彼女を迎えに行くためにはフィガロの若き国王エドガーは、私室で姿見に映る自らの姿をまじまじと凝視した。
爪先から頭のてっぺんまで真剣な表情で確認し、
「やはりこれだけでは変装とは言えないな」と独りごちる。
日頃外出時に身に付ける装飾入りの青い鎧装備に比べると幾分控えめな濃紺の装束、それに合わせた目立たぬ色合いのマント。彼の美貌を引き立てる金髪もまた、今は鈍色に変化している。
服装も髪の色も『明るさ』『光沢』を排した、言わば裏の世界の住人の如き装い。これは、世界に光を取り戻すべく旅をしていた道中、必要に迫られジェフという名の盗賊に変装したときの格好である。
―――が、鏡の中のエドガーは、当時のジェフの姿を完全に再現し切れてはいなかった。
「盗賊ともあろう男が、身だしなみなど気にする筈はないからな…。たかが髭、されど髭か」
エドガーは自らの顎に手を当て、ふむと頷いた。
そうなのだ。ジェフを名乗り街を闊歩していたあの頃のエドガーは、若き聡明な国王の姿には似つかわしくない無精髭を生やしていた。
実際のところ、それは非常時のさなかに身綺麗にしている余裕などないという現実的な事情もあったのだが、結果的にはその無精髭もまた盗賊の頭領としての貫禄を演出できていたのだろう。
逆に言えば、それくらいの手間を掛けないと本格的な変装とは言えないのだ。
このエドガーがたかだか服装と髪の色を変えてみた程度でサウスフィガロの街を訪れようものなら、たちまち若い町娘たちが黄色い歓声をあげながら彼の周りを取り囲むに違いない。
時に、美貌とは厄介なものである。
「仕方ない。ティナのためなら、多少の障害も喜んで乗り越えてみせようじゃないか」
愛する彼女の名前を口にして、エドガーはニヤリと笑った。
ことの起こりは三日前、モブリズの夕食会まで遡る。
旅の仲間たちが村に集まり、子供達やディーン、カタリーナを交えて楽しい時間を過ごしていたときのことだ。
『ねえ、エドガー。来週、フィガロ城に行ってもいい?チョコボに乗ってニケアへ行って、そこからは連絡船で向かおうと思うの』
思ってもみなかったティナの申し出に、エドガーの心はさながら少年のように浮き立った。
世界に緑が蘇り、戦いの旅を終えてから早半年が経過していたが、エドガーとティナの逢瀬―――と言っても昼日中に村の周辺をのんびりと散策する程度ではあったが―――はエドガーの方がモブリズを訪れるのがお決まりになっていた。
エドガーとしては愛しい女性に逢うために自らが足を運ぶのは当然のことであり、ティナに逢えると思えば通い慣れた旅の道中も輝かしく感じていたものだ。
だが、今度は逆にティナの方からエドガーの元へ行きたいのだという。なんと胸の踊る提案だろうか。
確かにかつてはエドガーもティナも飛空挺に乗り、世界中をくまなく探索したが、それはケフカの野心から世界を護るという目的ありきの旅であり、常に戦いの危険と隣り合わせであった。
平和を取り戻したこの世界で、純粋に旅行気分でモブリズからフィガロまでの道を楽しみたい―――
―――それは若い年頃の少女らしい発想だし、ティナがこんなに好奇心と希望に満ちた笑顔でそう言ってくれるのは、以前から彼女を知るエドガーとしては心から喜ばしいことだ。
やりたいことや行きたい場所、これからのティナには自由で楽しい時間がたくさん待っている。その時間を共有できるとは、ティナを想う一人の男としてこれ以上の楽しみはないというものである。
『もちろん、大歓迎だよ。愛しのレディにはこちらから会いに行きたいものだけれど、訪問して貰えるとなると嬉しさも倍増だね』
これはエドガーも心を尽くしてお迎えするべきであろう。
愛する女性の来訪を城の玉座でただ座して待つなど、男の名折れである。
『それでは、私はサウスフィガロまで迎えに行こう。どうせなら変装でもして行こうか…』
―――かくして、エドガーはかの盗賊の頭領ジェフに再度変装することになったのだ。
▽
ティナが訪問するという約束の日まで、ちょうど一週間。
服装はこの通り、ただ着替えるだけで良い。
髪の色を変えるのも、洗い落とせる染髪剤を使っているのだから元に戻すのも簡単だ。
だが髭だけはそうはいかない。
付け髭の調達も検討したが、あまりにも仰々しい髭ではさながら浮浪者になってしまうし、そんな不潔な風体でティナを迎えになど行ける筈がない。
エドガーの面影を最低限は残しつつ、サウスフィガロの住民の目を欺けるほどの絶妙な加減となると、やはり自前の髭を伸ばした上で手を加えた方が具合が良いのだ。
さて、そうなると気がかりなのは城内の者たちの視線である。
とりわけ厄介なのは、ばあやだ。
彼女は常日頃エドガーの身だしなみには恐ろしいほど目を光らせており、髭の剃り残しなど数ミリでもあろうものなら即座にお小言を言いに飛んでくる。
その次に口うるさいのは大臣だが、こちらは事情を話せば助勢してくれそうな気がしないでもない。やはり一番の強敵はばあやである。
仮病を装いマスクで口元を覆ってしまえば手っ取り早そうなものだが、それはそれでやれ日頃の生活習慣がどうだのと面倒なことになりそうだ。
ここは、うまく口八丁でやり過ごすしかないようだが、果たして―――
「陛下。少々宜しゅうございますか?」
髭を伸ばし始めて、二日目。
鏡で確認すると、はっきりと髭が視認できるようになった。
私室から一歩出た瞬間、あまりにも聞き慣れた声で呼び止められるのは最早どうしようもないことであった。
「おはよう、ばあや。どうしたんだい、そんな怖い顔をして」
「私は情けのうございます。昨日も気になってはいましたけれども、ついうっかりですとか、お急ぎで少々雑にしてしまったのかもと思い直し、敢えてなにも申しませんでした。ですが今日もとなると、話は別でございますことよ」
「それは一体何の話かな」
「お黙りなさいませ!なんですか、そのお髭は!!」
早々に雷を落とされ、エドガーは身を竦ませた。王族であろうと国王であろうと容赦なく叱咤する様は、正にこの城の影の大黒柱に相応しい……などと感心している場合ではない。
涼やかな笑顔で切り抜けられる相手ではないのは分かりきっていたことだが、さてここはどう言い逃れをするべきか。
「ああ…似合わないかな?ほら、よく若見えするなんて言われるからね。三十路も近いことだし、この機会に伸ばしてみようかとも考えたのだが」
「そのようなもの、エドガー様には一切ご無用です!全く嘆かわしい…その様なだらしのない身なりでは他の者に示しがつきませんことよ!」
「全くですな、陛下。貫禄と清潔感は別問題です」
頭から湯気を吹き出さんばかりの剣幕でエドガーに詰め寄るばあやの背後から、静かな声が聞こえた。
本人の口ぶり同様に淡々とした足音を響かせながら、やって来たのは大臣である。
ちょっと助けてくれないかな、とエドガーが目配せを送ってみるが、さて助勢してくれるものか。
「余計な言い訳などされず、正直にお話すれば良いのです。ここ数日、髭剃りの後はお肌が荒れがちだと仰っていたではないですか」
「まあ。そうなのですか?」
間違いない。これは大臣の助け舟である。
大臣に真剣そのものの表情で言われた言葉に、ばあやは目を見張って驚いている。どうやらすっかり信じてくれた様だ。
「ああ。恥ずかしながら、頬のところの皮膚が少し…ね。ばあやには特に内緒にしていたわけではないんだよ、こういう話は男同士の方が雑談にしやすいものだから」
「時節柄ということも考えられます。ここ数日は砂漠でも夜中は酷く冷え込みましたからね」
エドガーが最もらしく自らの頬を指でなぞりながら言うと、大臣は益々くそ真面目な顔で同意する。
ばあやはすっかり恐れ入った様子で、両手を口に当てて溜め息を吐くばかりだ。
「何ということ…左様なご事情とはつゆ知らず、失礼をいたしました…。お顔に痛みなどはございませんこと?」
「大事ないよ。しばらくは極力顔にはなにも触れさせないようにして、様子を見るとするさ―――
―――そうだな、一週間くらいはね」
「承知いたしました。それでは大臣、その間は極力要人のお招きなど外交のご予定は組まれませんように。陛下のお食事も、なるべくお肌に良い効果のある食材をとシェフにお伝えいたしましょう」
「助かるよ、ばあや。ありがとう」
ばあやは二人に丁寧に一礼し、足早に廊下を駆けていった。向かう先は間違いなく厨房であろう。
「……。一週間後には肌年齢が一気に若返りそうだな」
早ければ今日の昼食から、それは見事な野菜と果物を主体とした彩鮮やかなメニューが並ぶことだろう。
それこそ美肌を求める御婦人ならば大喜びしそうなものだが…などと余計な事を考える主君に、大臣は大袈裟に咳払いをしてみせた。
「さて、陛下。私には本当のご事情をお話しくださいますね?」
「もちろんだよ。…呆れられてしまいそうだけどね、私はとにかく真剣なんだ」
エドガーは苦笑しながらも、大臣に包み隠さずことの次第を打ち明けた―――
▽
「―――そうなんです。遠目にはエドガーだってすぐに気付けなくて、少し怖そうな人とばかり…。だから突然声を掛けられてドキッとしてしまって」
一週間後、待ちに待った約束の日。
城に招き入れられたティナは、来賓室に出迎えに揃った城の面々に驚きの表情で伝えた。
一同の視線は可憐な客人と、その隣に得意げに佇む盗賊の頭領に注がれている。
もちろん、この光景のからくりを知るのは大臣ただ一人だ。
晴れて髭についてお咎めを受ける事なく今日の日を迎えたエドガーは、ならず者らしく見えるよう無造作な長さに髭を調整し、服装も髪の色も完璧にあの時のジェフを再現した上で、城の裏手からこっそりと脱出した。
チョコボを駆り、サウスフィガロに到着する。
普段ならば女性のみならず住民たちが一斉に挨拶に訪れるところだが、彼らの目にはエドガーの姿は招かれざる者としか映っていない。
見事に変装は成功したのだ。
折よく連絡船も入港した頃合いである。
エドガー、いやジェフは、軽やかな足取りで船を降りた愛しい彼女に駆け寄った。
視線が合うなり驚きに身を竦ませるティナの手を取り、
『心配しなくていい。この俺が盗みたいものは、君の心だけだからね』―――
「……陛下。そんなことを仰られたのですか、そのいでたちで…」
大臣は額を抑えて盛大に溜め息を吐いた。
気付けば他の面々も呆れてものも言えないといった表情で立ち尽くしている。
勘弁してくださいよ、とか、いや陛下らしいですね、といった空気だ。
「あ…違うの、エドガーは悪くないわ!
私が自分でお城に来たいって我儘を言ってしまったから…」
「いいえ、ティナさま。大丈夫ですよ、皆分かっておりますから」
流石にこの雰囲気は不味いと察知したティナの前に、ばあやがおごそかに進み出た。
ティナの手をそっと握り、ようこそおいでくださいました、と膝を折り敬愛の挨拶をする。
「全く…。女性のためならどんな労力も惜しまない陛下ですが…今回は今までで一番、手間を掛けられましたわね。さながら恋するイタズラ小僧と言った具合ですかしら」
「ばあや!その言い草はどうだろうか…?」
流石のエドガーも慌てた様子で声を張った。
変装計画を見事にやり遂げた達成感と、無事にティナが来訪してくれた喜びに浸りたいのに、ここまで呆れられてしまうのは幾ら自業自得とは言え心外である。
「いえいえ。ばあやは嬉しゅうございます。陛下が知恵を絞り、わたくしどもを欺いてまで自らお出迎えに行かれるほど、ティナさまが大切な女性だということ。何だか初恋を応援する親心に似た心地ですわ」
「はは、確かに。ティナさまを前にしては、百戦錬磨の陛下も初恋に夢中になる少年のようだ」
「大臣まで……!勘弁してくれ、それなりに反省するから」
大袈裟に天を仰ぐエドガーに、一同はどっと沸いた。
たしかに、ばあやと大臣の喩えは言い得て妙であった。これほど一人の女性に対して落ち着きのない主君の姿というのは、誰の記憶にもない。
実に新鮮で微笑ましい光景であった。
「ティナさま。改めまして、陛下のこと末永く宜しゅうお頼み申し上げます」
なおも照れくさそうに自らの髭を指先で弄ぶエドガーの傍らで、ばあやは穏やかに微笑み丁寧に一礼した。
「…ところでティナ。私に髭は似合わないかな?」
「ううん、とっても素敵よ。また見せて貰えたら嬉しいわ」
終