チープ・スリル(仮題)- 6 蝉時雨が降っている。
日差しは背の高い新緑の木々に遮られて、木漏れ日だけが行く先々に落ちていた。暑い。肌が汗で湿り、こめかみを伝っていくのを腕で拭う。
KKは小川をたどる、より山の深くへと、源流へとさかのぼっていく。スニーカー越しの足元を濡らすせせらぎが、ひんやりと冷気を脚につたえていた。すべる足元を踏ん張って、山の奥へと割り入る。熊笹が風に揺れて、ときおり、ざざん、ざん、とこだました。
亡き祖父と駆けた夏の庭、あの裏山だ、とKKは思う。思いながらも足を止めない。ひたすらに、好奇心の赴くままに奥へ。苔むした岩陰をアマガエルが跳ねていた。ああ、あの池が近い、河童池だ。
そうだ、あの小説の――《僕は滑かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに転げ落ちました》――どこかに穴が、河童の国へつながる闇があるのだろうか。
こころが跳ねる。くびの付け根がうずうずした。なつかしい、なにか叫び出したいような気持ちに任せて、口を開く。
暁人、と声を上げた。
まだ幼い己の声が、彼の名を呼ぶ。
河童がいるぞ、暁人。
* * *
奇妙な夢を見ていた気がする。
KKがふっと気づくと、そこは意識を失う前となにも変わってはいなかった。すなわち、新聞紙で目張りされて昼も夜もないアジト、輝くディスプレイの前に座るエド。KKはディスプレイの右下の時刻表示を覗き込んで、時の経過を知った。暁人は大学の講義でも受けている時間帯だろうか。
「おい、エド」
KKはエドの顔の横で、ひらひら《・・・・》しながら声を掛けた。エドはKKのほうをチラリと見ると、またすぐにディスプレイに視線を戻す。聞いているから続けろ、とのことだ。
「暁人に対する優しさのカケラでも、オレに恵んで欲しいもんだ」
KKは毒づいたが、顔を動かさないエドの口端が少々あがっているのを見つけて閉口した。凄みなどかけらもないことは分かっている。なにせ、いまKKが魂を移しているのは、白くてひらひらとした形代だったから。
荒事に慣れないエドが振りかぶる巨大な鋏は、暁人とKKに初めて感じるたぐいの恐怖を与えたが、ふたりはなんとか分離と相成った。どことなくよれっとした暁人は、あしたは大学に顔を出してから来ると言い残して、リビングの扉を開けて出ていこうとする。その後ろ姿に声をあげようとして、KKは言葉を見失った。大丈夫か、じゃない。ついて行くか、もおかしい。結局、KKは「おう」だか「ああ」だか煮え切らない返事をして、エドはなんだか残念ないきものを見る目をKKに投げかけた。
さて、KKはアジトにふわふわと漂うことになった。マレビトに四方八方から襲われたときのことを思い出して、さすがにぞっとしない。どうにかならないかと言ったら、これである。エドは問答無用でKKをこの形代に吸い込み、これならある程度自律的に動けるだろう、とさらりと返した。あたりまえのことながら抗議すると、エドはまじまじと形代のすがたのKKをみて、ふむと顎に手をやり、ポチリとレコーダーのボタンを押した。
『ジャパニーズアニメーションのマスコットみたいでいいんじゃないか?』
きっと、オレがいまなにをしても滑稽きわまりないんだろうよ、クソ。KKは頭をガシガシと掻いて――これもハタから見れば形代の姿かと思ったら憤死しそうだが――ふと行方の見えない一名の姿に気づいた。
「おい、デイルは?」
エドはKKのほうに顔もやらずに、ボイスレコーダーの再生ボタンを押し、机の上に置いて立ち上がった。空のマグカップを持って、キッチンへ向かって歩き去っていく。ボイスレコーダーとふたりその場に残されたKKは、オマエも置いてけぼりだな、と喋りだした鈍い銀色の機械をみやる。
『彼、最近風邪気味だったろう。日本の習慣ではネギを首に巻くらしいと言い出してスーパーに行ったよ。あれ本当かい?』
「少なくともオレはやったことねえよ』
まったく、安心するぐらいに変わらねえやつらだよ、本当に。
KKはため息をつきながら、並んだディスプレイを見渡す。意味の分からないプログラムやらSNSやらが並んでいるものがほとんどだが、いくつかはKKにも見覚えのある情報が表示されていた。般若の活動領域や足跡を表した地図。そして、地図に浮かぶ顔には大きなバツマークがつけられていた。いつかこの地図もディスプレイから消えて、新たな情報が表示される日が来るのだろう。
なみなみとコーヒーが注がれたマグカップを持って、エドが戻ってくる。KKは何気なさを装って声を掛けた。
「なあ、頼みたいことがあるんだが」
エドはチェアに再び腰を落ち着けると、やや意外そうな顔を浮かべて、顎で続きを促した。KKにはエドの考えていることが手にとるようにわかる。我らがチームの一匹狼が正面切って頼み事か。人物プロファイルをまた修正する必要がありそうだな、といったところだろう。憎たらしいが、背に腹は変えられない。KKは不本意ながら続けた。
「暁人の身体について、調べらんねぇか」
『具体的には?』
「病院で精密検査だな。いまはピンシャンしてるように見えるが、オレが入り込めたってことは死にかけてたんだ。調べるに越したことはねえ」
エドは黙って頷いた。キーボードを引き寄せると、病院の外来予約ページを開いて、門外漢のKKからみても正常な手続きとは思えない操作をなにやらしているが、まあ、いいだろう。カタカタカタ、とキーボードを叩く音だけがしばらくその場に響いた。
こうなると、KKとしては手持ち無沙汰になる。いまこの身体では本をめくることすらできやしない。もっと便利な身体の代わりになるものはないのか、タブレット端末とやらは使えないのか? と思いを巡らせかけて、バカか、と自嘲した。死者がこのさきを考えてどうする。
しばらくして作業が一段落したのか、エドは身体を背もたれに預けた。腕組みをしかけて、ああ、と思い出したように、ふたたびボイスレコーダーの再生ボタンを押す。
『君は自分の状態に気を配ったほうがいいと思う。凛子は未練が消えて逝った。君も般若を倒すことで、妻子を守るという目的は達成されたはずだ。報告では濁されていたが、なにかあったんだろう?』
KKは押し黙る。自分から言っていいことではないと思ったし、暁人だけに背負わせるのもフェアではないとわかっていた。
あのとき、現世へと戻る石段を登りながら、KKは死神の足音を聞いていた。不思議と、それは恐ろしいものではなく、慕わしくなつかしい。あるべきものがあるべきところへ帰るだけだと、わかっていたからだろう。その自然な流れに身を委ねればよかった。それが正解だったはずだ。
だけど、暁人の震える声を聞いて、KKは現世にしがみついてしまった。まだいいだろ、と死神の手を振り切って、代わりに暁人の手を取った。
暁人には、どんなときでも前を向いて走り出せる力がある。短い付き合いだが、それを信じるに足るだけのものを超えてきた。でも、すこし、失うものが多すぎた。KKだって、妻と子供が離れていったときは腐っていた自覚がある。
大の大人でも弱りそうなときだ。誰かそばにいてやっても悪くはない。そう自分に言い訳をして、自分のためではないという大義名分を得て、KKは『もうすこし』を引き伸ばしていた。
「……アイツがまた、しゃんと立てるまでは、面倒見ても悪くねえと思ってるだけだよ」
その狡さには自覚がある。だからKKは焦点のズレた回答と分かっていても、そう続けることしかできなかった。しかしエドはそれを許さずに、重い口を開いた。
「それで? 僕に暁人くんを売り込んで、君はどうするんだ。暁人くんがもう大丈夫だと言ったら大人しく成仏するのか?」
息をつかずに、闊達さすら感じるエドの早口は、KKを追い込む勢いがあった。その場に沈黙が落ちて、パソコンのファンの音だけが響く。
しばらくの空白が続いて、エドはふかく嘆息した。やっぱりそうなるか、という諦めの声。ご都合主義の爆発も、都合よく全てを救うスーパーヒーローも現れずに、物語をたたむしんみりしたシーンが始まってしまったときの声だった。あーあ。想像通りだよ、面白くないね。
それからエドはレコーダーの再生ボタンを押して、チェアに身体をだらしなく預け、目を閉じた。レコーダーの再生する、エドの声だけがその場に響く。
『理解に苦しむね。僕からしたら、どんな形であるにせよ現世に引っかかっているなんて喜ばしいことだ。研究だって永遠に続けられそうだし、願ったり叶ったりだよ』
KKは叫びだしたかった。おい、オレは死んでるんだぜ。死者は灰に帰るべきだ。肉体だって自分の手で切り捨てたんだ、あの決意はどうするんだよ。
だけど、結局未練を残して、みっともなくこの世にとどまっている。もう少しだけだ。あとすこし、だれか、アイツとこの先も生きていける誰かに、この手を引き渡すまでは。
それがKKの出した正しい答えだ。胸をちくりと刺す痛みに目をそむけた、今取れる最善の手。
エドはだまりこくったKKを、矯めつ眇めつ眺めた。興味深い対象をみる研究者の目で、その反応をじっと観察したのちに、再びボイスレコーダーの再生ボタンを押した。
『大人は大変だねえ。いろいろ言い訳が必要で』
「……クソっ」