丁呂介の家に三人が泊まった朝トントン……と軽快な音が、緑土邸の台所から聞こえてくる。
たすきがけをして前掛けをつけて、肘まであらわにした丁呂介が朝食を準備していた。
まな板の上の油揚げや玉ねぎが、丁呂介の包丁で切られていく。軽やかで手際のいい音だ。
そのまな板の隣には、火にかけられた鍋がある。煮干しがお湯の中でくるくると回っている。湯気にまじって良い出汁の香りが、ほのかに台所に漂う。
もう一方のガス台には炊飯器があり、ご飯がもうすぐ炊きあがりそうなフツフツとした音がし始めていた。
丁呂介はまな板を持って、鍋の上へ傾けて油揚げと玉ねぎを落とした。ふぅ……と丁呂介は息を吐いて、前髪を横へ流した。額には薄く汗をかいていた。火のそばは、意外と暑かった。
ボーンと居間の振り子時計が、7つ鳴った。
ハッと顔をあげた丁呂介は、手を洗って台所の珠のれんをじゃらじゃらとくぐって、廊下をキシキシと進む。
廊下の雨戸をゴトゴトと開けて、端の戸袋に閉まっていく。何ヶ所かのガラス戸を開けて網戸にすると、朝の清々しい空気が入りこむ。
きびすを返して障子を開けると、まだイビキをかいている大蔵、唐次、はじめが寝ている。めいめい布団の上で大の字だったり、丸くなっていたりと寝相は、元気いっぱいだった。
「朝ですよー!起きなさい!!」
三人のイビキを上回るような、大きな声を張り上げた。
丁呂介の甲高い声と、闇を切り裂く朝日と、湿気をおびた冷たい空気が、安寧な寝室に一気になだれ込む。
「うっ……」
「うーん……さむい」
布団の上で大の字だった三人が、芋虫のようにもぞりと動く。丁呂介は畳み掛けるように、
「はい!しゃきっと起きる!!」
言いながら、かけ直して夢へと舞い戻ろうとする一と大蔵の掛け布団を掴んだ。
掛け布団を遠くへ投げると、コロコロ転がった一と大蔵は、ぎゃーっ!と冷たい畳に叫んで跳ね起きた。丁呂介は、空気の入れ替えの為に、次々に三方のふすまを開けていく。
「おはようございます、お二人とも顔を洗って下さいね」
ボサボサの頭を掻きながら大蔵は、大きい口を開けて、くぁーとあくびをする。一はくせっ毛が朝の涼風で、ふわふわしているのに気をとめずに、まだ開かないまぶたをこすっている。
ふすまを開けきった丁呂介は、その二人が布団に戻れないように、羊飼いの犬のごとくに追い立てて廊下へ出す。寝ぼけ眼の素足には、廊下の冷たさは氷のようだ。一と大蔵は、同時にぴゃっ!と飛び上がった。
「寒っ」
「冷たいっ!酷い!」
二人は、気休め程度にしかならないものの、はだけた浴衣を合わせ直し、背を丸めて寒さをしのぐ。ガタガタと震えながら、手際よく布団とシーツをはがしている丁呂介に、ブツブツと言った。
その苦情をかわしながら丁呂介は、二人に身支度を整えるように促す。
「もうすぐ朝ごはん用意できますから、居間にいて下さいね?」
「……はーい」
二人は揃ってしぶしぶ返事をすると、できるだけ爪先で歩いて洗面台へ向かう。二人を見送りながら、丁呂介は満足気にヨシヨシと言う顔をした。
そして丁呂介の顔つきは一変して、じろりと足下でまだ眠っている唐次を睨む。彼は髪の先だけを出して、ミノムシのように掛け布団にくるまっていた。すやすや……と気持ちよさそうな寝息が聞こえる。
「さぁ、次は唐次!」
ふんっ!と意気込んで丁呂介は、唐次がくるまる掛け布団をはずしに取りかかる……。掛け布団は意外とガッチリと唐次の体に巻きついていて、寝ているはずなのに手は布団の端をしっかりと握りしめていた。
もう一度!と力を込めようとしたとき、
「丁呂介ー!!なべ!」
「あー!なべ、なべが!丁呂介さん!」
台所の方から大蔵と一番が、騒いでいる声が聞こえた。丁呂介は手を止めて、唐次はとりあえず後回しにして、何ごとかと台所へ駆け戻った。
台所の珠のれんをじゃらじゃらと掻き分けて行くと、ガス炊飯器が吹きこぼれていた。
アワアワと焦った顔で鍋を見ながら、大蔵と一が突っ立ている。
丁呂介は冷静に二人を退かして、コンロの火を消す。炊飯器のフタを開けると、ブワッと湯気が立ち上った。しゃもじでご飯を下からかき混ぜながら、少し掬って味見をする。
「もう大丈夫ですから、着替えてきてください」
「ふぇー、びっくりした!」
「ガスで炊くなんてはじめて見た……」
ホッと安堵しながら、二人が台所から出ていく。
丁呂介は、炊飯器の隣のなべの火も消した。菜箸でくるりとかき混ぜると、透明になった玉ねぎと出汁を吸って膨らんだ油揚げが、一緒に回る。冷蔵庫から味噌を取り出した。味噌こしに味噌を適量入れて鍋の中でかき回していく。湯気にのって、味噌汁の香りが広がった。湯の中の味噌が均一になるように、もう一度なべをおたまでクルリとかきまわす。小皿に少し掬って味見をすると、人数分のお椀によそっていく。
背後の珠のれんが、じゃらんじゃらんとうるさく鳴った。
「おー、味噌汁のいい匂い」
大蔵が鼻をくんくんと動かしながら、やってきた。顔を洗ったせいか幾分しゃっきりとしている。袷(あわせ)が大きくはだけた浴衣のままの大蔵が、丁呂介の横までやってきた。
「ちょうど今できましたよ」
不意に大蔵の手がお椀の一つへ伸びる。
「っ!うっまー!」
ずずっとすする様に飲むと、顔をほころばせた。口からはみ出た玉ねぎを、上を向いて食べる。
「あ!こら!行儀悪いですよ」
「おかわりー」
満面の笑顔で大蔵がお椀を差し出す。中身はカラになっていた。お椀を受け取りながら、じろりと横目で睨みつつ、もう一度味噌汁をよそうと大蔵にお盆を持たせた。
「大蔵、ちょうど良かった。これ居間に、持っていってください」
そのお盆の上に味噌汁のお椀とおかず、箸をどんどん載せていく。
「え!俺、ほら、丁呂介に言われた着替えとか。そ、まだ着替えてないし、髪もヒゲもまだだし……」
大蔵は持って行けない理由を……本当は持って行きたくない理由だが、それをさも正当そうにアレコレと並べる。
「ハイハイそれは食べ終わったあとで、いいですよ!はいっ!持っていってください」
ニッコリと有無を言わさない笑顔で、大蔵を台所から追い出した。
廊下で慎重にお盆を運ぶ背中に、お盆を持って戻ってきて下さいね?と声をかけた。
「へーい」
と嫌々そうに大蔵の返事が帰ってきた。丁呂介は、今度はガス炊飯器のフタを開けて、ご飯をよそっていく。人数分よそい終わったころに、大蔵がカラのお盆を持って戻ってきた。
「はい!次は御飯ですよ」
テキパキと大蔵のお盆に載せてまた配膳させる。
「え!また?人使い荒っ!」
ぶつくさと言いつつ大蔵がそのまま居間へ持って行ってくれた。丁呂介は煮物の小鉢をお盆に載せて、彼の後ろを歩く。ギシギシと古い飴色の廊下を歩いて、居間へ入る。一がちゃぶ台の四辺に、一人分ずつになるように味噌汁や箸を並べていた。
「唐次は?」
ちゃぶ台の端にお盆を置きながら、丁呂介は一に問う。
「見てないけど……」
来客用の箸をピチッと箸置きにのせながら、あたりをキョロキョロと見回した。
「まだ寝てるんですね!?」
すくっと丁呂介は立ち上がると、お先に食べてて下さいね!と言うや、猛然と廊下を駆けて寝室に向かった。
しばしの静寂のあと、寝室の方から丁呂介の甲高い声が耳をつんざく。
「いい加減に起きなさい!唐次ー!唐次っ!!」
続いてドタバタと騒がしい足音と、少々物騒な鈍い音が聞こえた。
くぁっ、とあくびをかみ殺しながら大蔵が、ちゃぶ台の一の対面に座る。客用のふかふかの座布団に乗ったままちゃぶ台に近づいて、手前の箸を取った。一方の一は、驚いた顔をしたまま、廊下の方から聞こえる丁呂介の怒気をたっぷり含んだ声にビクビクとしながら、箸を手に取った。
「い、いただきます」
消え入りそうな声で言い、おずおずと味噌汁のお椀に口を近づけた。
ご飯茶碗を片手に持った大蔵が、程よい色になっている里芋の煮っころがしに箸を伸ばしたとき、
「ぎゃっー!!」
唐次の断末魔に似た叫び声が聞こえた。
終わり。