ウォバシュお見合い話ウォースラ・ヨーク・アズラス、二十五歳。
歴史あるダルマスカ国首都ラバナスタの中でも指折りの名家の出である彼は今、大いなる危機の中にあった。
生命の危機ではない。
ましてや彼に直接関わる案件というわけでもない。
だがウォースラは、この事態を黙って見過ごす事など到底できないのだ。
夜風の穏やかな首都ラバナスタ、王宮のほど近くにある高級老舗レストランの前で、ウォースラは佇んでいた。
軒下に設られた小さなクリスタルランプがファサードを宵闇に浮かび上がらせている。
それは迷子同然のウォースラが、ただひとつ縋ることのできる篝火の様だった。
―――何をしに来た?
篝火に問われ、ウォースラの迷いはいや増した。
だが、もう引き返すことなどできない。
既に彼の友はこの店の中で席に着き、先方と挨拶を交わしている頃だろう。
人生を変える決断を秘めた、強く凛々しいあの眼差しで先方と相対し、そして。
「…。俺も決めたぞ、バッシュ」
ウォースラは腕組みを解き、仁王立ちでひとつ大きく深呼吸をした。
大股で入り口に進み、『本日貸切』と書かれた硬質な表示などお構いなしに扉を開く。
一世一代の大勝負が幕を開けた。
『 』
事の起こりは一週間前の晩まで遡る。
ウォースラはその日の鍛錬を終え、騎士団施設内の共同浴場で汗をかいた身体に冷水を浴びせて身支度を整えた。
街に向かう足取りが軽いのには理由がある。
明日は非番であり、同じく明日を休日にしている親友バッシュと砂海亭で待ち合わせをしているのだ。
日々の任務の最中もバッシュとの接点は多く会話する機会もそれなりにはあるものの、やはりバッシュとはプライベートの時間に何でもない雑談を交わすのが一番良い。
二十五の歳にもなり、それなりに責任ある任務を任される事の多くなってきたウォースラにとって、二つ歳下の友との交流は数少ない楽しみであり、心の休息であった。
バッシュは既に砂海亭の一階席で待っていた。
二人で何度となく訪れたこの店で、このフロアの最も奥まった席を選ぶのはお決まりになっていて、いつからかマスターの方も二人の顔を見るだけで「いつもの席、座りなよ」と案内してくれる。
ちょうど夕食どきで賑わう店内を進み、バッシュの座る向かい側に腰掛ける。
待たせたなと言いかけたウォースラであったが、バッシュの常ならぬ様子に気付き口を閉じた。
普段の彼ならばウォースラが着席する前にでも、朗らかに笑って声を掛けてくれていただろう。
だが今のバッシュは口を真一文字に引き結び、視線は自らの膝の上に落としたままウォースラの方を見ようともしない。
顔色が青ざめて見えるのも、薄暗い照明のせいだけではない。
バッシュは今、間違いなく、何かのっぴきならない問題を抱えている。
「どうした。何か任務でトラブルでもあったのか」
単刀直入な問い方しかできないウォースラの性格は、この際好都合であった。
空気を読むとかオブラートに包むとか、悠長に腹の探り合いをしている場合ではないのは明らかである。
バッシュがここまで繕いもしない憂い顔をウォースラに見せるのは初めてのことだ。
ウォースラは店員を呼び寄せ、手短に二人分の飲み物と軽食を注文しバッシュに向き直った。
「お前のことだ。俺に話せないくらい切迫した事態なら、そもそもここに来ていない…そうだな?」
「………ああ」
ようやく聞こえたバッシュの声は、それはひどく弱々しい。一体何が彼をそこまで悩ませているのだろう。
よもや不埒な騎士団員から謂れのない嫌がらせでもされたのではなかろうか。
「誰にやられた。何を言われた?」
「違う。そういうことではない」
「なら一体、何が…」
「見合いだ」
「なに?」
「……見合い話だ。この俺に…見合いをしないかと、そういう話を持ちかけられたんだ」
見合い。
バッシュから溢れたその言葉は余りにもウォースラの想像からは離れすぎていて、理解するのにだいぶ時間が掛かった。
「ああ……見合い。そうか。なる…ほど」
非常に歯切れの悪い返事をしたきり固まったウォースラと、相変わらず俯いたままのバッシュ。
それを見た砂海亭の店員は今だと言わんばかりに、凍てついたままの二人の前に酒と食事を並べて立ち去った。
ウォースラは手前に置かれたグラスを手に取り、並々と注がれたエールを一息に飲み干した。上等な酒の筈だが、残念ながら味など分かったものではなかった。
相対するバッシュはひとつ溜め息を吐き、グラスに手を付けることはなく視線を上げて遠慮がちに言った。
「話があったのは今日の昼間だ。小隊長から呼び出されてな。何ぞ粗相でもと伺ったところ、そうではないと笑って切り出された話が……これだった」
「お前の所の小隊長…ファビオか。俺の同期だな」
「そうだ。先方は小隊長と懇意にしている家で、名はベルナールという。聞き覚えはあるか」
ウォースラは記憶の中でさっとベルナールの名を手繰った。
確かウォースラの姓アズラスと同格の、所謂地元の名士とも言える家柄だ。
首都ラバナスタにあって大変な貴重品である絹織物を扱う由緒正しい商家であると、ウォースラは記憶している。
「ベルナール家…ああ、間違いなく名家だ。所謂豪商と言っていい。確かにあの家には長女がいたが……しかしすごい縁談を寄越されたものだな」
「やはりそうか…。俺自身どう考えても身分不相応だと言ったのだが、ファビオ小隊長は気楽なものでな…」
バッシュの話を聞きながらウォースラは自らの記憶を更に手繰る。
ベルナール家の当主とは過去に一度、夜会で同席したことがあった。
と言ってもウォースラは当時十五歳そこらの若輩で、ベルナール氏と話をしたのはウォースラの父親であった。
傍で何となく聞いていた大人同士の会話は終始和やかで、家では厳格な父の柔和な表情がとても珍しく感じたものだ。
「実際ベルナール氏は、根っからの商売人だけあって豪胆で気持ちの良い性格だったな。周囲の商人連中からの信頼も厚い。並の男ならば、二つ返事で引き受けたくもなる縁談だと思うが」
「となると益々、俺には不釣り合いな話だな。小隊長にもだいぶ気を遣わせた様だ…」
「どういう意味だ」
「名家と縁を結んで騎士としての箔を付けろと、そういう意味だと俺は受け取った。亡国からの流れ者という身分は、理解ある良縁を活用しないと払拭できないだろうから」
「……。あのファビオがそこまで深く考えているとは思えないがな…」
若手の頃から陽気な性分の同輩を思い浮かべて首を捻りつつ、ウォースラは考える。
バッシュがダルマスカに亡命してきたのは、六年前のことだ。
帝国アルケイディアに滅ぼされたランディス共和国から逃れてきた十七歳のバッシュは、秀でた武芸と聡明な受け答えで入団試験を早々にパスして正式にダルマスカ騎士団へやってきた。
幼少より騎士見習いとして団に所属していたウォースラは、始めの頃こそバッシュに対して所詮どこの馬の骨とも知れない流れ者だと気にも留めなかったが、彼が入団してほどなく行われた遠征に同行した際に評価を根本から改めた。
剣を取らせれば太刀筋は誰よりも冴え、話をすれば打てば響く受け応えのバッシュを、ウォースラはたちどころに信頼した。
さほど多くの言葉は交わさずとも、バッシュの育ちの良さはもちろん、生まれ持った器量もかなりのものだと直ぐに分かった。
以降も、年齢も近いこともあり何かとバッシュと行動を共にする事が増えたウォースラからすれば、バッシュの出自が流れ者ということを今更気にする必要がどこにあろうかと思う。
見合い話などあろうとなかろうと、バッシュはこれからも一人で見事に身を立てるに違いない。
ウォースラはそう確信しているのだが。
「だいたい、ファビオも調子の良い性格だ。大方、夜会か何かの宴席で世間話的に寄越された見合い話だと思うぞ。娘もぼちぼち年頃なのだが、そちらの若手で誰か紹介してくれないかという程度のな」
「それは小隊長からも言われた。上手く行かなければそれはその時だから、まずは会うだけ会ってみろと。実際俺程度の相手と破談になったところでケチなど付く筈もない、引く手数多の家柄だろうから」
「なら話はここで終わりだろう。何をそこまで悩むことがある?断りにくいなら、俺からファビオに伝えておくぞ」
言ってしまってから、角の立たない断り方ならば己よりもバッシュの方が心得ていることに気付いてウォースラは苦笑した。
それで、バッシュもつられて笑ってくれることを期待したが、彼は相変わらず浮かない顔で大分気の抜けたエールを一口飲み下すばかりだ。
「……。本当に、ここで無下にして良いものだろうか。ウォースラ、俺は……」
消え入りそうな声で友の名を口にして、バッシュはまたしても視線を伏せて俯いてしまった。
どうもおかしい。
ウォースラはてっきり、バッシュはいかにしてこの縁談を上手く断るかについて頭を悩ませているのだと思っていた。
だが既に断る心積りでいるなら、果たしてバッシュはここまで思い詰めた表情をするだろうか。
相手は名のある貴族とはいえ、バッシュも理解している通り、破談になったとて後腐れのある家柄ではない。
ましてこの話を持ちかけたファビオにしても同じことだ。
断る前提であるならば。
「受けるつもりなのか。この縁談を」
「…悪い話ではないのは確かだ。いや、俺のような出自の人間には渡りに船と言うべき…」
「バッシュ。何故そこまで拘る?お前がダルマスカの生まれではない
お前もお前の家族も、決して罪人などではない。ダルマスカもランディスも、憎き帝国を共通の敵としていた点では間違いなく同志なんだ」
とても年下とは思えない落ち着きに、まだ幼さの残る色白の美男子―――
―――正に見た目も性格も自分とは真逆であるバッシュに、何故か惹かれた。
はっきり言って、ほとんど一目惚れであった。
「それで。お前はどうしたいんだ」
「肝心なのはお前自身の気持ちだろう」
「俺は……この通り、ダルマスカに在っては流れ者の身だ。どんなに騎士として身を立てようと、この出自は決して消える事はない」
―――アズラス将軍も落ちたもんだよ。あんなどこの馬の骨とも知れん奴にご執心とは。
「…相手方の◯家は、それは由緒ある名家と聞く。そんな家と縁を結べれば、俺も騎士としての箔が付くんじゃないかと」
「そんな理由で生涯の伴侶を決めるのか。お前らしくもない」
「そこまで打算的な性格じゃあないだろうに」
「…俺らしくない…か。そうだな。そう言ってくれる無二の友と出会えたことに感謝するばかりだ」
「バッシュ」
「ウォースラ、ありがとう」
―――お前はどうしたいんだ。
肝心なのはお前の気持ちだろう―――
「………。俺は…」