孤独を消すから 目が覚めた時には、唯、独りだけの闇の中に。
直ぐ傍にも、遠い場所にも、辺りを見回そうが誰も彼も存在しなかった。
記憶は無く、自分が何者なのかすらも分かり得ない事実に、猛烈な不安が唯ひたすらに彼を襲う。
云い知れぬ不安と苛立ちに塗れた次いでに爪の先で力強く腕を鷲掴むと、鮮紅の温かみがぷつりと破れた皮膚から現れた。
小さく丸く膨らんだそれを指先で擦るように拭うと、指紋の間に染み込むように広がって行った。
その様と、色と、そして微かに香る鉄のニオイにうっとりと瞼を閉じる。
(駄目だ、駄目だ。この行為は癖になるな。)
何者でもなく、破壊だけを知り続ける哀れな姿は、瞬く間に一時の欲に溺れていった。
彼は只管に己の身体へ爪を立て続け、時には口を開け強過ぎる力で噛み付いていく。
立てて、噛み付いて、舌を出して。
それから、鼻を近付けて。
だが、それが原因なのか・・・彼は何も気が付いていなかった。
“無”は変わりないことを。
光すら差し込まぬ厚塗りの黒が、無我夢中で衝動を打つける彼を見定める。
いつ迄も分からない儘の彼は、その行為に休息を入れた時に初めて与えられる事実を知り、再度憤りに襲われるのだった。
暗がりの中、次第に大きくなる喚きに気が付いた。
とても大きな喚きだ。
それでいて、とても近い。
隣に居るのか。
(誰だ?分からない。こんな暗がりでは、何も分かりはしない。)
だが、知りたい。
俺の隣に居る奴は?
この声の主は?
(一体誰だ・・・?)
足先の方向から、(恐らく)二人の話し声が聞こえてきた。
「おい、見ろよ。此奴等、俺達がこんなに忙しく働いてるってのに、呑気に寝てやがるぜ。」
「赤ん坊なんだから仕方ねぇだろう・・・。お、こっちの赤ん坊はバーダックの息子だぞ。名前は・・・カカロットか。」
「お、バーダックのガキか。独特な髪といい、前に産まれた兄貴よりもバーダックに似てんなぁ。にしても良く泣いてばかりいるガキだぜ。」
こつん、と何かに触れる音が響く。
彼はその会話を、唯、静かに聞いていた。
(“カカロット”・・・。カカロットか。そう呼ぶのか、俺の隣は。)
バーダックという名は、前にも聞いたことがあるな・・・・・。
そうだ、ベジータと呼ばれている奴が其奴を探していた時があった。
そうこうしている間にもぎゃあぎゃあと勢い良く響く声に、何故だか口が少しずつ開いていく。
(髪型は一体どんな・・・?その前に顔が見たい。目は?耳は?鼻は?口は?)
泣き喚く声を乗せて運ぶ舌の動きでさえ、見てみたいと。
然し結果は残念でしかなかった。
(見れない。何故だ。暗がりの中に居るからだ。こんな塵の様な光では何も映らない。闇に負けている。くそ、くそ。そんなモノは消えてしまえ!!)
ーーその時、一つであった筈の泣き声に、別の何かが共鳴していることに気が付いた。
一体何だ・・・?
泣き声・・・か。
泣き声?
誰の泣き声だ。
誰の・・・
(あ。)
ーーー俺の。
ー俺の、泣き声だ。ー
彼は愕然とした。
何故、声を上げている。
泣いているのか。
(何が原因だ?)
暗所が怖い?
声に当てられた?
(いいや、違う。そんな訳はない。)
悲しくて泣いているのか、何かが辛いのか。
彼は心の中で首を振る。
どれもこれも正解ではなかった。
唯々、逆らうことのできぬ涙と嗚咽が込み上げていく。
微かに光を感じとるだけの瞳と、それに反して良く音を掴む耳。
(耳、耳、音、音、音・・・・。)
“音”が聞こえる。
会話に、何かを叩く音。
・・・そして、隣の、喚き。
その時、足先の人影、片方が呟いた。
「見ろよ。バーダックの息子が、パラガスの息子を泣かせたぞ。」
それは、彼にとっての決定的な解答であった。(声・・・俺の、奴の、隣の泣き声。)
声が、聞こえる。
(俺をこんな風にしたのは・・・!)
「戦闘力が低過ぎる。」だの「〇〇の息子。」だのと云う会話は、既に彼の脳内からは消え去っていた。
その代わりとして残った“カカロット”という単語だけが、脳髄を駆け巡る。
彼は身の内で震えた。
この暗がりの中で、カカロットは眩し過ぎたのだ。
それは軈て激しい閃光となり、彼を苦しめるだろう。
(カカロット・・・!)
”ブロリー”と“カカロット”の出会いは、こうして決められた。
上下する胸を撫で下ろすと、彼は仰向けに寝転んだ。
上手く働かぬ頭に、天井を薄目で見ていたかと思えば、今度はゆっくりと目を閉じる。
二重に重なった闇の中で、彼は頭の淵底に隠れる光の存在を感じ取っていた。
衝動を放つ合間に、何か、曽ての夢を見た気がする。
もうすっかり肌色の見えなくなった腕に、舌を一度這わせると、鉄の味と共に紅の染み込んだ肌色が現れた。
彼自身でも信じられないことだが、行為の頭から爪先に至るまでずっと、意味の無い時間だと考えていたらしい。
然し、殺伐とした頭では如何しようもないようで、時折息を吸い込んでは液体を呑み込んでいった。
横向きに身を起こすと、一瞬歪んだ景色から思わず踵が浮き上がりそうになる。
ぐんと下がる胸に頭を打ちそうになると、心臓がずきりと痛んだ。
「・・・?」
如何にか身を起こしたが、その痛みは次第に強くなっていく。
身体が動く度に、どろどろとした空気ががっぽりと侵入するような感覚だ。
「ぐぐ・・・。」
猛烈な吐き気に、全身の痛みに、脳味噌が崩れ落ちるような目眩に。
彼は冷や汗を掻いて、ぶるぶる震える両膝を何度も何度も撫で付けた。
繰り返すうち段々と感じていなかった傷の痛みを感じるようになった。
紅が膨らむ度にズキズキと痛む傷が、彼にはまるで罰のように思えたらしい。
不甲斐ないことに、目の奥が熱くなり鼻の奥がつんと痛み始めた。
情けない姿を想像すると歯の奥が非常に痒くなる。
上手く動かない口を必死に開けて、苦肉の策として彼は曽ての夢に助けを乞いた。
「た、すけてくれ。・・・俺は、俺は・・・。」
俺は、本当は違かった。
こんなつもりで産まれて来る筈ではなかったのだ。
それが、物心付く頃には誰も彼も居なくなって・・・。
ごぼごぼと溺れるような感覚に耐え、必死にばたつかせる手を、夢で見た光が掴んでくれるように。
余りの眩しさに目が良く開かない。
苦しい。
手元だけの像で良いから、力を入れ過ぎた爪で手を傷付けても良いから。
「何だって良いから、早く、早く、此処〈闇〉から俺を救い出してくれ!!!!!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
所が、切羽詰まる様子で叫んだ彼の言葉とは裏腹に、彼の手を掴む力は何とも柔らかいモノであった。
爪を立てず、無理矢理握ろうともせず。
指の腹で慈しむように握るその手。
余りの優しさに拍子抜けすると、いつの間にか消え去っていた苦痛に気が付くのに暫く時間が掛かってしまった。
呆然とその手を見詰め続ける頭上から、静かに声が降りる。
「おめぇは・・・大丈夫。オラが居るから、もう、大丈夫だ。」
「俺は・・・・・大丈夫・・・?」
復唱する。
所で、お前は誰だ?
ゆっくりと見上げた姿は、曽ての夢と同じ者だった。
「・・・・・カカロット?」
強過ぎる光が・・・・と目を瞑っていた自分が信じられない程に、それはあたたかな光だ。
“カカロット”と呼んだ姿はあの時の儘だった。
まさかお前に手を救われるなんて・・・・。
だが、もうあの時の喚きを聞いて手を振り払える程の力は湧いてはこなかった。
その代わりに(この手を離さないで欲しい。)という望みだけがいつ迄も溢れ続けている。
“カカロット”は、その溢れる紅を嫌がることなく全て受け止めた。
それは本当に、全て。
紅が段々薄くなって、軈て透明になる迄。
見違える程に透き通った頃には、身体を呑み込んでいた闇の姿は何処にも見当たらなくなっていた。
与えられる優しさに永遠と浸っていたい気分になる。
そんな思いに報いるよう、声は再び降り立った。
「この手はずっと掴んでるから。」
嗚呼、そして最後の想いは・・・・。
「またお前に。」
カカロットーーーー。