、君島の隣に腰を下ろした。君島は何が起こっても良いように、カップと本をテーブルに置いた。こういう場合、何かしらを持っていると被害に遭うのが世の常なのだ。
「何をするつもりです――」
テーブルの向こう側にある紅茶のカップを飲みやすい位置まで引っ張った遠野は突然君島の顎をつかみ、君島の口の端に唇を押しつけた。君島の問いかけは途切れ、遠野に飲み込まれる。紅茶で温まった舌が君島の唇を舐めた。
「なっ、んですか!」
「ユダのキス。ユダは銀貨と引き換えにイエスにキスをした。誰がイエスキリストか知らせるためにな」
予想だにしなかった遠野の行動に驚き押しのけた君島は、遠野の言葉に顔をこわばらせた。一瞬、自分の行いを彼が知ったのかと思ったが、それならこれでは済まないだろう。気づかれていない。そもそも彼には知れないよう立ち回ったのだ。さっと湧き上がった不安を自分の交渉に対する自信で押し込める。不自然さを指摘されたら遠野の行動のせいにすることにして、君島はできる限り自然な皮肉を返す。いつもの自分ならこう言うはずだ。
「あなたが私を裏切るつもりだと?」
「さあな」
「きっと後悔しますよ、ユダのように」
「なんだ知ってんのかよ」
「物語にはうってつけの主題ですからね。よく使われていますよ」
「けっ。口の周りについてたぞ」
君島の皿を指差した遠野にそれのかけらと言われ、君島は手の甲で雑に口の周りを拭った。自然と遠野の奇行への言及はそこで終わった。
「写真撮って売ればよかったかもな。キミ様の抜けてる一面」
「許しませんよ」
その後は目立った会話もなくなり、ティーポットもカップも空になったところで自然解散となった。遠野が食器類は洗っておくと申し出たので、君島はありがたく任せることにした。給湯室に置いておいてくれれば十分だったが、遠野がきれいに洗った一式を君島の部屋に届け、その夜は終わった。
次の日からは特にいつもと変わったことはなく、ユダのキスは遠野のきまぐれな奇行のひとつとして片づけるのが順当だった。仲間に愚痴れば災難だったな、嫌だっただろうと言ってもらえたはずだ。君島自身も彼の仕打ちを遠野が知っていたことを知るまでは、退屈だったのだろうと考えていた。
遠野が知っていたことを知るまでは。
遠野に雑に包帯を巻かれた日、君島は風呂で傷を洗いながらあの夜を思い出していた。あれは遠野からの、お前の裏切りに気づいている、というメッセージだったのではないか。一度その考えがよぎると、もうそうとしか思えなくなってしまう。もう過ぎたことなのに血の気が引いていくのが分かった。遠野が恐ろしいわけではなく、彼が気づいていないと思い込んで信じていた自分が愚かで恥ずかしいからだ。これまでずっと、彼は何を考えていたのだろう。ユダの口づけで気づかなかった自分を、彼はどう思ったのだろう。(本当にただの気まぐれだった可能性は、この時点ではすでに君島の中から消えていた。)
あの夜のことはずっと君島の中に残り続け、ハタチを過ぎた今も時々唇を舐めた舌の感触を思い出す。高校を卒業して二年が経ち、いつからか、ぞわりと肌こそ粟立てど嫌ではないことに気づいた。ドラマで披露するキスシーンや恋人との口づけと違い、胸がざわつく理由はわからない。遠野の真意がわからなかったこともまた君島をいらだたせた。
「今のこの人、遠野……あつ、きょうくん? に会ってみたいかも、どうなってるか気になる」
恋人が呼ぶ遠野の名に意識を引き戻され、悪寒が走る。明らかに女として遠野に興味を持った声。
「あなたは彼に相応しくありませんよ」
「え?」
君島の言葉に恋人が怪訝な声を上げ、君島自身も反芻し心中で首を傾げる。「彼」に相応しくないからなんだというのだ。そもそも恋人が遠野に興味を持とうが君島にはどうでもいいことではないか。相応しいとか相応しくないとか、君島が気にする必要などないではないか。
本当にどうでもいいのか。
とたん、得心がいく。どうでも良くはないのだ。君島は遠野に執着しているのだ。君島が遠野に向けるいらだちはいつしか執着に変わっていた。それとも、自分でも気づかずに執着していたからいらだつのかもしれない。とにかく、自分が執着する遠野に他人が興味をもつのが許せなかった。
「……彼はあなたに相応しくないと言ったんです。僕がいるでしょう?」
「嫉妬するならこっちにきてよ」
「あと一件終わったら行きますから」
君島はスマートフォンを手に取り、メッセージングアプリを開いた。遠野篤京。最後に連絡を取ったのは去年、合宿で苦楽を共にしたメンバーと集まった際にグループチャットで待ち合わせをしたきりだ。
――お久しぶりです。新しいアップルパイの店が近所にできたのでお茶でもどうですか。
久しぶりの連絡の理由が彼の好物というのもいささか違和感があるが――まるで新しい店を見つけるたびに連絡しているような文面だ――遠野はそのようなことを気にするクチではないだろう。
――いいぜ
君島がアプリを閉じる前に遠野からの返事が来る。急な連絡と申し出の理由には触れず、承諾の一言と気持ちの悪いスタンプが送られてきた。
――では予約しておきますから、都合の良い日を教えてください。
今度こそ返事が来る前にスマートフォンごとアプリを閉じる。液晶面を下にしてスマートフォンをデスクに置き、本棚の雑誌を漁る恋人の元に向かう。君島はもうすぐ十時を指そうとしている時計に目をやり、彼女を早急に家に帰す理由と、彼女が君島に飽きるまでのことを考えるのだった。