献杯日下部の元気がない。というものの、いつも通り朝に食堂で顔を合わせ「おはようさん」といつも通りの挨拶を交わし、いつも通り朝食を食べたのだが。任務の話を振れば「飯食ってる時に仕事の話すんなよ」「まだ勤務時間じゃねえんだ」と軽口を叩いていた。これもいつも通りなのだが、言葉や仕草の端々に違和感があった。無理をして気を張っている、気落ちしないよう注意深く『いつも通り』を装っている…あくまで予測だが、そんな風に感じた。
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日も傾き始め、こちらは任務を終えたところ、あちらは一通り今日の授業を終えたところだろうか。今日もきっと熱心な虎杖や真希君に体術の相手をしろだの追いかけられているだろうな…そうあってほしい。そう思いながら一言二言メッセージを送信した。これで20、30分も経てば流石に面倒臭がりの日下部でも返信してくるだろう。ひとまずスマホをポケットに戻し、本校舎の職員室に報告書を渡しに行く。
「ああ伊地知君ちょうど良かった、こちらも探していたんだ、今日の任務の報告書を渡したくてな。何かあったらすぐ訂正するから、メールでもなんでもいい連絡をもらえると助かる」
「ははっ日車さんの報告書が間違ってる事は殆どありませんし、そんな急ぎませんから大丈夫ですよ。今日はもう自室に戻って休んで下さい」
「そうかわかった」
「あっと…すみませんそういえば、この前討伐した呪霊の数と等級なんですが…」
「ああ、すまない。呪霊の分類がどのような規則性に則ったものかわからなかったからこちらの感じたままに振り分けさせてもらった」
対応したのは人語を理解して人語を発する呪霊だった。言葉遣いは幼児のそれだが、知性があり行動力が強そうな呪霊だった。向こうが延々と話しかけてくるがそれは身のない片言ばかりでうんざりして埒が開かないと領域を展開させようとも思ったが、対象の言語の不明確さや語彙の幼さもあって対話は難しいだろう…と結局ガベルで叩き潰すという至ってシンプルな方法で討伐したのだった。
「3級相当を一体…との事ですが…」
伊地知が険しい顔で冷や汗を拭いながら「あの、こちらの呪霊はデータベース上は2級もしくは1級に相当するとなっておりまして…そのそれをお一人で祓われたとなると…ちょっと階級が…」伊地知君が言い淀みながらハンカチをとりだして額の汗を拭う。
「何か不手際をしてしまっただろうか?」
「いっいえ、お手柄…というか近々日車さんの肩書きが上がってしまいそうで…」
日車もなんの事かようやく気が付いて深いため息をついた。現状の自分は『准特級術師』という、いわゆる『特級』と『一級』の間くらいという事で、日下部に言わせればほぼほぼ特級、ただ経験不足が否めないという事で『半人前の特級』…のようなものとして扱われている。それがいよいよ准が取れて晴れて特級に推薦されても良いという事らしい。
「名誉ある特級の推薦ともなれば、誰でもしたがりますから」
「…自分はまだ半人前だ。すまないがその辺の等級はうまいこと誤魔化しておいてほしい…」
そう言って踵を返す。実際まだまだ学ぶ事が多い中、肩書きだけ大きくなってしまっても困る。それに加えて日下部に日々散々「『特級』なんて一国を滅ぼせる術師を飼い慣らすための首輪みてえなもんだからな。術師定額使い放題と変わらん。忙しいなんてもんじゃねーぞ」と脅さ…忠告されている。一度ちゃんと日下部に話を聞いておいた方がいいかもしれない。
「…そういう言えばメッセージの返信がないな」
既読も付かない画面に、続けて時間がある時でいいから話がしたい旨を入力して送信する。その直後に背後でピコンと明るい電子音が聞こえた。振り返ると日下部のデスクの上にスマホが置かれており、先程送ったメッセージの受信をランプの点滅が報せていた。忘れていったのだろうか。いや日下部に限ってそんな事はないだろう。普段から面倒くさいだの仕事行きたくないだの口にするが、それでいて仕事をすっぽかすような無責任な事はしないし、きちんとこなしてから文句を言うのだ。以前同行した待つのが醍醐味の釣りの時でさえスマホは手放さなかった。これは故意にここにる忘れたを装って置いていかれたのだろう。朝感じた違和感がまた、もやのように胸に浮かんだ。
ーーー
高専所属の術師として働くにあたり、俺は敷地内にある小さな平屋に居を移した。本来なら教員や学生が身を寄せる長屋があるそうなのだが、あいにく満室らしい。今までの生活を全て取り払って別人として暮らしていく身としては、新たに今までいた『外』の世界で家を借りるよりも、こうして学内の『中』に身を置けるだけでもありがたかったし、何より面倒が省けた。…あの日常を、世間一般を『外』と割り切れるようになったのは術師に、呪術界に馴染んだからか、年月の流れによるものか。俺は自分がしてしまった事の贖いを生涯をかけてここでしていくと決めたのだ。
頼まれていた書類に目を通していると着信音が鳴った。差出人は日下部で『今から部屋行ってもいいか?』と短い一文が添えられている。大したものはないから、酒が飲みたければ持ってくるよう返信する。もっともわざわざ言わなくても「お前ちゃんと食ってんのか?飯持ってきたからお前もつまめよ」と酒だのお惣菜だのを携えてやって来るのが常なのだが、着信を見た瞬間にあの置き忘れてあったスマホの件を思い出して余計な詮索は良くないと思い、それでいてその気持ちをなかった事にもできず、蛇足のようにわかりきった事を返信してしまった。
20時を回った頃、日下部がレジ袋を片手にやって来た。
「お前飯食ったか?」
「学食で済ませた」
「どっち?」
「B定食」
学食はA定食とB定食があり、Aは大体肉料理、Bは魚料理の事が多い。日下部に「魚もいいけど肉を食え」と返される事は予測している。
「魚もいいけどたまには肉も食えよ身体資本なんだから」
予測通りの返答に少し気が緩む。
「返事できんくて悪かったな。携帯置き忘れててよ」
何事もなかったかのように、日下部は気になっていた事をさらりと躱した。
「…ああ」
「ビール買って来たけど飲むか?要らんかったら置いといてくれ。持って戻るの重たいから」
「…頂こう。君食事は?」
「俺も学食で食ってきた。A定の方な。今日チキン南蛮だったぞ?そこをサバ味噌いくあたりあんたらしいよな」
「任務後で疲れてたんだ。そこに揚げ物だなんて胃にもたれるだろ。もう若者じゃないんだから」
「俺はまだまだ平気だけどな」
軽口を叩き合いながらお互いビールを啜る。その後も当たり障りのない話題が出ては消えて、心地よい空気とゆるやかに回った酔いで、ふと口を滑らせてしまった。「君がスマホを置き忘れるなんてめずらしいな」、と。
ピリッと空気が一瞬張り詰めた気がした。乾き物をつまみつつビールを飲んでいた日下部は表情を崩さず「あー…稽古で着替える時邪魔んなるから置いといてそのまま忘れた」と返す。
「…通信が発達していつでも連絡が取れるようになって久しいが、たまには何もない時間もあっていいと思う」
バツの悪さからした俺の弁明をに日下部が「そうだなと」と小さく笑い残りのビールを干す。
「……お前さ、世話になった人が死んだ事ってあるか?」
急な発言に言葉が詰まった。悪い話題をふった自覚はあったようで、日下部は視線を外して頭をかいた。
「あー急に悪いな。……今日知り合いの命日で墓参りの時だけでも雑音入れたくなくて携帯置いてったんだわ」
「…大事な人なんだな」
「大事っつーかホント世話になって…いや世話というより恩…かな」
苦笑いする横顔が少し寂しげに見えた。
「そういう事は事前に知らせてほしい」
俺は立ち上がって台所に行き戸棚を探り、栓を開けて暫く置きっぱなしになっていた日本酒を引っ張り出した。グラスに注いで卓に戻り、日下部の前にそれを置く。
「君の恩人に」
日下部はクックッと俯いて笑い、新しい缶ビールを開けて日本酒のグラスにコツンとぶつける。
「来年はもう少しいい酒を用意しておく。君が差し支えなかったら俺も墓参りをさせてもらえないか?君には世話になっているから、君の恩人なら俺にとってもそうだろう」
「……覚えてたらな」
「ああ」
俺も新しく缶を開け、暫く静寂の中各々ビールを啜る。
「そういや話したい事って何なん?メールくれてたろ」
「ああ…俺の階級が上がるかもしれない。もっとも推薦を貰えればの話だが」
「ははぁ遂にか。まーほとんど特級みたいなもんだったもんなお前」
「君に散々脅されていたから辞退するか迷っている」
恨めしげにジロリと睨んでやると日下部は肩をすくめた。
「俺も聞いてもらいたい事あってよ」
「聞かせてもらおう」
「学長にさせられるかもしれん」
「学長?すごいじゃないか。…『させられる』と言うあたり君らしいが」
「だってよこの俺がなぁ〜!あの大戦以降人手不足だからしょーがねぇのはわかんだけどよ…」
「…君が学長の役職を引き受けるなら俺も特級の推薦を受けようと思う。君に推薦してほしい」
日下部が片眉を上げる。
「…それもいいかもしれんな。推薦者は同行任務しなくていいし」
「そうなのか?俺は君との任務なら心強いと思ったのだが」
「俺としては特級がやる危ない任務に同行はしたくねぇから願ったり叶ったりだ」
「ひどい理由だな。前言は撤回させてもらおうか」
見損なったと大袈裟にため息をついてやり、お互い笑った。こんな風に何気ない平凡な日々が長く続けばいいと思った。