ありま夢ショのようなもの 夜の裏通りにうっすらと立ち込める生臭い匂い。薄暗い外灯の下を歩く有馬は顔をしかめて口を歪ませた。不快感を少しでも紛らわせるように煙草に火を付け、ニコチンを深く吸い込む。それで有馬の気分は幾分か紛れた。
このあたりは飲み屋が乱立しており、その中には飲み屋に見せかけたいわゆる闇取引のために使われる店も紛れている。脱獄してからしばらく経つD4のクライアントとの取引場所もここにあった。
燐童に指示された場所からの帰り、有馬はたまに気まぐれに酒をひっかけることもある。今日はどうするべきか思案しながら塒までの道を歩く。
有馬がふと向けた視界の先にゴミ袋にもたれかかり倒れている女の姿が入ってきた。
ドブのような場所から動けない女。有馬がしゃがんで女を覗き込む。
「オイあんた」
声をかけても返事はない。
「生きてんのか……?」
有馬が女の頬をぺちぺちを叩くとうぅ、と呻き声が上がった。
「なんだ、生きてんじゃねーか」
立ち上がろうとした瞬間、女と目が合う。有馬の姿を捉えた女が言った。
「……天使……?」
「あ?」
今なんつった、と有馬が問いかける前に女は気を失った。
空から霧雨が降る、夏の終わりの出来事だ。
窓の外が薄ら明るくなってきて女は目を覚ました。いつの間に自宅に、そして自分のベッドに戻ったのだろうか。ぐらぐらする頭を抱えて上体を起こす。ふと生暖かいかたまりがそばにいるのに触れ、女は目を丸くした。見知らぬ金髪の男の裸の背中が横たわっている。
「誰」
「………んだよ、助けてやったの覚えてねーのかよ」
ベッドの上でこちらを向いた男は、寝起きのだるそうな顔でこちらを睨む。その視線に怯んだ女の腕をぐいと引っ張り有馬が女を抱き締めた。「……!」
女が逃げようとしても力が強くてとてもかなわない。有馬が言う。
「俺が誰か知りてーんだろ。天使だよ」
そのまま唇を押し付けられ、舌を捩じ込まれる。有無を言わさず絡まる舌の感触。視界に映る金と茶の混じった傷んだ髪。切れ長の大きな目に高い鼻。
男は自分を助けたと言った。酔い潰れて途中から何も記憶のない自分は、おそらくそのへんに転がっていたのだろう。それをここまで連れてきてくれたのだ。ちゃんと命もある。助けてくれたのが本当なら一度や二度寝るくらいなんてことはない、と女は腹を括り蠢く舌に応じた。
女の職場は飲み屋で、毎日毎晩流れくる客を相手する。たまに客と寝ることもある。そこには特に昂る感情はない。毎日深夜に帰路につき、自宅は真っ暗で誰もいない。自宅の鍵を鞄から取り出しながら猫でも飼おうかと女は考えている。そうすれば少しはこの寂しさのようなものが―――
「よお」
思考を遮る男の声がして女は顔を上げた。今朝聞いたばかりの声だ。
「また遊びに来てやったぜ。入れてくれよ」
ポケットに手を突っ込み、眉を下げながらこちらに歩いてくる男。まさかずっと待っていたのだろうか。男の姿を見た女は何故か心底安堵する。目の前の男はどう考えてもまともな世界の住人ではないはずなのに。
鍵を開け扉も開ける。男はするりと部屋に侵入し、すぐにその部屋の主の女に口づける。ベッドに辿り着くこともできないまま。
一晩、あるいは二晩だけの関係だったはずの男は、何故かそれからも時々女の家を訪ねてきた。コンビニで適当に買ってきたであろう酒だの食料だのを少しだけ飲み食べ、女を抱く。まるで野良猫の休憩所のように。
女も女でこの関係が心地よかった。おかしな出会い方で始まったが、たしかにこの目の前の男――アリマと言う名らしい――に会うたびにこの男を天使と言ったらしい自分に合点がいった。不穏な雰囲気なのに何故か品がある。憂いを帯びた横顔はそこらの女より美しいんじゃないかと思う時もある。
「アリマは普段何してる人なの」
情事のあとに、いつものベッドの中で女が聞く。有馬が答える。
「脱獄囚」
それはさすがに冗談だろうと思った女はゲラゲラ笑う。「ふーん、それって自分一人でできちゃったわけ?」
「できるわけねーだろ。他にもいんだよ」
「他にも何がいるのよ」
「……仲間」
「へぇ」
ここに来て話す有馬の言葉の端々には、彼を大切にしてくれているのであろう仲間の存在を感じることがあった。野良猫のような彼にそういう人がいてよかったと思うと同時に、女はどこか寂しくもなった。胸がギリと痛む。
「……くそだりぃ話はこれくらいでいいだろ。んなことよりもう一回しようぜ」
有馬が女に覆い被さり、唇を塞ぐ。女が背中に手を回す。かすかに香る染み付いたタバコの匂いに性欲のスイッチが入っていく。馴染む身体にさっき感じた寂しさも消えていく。女は有馬と寝るようになってから何故か他の男と寝るのが無理になった。
そうして季節が過ぎる。男は制服みたいなものだと言う派手なスカジャンを羽織り始め、女にまた会いに来る。散歩に出歩く猫のように。そして二人は何度も裸で抱き合って眠る。なにかのマーキングのように。
有馬と寝ていると、有馬と一緒にいると、寂しさを感じないのが女は不思議だった。恋のような、あるいは愛のような感情は持ち合わせていないのに、満たされてしまうのが何故なのかはわからない。
あと数日で今年が終わる頃、空からは雪がちらついている。勤務を終えた女はいつものように店の裏口から外に出た。寒さでぶるりと震えて、コートの襟を引っ張りマフラーを深く巻き直した。
「 」
鼻にかかる少し高い声で名前を呼ばれる。振り向くとそこには壁にもたれて女の方を向く有馬がいた。女を待っていたのだろう。
「……どうしたの、珍しいね」
有馬は何も言わない。女は有馬のそばまで寄っていく。「もう、こんなとこで待たなくていいのに、馬鹿みたい。凍えちゃうじゃん。早くうちに行こ」と手を取り矢継ぎ早に言う。氷のように冷たくなった有馬の手のひら。嫌な予感がする。
「………バイバイだ」
「え」
空からは雪が降る。絶え間なく。やむ気配はない雪。きっと明日は雪が積もるだろう。
有馬が女を抱き締めた。女は答える。
「塒が変わるの」
どうしてそれを、と言いたげな目で抱き締めた腕を緩めて有馬は女を見た。
「わたし、知ってたよ。アリマがわたしに嘘なんか一度も言ってないって。それからきっとわたしたちは長く一緒にいられないって」
「……そうかよ」
もう一度有馬が女を抱き締めた。今までで一番強く。気まぐれに手に入れてしまったぬくもりを忘れないように。
女も有馬の背中に手を回して力を込めた。抱き合って確認したぬくもりを忘れないように。
目の前の男は、女は、続く人生で一瞬だけ現れた天使だったのだと思い込む。幻のようなもの。そうしなければ離れることなどできそうにないから。
「さぁて、行きますかあ。あとは有馬くんが戻ってくるのを待つのみですね」
時空院が積もった雪を掌で丸めながら言った。
四人が半年ほど塒にしていた廃墟はまたからっぽになっていた。谷ヶ崎は少しの荷物をどこかから掻っ払ってきた車に押し込み、燐童はエンジンの確認をしている。
「おや」
離れた場所に有馬の姿を確認した時空院が、戻ってきた有馬のそばに寄っていく。
「有馬くん、おかえりなさい。思ったより帰りが早くて驚きました」
「るせー」
有馬の声が掠れている。はて、と思った時空院が聞く。
「有馬くん? 泣いているんですか?」
「うるせーってんだろ。黙れ」
「おやおや、怖いですねえ。糖分が足りていないのでは」
時空院の声を遮るように早く来いと谷ヶ崎が呼ぶ声がして、二人は車に向かった。時空院が手に持ったままの丸めた雪を塒だった廃墟に向かって投げた。
雪に残った四人の足跡は、止まない雪がまた積もって消していく。四人がここにいた形跡もすべて消え去っていく。邪魔するヤツはすべて消す。ならず者の思い出も、全部。