現パロジャンハン⑥ オーバーサイズのブルゾンを羽織った、昨日とはえらく雰囲気の違う若い男はIDカードを手に掲げて聞いた。「入館したいんですけど。これ、社員証」
「……ああ」
リヴァイは社員証を確認する。✕✕課、ジャン・キルシュタイン。
それから男はIDカードを機械に読み取らせて、「すぐ戻ります」と館内に向かった。足早に入館していくジャンの背中を黙視しながら、自分の中に沸き上がる説明しがたい感情もリヴァイは確認する。
男がすぐにパタパタと小走りで戻ってきた。「ありがとうございました」とか言いながら。手には女物のコート、バッグ。バッグからはノートパソコンが覗いている。それでリヴァイは思い知る。ああこいつらは本当に『そういう仲』なんだなと。女が置いていった忘れ物を取りに戻って来た若い男。健気なモンじゃねぇか。
荷物を持ってビルの外に出たジャンがリヴァイに挑発的な目線を送る。北風に煽られて髪を乱しながら声を掛ける。「おいオッサン」
オイオイ何だ急にこのクソガキの態度は。リヴァイは聞こえない程度に舌打ちし、答えた。「何でしょうか」
ジャンは言った。「俺は今ここの社員として喋ってねーからあんたもそのまま話せよ。リヴァイ・アッカーマン。敬語なんていらねーし」
ジャンは神妙に外まで出てきたリヴァイを見下ろす。しかしオッサンとは言ったものの間近で見るキメの細かい白い肌はまるでオッサンには見えない。何のバグだこいつ?とジャンは思う。
リヴァイは怒気を孕んだ声でジャンに返した。「……何だクソガキが」
ジャンは一瞬怯んだものの、それを悟られないように返した。
「単刀直入に聞くけど。あんたどう思ってんの、ハンジさんのこと」
「……何を言ってるのか意味がわからねぇな、クソガキ」
「こちとらケリつけるのとか待ってられなくなったんだわ。こっちから来たんだ、教えろよ」
ケリ? とリヴァイは思う。まさかこいつらの関係はまだ始まっちゃいないのだろうか、とも。熱烈なキスはただの始まりのきっかけ? そしてあの女の気持ちはもしかして。リヴァイは頭の中で方程式を組み立てていく。そして答える。
「は、さっさとしねぇと取っちまうぞ。ケツの青いガキの手に追える女だといいがな」
ジャンは眉をしかめて目付きの悪い目の前の男に言い返す。
「……あんたにあの人の何がわかるんだよ? 今の今まで何ひとつ動かなかったくせによく言うよなあ。ま、いーや、わかった。お忙しいとこサーセンしたぁ」
ジャンがぷいと横を向いてさっさと歩いて行ってしまった。リヴァイはリヴァイで管理人に戻るためにビルに入った。
管理人室にガシャンという音が響いた。戻ったリヴァイが、ゴミ箱を蹴り上げたからだ。リヴァイと交代するために出勤してきた伯父のケニーが言った。
「オイオイオイオイ、備品を壊すんじゃねぇぞ、ドチビ。何やってんだ馬鹿が」
馬鹿。確かに馬鹿なのかもしれないと思う。いけすかないガキのせいで自分の感情を自覚してしまったリヴァイは、「クソが」と言いながらゴミ箱を元に戻した。
ジャンはハンジの荷物を抱えて、あの目付きも口も悪いチビなオッサン(美肌)の言ったことを反芻しながら駅から家までの道を歩いた。取っちまう?ケツの青いガキ?手に追える女だといい?考えれば考えるほどムカムカしてきた。あのオッサン、どう考えてもハンジさんのことを悪いようには思ってねーじゃねーか、いやまさか好きなんじゃ……、そんなことを思っていたら、もう家のドアの前に着いていた。
見慣れたドアを見つめながら、グダグダと考えるのはやめて出来る間に気持ちを態度で示さねばとジャンは気持ちを切り替えた。
ドアを開けて、荷物を置く。手洗いうがいをし(ジャンは幼い頃から外から帰ったらそうするよう母親に躾られていた)、ベッドのそばまで行く。ハンジはまだ寝ている。
ジャンはハンジの首筋に顔を埋める。
「んん……もう朝……?」
「……ハンジさん、起きてください。先に終わらせて、昨日の仕事。それから俺と遊びましょう」
「荷物取ってきてくれたの!? うわーありがとう」
起きて顔を洗い終わったハンジはジャンが持ち帰ってきた自分のバッグとコートを見つけて、言った。
「全然いっすよ」
「あのさジャン……、誰かいた? 誰かっていうかあの……」
ジャンは思案する。時間にして0.5秒くらい。
「リヴァイって人? あーいや、いませんでしたけど」
「そっか……いや、いいんだ別に」
ハンジは落胆の色の滲む表情を隠しきれない。ジャンは素知らぬ顔でジャージ姿の椅子に座ったハンジの前にコーヒーを置き、自分もコーヒーカップを持って座った。
「ハンジさん、ここで仕事してください。で、仕事が終わったら遊びましょう、俺と」
「さっきも言ってたけどさ、遊ぶって一体何をするわけ」
「うーん……、まぁ、恋人ごっこ的な?」
「何だいそれ」ハンジは笑った。
「俺と付き合えばいいことあります体験的なやつです」
ちょっと必死さが出すぎているかもしれないと自分で思いながらも、ジャンは答えた。
ハンジはコーヒーを啜った。
「へぇ。ところで、それにはセックスは含まれているのかな?」ハンジはくっくっと笑いながら返す。
「やりません。約束します、それ以外の体験なので。てか昨日だってやらなかったでしょ。俺はやめたのに、そのあとのはハンジさんのせいじゃないですか……」
昨日の失態を思い出してジャンは急に落ち込みそうになった。が、しかし何とかここでハンジを取り込んでおきたいと思い直す。年が明けて仕事始め以降ハンジがあの男に会う前に何とか距離を縮めねば、とも。
「丁度年末年始で休みだし、一人よか二人でいるほうが楽しいし」
それらしい理由をひねり出すジャンを見て、ハンジは眉を下げる。眼鏡の奥の鳶色の眼に全部見透かされている気もする。
「まぁいいかもね。仕事さえ終わればだけど」
ハンジはコーヒーを飲みながらパソコンを開いた。
ハンジは猛然とパソコンに向かって仕事をしているため、ジャンは洗濯機を回し、買い物に出た。
昼食用の食材やらビールやらを買ってスーパーの店内を回る。買い物している間もあのクソ美肌警備員のやたら上から目線の言葉を思い出して、イライラする。あいつに取られるわけにいかねーと思い直してはまたイライラするという無限ループ。
「あーもうくそっ」とか無意識に言葉に出るためレジの店員にびくっとされて「あ、すんません、何でもないです。嘘です。マジですいません」と謝る。何をやってんだ俺は……となるまでがセット。
帰るとパソコンに向かったままハンジが「洗濯物干しといたよー」と言う。その声を聞くと今までのイライラは何だったのかと思うほど全部どうでもよくなる。これは間違いなく、そうなのではとは思っていたが確実に、恋、では。
そう思いながらジャンは卵を割った。
「うへええええジャンすごいね!? 料理出来るって言ってたけどほんとに出来るんだな!? うおおおお美味しそう」
女子の食い付きのいいメシ。必殺ふわとろオムライス。ナイフで切るとでろでろ~んってなるやつ。ハイ、語彙力。それが今ジャンの手により作成され提供された。ハンジは歓喜した。
「できるんですよ、これが結構。言ったでしょ、優良物件だって」
「いや、う、疑ってたわけじゃないよ!? しかしこんなキュンな食べ物が出てくるとは……」
「俺、小さい頃かーちゃ…、母親の作るオムオ…じゃないオムレツが好きだったんですよ。で、自分でも作れるようになったってだけで。時間あるときしか作んないですけど、食べてくれる人がいたら俄然やる気出ますね。ずっと俺の手料理食べてくれていいんですよ?」
「グイグイくるよなあ、ジャンは。でも昨日とちょっと違う気もする。なんでだろうね。いただきます」
「今はシラフなんで」
それは違う、おそらくどんどん本気になってるからだとジャンは思う。この鈍感な年上の女には今のところは言わないけど。おいしいと喜んで食べているハンジの顔をじっと見る。睫毛が長い。ちょっと鷲鼻なのもかわいい。困ることがあるとちょっと下がる眉。よく回る口に艶っぽい唇。誰かに取られるなんてぜってー許せない。
これが恋じゃなければマジで何なのだ。
ハンジがジャンの顔を覗いて言う。「私、顔に何かついてるのかな?」
昼食のオムライスを食べたあともハンジはずっと仕事をしていた。ジャンは構いにいきたい衝動を何とか抑える。相当手持ちぶさたなため、家の中を隅から隅まで掃除したり、いらなくなったものを処分したり、スーツをクリーニングに出しに行ったりした。19時頃、「おわったぁぁ」とハンジがやっと言った。ジャンは待っていましたと言わんばかりに後ろからがっと抱き締めて、「ハンジさん、メシ食いに行きましょ」と誘う。頬にキスされながらハンジは「君って結構引っ付き虫だよね」と笑う。
ジャンとハンジが初めて知り合った日に行った飲み屋はジャンの家から近い場所にある。手っ取り早くそこに行くことにして、二人は飲んだり食べたりする。あの日は飲みすぎて次の朝起きたらラブホにいたのだ。奇妙な関係もここまでくるとすげーとジャンは思う。
その間、違う相手を――ミカサを好きになり、だけど今じゃ目の前の年上の女――ハンジに恋をしているらしい自分。身勝手でとても信用できた話ではない。でも本当に本当のことなのだ。だが、ハンジの気持ちはどうだろうか。あの警備員の見透かしたような目線を思い出す。ジャンの飲むスピードはハイペースにならざるを得ない。
気持ちよく飲みながらハンジは一度家に帰りたいんだけど、と言う。しかしジャンはそれを許さない。
「いやいや、もういい加減帰らせてよ。第一また一緒に寝たら危険じゃないか……」
「ダメです。寂しいから。ぜっっったいに何もしませんから帰らないでくださいお願いします頼む」
懇願するジャンを見ながらハンジはジャンが何かに似ていると思っている。それが何か思い出せないのだが。そして結局押しきられてしまうのだ。
「ぜっっったいに何もしないでよ。私も何もしない。約束だ」
「今日は大丈夫です。風呂でヌイてきたんで!」
「あぁ……、それは大変あからさまな告白だね……」
ハンジはジャン宅でドライヤーをかけられている。結局ごっこ遊びは延長され、大きくてわりと華奢なのに関節はゴツゴツした手がハンジの髪に優しく空気を入れる。昨日はドライヤーをかけられたあたりから記憶がないが、気持ちよすぎたことだけは覚えている。そして今日も変わらずジャンのドライヤーは気持ちいい。
髪を乾かしたハンジをジャンが「ん」と言ってベッドに迎える。
「何もしない?」
「何もしませんって」
うしろからハンジを抱えジャンは言う。そのままベッドに寝転ぶとすぐに人肌の温もりが伝わってくる。それは大変に心地よく緩やかに眠気がやって来るのを感じる。
「ハンジさん抱き心地いいんですよねぇ……。俺らきっとうまく行きますね……早くちゃんと俺んとこ来てね……」
ジャンが寝息をたてる。本当に何もしないみたいだ、よかったとハンジは安心してジャンの方を向く。子供みたいな顔をして眠っている。
その顔を見ながらハンジの涙腺は唐突にうるうるしてしまう。涙を何とかこらえた。ジャンが何に似ているのかやっと気づいたのだ。
昔ハンジの実家で飼っていた大型犬だ。もふもふしてて、いつも一番に寄り添ってくれて、もう二度と会えないあの温もりの塊。ハンジはジャンの胸に顔を埋め、お互いにいい夢が見られるといいと願いながら目を瞑る。そして滑稽なごっこ遊びはもう終わりにしなければとも思う。
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「今日はもう帰るよ」
朝。ジャンの淹れたコーヒーを飲みながらハンジが言った。
「え、嫌なんですけど」
「ジャン。今日は大晦日だよ? 休みに入って仕事を納めてからも私は家に一度も帰らずここに入り浸ってる。おかしいだろ」
「おかしくないでしょ」
「……とにかく帰るよ」
「じゃあついていきます」
「どこに」
「ハンジさんち」
だめだ、話が通じないとハンジは思った。ヨユーあります俺あざといです俺的ジャンはどこに行ってしまったのか。これではほぼ飼い慣らされた大型犬である。
家の中まで入ってきそうな勢いのジャンに家まで送るだけならいいとハンジは先手で言った。そしてジャンの家とハンジの家は電車で一駅の距離だった。歩いていきましょーよ~と言うジャン。ほぼ散歩に行きたがる大型犬ではとハンジは思う。
歩道を歩きながら、ハンジのバッグを抱えたジャンが言う。「けっこー寒いですねえ」
そして何故か二人は手を繋いで歩いている。いつまで続くのやらのごっこ遊びだ。ジャンはスマホで何かを検索している。
「近くで年越しの花火があるらしいですよ、今日」と何らかの情報を見たらしいジャンが言う。
「行く?」と言ってからしまった、とハンジは思う。しかしジャンが相手だとあまりに自然に口について出てしまう自分に驚く。
「マジで? やった」
繋いでいる手が幾分かぎゅっと強く握られる。ジャンが言う。
「ダセえ自分語りするんですけど、俺、こう、今まで付き合った奴相手には斜に構えたりぶっきらぼうにしてみたりとか。そっちのがカッコいいとか勘違いしてたのかもだけど。でも思えばそれって自分を晒け出すのが怖かっただけなのかもしんねーなって思って」
「うん」
「……それはこの二日間ハンジさんといたから気付いたんですよ。ハンジさん相手にならそーゆー感じになんないのなんでなんだろって」
「ほおお?」
ジャンは咳払いをしてから再び話し始める。
「ハンジさん。俺、ハンジさんのことが好きです。あとハンジさんといるときの自分も好きです。ハンジはどうすか」
「ん~、そうだな、確かにジャンといるのは相当心地いいことに違いないね」
「それでよくないですか」
「え?」
「気持ちなんてもうあいつに伝えなくて良くないですか。このまま俺のとこに来てくれればそれで」
「ハハ……」
繋いだ手は指と指の間を埋めるようにもう一度繋がれる。ジャンが本当に本気で自分に向き合い始めているのを感じてしまい、ハンジは戸惑った。濁すように笑うことしかできなかった。自分の気持ちがどんどん曖昧になっていくのがわかる。リヴァイのことを好きな気持ちだって嘘じゃないけど、自分の領域に心地よく入り込んでくるジャンのことだって嫌いなわけがないのだ。薄情な自分を許せない気持ちとしょうがないじゃないかという気持ちとが相反している。
すれ違う人は自分たちをどう思うだろうか、そんなことをハンジはぼんやり考えながら家までの道を歩く。隣を歩くジャンの横顔をちらりと見上げてみると寒さで鼻が少し赤くなっている。エレベーターでキスする前に抱えていた得体の知れない寂しさは知らない間にどこかに行ってしまったのか、今は確認することができない。
家の玄関でハンジはジャンからバッグを受け取った。
「じゃあ、またあとで。花火何時からだっけ」
「カウントダウンだから0時ですけど、もっと早く迎えに来ます」
「もう泊まらないからね?」
「えええそれはちょっと困りますね」とジャンが笑って、それに続いてハンジも笑った。今まで二人がしたことは全部冗談だというように。
一緒にいたからだ。一緒にさえいなければ
きっとこのまますべて冗談にできると唐突にハンジは思った。そうするべきなのだ、早く、すぐに離れれば今なら戻れる。「またあとでね。連絡して。私もするよ」と家のドアを閉める。
バタンと鳴ったドアはちゃんと二人を隔ててくれた。
ドアを閉めて、ため息をついた瞬間、ハンジのスマホが鳴った。画面のロックを明けてラインを開く。ジャンからのラインだ。
そこには「約束を反故にしたい」とあった。
ジャンはまだそこにいる、ドアの前に。気配がするから。
「ジャン……これは…どういうことなのかな」
約束。やらない。これはごっこ遊び。
ハンジは言った。
「そんなの、私たち友だちでいられなくなっちゃうかもしれないじゃないか」
ハンジはどうしようもない気持ちでドアに頭をこつりと当てる。
「信頼とか信用とか……、そんなんより今もう欲しくてたまんねーんですよ、ハンジさんが」
ドアを挟んで、ジャンのくぐもった声がする。さっきまで姿をくらましていた寂しさってやつがハンジの胸の奥のほうから急にせり上がってくる。
「嫌なら帰ります。嫌なら絶対ドアを開けないでください」
ドアは開かない。ジャンは言った。
「……帰りますね」
ハンジの部屋に背を向け、ジャンがとぼとぼとエレベーターまでの外廊下を歩いて行く。雪がちらつき始めて、ジャンは空を見上げた。今日はきっと寒くなるのだろう。飼い主を失ったイヌってこんな気持ちなのだろうかとふと思う。吠えて泣き出してしまいたいくらいには寂しすぎると、寒空を見上げながらジャンは思った。
「ジャン」
声のほうを振り向くと、俯いたハンジが立っていた。
ドアは開いていた。見間違いでも幻覚でもなく、確かに扉は開かれた。