不凍港(仮題) -4 壁に背を預けていたタルタリヤが、ふいに顔をあげて、ドアに目をやった。
「来たみたいだよ」
あれからしばらく、沈黙と夕日ばかりが部屋に満ちていたので、それは静まり返った部屋に響いたひさしぶりの声だった。だからなのか、蛍は一瞬その意味を理解できずに、タルタリヤの顔をまっすぐに見返してしまった。これ、どこの世界の言葉だっけ? 数秒遅れて蛍の頭は猛回転し、意味を理解するやいなや、隣で眠るパイモンにばね仕掛けのおもちゃみたいに飛びついた。
「パイモン、起きて!」
「ん~…なんだよ~…オイラいまお肉ツミツミの二段目に……」
「こっちにはスライムシェイクが!」
「なんだってぇ!」
たちまち飛び起きたパイモンが、珍妙な飲み物を探して顔を動かそうとするのを、蛍は両手でがっしり捕まえた。口はしのよだれをハンカチでぐいぐいと拭う。
まだ寝ぼけまなこのパイモンは状況を理解できずにされるがままでいたが、蛍がパイモンの衣服を整える段になって、ようやくぱちりと宇宙の瞳をみひらいた。人前で子供のように扱われたことに今更ながらに気づいたらしく、顔を赤らめ、抗議をあげようと息を吸い込んで、小さな背中をそらしたちょうどそのとき。
こんこん!
軽やかなノックの音が部屋に響きわたり、パイモンの吸った息は行き先を見失い、穴のあいた風船みたいにしゅるしゅると出ていった。
「ねえ、スライムって食べられるのかい? 美味しかったりする?」
いつのまにか蛍のとなりまでやってきたタルタリヤが、のんきな意見を述べる。
「どうぞ!」
蛍はすべてを無視して声を上げ、さっと立ち上がった。まもなく使用人が開けたドアから、モンド風の衣服に身を包んだ壮年の男性が姿を現す。
「大変お待たせしてしまって申し訳ない。王献臣です」
拱手の礼をされたので、蛍も手を組み替えてそれを返す。パイモンも知らない古めかしい璃月の礼儀作法を、食事のついでに諳んじたどこぞの客卿先生に、蛍は折に触れて助けられている。
「蛍です。お忙しいところをすみません」
「いやいや、それはこちらのセリフですよ。モンドだけでなく璃月にも足を伸ばしていらっしゃると風の噂に伺っていますし、」王献臣は、ちらりとタルタリヤに視線を流して続けた。「雪国にも伝がおありとなれば、わたしには想像の及ばない忙しさでしょう」
「オ、オイラはパイモン! で、こちらは今回の依頼人だ!」
パイモンが上ずった声で、半ば言葉を奪うように無理矢理口を挟んだ。パイモン、えらい! 蛍はそれを天の助けと畳み掛ける。
「私的な《・・・》友人のために、絵を探しているんです」
王献臣に、というよりは、隣で得体のしれない笑みを浮かべるタルタリヤに向けて、蛍は明快なアクセントをつけた。タルタリヤは余計な問題を起こすわけではないのだけど、なにをしでかすかわからないところがある。それは璃月の一件で痛いほど身に染みている蛍だった。タルタリヤは蛍の醸し出す圧力を横目でちらりと受け流して、言葉を続ける。
「驚かせてしまって申し訳ない。お察しの通り、俺が名乗ることの不利益のほうがあなたには大きいと思う。失礼で申し訳ないけど、謎の依頼人ぐらいに考えてくれると嬉しいな」
「……なるほど、なるほど」王献臣は深く頷いて、ふと気づいたように声を上げた。「いや、わたしとしたことが申し訳ない。どうぞお掛けになってください。……ああ、きみ、茶を新しく持ってきてもらえるか」
心臓に悪い。
しずしずと使用人が部屋を辞するのを横目に、蛍とパイモンは乾いた笑いを浮かべて、再びソファに腰を落ち着けた。タルタリヤもそれに倣って座りながらも、こちらはさわやかな青年らしい笑みを浮かべている。王献臣も同じように、愛想の良い笑みを絶やさない。
「なあ、蛍ぅ」
パイモンが思わずこぼした泣き言に蛍は心の底から同調したかったし、なんなら今すぐ壺の中に飛び込んで私室のベッドに顔を埋めたかったが、なんとか飲み込んで本題を続ける。
「話を戻しますね。探している絵が少し特殊なので困っていたんですけど、王献臣さんの噂を耳にして」
「私のコレクションがお役に立てるのならば。で、具体的には?」
「虎になった人間が描いた、と言われている絵です」
とたん、王献臣の顔からすっと力が抜けて、蛍はぎょっとする。狡猾な商人の仮面が外れて、疲弊した璃月人の、驚くほど老けた顔が見えた。蛍はこのような人間の顔を、以前にも見たことがある。戦争で子と孫を一度に失った老人。人生の重みに、打ちのめされた人間の顔だった。
肩を強張らせた蛍とは対照的に、王献臣は全身から力が抜けていた。なるほど、と誰に聞かせるまでもない声が繰り返される。誰に聞かせるまでもない声と、しばしの沈黙。
「そう呼ばれそうな絵は、確かに、ひとつあります」
王献臣は重い息をつき、億劫さを隠さずに、それだけ応えた。それはいとけなさすら感じる、あからさまな態度だった。深くを聞いてくれるな、という演技でもあり、真逆の期待が込められている。
その要請を無視して、蛍はそうですかと流せばよかった。しかし、口からは真逆の言葉が滑り出た。
「何かあったんですか?」
タルタリヤの視線が、蛍の横顔に刺さる。意外だねと雄弁に語るそれを蛍は無視した。
「少し長くなりますが、構わないですか?」
王献臣の言葉に、蛍は頷く。もう散々待ったのだ、いまさら数時間延びたところで変わらないだろう。
「『詩書画三絶』という言葉をご存知ですか」
「いえ、不勉強ですみません」
「いやいや、若者が知らなくても無理はない。少々古い考えですから」
またドアが開き、新しい茶器が運ばれてきた。そのふくよかな芳香が部屋に溢れ、璃月へと時を押し流して行く。郷愁を浮かべた虚空をみつめて、王献臣は語り始めた。