ユキヒョウ獣人(僕の後輩)は嫉妬が深いわかりやすい特徴だ。
獣人はあくまでも人であり、野生動物のような弱肉強食関係ではない。それでも力の強い傾向にある肉食獣人は、畏怖や尊敬の対象とされることが多かった。特にも大型で強力な肉食獣―虎や豹、狼、鷲など狩猟者の力を受け継いだ者には、すべからく羨望のまなざしが向けられる……はずなのだが、たった今カーヴェの前で布団をかぶっている生き物は誇り高きユキヒョウの獣人ではなく、ただのどでかい猫であった。
「アルハイゼン、いい加減起きないか! 今日は毛布を洗濯する日だぞ!」
呼びかけても反応がない。しばらくして、ベッドから垂れていた大きな尻尾がしゅるしゅると毛布の中にしまい込まれていく。既に日は高く昇っており、普段の起床時間から二時間は過ぎているだろう。もぞもぞと動く毛布の塊の中から、ゴロゴロと眠たげな声が聞こえてきた。これは起きるどころか完全に二度寝の姿勢だ。
「日頃、僕が昼間まで寝るのを窘めるくせに、自分が寝坊していて恥ずかしくないのか?」
「……君のそれは過労による生活習慣の乱れ、今の俺は休日の有意義な消費だ」
「くそ、寝ぼけてるくせに口は回るな……!」
二つ下の後輩でありルームメイトであるアルハイゼンは、誰もが羨む希少なユキヒョウの獣人である。過度に目立つことを嫌う彼は、今まで職場の人間の間でひっそりと評価されるに留まっていた。しかし、アザールの野望を食い止めて代理賢者を務めてからというもの、評判はうなぎのぼり。他の獣人からの見合いの誘いが後を絶たないという。だが、皆はアルハイゼンの本当の姿を知らないのだ。合理性に偏り過ぎた性格の問題は勿論、本を出しっぱなしにするとか、こんなふうに休日はだらしないところとか。
「まったく、教令院の職員や学生が今の君の姿を見たらどんな顔をするだろうね。これが賢者になりかけたスメールの英雄の姿か?」
「君しか見ないから構わない」
君だってついさっき起きたんだろう、と布団の中でぼやく声。兎の獣人である僕は耳が良いからしっかりと聞こえている。
「ユキヒョウは夜行性だ。俺が寝ているのは生来の習性によるものだ」
「君ねえ……」
もっともらしいことを言っているが、平日は早く起きているし、むしろ僕より生活リズムが整っている。よって、今彼が布団をかぶっているのは本人の意思、わがままである。先輩として、駄々っ子を許すわけにはいかない。えいやあと布団を捲ると、アルハイゼンは長い尻尾を咥えて丸まっていた。
「屁理屈言ってないで起きるんだ。はあ……これじゃ完全に猫ちゃんじゃないか」
もそもそと身体を丸める姿は日向で眠っている猫そのもの。実際猫科ではあるんだけどな、と心の中で突っ込みを入れる。肉食獣人の威厳が台無しであるが、尻尾を咥えて眠るのは学生の頃からの彼の癖であり、微笑ましさが込み上がる。
「(流されるんじゃない。今のこいつはただの駄々っ子なんだから!)」
どうにか気持ちを切り替え、ゆさゆさと身体をゆすった。彼はようやく半目を開けて、くぁ、と大きく欠伸をする。行動だけ見れば我儘な猫ちゃんなのに、口からちらつく鋭い牙が、彼が生粋の狩猟者であることを証明していた。薄目を開けたアルハイゼンは、ふいに咥えていた尻尾を離す。
「起きろ、アル、ッ……⁉」
ようやく目覚めたかと安心したのも束の間。ふわふわの長い尻尾はしゅるりとベッドの上を滑り、こちらの身体にぐるりと巻き付いてきた。その動きがまるで腰を抱くようかのようで、反射的にベッドから飛びのく。
「こ、こら……! だめだぞ、いいから起きるんだ!」
「…………」
尻尾をはねのけられたアルハイゼンは、グルルと不機嫌そうに喉を鳴らした。
「っ……あ、これは洗濯しておくから! 朝ごはんはできてるから、君も起きてコーヒー豆を挽いてくれ」
引きはがした毛布を引っ掴んで、ばたばたと部屋を飛び出す。逃げ足の速さは誇れるものではないが兎の脚力には感謝せざるを得なかった。相手の身体に尻尾を巻き付けるなんて、どう考えても一緒に寝ようというお誘いである。獣人の共寝は性的な意味を含まない一般的な行為ではあるが、今の自分にはそうやすやすと身体を預けられない理由があった。
「(くそっ、僕の気も知らないで……!)」
部屋から離れても、ばくばくと心臓は跳ねたまま。きゅう、と疼く下腹部を擦り、奥歯をかみしめる。だめだ、ちがう、と言い聞かせても身体は言うことを聞いてくれない。回収した毛布を洗濯場に放り投げ、ポケットに忍ばせておいた薬の袋を取り出す。万が一のために常備すべきだという医者の意見は、極めて正しかった。
「(共寝なんかしたら、本当に発情期が来てしまうじゃないか……!)」
薬を水で流し込み、その場にうずくまる。先ほどとは打って変わって、今はアルハイゼンがしばらく起きてこないことを祈っていた。
***
はじめに感じたのは倦怠感と、妙にそわそわする心地の悪さ。普段気にしないような物音が気になりはじめ、気持ちが落ち着かず、脚を揺すったり、髪の毛を引っ張ったり、自分の手を引っ掻いてしまうこともあった。このまま悪化すれば、確実に仕事に支障をきたす。そう思ってビマリスタンを受診したのだが、医師から告げられた診断結果は到底受け入れがたいものだった。
「発情期の前兆ですね」
「はぁ……?」
獣人には、野生の動物と同じように発情期が存在する。種族によって程度に差はあるのだが、基本的には意中の相手や信頼できるパートナーが居る場合に起こる現象だ。発情期が来るということは子作りの意思があることの証明であり、獣人の間では相手への情熱的なアプローチとみなされる。もちろん、受け入れるかどうかは当人次第だが。とにかく、獣人として生まれた者としては、決して無視できない現象なのだった。
「パートナーの方とはよく話し合ったほうがいいでしょう」
「いや、そんな……待ってください。僕にそういった相手は……」
慌てふためく僕を見て、医師は微かに眉を下げた。この瞬間、僕がただの患者から訳アリの人になってしまったのを察し、気まずさで胸が重くなる。
「好意を持つお相手やパートナーがいないのであれば、尊敬する人物や恩師、付き合いの長いご友人なんかが引き金になる場合もあります」
「本当に心当たりがなくて……病気とか、そういった可能性はないんでしょうか?」
医師は一瞬目を逸らし、軽くため息をつく。その仕草から、何かとても良くないことが起こりそうな気がして、反射的に肩がすくんだ。
「検査結果では、雌側の傾向が強く出ています。雌側に寄った発情期は、他者の影響で誘発されることが多いのです。代表的なものだと、力の強い肉食獣人でしょうか」
こういうときばかり予感は当たってしまうものだった。獣人のうち、いくつかの種族は種の存続のためか、雄でも子供をつくることができる。兎の獣人もそのひとつなのだ。だが、雄として生まれながらそちら側の欲求が強くなるというのは、簡単に受け入れられるものではない。無自覚のうちに発情しかけているなんて最悪だ。
「自覚がなくても心のどこかで認めているとか……嫌いだと思っている相手、ライバル関係にある人物が引き金となった例もあります。仕事で接する相手や、ご友人に心当たりはありませんか?」
「…………」
職業上、多種多様な獣人と触れ合ってきたし、その中には何人か肉食獣人もいる。だが、すぐそばにいて、強い力を持った肉食獣人といえば、思い当たる人物は一人しかいない。しかし、アルハイゼンと暮らし始めてもう数年は経っている。いまさら発情期の原因になるなんてことがあるのだろうか。
「思い当たる人物がいないことはないんですが……こうなったからには、該当する人物とは距離を置いたほうがいいんでしょうか」
「いえ、無理に離れようとするのは控えてください。すぐには受け入れられないかもしれませんが、無意識のうちに信頼を寄せているということもあります。そういった相手と急に離れたり、生活環境を変えてしまうと、ますます症状が悪化してしまいますよ」
兎の獣人はストレスに敏感ですからね、と医師は続ける。家を出ていこうと思ったのに、真っ先に逃げ道を塞がれてしまった。悔しいことに、ストレスに弱いと言うのは紛れもない事実だ。かつて母がフォンテーヌへ行ってしまったときや、共同研究が終わってしまったとき、体調を崩して寝込んでしまったから。
「(くそ、体調を崩したら仕事ができなくなって本末転倒だ。そもそも、今の僕じゃアルハイゼンの家を出たところで、すぐに安心して作業できる環境を用意できない……)」
あの家以外にいい場所があれば、最初からアルハイゼンの家に転がり込むことなどなかったのだ。両親から貰った身体を恨んだことはないけれど、今の状況においては、自分の体質が枷になっていることは事実だった。
「発情の抑制剤は出しておきます。身体に異常があったときすぐに服用できるよう、肌身離さず持ち歩いてください。本格的な発情が始まってフェロモンが出てしまえば、他の雄まで寄せ付けてしまいますからね」
医師は生活上の注意点をひととおり述べた後、相手との話し合いが大切であることを念押ししてきた。今の状況がイレギュラーだらけであることは、自分もよくわかっている。対話が可能かどうかは別として、ひとまずは黙って頷くことしかできなかった。
***
さて、アルハイゼンに対して「君のせいで発情期になりかけている」なんていきなり告げることはできない。発情期が来るということは相手を子作りの対象として意識していることになるが、何度考えてみてもそんな気持ちは一切なかった。原因がわからない状態で、まともな議論はできない。まずは本当にアルハイゼンが原因なのか確かめる必要がある。
「カーヴェ、視線がうるさい」
目の前で、シルバーグレーの耳がぴくりと動く。顔を上げたアルハイゼンは「言いたいことがあるなら早く言え」とぶっきらぼうに続けた。夕飯を終えて二人でリビングでくつろぐ何気ない時間。まずは普段通りの生活をしながら、彼についてどんな感情を抱いているのか考えてみようとしたのだが……相手を意識していると、ぎこちなさが態度に出てしまうようだ。嘘や縁起が下手くそだと言われるだけある。
「ちょっと顔を見てただけじゃないか。騒音を立てたわけでもないし、迷惑はかけてないだろ」
「君が向かい側に座って本を開いてから、ただの一度もページを捲っていない。じろじろ見られて気が散っているから、俺は十分に迷惑している」
反射的に何か言い返そうとして、慌てて口を噤んだ。今の目的彼との関係を見つめ直し、状況を整理すること。いつも通りに口喧嘩していたら意味がない。
「……迷惑になっていたならすまなかったよ。ちょっと気になることがあって」
アルハイゼンは黙って言葉を待っている。何も言わないということは、そのまま続けろという意思表示だ。
「その……君って、何がそんなに魅力的なんだ?」
察しの良い彼でもさすがに質問の意図が分からなかったようで、アルハイゼン怪訝そうな顔をして唇を引き結び、首をかしげた。
「君はよく他の獣人にお見合いを申し込まれるだろう。希少なユキヒョウの獣人であることは理由の一つだとしても、僕らはあくまで人間だ。種族だけで結婚相手を決めることはしない。で、君は他人に愛想を振りまくようなことはないし、告白されても相手が可哀そうになるくらいバッサリ切り捨てている。それでもなお求愛されるってことは、何か絶大な魅力があるのかと気になってね。例えば、ほら……性格がどうでもよくなるくらい、見た目がどうしようもなくかっこいいとか」
我ながら奇妙な質問だと思うけれど、内容はいたって真面目だ。彼が希少な種族であることは学生の頃から知っているが、それを理由に仲良くなろうとしたわけじゃない。こいつの性格が悪いことは僕がいちばんよくわかっているし、それでも発情期が来るのなら、何か別に惹かれる要素があるのではないかと疑問に思ったわけだ。見た目に着目したのは、愛らしいペットはいくら態度がふてぶてしくても愛でて貰えるから、という理由だ。
アルハイゼンは「それを知ってどうするんだ」と言いたげな顔をしていたが、そのまま会話を続けてくれた。
「美醜の感覚は人によるというのが俺の見解だ」
「それはまあ、そうだよな……でも、多くの人に好まれる顔立ちとか、身体的特徴はあるだろ?」
「それで俺の顔をじろじろ見ていたというわけか」
結論から言ってしまえば、彼の造形は非常に高いレベルで整っていると思う。すっと通った鼻筋、特別スキンケアもしていないのに滑らで白い肌(これは普通に羨ましい)、ターコイズグリーンに緋色が混ざる特徴的な瞳。身長も成人男性の平均よりは高いほうだし、内勤者に不似合いな恵まれた筋肉を持っている。
「(とはいえ、アルハイゼンの姿なんて見飽きてるんだよなあ……)」
質問しておいてなんだが、他の誰よりも彼の問題点を知っている身として、見た目だけで惹かれているとは考えにくい。ちょっとスケッチさせて欲しいな、なんて思うことはあるけれども。
「魅力、か。君の言う〝かっこいい〟に当てはまるかは知らないが、学生の頃、君に可愛いと散々誉めそやされたことは覚えているよ」
「……は⁉」
見た目についてあれこれ考えていたら、想定外の方向からとんでもない爆弾が飛んできた。
「審美に疎い俺よりも、大建築家である君の意見のほうが信用できるだろう。他の獣人を引き寄せる理由が見た目と仮定するなら―俺が求愛されるのは可愛いから、ということになるんじゃないか?」
「なっ……ば、馬鹿なことを言うのも大概にしないか! 僕は真面目に考えて……」
「自分の発言には責任を持つべきじゃないか? 俺は確かに君から可愛いと言われた記憶がある」
ふざけた発言に似つかわしくない真面目な顔で彼は言い放つ。
実際、後輩として彼のことを可愛がった記憶はある。学生の頃のアルハイゼンは今にも負けず劣らず辛辣だったけれど、純粋であどけない姿を晒すことも多かったからだ。尻尾を咥えて寝ている彼の頭にヤマガラがとまっていたり、目の前を横切った蝶々に気を取られて咄嗟に追いかけようとしたり、口元にソースをつけながら必死にピタを頬張っていたり。長い尻尾をブラシで梳かしてやれば、気持ちよさそうにゴロゴロ喉を鳴らした。
聡明で気の合う相手、しかも可愛い後輩となれば、愛でたくなる気持ちは大きくなるばかり。仮眠時の共寝は日常茶飯事だったし、お互いの耳や尻尾を毛繕いする仲だった。彼の為に、普段は口にしない肉食獣人向けのジャーキーをおやつとして買ってきたこともある。
「そっ……それは過去の話だろ!」
「ほう、今の俺は可愛くないと」
「からかうのも大概にしないか!」
ふん、と鼻を鳴らすアルハイゼンの口角は微かに上がっている。今日は機嫌がいいのか、僕のことをからかうのが相当に楽しいのか。彼の感情に連動するかのように、長い尻尾がふわりと揺れる。
「体躯も態度も無駄にでかい、今の君のどこに可愛い要素が……」
あるわけない、と言いかけた唇は固まった。
昼寝しているときの寝顔は今でも可愛いんじゃないか。感情に合わせてゆらゆら揺れる尻尾とか。あの尻尾の毛並みがふわふわで心地よいことを知っている人間が他にどれだけいるだろう。カウチでゴロゴロ喉を鳴らしたり、好物のステーキを美味しそうに頬張る姿も。
「(あれ……もしかして、僕はアルハイゼンのことを今でもちょっと可愛いと思っているのか)」
目の前のアルハイゼンは、突然言い淀んだ僕をじっと見つめている。腹立たしいほど整った顔立ち。でも、よくよく見てみると彼の目元は柔らかく、お風呂上りなど目元の化粧を落とすと少し幼い印象になる。態度がそっけないから、皆冷淡な印象を抱きがちだけれど。普通の人はアルハイゼンの風呂上がりや寝顔を見ることはないので、気づかないのも無理はない……と思い至ったところでふと気が付いた。
「(僕しか知らないこと……)」
見た目が整っているのは他の人が見てもわかる。ユキヒョウの獣人としての生まれも、スメールを救ったと言う事実も皆に知られている。だが、彼の抜けた姿やあどけなさを知っているのはカーヴェという人間だけではないか。好物を嬉しそうに食べる姿、寝ぐせで髪が爆発した寝起きの姿、化粧をする前の顔、カウチの上で喉を鳴らす様子、今でもたまに尻尾を咥えていることとか。
大衆を惹きつける要素とは真逆だけれど、むしろ自分しか知らない彼の特徴というのは特別な魅力になりえる。
「(じゃあ僕は、アルハイゼンのことを可愛いと思っているから発情期がきたのか? でも、どうして僕が雌側になるんだ……ああ、やっぱりわからないぞ!)」
全身硬直したまま、頭だけがぐるぐる回転する。発情期を誘発する証拠としては不十分だけれど、少なくとも彼のことを愛しく思う要素がひとつ見つかってしまった。
「(一緒に暮らすうちに関係が良いほうに向かっているのは自覚していたけれど、まさか本当に恋愛感情が混じっているのか⁉ いやいや、星と深淵がひっくり返っても、アルハイゼンのことを好きになるなんて……)」
今の僕にはありえないと言い切ることができなかった。このまま思考を続け、今まで気づいていなかった感情が露呈したら? そうしたら、本当にアルハイゼンのことを好きになってしまうかもしれない。怖くて考えるのをやめてしまいたいのに、発情期を起こしかけている今、見ないふりをすることは許されなかった。
「カーヴェ?」
こちらを見つめるターコイズグリーンの瞳。視線が重なった瞬間、どくりと心臓が跳ねる。鼓動が早いのは焦っているのか、怖いのか、それとも別の感情が混じっているのか、もうわからない。
「……変なことを聞いてすまなかった。僕はちょっと部屋の掃除をしてくる!」
これ以上本人と対面するのがいたたまれなくて、安直なごまかしで自室に駆け込んだ。情けないことこの上ないが、今の僕には一時撤退以外の道が残されていなかった。
一度意識してしまうと、気持ちはどんどん引っ張られてしまう。考えないようにするほど思考の容量を圧迫していき、最終的にそれしか考えられなくなる。アルハイゼンの〝可愛い〟に気づいてからというもの、彼の一挙手一投足が気になり始めた。自分は、アルハイゼンの悪いところを知っているが、彼の優れた点についても誰より知っている。
その結論に至ったとき、新たな視点が見えてきた。アルハイゼンもまた、誰より僕のことを知っている。カーヴェという人間の歪な部分……罪悪感に捕らわれた心を指摘したのは他でもない彼だった。それなら、いままで鼻についていた発言や挑発的な態度は、僕の罪悪感を軽減するための彼なりの配慮だったのかもしれない、とか。
***
時間は休日の昼、脱衣所に戻る。
薬が効いて身体の熱は落ち着いたので、予定通り洗濯ものを片付けはじめた。これが終わったら朝食を温め直さなければ。
「危なかった……でも、これ以上共寝を断ったら流石に怪しまれるよなあ」
さっき、共寝の誘いを拒絶してしまったことがちくりと胸に刺さっている。獣人は寄り添って暖を取るのが一般的であり、家族や恋人はもちろん、友人同士でも共寝は普通の行動だ。
今までは一緒に飲んだ夜そのままカウチで添い寝したり、寒いときに勝手にアルハイゼンの寝床に入ることもあった。一般的に肉食獣人の寝床に草食獣人が入るのは無防備だと咎められるものだが、相手が腐れ縁のアルハイゼンだから気にしたことはない。だが、今は相手がアルハイゼンであることこそが最大の気にする要素となっている。
「(この家を〝僕たちの家〟って思った……結局これが答えなんだろうな)」
ここまできたらはっきりと認めるべきだろう。この家での暮らし、アルハイゼンとの生活を大切だと感じていることを。以前は一刻も早く出ていきたいと思っていたくせに、今ではお気に入りのコーヒーを二人で選び、店へ買いに行く当番を決めるほどになった。性格の問題も価値観の不一致も、全部踏まえたうえで結局彼以上に信頼できる人間はいない。良くも悪くも変わらぬ彼だからこそ、ありのままの自分を曝け出せるのだった。価値観が一致することはないけれど、言葉を交わすことに価値を見出している。発情期の原因は、アルハイゼンの存在で間違いないのだろう。
「叶うなら、僕だって一緒に寝たいのに……」
今共寝をしてしまえば、この身体はそれ以上を求めてしまう。彼とは恋人ですらないし、想いを告げたところで彼が受け入れてくれる可能性はどう見積もっても低い。こちらがアルハイゼンを大切に想っているとしても、彼にとっての自分はただのルームメイトでしかないのだ。
「(でも、行き場のない僕をこの家に迎え入れてくれたし、特別扱いはされているよな。いや、番になるかどうかは別問題で……あれだけの人に言い寄られても頷く相手が居ないんだから、僕が対象になるわけないか)」
結局、過去に致命的な仲たがいをした二人が番になるにはハードルが高すぎるのだった。
「仕方ない、このままずっと薬を飲むしか……」
「何の薬だ」
「⁉」
考え込み過ぎて聞こえていなかったのか、それとも彼が足音を殺したのか。真後ろから聞こえた低い声に全身の毛が逆立った。考え事をしている際、思ったことがそのまま口から出ることがあるのだけれど、まさか間近で聞かれていたなんて。
「きみ、いつのまに⁉」
「洗濯物を出しに来ただけだが……それで、薬とは?」
じっとりとした視線。こちらの不養生を窘めるとき、彼は決まってこの顔をする。
「あ、う……くすり、っていうのは……ずっ、頭痛薬を……最近頻度が増えていてね」
たどたどしい返答に、彼は微かに目を細める。アルハイゼンは賢く察しが良いし、僕は何かと隠し事や嘘が苦手だと言われる。切り込まれないかと震えていると、彼は片手に持っていた枕カバーを差し出した。
「これも洗っておいてくれ。君の場合、薬を飲む前にカフェインの摂りすぎを疑ったほうがいいんじゃないか?」
「はは……コーヒーの飲み過ぎには気を付けるよ」
アルハイゼンは小さく欠伸をすると、尻尾を揺らしながらリビングへ向かっていった。足取りからして、彼はまだ半分寝ぼけているのだろう。感づかれなくて良かった。
「(ああもう、心臓に悪い! 次からは独り言にも気を付けないと……)」
幸い、薬が効いているおかげで熱がぶり返すことはなかった。いっそ手酷く振られてしまえば気持ちが無くなって、発情も収まるかもしれない。だが、拒まれる瞬間を想像しただけで、真っ暗で冷たい闇の中に放り込まれるような心地になる。彼に言い寄る大勢の一人になり下がってしまったら、コーヒーを飲みながら談笑したり、共寝することも無くなるだろう。唯一のルームメイトという特別な立ち位置を手放すのはあまりにも惜しかった。
「(薬……多めに貰って来よう)」
ようやく安定した彼との関係を壊すわけにはいかない。薬に頼れるうちは、このままやり過ごそうと決めたのだった。
薬の服用を始めてからというもの、アルハイゼンとの過度な接触は控えつつ、それでいて、いつもの距離感は保とうと心掛けていた。食事は一緒にとるようにしたし、時に議論を交わし、寝ている彼に毛布をかけ、掃除洗濯も普段通りにこなしていた。しかし、僕はあることを失念していたのだ。いくら行動言動に気を付けていても、彼の方から近寄ってこられたら、どうしようもないのだと。
「カーヴェ、手が止まっている」
「あ、う……急かさないでくれ。耳はデリケートなんだから……」
「さっきの加減でちょうどよかった。そのまま続けてくれ」
どうしてこんなことになっているのだろう。僕は今アルハイゼンに膝枕をしながら耳かきをしている。早くしろと急かすかのように、彼の長い尻尾がぱしんぱしんとカウチを叩いていた。
「(耳の掃除なんて、恋人とか、家族がやることじゃないか!)」
心の中で叫んでも、アルハイゼンには聞こえない。
共寝の誘いを断り、ブラッシングは自分でやれと突っぱね、泥酔して担がれることがないよう酒も控えていたのに……なぜだか、最近彼のほうから接触を試みてくるのだ。
カウチで本を読んでいたらわざわざ隣に腰かけてきたり、晩酌に誘ってきたり、料理を作っているときすぐ近くまで寄って来て味見をするなど。他にも、僕が論文を読んでいたら、後ろから肩に顎を乗せるようにして手元を覗き込むこともあった。これは学生の頃、構って欲しいときによくやられたものが、酒場で再会してからは一度も経験がない。同居するものとして、それらすべてを断るわけにもいかず……仕方がないのでほどほどに付き合っていると言った状況である。
「カーヴェ」
じれったそうな低い声。カウチを叩く尻尾の勢いが強まる。
「わかったから! 今綿棒を変えているんだ。奥のほうに入れるから、動かないでくれよ」
「ん……」
耳かきを再開すると、今度はご機嫌そうに喉を鳴らし始めた。
半刻ほど前、突然「耳が痒い」と言われ、おもむろに耳かき棒と綿棒を手渡されて、今に至る。自分で耳の中を確認することは不可能なので他人に任せるのが合理的、というのが彼の主張だ。理屈は通っているが、数年一緒に暮らしてきて耳掃除を頼まれたことは一度もない。
なぜ今になって僕に頼もうと思ったのか。しかし、引き受けたからにはやるしかない。日頃身体のケアをするよう指摘するのは僕の方だし、何より後輩が困っているとなれば断ることができなかった。
「あんまり汚れてはいないけど、奥のほうには少し溜まってるな……」
鼓膜や耳道を傷つけないように、慎重に綿棒を動かす。普段は髪の毛とヘッドホンに隠れて見えないが、彼の耳の内側は綺麗なピンク色をしているのだ。
「うん、皮膚は問題なさそうだな……どれどれ、こっちの溝は……」
耳垢の色が変だったり炎症を起こしていないか、入念にチェックをしながら耳の掃除を続ける。くすぐったいのか、奥を擦ると時折ぴくぴくと耳が動いた。獣人の耳はデリケートな部分であり、滅多なことでは他人に触らせたりしない。加えて、プライドの高い大型の肉食獣人が誰かに身体を預けること自体、本当に珍しい。同種族ならまだしも、力で劣る草食獣人に膝枕されるなんて、他の獣人が見たら卒倒しそうだ。
「よし、これで両耳とも綺麗になったぞ。痒みがあるのなら、ヘッドホンのつけすぎで蒸れてしまったのかもしれないな。これで良くならなかったらビマリスタンに行って皮膚の薬を……アルハイゼン?」
「…………」
少し開けた窓から風がそよぎ、遠くから小鳥の声が響く。ゴロゴロという喉音は、いつの間にか穏やかな寝息に変わっていた。銀色の前髪をそっと避けると、普段隠れている左目がちらりと覗く。そういえば、いつもなら昼寝をする時間だ。眠たくなるのも無理はない。
「寝ちゃったのか……?」
薬を飲んでいるとはいえ、発情期を起こしかけた身体では、過度な接触を避けるべきだ。すぐに起こして耳かきを終わりにしなくてはいけないのに、寝顔から目が離せない。長いまつ毛に形の良い艶やかな唇。視線を咎められることのない今、じっくりと造形をこの目に刻む。表情金が緩んでいるせいか、彼の寝顔はやはりどこかあどけない。
「かわいい……」
きゅん、と胸の奥が疼き、口元が緩む。ついに、大人のアルハイゼンのことを本気で可愛いと思ってしまった。長い兎耳を少し持ち上げ、目を閉じて彼の呼吸の音に耳を澄ます。大切な人と触れ合い、穏やかな時間を過ごす……幸せを噛みしめると同時に、いつか終わりが来る時を思って胸が苦しくなった。
「(もし共同研究を最後まで遂げられたなら、君と番になる未来もあったかもしれないね)」
だが過去は変えることができない。自分のことを顧みるほど、アルハイゼンには不釣り合いだと確信していった。繁殖力の高い兎の獣人は子作りの相手として重宝されるが、繊細で扱いづらいという側面も持つ。自分も例に漏れず、ストレスが体調に直結する体質で、すぐお酒に頼りたくなるのもこの気質に由来している。兎の繊細さを抜きにしたって、自分が相当に面倒くさい性格であることは自覚していた。平穏な環境を望むアルハイゼンには、おしとやかで、落ち着きがあって、彼と同じく理性的な獣人がふさわしい。
「(君が番を見つけたときは、僕がいちばんにお祝いしてやらなくちゃ……)」
なぜだろう。鼻の奥がツンとして、目頭が熱い。幸せなはずの光景が妙に寂しく感じる。そんなとき、ふいに彼の頭に添えていた手に、温度が重なった。
「……カーヴェ」
それは、かつてのアルハイゼンが〝友達〟を呼ぶときの声だった。彼は顔を上げるのと同時に身体を捻り、長い尻尾を巻き付けてくる。アルハイゼンはそのまま目を伏せ、自ら僕の手のひらに頬を擦り付けた。
「……ッ⁉」
相手の身体に顔を寄せるのは、獣人に共通する甘え行動だ。流れからして、このまま一緒に寝よう、というお誘いである。酔った流れでも寒くて暖を取るわけでもなく、ただ単に一緒に寝たいと。共寝の誘いは幾度かあったが、ここまで露骨に擦り寄ってくるのは初めてだ。
学生の頃ならまだしも、あのアルハイゼンが。草食獣人である、この僕に対して。驚きと焦りでぐちゃぐちゃになるも、きゅうっとお腹が疼きかけたとたん、はっと我に返る。高まる体温に下腹部の疼き……間違いなく、発情の前兆だ。
「ひゃっ⁉ あ……っ、ほら、寝ぼけてないで、君も早く起きて!」
浮かんだ涙は欠伸によるものだと誤魔化して、ばしばしと彼の肩を叩く。強制的にまどろみから引き上げられたアルハイゼンは、大変不服そうにグルグルと唸っていた。
「ほら、耳掃除はこれでおしまいだ! 僕は仕事に戻るからな」
ゆるく巻き付いた尻尾を振り払い、わざと慌ただしく足音を立てて自室へ駆け込む。彼は寝ぼけて仲良かった頃の夢でも見ていたのだろうが、発情の原因である人物に露骨に甘えられては、たまったものじゃない。
「は、あ……本当に危なかった。うっかり流されていたら、どうなってたか」
自分の行動は正しかったと理解しつつも、また共寝を断ってしまったことへの罪悪感が拭えない。だが、完全な発情状態になってフェロモンが出てしまえば、同居を続けることすら危ういのだ。
今の生活を守るため、やはり過度な接触は避けなければと心に刻んだ。
「臭い」
仕事から戻り、リビングに入った瞬間放たれた一言はあまりにも辛辣なものだった。アルハイゼンは腕を組み、今にも唸り声をあげて威嚇しそうな険しい顔つきでこちらを睨みつけ、歪めた口元からは鋭い牙が覗いていた。
「ど、どうしたんだ急に……⁉」
アルハイゼンが感情を、それも怒りを露わにすることは非常に珍しいのだが、いかんせん原因がわからない。彼の酒を勝手に飲んだり夜中に少々物音を立てたとしても、たいていはため息をつかれるだけで終わる。これだけ怒るからには相応の理由があるだろうに、仕事から帰ってリビングに入った瞬間これなので見当がつかない。だいたい、人に対していきなり「臭い」だなんて、むしろこちらが怒るべき暴言だと思うのだが。
「失礼なやつだな、僕は毎日お風呂に入ってるじゃないか。まさか、香水の香りが気に入らないのか?」
「……違う、他所の畜生の臭いがする」
「畜生って……」
彼はついにグルル、とおどろおどろしい唸り声をあげる。草食獣人への威嚇行為は重大なマナー違反なのだが、今は怖さよりも違和感が勝った。理性が服を着て歩いていると言われるアルハイゼンがこんな乱暴な態度を取るなんて。腹の虫の居所が悪かったにしても限度がある。
「確かに今日打ち合わせをしてきた相手は獣人だけど、清潔感のある優しくていい人だったぞ。他に獣っていったら、一緒にいた猫たちの匂いか?」
「猫……」
ずん、とまた一段と空気が重くなる。アルハイゼンは唇を引き結び、奥歯を鳴らした。
「どうりで、そこらじゅう獣臭いわけだ。こんな節操のない臭いの付け方、まともな獣人ではあり得ないからな」
今すぐ風呂に入ってくれ、と彼は続けた。
実は猫カフェのデザイン依頼があり、今日は管理者の獣人とミーティングをしてきた。その最中、依頼人宅で飼われている猫たちが寄ってきたのである。警戒心の強い野良猫とは異なり、こちらが構ってくれると知るや我先にと甘えてきて大変愛らしかった。
猫カフェの居住者となる彼らをよく知るためにも積極的に触れ合ってみたのだが、まさかアルハイゼンがその臭いを気にするとは全くの想定外だった。
「獣人には受け継いだ動物由来の縄張り意識や同族への対抗心があるというけれど、君もそうなのか?」
「わかっているなら、何故避けなかった?」
「だって、君が余所者の匂いを指摘したのはこれが初めてじゃないか」
動物といえば、以前砂漠で三匹ものコサックギツネに絡まれたことがあったけれど、あの時は特に何も言われていない。
「猫好きな依頼人の前で飼い猫を追い払えるわけないだろ。だいたい、普通の猫に対してそんなに怒らなくても……」
獣人が意図的にマーキングしたなら挑発行為と受け取れなくもないが、今回の相手は何も知らない普通の飼い猫。言うなれば赤ん坊のいたずらのようなものだ。しかしアルハイゼンはまるで許す気がないようで、ますます眉間の皺を深くしている。
「早く臭いを落としてくれ、鼻が曲がりそうだ」
ターコイズグリーンに宿る鈍い光は、もはや殺意に近い。嫌悪感は相当なものらしく、ギリギリと奥歯を噛みしめていた。
「わかった、わかったよ……身体を洗ってくればいいんだな?」
しかし、アルハイゼンはまだ話が終わっていないと思っているらしく、畳みかけるように言葉を続ける。
「カーヴェ、君は自身の立場と状況が理解できないほど子供ではないはずだ。これ以上の軽率な行動は控えて貰おうか」
危機感が足りない、と言い放つ彼の声はどこか焦りのようなものを感じた。しかし危機感と言われても、最近詐欺には会っていないし、猫の臭いをつけてくることの何が軽率なのか。
「そこまで言われなくとも、君が嫌がる臭いがつかないように心がけるさ!」
ピンとこない部分はあるけれど、これ以上怒らせてはいけないので、そそくさと部屋を後にする。アルハイゼンはまだ言い足りないのか、後ろから咎めるような咳払いが聞こえた。逃げるように脱衣所へ駆け込み、浴室へ飛び込んだ。
「ふう……仕事で獣人と触れ合って帰ると、じっとりした視線を向けてくることがあったけど、臭いを気にしてたってことか?」
熱いシャワーを浴びながら、彼の態度について考える。最近のアルハイゼンはどうにも機嫌が悪かったのだが、ようやく原因が判明した。まさか同族の臭いに敏感だったとは。
「そういえば、現場から帰るといつも何か言いたげにしていたな……」
施工現場では、肉体労働に適した力の強い肉食獣人が作業をしていることが多い。現場に顔を出して帰った日、アルハイゼンは眉をひそめ、何か言いたげな様子でこちらを見ていた。お風呂に入ると奇妙なピリつきはおさまるのであまり気にしていなかったが、あれは臭いが落ちたから機嫌が直ったということか。
しかし、仕事で他の獣人と接するのは今までも当たり前のことだったし、シティや港にいる動物と触れ合うのも珍しいことではない。急に目くじらを立てて指摘するようになるとはどういった心境の変化だろうか。
「(嫌なものは嫌ってはっきり言うタイプだから、気にしているならもっと早く言うはずなのにな)」
ぱしゃぱしゃと水滴が滴る。理由は不明だが、部屋を間借りしている身として、家主が嫌がることは避けねばならない。彼が不快になる臭いが残らぬよう、香り付きのシャンプーとボディソープで念入りに全身を洗い流した。
獣人は急に生来の特性が強くなることもあるから、体質が変化した可能性もある。単純に嗅覚が敏感になったとか、縄張り意識が強くなったとか。それはそれで、生活に影響のあることはあらかじめ自己申告しそうなものだが。あのように怒り狂うレベルまで黙っているというのは考えにくい。
「しょうがない、今後は獣人や動物と接したら、帰ってすぐお風呂に入ろう」
この時の僕はまだ事態の重大さに気づいておらず、臭いを落とせば大丈夫、程度に考えていた。妙に動物に好かれ始めたこと、あのアルハイゼンが己の獣性を露にしてまで指摘してくることの異常性。「危機感を持て」という彼の言葉の意味を、もっと強く意識するべきだったのだ。
泥酔してアルハイゼンに担がれることが無いよう、お酒は控えめを心掛けて数ヶ月。しかしながら、日々顧客の要望に振り回されるストレスフルな環境において、お酒に全く頼らない生活は難しい。アルコールは世界の輪郭をぼやかすことで、人生の痛みを和らげてくれる。悩みに対して明確な解決策が用意されていることはまれであり、どうしようもないからこそお酒の力が必要なのだった。そういうわけで、久方ぶりにランバド酒場に入り浸ることにしたわけだが……せっかくのお酒の席だというのに、とある理由からうまく酔うことができずにいた。
「これ以上構うのはよしてくれ、僕は一人で飲みたいんだ!」
「そんなこと言わずに、お酒は俺が奢りますから。だいたい、兎さんが夜の酒場で一人だなんて、危ないんじゃないですか?」
再三のリテイクの末、依頼そのものが無しになった日の夜。商談終わりに酒場へ転がり込み、声をかけられるのはこれで三度目。一人目は同じ兎の獣人、二人目は狼獣人の学生。そして今度はエルマイト旅団と思しき虎の獣人。この男は口調こそていねいだが、この通りしつこくて、こちらが冷たい態度を貫いているにもかかわらずなかなか離れようとしない。嫌な気持ちを紛らわすために強い酒を頼んだのに、これでは頭が痛くなるばかりだ。
「あなたは自分が迷惑な人間だと認識されてることを自覚したほうがいい」
「そんなあ、俺はただ守ってあげようと……」
「結構だ! とっととあっちへ行ってくれ!」
こういう悪い絡み方をする客が居る場合、たいていはランバドが間に入ってくれるのだが、あいにく今は遠くの卓へ料理を運びに行っている。しっしっと追い払う素振りをしても、虎の獣人は相変わらず猫なで声で擦り寄ってくるのだった。さっきからそれとなく尻尾をこちらの脚に擦りつけてくるのは気のせいではないだろう。セクハラだと言われないぎりぎりを狙いつつ、己の臭いを付けようとする卑劣な姿勢。こいつに虎の獣人としての誇りはないのだろうか。
「(ああもう、猫科の臭いはアルハイゼンが特に嫌がるのに……!)」
鼻を摘み、怪訝そうに顔をしかめるルームメイトの姿が目に浮かぶ。もしここにアルハイゼンを連れてきていたらこういった輩を寄せ付けることもなかったのだろうが、彼が居ると結局飲み過ぎてしまうのだ。このままランバドの助けを待つのも、迷惑をかけるようで気がひける。
「(これ以上ここにいても仕方ない。だいぶ時間もたったし、今日はこれでお終いにしよう)」
邪魔者がいてはせっかくの酒が不味くなるばかりだ。とっとと帰ってまた明日飲み直したほうがいい。
「僕は帰らせてもらう。これ以上付きまとうなら、マハマトラに突き出してやるからな!」
擦り寄る男を突き飛ばすようにして酒場を飛び出す。だが、結論から言えば酒場を出るという選択は大きな間違いであった。曲がりなりにも狩猟者である肉食獣人に目を付けられている状態で、人が少ない夜道へ飛び出すのがどれだけ危険な行為か。いかに人の多いスメールシティであろうとも、木陰や狭い路地はいくらでもある。
「ねえ、待ってくださいよ!」
「……っ⁉」
ちょうど街灯が少ない道に差し掛かった直後、背後から声が聞こえてくると同時に、がっしりと腕を掴まれる。振り返れば、酒場で付きまとってきた男が気持ちの悪い笑みを浮かべていた。
「(なんで、さっきまで足音はしなかったのに⁉)」
振り払おうにもびくともせず、そのまま男の近くまで身体を引き寄せられてしまった。腐っても虎の獣人、闇夜に紛れて足音を消すのは造作もないのだろう。マハマトラの名前を出せば襲ってくることはないと思っていたが、大人しく引き下がる相手なら、最初から悪質な絡み方をしないものだ。この世にはどうしようもないろくでなしがいると身をもって知っていたはずなのに、油断してしまった。
「ふふ……他の奴らに邪魔されないように、わざと店を出てくれたんですよね?」
「冗談じゃない!」
「はは……あそこにいた獣人みんなあなたを狙ってたんだ。自覚がないみたいだから、わざわざ俺が声をかけてあげたのに」
生暖かい吐息が耳にかかって、ぞわぞわと鳥肌が立つ。蹴り飛ばしてやろうと脚に力を込めた瞬間、男はさらに強い力で身体を拘束し、僕の項に容赦なく牙を立てた。
「あ、ぐぅ、ッ……⁉」
鋭い痛みが走るも、叫び声をあげることはできず、両脚からがくんと力が抜ける。項は殆どの生き物にとって急所であるが、獣人はここを噛まれると身体の力が抜けてしまうのだ。そのままずるずると引きずられ、更に暗い木の根元へと押し込まれる。
「(いやだ、よしてくれ!)」
叫びたいのに、項を咬まれ続けていると喉にすら力が入らない。そのまま地面に押さえつけられ、じわりと涙が滲んだ。虎の獣人はいったん項を噛むのをやめたものの、今度は真後ろから覆いかぶさって全身を拘束してくる。
「(痛い、苦しい……!)」
強く掴まれた腕や肩には彼の爪が食い込んで、ズキズキと痛みが走った。丈夫で鋭い爪は獲物を狩るために最適化されたものであり、男がやろうと思えば今すぐ喉を割くことも容易い。肉食獣人が受け継ぐ捕食者の血は本当に恐ろしいものだ。
「(肉食獣人の爪って、こんなに鋭いものなのか?)」
アルハイゼンも同じ肉食獣人だというのに、彼の爪が僕を傷つけたことは一度もない。たまに手足の爪を切っている姿は見かけたけれど、短くするだけでなく、爪先をやすりで丸く整えていた。今思えば、あれは僕への配慮だったのだろう。ならず者に襲われてはじめて、共に過ごしてきた男がどれだけよくできた人間だったのかを思い知らされた。
「そんなに抵抗しなくても。気持ちいいことをするだけなのに」
暴力を振るっているくせに、虎の獣人は声色だけは甘ったるくて、余計に気持ち悪い。ぶんぶんと首を振ると、彼はついに本性を現したのか、チッと露骨に舌打ちをした。
「子作りが取り柄の兎のくせに、大人しく胎を差し出せばいいものを!」
「……⁉」
肉食獣人が草食獣人を襲う場合、単純に力でわからせて優越感に浸ることもあるが、たいていは交尾の相手―番や妾にするための既成事実作りが目的だ。当然犯罪にあたるのだが、力の差に怯えて逆らえず、そのまま従ってしまう草食獣人は多い。相手もそのつもりのようで、背中に劣情の塊がごりごりと押し付けられている。
「ゃ、だ……はなせ……!」
「はは、可哀想。いい子にしてたら、ちゃんと養ってあげますからね」
やっとのことで絞り出した声はあまりにも弱弱しく、むしろ捕食者を喜ばせるスパイスでしかなかった。兎の獣人とはいえ一人の雄だというのに、なすすべなく犯されそうになっている自分が情けない。
「(いやだ、どうせ食べられるならアルハイゼンがいい……どうして、こんな知らないやつなんかに!)」
番でもない相手に助けを求める資格はないし、想いを告げてすらいない。それでも、頭の中でアルハイゼンの名を呼び続けてしまう。いっそ、一晩だけ情けをくれと懇願したら彼は応えてくれただろうか……などと浅ましい考えまで過った。
「(そんなわけない。あいつが低俗な雄だったら、僕は家に招かれたあの夜に襲われてるんだ)」
性欲を匂わせないのは当然のこと、アルハイゼンはユキヒョウの獣人としての力を振りかざそうとする気配すら見せなかった。肉食獣人と草食獣人ではなく、対等な人間同士として過ごしてきたのがどれだけ尊いことだったのか。貞操を奪われそうになってようやく気が付いた。
「いたぞ!」
暗闇の中必死でもがいていたとき、突如背後から全く別の声が響く。続けて、何かを殴打するかのような鈍い音が鳴った。声につられて顔を上げたとき、ふっと身体の拘束が緩む。草を掻き分け、さらに複数の足音がこちらに近づいてくるのがわかった。声の主は虎の獣人を蹴り飛ばし、僕の身体から引きはがした。
「カーヴェさん、大丈夫ですか。あんた、パートナーはどうしたんだ……!」
「ぱ、ぱーとなー?」
暗闇の中、集まってきたのは酒場の常連客たちで、顔ぶれを見たら、一緒に飲んだことのある人もいる。
「ランバドさんから、心配だから見てきてくれって頼まれたんだ」
「マハマトラには通報しておくから、早く番のとこに帰んな!」
「へ、あ……つがい?」
「いつも一緒に飲んでる兄ちゃんが居ただろ」
酒場でいつも一緒にいた人物といえば、一人しかいない。どうして番と間違われたのか首を傾げたが、疑問を口にする前に背中を叩かれた。
「なにぼーっとしてるんだ。不意打ちには成功したが、こいつが起きたら俺たちだけで抑えられるかわからない。早く行った!」
強い口調に、言われるがまま家へと続く道を走る。
「(何が起こってるんだ。酒場の獣人みんなが僕を狙ってたって、嘘だよな……?)」
走っている最中も疑問は尽きない。番なんて居ないのに、とか、凶暴な虎の獣人相手にさっきの人たちだけで大なのかとか。けれど、うっかり立ち止まったら、また後ろから音もなく捕らえられるような気がして、振り返ることはできなかった。坂道を登り切り、見慣れた扉の鍵を開ける。すぐさま鍵を閉め直し、家の空気を吸い込んだ瞬間、どっと汗が溢れた。
「……たすかった」
明かりがついていないことから、家主は既に寝ているらしい。時計を見れば、時刻は既に午前一時をまわっている。今日のことがばれたら怒られるかもしれないが、今はただこの場所にたどり着けたことに安堵していた。
「(僕は襲われて……犯されかけたのか)」
音もなく腕を掴まれる感覚。首を咬まれたときの痛み。成すすべなく地面に押さえつけられる恐怖。改めて自分の身に起きたことを自覚し、震えと共に痛みがぶり返す。咬まれた項のほか、拘束された腕や肩首にはくっきりと爪痕が残り、血が滲んでいた。
深く息を吸うも、身体にはまだあの男の臭いがこびりついていて、反射的にえずいてしまった。おぼつかない足取りで浴室に駆け込み、冷たいままのシャワーを浴びる。触られた時間は短くとも、嫌悪感が全身にこびりついて離れない。
「(きもちわるい。あんな粗暴な奴がいるなんて知らなかった……!)」
相手への怒りに加え、自らの不甲斐なさで涙が溢れる。皮膚が擦れるのも構わずガシガシと全身を掻きむしった。
「どうして今日酒場に居た獣人たいはろくでなしばっかりだったんだろう。シティの治安が悪くなってるとか? いや、今日はもう思い出すのはやめよう」
身体を洗い流し、首を振る。時計を見ると既に深夜の二時。もっと早く帰っていれば襲われるまでは至らなかったし、アルハイゼンと楽しく飲み直せたかもしれないのに……などと考えても後の祭りだ。
寝巻に着替え、いつもの発情抑制剤を流し込んでからテーブルランプの明かりを落とした。今日はもう何もかも忘れて眠ってしまいたい。だが気持ちとは裏腹に、暗闇が寝室を包んだ途端、身体がすくむ。襲われたショックというのはそう簡単に消えるものではなく、静かな暗闇は想像以上に心に爪痕を残していた。
「(何を怖がってるんだ。ここは僕の部屋じゃないか、襲われるわけないのに)」
暗がりから手が伸びてくるかもしれない。寝ている間に誰かが音もなく忍び込んできたら? もう大丈夫だと頭ではわかっているのに、恐怖が足元から這い上がってくる。安寧をもたらすはずの暗闇が酷くおぞましいものに感じた。
「アルハイゼン……」
怯える中、浮かんだのはやはりルームメイトの名前だった。彼は決して僕を襲ったりしない。あんなに身体が大きくて力も強いのに、その力を振るう機会といったら、固くしまった瓶のふたを開けるときくらいだ。あとは、バザールでたくさん買い込んだときの荷物を持つときとか。アルハイゼンの力は恐怖ではなく、安心の象徴。共寝をするときも無理矢理拘束するのではなく、ふわふわの尻尾を巻き付けて背中に優しく手を添えてくれる。寝苦しい、なんて文句を言ったこともあったけれど、今はただ彼の温度が恋しくてたまらない。
「うう……!」
自室を飛び出し、ぺたぺたと裸足のまま廊下を進む。アルハイゼンの寝室の前にたどり着くと、迷いなく扉を開けた。彼が眠っているかどうか確認することもなく、盛り上がった毛布に身体を滑り込ませる。投げ出された腕の間に潜り込み、彼の胸板に鼻先を擦りつけた。深く呼吸をすると、嗅ぎなれた彼の匂いが鼻腔いっぱいに広がっていく。森のように深みがあって、少しだけスモーキーな香り。求めていた温度を感じ、目尻から零れた涙がシーツにシミを作った。あんなに共寝を控えていたのに、結局自分から縋ってしまった。けれど今この瞬間安心するには彼に身体を預ける方法以外考えられない。
「いやだ、きみがいい……」
襲われているとき、どうせ食べられるなら……なんて思ったけれど、今は違う。どうせじゃなくて、アルハイゼンが良い。彼にしか許したくない。いっそいますぐ襲って、塗り替えて欲しい。僕を逃がしてくれた酒場の人たちはパートナーのところへ行けと言っていたけれど、アルハイゼンが本当に番だったら、こんな怖い思いをすることも無かった。
「僕の身体なんか好きにしていいから、今だけは此処に居させてくれ」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、意識は温かい闇の中に落ちて行った。その身体を抱き寄せる男が、暗闇の中でしっかりと目を開けていたことに気づくこともなく。
首にかかる熱い吐息で意識が覚醒する。ざりざりとした何かが項を舐めていた。項を舐られるたび、下腹部がじゅん、と疼く。
「ぁう♡」
何もわからないのに、身体に引っ張られて声が甘くうわずった。手足を動かそうとするも、重いというか、固定されているというか、とにかく自由が利かない。
「……ん、ぅ?」
なぜだろう、似たような状況でとても怖い思いをした気がする。けれど、今は恐怖を感じるどころか蕩けるような心地よさに包まれていた。暗闇の中、深く呼吸をすると、馴染みのある寝具の匂いがした。バザールで一緒に選んだウールの毛布。そうだ、昨日洗濯をして干したばかりだからふかふかなのだ。
「(こんなに触り心地が良くなるんだから、アルハイゼンも渋らずに洗濯に出してくれたらいいのに……)」
毛布を被ってごねていたルームメイトの姿が頭に浮かぶ。ああ見えて彼はクッションや毛布の品質にうるさくて、お気に入りのものが洗濯で使えなくなるのを嫌がるのだ。だから毎回僕が寝室から無理やり毛布を回収する羽目になる。
「(ああ……そうだった、ここは僕とアルハイゼンの家で―)」
まどろみぼやけていた意識が一瞬で形になる。
自分が今どこにいるのか、今のこの身体を抱き込んでいるのは誰なのか。この寝床に潜り込むまで何があったのかを全てを思い出した。
「ぇ、あ……? あぅはい、ぜ……ん、っ♡」
再度項を甘嚙みされ、甘い痺れが全身を駆け巡る。声に反応したのか、ふいに首への刺激が止まる。
「カーヴェ」
低く囁く彼の唇が兎耳に軽く触れた。そのまま耳を甘嚙みされ、全身が粟立つ。
「なっ、なんで」
「……それを君が言うのか?」
とにかく状況を把握しようとして薄暗い部屋の中を見渡す。すると、ちょうど視線の先のサイドテーブルによく知っている薬―発情抑制剤の小瓶が置かれていた。だが、よく見るとラベルが異なる。これは自分が飲んでいるものよりも成分量が多い、強い薬だ。こっそり飲んでいた薬がばれたのかと思ったが、状況はもっとややこしいようだ。
「このくすり、ぼくのじゃ、ない……」
「ああ、これは俺に処方されたものだ」
「っ⁉ なんで、きみが」
驚いて身体を動かすと、それを抑えるように腕の力が強まる。
「……あまり動くな。俺はまだ薬が効いてない。君が逃げようとする素振りを見せれば、衝動的に何をしでかすかわからない」
フーッ、と熱の籠った吐息が肌を掠める。欲と本能を孕んだそれは彼に最も似つかわしくない姿でありながら、確かにここに存在していた。
「(この薬はアルハイゼンのもの? 僕のことを襲うのを堪えてるのか? そもそも、どうして君が発情抑制薬なんか持っているんだ……)」
状況が分からず困惑する僕の心境を察したのか、アルハイゼンは薄闇の中、ゆっくりと口を開いた。
「数年前……君をこの家に迎えて半年ほどのことだ。原因不明の怠さでビマリスタンを受診したら、医者から発情期が訪れかけていると診断された」
「はつじょう……きみ、が?」
発情期が訪れる条件は基本的にどの獣人も同じだ。大切なパートナーが居ること。そして、その相手と子作りをしたいという本能によって身体にスイッチが入る。つまり、彼はずっと前から―
「きみ、僕のこと、好っ……いや待て。どうして、ずっと僕に隠して……!」
「当たり前だろう。関係が拗れるのは目に見えている。下手をすれば、君は自ら身体を差し出そうとしたかもしれない」
「そんなこと……」
ない、と言えないどころか、彼の発言はまっすぐ僕の痛いところに突き刺さる。今でこそ自分の精神状態を顧みられるようになったけれど、同居初期の不安定さは酷いものだった。あの頃の僕なら、家を間借りしている後ろめたさから、彼の欲を満たす手伝いを申し出たかもしれない。もしくは、行き先も決めぬまま、家を飛び出そうとするとか。
「ただでさえ君は、色恋沙汰が不得意だっただろう」
「ううっ……」
かつて家庭を壊してしまった経験から、自分が誰かと一緒に幸せになるなんて考えられず……結果、今まで一度も恋人が居たことがない。色恋に関するやりとりが僕の重荷となることを、アルハイゼンはよくわかっていたのだ。
「だからって、ずっと我慢してたのか? 僕が変に気を遣ったり、罪悪感を抱かないように?」
「…………」
長い沈黙は肯定の証。アルハイゼンは僕の身体を抱き寄せながら、ふうっと深く息を吐く。
「俺は医者からこう言われた。俺の発情期は庇護欲に由来するものだと。そして庇護欲が強い場合、スキンシップやコミュニケーションを増やし安心感を得ることで、性的接触を伴わずとも発情が落ち着く可能性がある、とな。だから俺は服薬を続けながら、常識的な範囲で君との接触を試みることにした」
「スキンシップって、たまに共寝をするくらいの簡単なものしか……」
今でこそ口論は減ったが、同居して半年といえば頻繫に言い争っていて、そのたびに「出て行ってやる!」と啖呵を切っていた。君と話すのは嫌いだとはっきり言ったこともある。どう甘く見積もっても、アルハイゼンが安心できる環境ではなかった。彼に多大なストレスがかかっていたことは想像に難くなく、それでも服薬と自制心だけでやり過ごしたのだ。理性を尊ぶ彼のことだから、本能に振り回されるのを嫌うのはわかる。それでも、ここまで我慢と苦労をして、僕との共同生活を続ける価値があったのだろうか?
「君が口論の末に家出を口にする機会が減ってからは、薬に頼る機会も減っていた。寒いときや酒に酔ったとき、君自ら俺の寝床に潜り込んで来ることもあっただろう。肉食獣人の寝床でぐっすり眠れる程度に信頼を得られているのなら、俺は満足だったんだが……」
ギリ、と奥歯を咬む音が聞こえた。
「君は急に俺を避けるようになり、共寝を断るようになった。そのくせ、出かける度に余所者の匂いをつけて帰ってくる。ようやく俺の寝床に戻ってきたと思えば……フェロモンをまき散らし、どこの馬の骨とも知れぬ輩に手を出されてくるとは!」
「フェロモン、っ⁉ そんな、僕はちゃんと薬を」
「抑え切れていなかったから、こういうことになったんだろう?」
つうっと項を引っ掻かれ、ぴりりと痛みが走る。アルハイゼンはとても賢いから、僕の身体の傷や、微かに残った臭いで察されてしまったのだろう。
「数か月前から、君が同じ薬を飲みはじめたことは知っている。事情を口にしない限り、俺からそれに触れるつもりはなかった」
「……!」
僕が日常的に接する肉食獣人はアルハイゼンしかいない。誰に触発された発情なのか察するのは容易かっただろう。僕の気持ちを察していたなら強引に迫っても良かったのに。それをしなかった事実がアルハイゼンという男の在り方を示していた。
「薬が切れかかっているとき微弱なフェロモンが漏れているのは気になったが……酒場を避け、自衛の意思を見せていたなら、それで十分だと思っていた。だが、どうやら俺の判断は甘かったらしいな」
いつぞや、猫の臭いに怒った彼が「危機感を持て」と言っていたのを思い出した。あのとき彼は、僕の薬が切れかかった際フェロモンが漏れていることを察していたのだろう。あの台詞はつまり、ビマリスタンに行って強い薬を貰うなり、自衛をするなり、身を守ることを徹底しろというお説教だったのだ。
「っ、すまない……完全な発条状態になるまで、フェロモンは出ないと思ってたんだ……」
「条件は種族や体質にもよるだろうが、少なくとも君のフェロモンはとてもわかりやすかったよ」
何の警戒もなく他の獣人と触れ合う僕の行動は、アルハイゼンにとって非常に危うく映っていたのだろう。おまけに、僕は彼との触れ合いを意図的に避けていた。安心感を得られない状態で他所の獣の匂いをまき散らされるなんて、どれほどの苦痛だっただろうか。
「それで、君は何を思って俺の寝床に入ってきた? 肉食獣人の恐ろしさは、その身をもって知ったはずだ」
「それは……」
「俺の発情の原因は君だ。君に余所者の臭いがついているのは許せないし、襲われたとなれば俺で上書きしてやりたいという衝動に駆られる。上書き、の意味を一から説明しなければならないほど疎くはないだろう?」
上書き、即ち自分の匂いでマーキングし直すこと。獣人にとって、最も強いマーキング行為は交尾である。身体を重ね、直接精を注ぐことで誰がパートナーなのかを本人にはっきりと自覚させる。そして、周囲に番の存在を知らしめ、手を出されないように警告する役目を持つのだった。交尾によるマーキングは、多少匂いをつける程度とは比べ物にならないほど絶大な効果を発揮する。だからこそ、邪な肉食獣人はこぞって相手の身体を奪いにくるのだが。
「もう少しすれば薬が効いてくる。そうしたら、君はここから離れて―」
「いやだ」
ぽつりと、けれど言葉の輪郭はくっきりとしていた。真後ろから聞こえる不規則な吐息には、彼の混乱と焦りが垣間見える。
「……カーヴェ、犯されたくなければ言う通りにしてくれ。君は俺を暴漢にしたいのか?」
低く、押し殺すような言葉には明確な怒気がこもっていた。無自覚に彼を追い詰めたことは謝らなければならないが、今はここを離れたくない。
「何を思って寝床に入ってきたのか、って聞いたよな。君と一緒に居たいと思ったからだ」
「何度言えばわかる。ここは君にとって安全な場所じゃない。ここに居るのは君を襲ったのと変わらない、劣情に溺れた肉食獣人の雄だ」
らしくもなく、自分を卑下するようなことを言う。彼が本当に劣情に溺れていたら、僕はとっくに犯されているというのに。彼の腕の中、思い切り力を込めて身体を捻り、互いに向き合う姿勢を取った。ようやく拝めた彼の顔は酷く憔悴していて、唇には血が滲んでいる。僕の項に思い切り咬みつきたいという衝動を何度も何度も堪えたのだろう。
「上書きして欲しいって言ったら……君は僕のこと食べてくれるのか?」
「……ッ⁉」
目の前で、朱色の混じった瞳孔が開く。彼は息を吞み、ぶるりと身体を震わせて、首を横に振った。
「怖い思いをしたからこそ、君に塗り替えて欲しい」
「っ……カーヴェ、今の君は襲われた恐怖で混乱している。むやみに身体を捧げるべきでは―」
「いくじなし」
想定外の言葉だったのか、アルハイゼンは、今度は困ったように眉を下げた。本当に珍しい、口論で気圧されているときの顔だ。
「君が僕のこと好きだって、そんな素振り一度も見せたことがなかったから……僕は今の生活を壊したくなくて、必死で隠していたのに。全部知ってた君がだんまりなんて、酷いじゃないか」
じわじわと身体の熱が増していく。本能的に、これが完全な発情状態になる前触れだと察した。だが、これでいい。むしろ、その強靭すぎる理性を崩してくれるなら好都合だ。
「カーヴェ、これが最後の警告だ。君の味を知ったが最後、俺は止まれる自信がない。お互い正しく服薬を続ければ、今まで通りの生活ができるはずだ」
僕はとっくに覚悟を決めているというのに、アルハイゼンは苦悶の表情を浮かべ、必死に説得しようとする。君はそれでいいのかとか、根本的な解決じゃないとか、ここまでしておいて今まで通りなんて無理だとか……言いたいことが頭の中でうず高く積みあがっている。このまま会話を続けるよりも、今は行動で示すべきだと思った。
「……えい」
伝えたい気持ちを全部込めて、彼の鼻先にかぷっと嚙みつく。甘嚙みは獣人に共通する愛情を示す行動であり、僕の方からしたということは明確なお誘いを意味する。ごく、と彼の喉仏が動くのを視認したとき、アルハイゼンはついに行動に出た。彼は身体を起こすと僕の真上に跨り、両手を拘束する。フーッと深く息を吐く彼の表情はどこか恍惚としていて、たった今僕が獲物となったことを理解した。
「……君は俺の再三の忠告を無視して、自ら境界線を踏み越えたな」
左手で僕の腕を捉えたまま、もう片方の手が寝間着の上を滑り、ぺらりと薄い布を捲る。なまめかしい手つきで僕の肌に触れ、へその下を軽く撫でていった。
「ひ……っ」
発情の気配を感じたとき、いつも疼く場所。アルハイゼンは僕を見下ろしたまま、ぺろりと唇を舐める。その仕草が扇情的で、食われる寸前であるというのにじっくりと見入ってしまった。
「フェロモンが出るということは、もう身体は準備ができているんだろう」
アルハイゼンは僕の下腹部を撫で続ける。その様子は獲物に狙いを定めているように見えた。
「望み通り、胎(ここ)を暴かせてもらう」
彼の指先が、とん、と子宮の上を叩く。それが交尾の始まりだった。