形 「カカロット。」ないし、孫悟空は“ブロリー”という存在を恨んではいなかった。
気に掛けたことすらなかった。
ただ、仄暗い微睡の中で誰かが泣き喚いたのを覚えている。
混沌とした記憶では、隣同士だった事や知らず理不尽な怒りを買っていた事なぞ知る由もない。
何を以て恨まれるのか、てんで見当のつかない話ではあったが、悟空には何か一つ謝ろうとする気持ちがあったらしい。
自身の記憶には残らずとも、かつての自身は心が酷な人間だったのかも知れないと悟空は思った。
更に戦闘種族の血を引いているという事実もある。
育ての親である孫悟飯に出会う迄・・・または崖から落ちる迄の間に、何か一つでも悪事を働いていたとしたら?
それこそ命の買い付けを。
そう、あの時、「爺ちゃん。」を踏み殺した時のように。
(ブロリー・・・爺ちゃん・・・大猿・・・泣き声・・・・・ああ、ああ・・・・・。)
仰向けに見上げた天井が揺れる。
思わず吐きそうになった嗚咽を呑み込むと、押し込まれた空気が潰れて消えた。
ブロリーが悟空へ向ける感情は、壮大で、暴力的とも言えた。
目が合えば迫り、雄叫びをあげ、時折思い返す度に沸々とした感情を露わにする。
それはほぼ悪い事柄ではあったが、良い事とすれば思いの強さが他の何者にも見られ得ないということであった。
なら、自分の応え方は如何だっただろう。
肉親に素っ気ない素振りをした日があったのか。
死んでしまった今では何も分からないが、可愛らしい素振りを見せていれば別の惑星に飛ばされる事はなかったのではないかと思った。
せめて育ての親にだけは、初めからその様にしていたら・・・尤も暴れさえしなければ良かったのだと今更後悔する。
彼が“本当の意味”で育ての親との時間を過ごしたのは、崖から落ちて頭を打ってから親を踏み殺す迄のたった数年でしかない。
それも子供心には一瞬に感じられてしまうのだ。
だからこそ、幾度となく甦り、心に思い描く対象を血眼になって探す事のできるブロリーが、悟空には酷く羨ましいと感じるのだった。
葉が色付いてきた頃から、彼の息子、悟飯が家に居る時間が極端に減ってしまった。
なんでも、研究の記録で日々追われているというのだ。
偶の帰省にも書類に目を回し、その様子だと(恐らく)別居にいる時は寝る間も惜しんで働いているのだろうと推測できた。
悟空は一度、別居ではなく家族の揃うこの家で仕事をしないか、という旨を息子に渡したことがある。
聞いた研究の内容が、大まかな部分で昆虫生態についてのモノであると分かったからだ。
昆虫であれば、この住処周辺には余る程生息しているだろうし、長年住み慣れていた悟飯ならばよく分かっている筈だと。
この自然ばかりの環境で、昆虫を集めるのに一体何が困るというのか。
だが、それを聞いた悟飯は相槌さえ打つものの、とうとう頷く事はなかった。
「此処では見られない、もっと別の、昆虫が見たくて。」
「それに、」彼は続ける。
「此処は研究がし辛くって駄目なんです。」
この膨大な材料の眠る環境で、何故そんな事を考えるのか、悟空には不思議でならない。
すると悟飯は、怪訝な表情を浮かべる父に苦笑いを浮かべてこう話したのだ。
「家族が居ると、集中できないんですよ。」
再び長男が家を出てから、もう、三ヶ月の時が過ぎようとしていた。
末の息子がカレンダーをパラリと捲って、「お父さん、もうこんなに経ってるんだよ。お兄ちゃんは、今度いつ帰ってくるのかなぁ?」などと呟いている。
悟空は次男の頭を撫でてやり乍ら、ついこんな事を口走ってしまった。
「悟飯なあ・・・もしかしたら、帰って来ねぇかも知んねぇぞ。」
大きく見開かれた翡翠が、真横から見上げて、口をあんぐりと開けた。
咄嗟に「いや、でも、ずっとってワケじゃ・・・。」なんて有耶無耶に続ける父の顔を、ずっと眺めていた。
次男は、その父の肩に謎のタイミングで兄の姿を思い浮かべる。
夕焼けの傾いた陽射しに、兄が弟を呼び付ける声が響いた。
招かれた手に幼い次男は駆け出して行く。
「ほら、早くしないとお父さんが全部夜ご飯食べちゃうよ。」
「ええ、それはいやだよ。」
なんの気の無い会話。
だがそれは、同時に、このゆったりとした幸せが永遠と続いてくれるかのような夢心地に浸してくれた。
本気半分、冗談半分で「もし食べたら、ぼくおとーさんのこと嫌いになっちゃうよ。」と言えば、兄は少し焦ったような顔をして、「お父さんだって、ちゃんと分かってるから大丈夫だよ。」と手を引くのだ。
そうだ。
兄はよく、こういった顔を見せた。
焦った顔が良く似ているという訳ではない。
ただ父も兄も、会話の中で必ず、優しそうな・・・・それでいて切なそうな顔をする。
それが彼等の中で一番に似通っていて、次男はその表情を見る度に不思議な心持ちになった。
「なんでお兄ちゃんが帰って来ないなんて言ったの?」
一瞬だけ視界から外した父の影。
背中が固まるのを、次男は見逃さない。
「おとうさん、どうして?」
無邪気に続けられる声に、父はとうとう観念したように口を開いた。
「お前の兄ちゃんな・・・・。」
初めこそ驚いた声をあげたものの、それを聞き続ける頃には「なんだ。」という笑いを浮かべていた。
悟空は、笑って瞬きをした次男に目を見開いて、手を伸ばす。
「だってオラ、悟飯がオラ達のこと嫌いになったんじゃねえかなって・・・・さあ。」
「えー、お兄ちゃんがぼく達のこと嫌いになるわけないじゃん!」
小さな身体はけらけらと笑って父の手をぎゅっと握り返した。
未だ不安気な背中は、その柔らかな体温と共にゆっくりと緩んでいく。
ほっとしたように目を据わらせた父の顔が更に面白いといった様子で、次男は飽きもせずに笑い続けていた。
「ちがうよ、おとうさん。お兄ちゃんは、ぼく達の事が嫌いだから家から出たわけじゃないよ。」
「ぼく達の事が大好きで。大好きだから、離れるんだよ。」
ぽかんと口を開けた悟空が、思わず「え!?」という声をあげた。
「好きだから離れる。」という次男の言葉が、頭の中でぐるぐると回り、数式みたいに彼を混乱させる。
「好きだから離れる・・・・?家族が好きなら、普通は一緒に居てぇんじゃねえんか?」
今まで、“家族”という時間を尽く擦り減らしてきた悟空にとっては、ほんの僅かな時間でも共に過ごすべき・・・・なのが理想の家族構成だった。
だからこそ、嫌う訳でもなく、寧ろ好むからこそ家族との距離を置く長男の事が、悟空には分からなかったのだ。
「だってお兄ちゃん、こんなこと言ってた時あったんだ。“家族と居ると楽しくて仕事に集中できなくなる”って。楽しいって事は、それだけぼく達の事が好きだってことだよね?」
大きく上がった口角が、屈託の無い表情で陽射し強く笑みを浮かべる。
その眩しさに、悟空もつい連られて笑い声をあげた。
途端に今迄の肉親やら育ての親やら、またブロリーにさえも羨む自身の心が、何故かゆったりと温かな手つきで解されていくように思えた。
この幼い息子が、悟空には知り得なかった新しい家族の在り方を教えてくれたような気がしたのだ。
「そっか、それなら仕方ねぇな。」
「うん。そうだよ。」
この温かみに満ちた次男を、そして賢く優しい長男を。
遥か彼方、消えた住処には確かに父と母が居て。
兄も居て。
地球にはまた違う親が居た。
真に可笑しな話ではあるけれども、その泡の様な記憶と共に、手に入れた愛情を抱き締めたいと思ったのだ。