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    suzuro

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    suzuro

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    虎日。虎君と別れた後の🌻のお話。

    #虎日
    tigerDay

    箱庭のペトリコール 鈍色の空から雨粒が細い針のように降り注ぐ。コロニーにも雨は降るのだなと疲れ切った体をビル壁に寄りかからせながら天を仰ぐ。陽が昇り夜が来るのだから至極当然の事なのだが。
     この天候時に付き物の埃っぽい独特のアスファルト臭が立ちのぼる。雨の匂いはどこか懐かしく嫌いではない。だが晩秋の肌寒さは体温を徐々に奪っていく。着衣で風呂に浸かってみた時は我ながら馬鹿な事をしたと後悔した。あの日。虎杖悠仁と相見えた時だ。
     こちらを見据える瞳が眩いと思った。一回目の裁判ではしれっと虚偽を述べていた癖に大量殺人の疑いには躊躇いなく罪を認めたあの少年。
     無罪にも関わらず自分自身の弱さを理由に償いの道を選ぶ、たった十五歳の子供の姿に俺はいたく恥じ入った。本来ならば虎杖に請われるまま行動を共にして助けるべきだったのだろう。だが俺は逃げた。己の弱さ情け無さをこれ以上彼に晒す事に耐えられなかった。
     虎杖と別れて以来ポイントは1点のままだ。襲われれば相応に防御はするがもう誰かの命を奪う事は出来なかった。そのせいか疲労が酷い。何も考えず粛々と裁き殺す方が余程楽だった。今しがたも泳者を退けて逃げてきたばかりだ。加えて雨脚が強まるばかりなので廃ビルの軒先でひとまず雨宿りをする事にした。
     ビル入口の煤けた階段に腰を下ろす。けぶる灰色の街から立ちこめる雨の匂いを感じながら瞼を閉じた。

    「日車、こんな所で寝てたら風邪ひくよ?」
     聞き覚えのある声が降ってくる。瞼を開けるとこちらを覗き込む虎杖の姿があった。彼の肩越しに見える馴染みのある天井、壁、備品。どうやら自分は事務所の応接用ソファで居眠りをしていたらしい。職場と虎杖。あり得ない光景にああ、なんだ夢かと咄嗟に思う。脳に霞がかかったような気分のまま、のろのろと身を起こす。
    「疲れてんだろうけどさ、そんな体勢で寝たら余計辛くない?コーヒー淹れるからそっち持っていくわ」
    「……いやいい、もうデスクに戻る。虎杖は清水を手伝ってくれ」
     夢の中だというのにすらすらと言葉が出てくる。虎杖は頷くと応接室のドアを開け、清水さーんと声を張る。程なくしてはーいと聞き慣れた彼女の返事が返ってきた。

     ここでの虎杖は事務所の学生アルバイトとして雑務を請負っている事になっているようだった。手際を見たところ、勉強は苦手らしいが飲み込みは早いし何より気が回り愛想も良い。清水とも仲良くやっているようだ。
    「日車さん、応接は仮眠室じゃないんですから眠るならちゃんと家に帰ってからにしてくださいね。昨日も遅くまで残ってたんじゃないですか?」
     清水の小言も今や懐かしい。彼女はあれから無事逃れられただろうか。
    「聞いてます?日車さん」
    「まーまー。あっ今日俺お土産もらったんすよ、担任の先生から。喜久福の詰め合わせ!」
    「えっ本当に?私あれ大好き!」
     清水の顔がぱっと綻ぶ。
    「どの味も美味しいけどおすすめはずんだ餡だって。そろそろ休憩しようよ。日車も一緒にさ」
     屈託のない笑顔で虎杖が菓子折を差し出す。こんな年相応の顔もできるのかと密かに驚くが至極当然の事だ。ここは殺し合う必要のない平和な世界なのだから。ご機嫌な清水と共に給湯室へと向かう彼の鴇色の後ろ髪を眺めながらぼんやりと思った。

    「なんか午後から雨降るみたいっすね」
    「そうなの?こんなにいいお天気なのに」
     大福を頬張りながら虎杖が窓の方を指差した。空は晴れてはいるものの遠くに灰色の雲の塊が見える。
    「うん、さっき窓開けたらもう雨の匂いがしてた」
     くんくんと鼻を鳴らす様子に清水が噴き出す。
    「やだ、虎杖君動物みたい」
    「野生のカンが結構残ってるから俺。でも雨が降る時の匂い、結構好きなんすよ。なんか懐かしい感じするっていうか」
     そう呟く虎杖の顔はあどけなく、ついこないだまで義務教育を受けていた身なのだと思い知らされる。こんな子供を俺は躊躇いなく殺そうとしていたのか。
    「じゃ俺そろそろ頼まれてた郵便出してくんね」
     菓子を食べ終えて忙しなく立ち上がる虎杖に声をかける。
    「俺の折り畳み傘で良ければ持っていけ。生憎ここには予備がない」
    「それじゃ日車が濡れちゃうじゃん」
     虎杖が呆れたように言う。清水が私ので良ければ貸そうか?と横から申し出た。
    「いいよ、清水さん。俺は多少濡れても平気だから。じゃ行ってくるわ」
     まるで自分に言い聞かせるかのような口ぶりでそう告げると、郵便物を抱えて振り切るように虎杖は事務所を出て行った。

    「本当に降ってきちゃいましたね」
     雨粒の流れる窓を見遣りながら清水が心配気に呟く。あれから一刻も経たないうちに空は厚い雲に覆われたちまち激しく降り始めた。
    「少し様子を見てくる。いくら丈夫さが取り柄でも風邪を引かれたら困る」
     デスクの引き出しから折り畳み傘を取り出すと椅子から立ち上がる。
    「あっ何なら私が行きますよ」
    「大丈夫だ。清水はここで待っていてくれ」
     そう言い残すと足早に事務所を出た。傘を差し雨の中をあても無く歩く。何故か彼がどこにいようとも探し出す事ができるような気がした。
     昼間の街中だというのに人ひとりいない。車すら通っていない。立ち昇るアスファルトの匂いをまといながらひたすらに彷徨う。雨脚がますます強まっていく。
     不意に背後に人の気配を感じた。
    「……虎杖、」
     振り返るとそこにはずぶ濡れで佇む彼の姿があった。

     虎杖の制服には至る所に血痕がべっとりと付いていた。布に染み付いた赤に雨粒が滲みじわじわと全体へと広がっていく。
    「一体どうしたんだそれは。怪我をしたのか、それとも」
    「これ全部返り血だよ。俺は平気」
     うっすらと微笑む虎杖に歩み寄り、差していた傘を傾けようとすると静かに身を引かれた。
    「いいんだこのままで。こうやって濡れてたら雨がそのうち全部洗い流してくれるから」
    「……何があった?」
    「何もないよ。俺はずっとこうだよ。だから傘なんていらない」
     ああ、間違えたと思った。君のような人間が雨に打たれ続けて良いはずがない。それなのに俺は身を守る術を持たない未成年を平気で手にかけようとした。
     再び傘を虎杖に傾ける。彼は今度は拒まなかった。スーツのポケットからハンカチを取り出し目の前の額や頬の水滴を拭う。
    「傘を持たなくていい人間なんていないんだ。分かるか、虎杖」
    「あんたのそういう所嫌いじゃないよ」
     虎杖は呆れたように笑う。
    「これをやるから君はもう自分の居場所に帰れ。俺の所に留まる理由はない」
    「なんでだよ。これ、夢だろ?ずっと幸せなフリしてたらいいじゃん。だって日車がそう望んだんだろ?」
     違うんだ、俺は。
    「……頼むからまだここに居させてくれよ」
    「すまない」
     すまない。都合の良い幻覚にお前を付き合わせて。こんなにも拙い、虫の良い夢に浸かって何て自分はいじましいのだろう。やるせない表情をする虎杖の頬をハンカチでぐい、と擦る。
     もしも出会い方が違っていたらこんな風に共に過ごせたのかもしれない。君のような人間が傍にいたならもう少し踏ん張れたのかもしれない。いや、取り返しのつかない事をして自暴自棄になっていたあの時に出会ったからこそ、俺は初心に還る事ができたのだろう。救えない話だ。
     俺はただ、世界から見放されてひとり濡れる君に傘を渡したかった。それだけだった。

    「せめてこれは日車が持ってなよ。俺はもう大丈夫だから」
     傘の柄をこちらへと押し戻しながら虎杖が告げた。立ち昇る雨と血の匂い。
    「俺の事は気にしなくていい」
    「傘が必要なのはあんただって同じだろ」
     そう言い残して彼の姿がふっつりと消え失せる。
     気がつくと全身を雨に打たれていた。たったひとりで。ずぶ濡れで立ち尽くしていたのは俺の方だった。
    「……虎杖?」
     ふいに頭上に淡い影が落ちる。身を打つ雨音が止む。
    「しょうがねえなあ」
     背後から傘を掲げられたのだと気付いた時にはもう夢は終わりを迎えようとしていた。

     目が覚めるとうっすらと額に汗をかいていた。夢が途切れる時はいつも曖昧で虚しい。雨は既に止み目の前の空が明るんでいた。
     時雨だったかと朧げな意識のまま思う。座った状態で眠ったせいでじんわりと痛む首や腰をさすりながらゆっくりと立ち上がった。襲撃の可能性を考えるとあまり一箇所に長居はしない方がいいだろう。しばらくは人目を避けて彷徨う他はない。この狭い箱庭の中を。
     同じ空を見ているであろう彼は軒下に身を寄せることができただろうか。それともなす術もなく雨に濡れただろうか。
     罪を負って生きる君にもほんの僅かでも心の休まる一時があれば良い。そう願いながら荒廃した街を再び歩き始めた。
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