空欄・特記事項無し俺が日車寛見について知っている事……天才、T大法学部卒、弁護士、少食、酒はそこそこ強い、生真面目、無表情、三白眼、仏頂面、笑顔が怖い…けど意識せずにふっと落としたみたいに笑うと意外と可愛い。あと虎杖の事が大事らしい。
死滅海游の最中に伏黒姉を救う為に点のやり取りをしたとかで虎杖は随分と日車に感謝していたし、日車は日車で「彼のおかげで初心に還れた」と言っていた。勝手に術師にさせられてバケモノだらけのあのデスゲームに放り込まれ、そして勝ち抜いて生き残った天才。それは俺には解らない次元の話であったし、そもそも一度会っただけの人間に協力した挙句に命まで懸けれるなんてお人好しにも程があるだろうと思った。
それはそれとして、俺から見た日車の第一印象は『陰気な奴』だった。スーツにネクタイをキッチリと着込んだ顔色の悪い男。宿儺と闘うに当たって協力してくれるのは有り難かったが、つい先日まで一般人で呪術界のルールや呪霊のあれこれも覚えたての奴を最前線に送り込む作戦はいくら本人からの進言だとしても正直非道だと思った。そこまで人に惜しみなく協力してくれるからには人当たりがいいのかと思いきや、日車は鍛錬の時間以外は1人でポツンといる事が多く、唯一の旧知である虎杖に対してもどこかよそよそしく目線を外して会話をしていた。人と対話をするのが主な職に就いていた割には孤立しがちで、皆が集まっている飯時の食堂でもよく1人隅の方に座ってもそもそと飯を食っていた。非道な作戦に利用する手前、できるだけ日車に情は移したくなかったし、皆仲良くしましょうと綺麗事を言って面倒見よくするのも性に合わない。だから、あの時あいつに声を掛けたのは本当に気まぐれだったと思う。
◇
あいつまた1人で飯食ってやんの変な奴と思いながらも放っておけず、対面の椅子を引く。日車は食べていた手を止めて驚いたように目線だけでこちらを窺い、「浮いているのは自覚があるから気にしないでもらいたい」とぶっきらぼうに言った。俺も負けじとぶっきらぼうに「向こうは騒がしいからここがいいもんで」と言って座る。こいつかけ蕎麦一杯だけかよ、天ぷらも握り飯も無しかよ、午後の鍛錬もつのか?などと思っていると、日車もこちらの腰に差している刀や身体付きを目で追っている。「飯冷めますよ」声を掛けると一瞬目が合い、「ああ」とだけ短く返ってくる。
「蕎麦だけっすか?足ります?午後からも鍛錬あるし、飯を疎かにして体調崩さないで下さいよ」
「普段からこの食事量だから疎かにはしていない。むしろよく食べるようになった。このかけ蕎麦は大盛りだからな」
これが日車なりの冗談で笑うところだったのかと100テンポくらい遅れて気付き、しかし日車は気にもせずに「俺の冗談は分かりにくいとよく言われる」と口の端を持ち上げてひっそりと笑った。…笑ったつもりなんだろうが口元が引き攣っていて不気味だった。
「君は良く食べるんだな。それだけ大きな体格だと維持するのも大変なんだろうな」
大盛り唐揚げ定食の味噌汁をラーメンにチェンジしたやつをわしわしと口に運んでいた俺はポカンとして手を止める。
「食べ方の気風が良くて見ていて気持ちがいい。たくさん食事が食べれる事は美徳だと思う。俺は少食だからそうやってうまそうに朗らかに食べれるのが羨ましい」
「そんなもんかねぇ…。俺から見たらあんたのその箸捌きつーの?所作が綺麗だし美徳だと思うぜ」
「そうだろうか…?」
「まぁとりあえずあんたのは少食以前に肉が無いよな、だから細いんだよ。唐揚げ1個くらい食っときなさいよ」まだ手をつけていなかったひじきの小鉢に唐揚げをのせて差し出す。日車は一応ありがとうと言っているものの、困惑が隠しきれていない。
「ああ、他人の箸で触ったやつとか苦手なタイプだったか?」
下げようとすると首を振る。
「いや…単純に腹が一杯で食べれるかどうかわからない」
「マジで!?蕎麦もまだ残ってるじゃん」
「調子に乗って大盛りにしたのがまずかった。今日は腹が減っていたから食べ切れると思ったのだが……残すのは申し訳ないから蕎麦だけでも食べ切るつもりだ」
「ん」
「なんだ?」
「残り食ってやるよ、嫌じゃなきゃの話だが」
「それは…助かるが…」
「何?」
「君はまだ食べるのか?唐揚げ定食にラーメンまで食べているだろ?」
「蕎麦なんか啜りゃ一瞬だし食ったうちに入らんだろ」
日車はデカイ目を更に見開いて、ふっと小さく笑った。不覚にもなんだ可愛い顔もできるじゃねぇかと思った。
◇
◆
日下部篤也について知っている事は少ない。呪術高専東京校の教員で、特級の乙骨が在籍する2年生の担任。禁煙の為いつも棒付きの飴を咥えていて、ポケットや引き出しにストックの飴が沢山入っている。俺が反転を回した後にはそれとなくお裾分けをもらった事がある。日下部は術式を持っていないもののシン陰流結界術の使い手で、体術や剣術だけでなく呪術界の歴史や御三家の術式技術に及ぶまで膨大な知識を有していて、術式無しで一級になったのは彼が史上初らしい。一級の上の特級は生まれ持った『当たり』の術式と本人の才能とフィジカルが全部揃ったバケモノ達だからあまり参考にするな、との事だった。日下部曰く自分以外の一級は所謂人間そのものの最高到達点で、特級はどこかしら狂った奴らの限界突破…なのだそうだ。「ちなみにお前は暫定特級に片足突っ込んだ一級な」と飴の棒を上下に揺らしながら言われた。しばらく俺はお前のお目付け役なんだ頼むから問題は起こすな面倒くさい、と至極不服そうに頭を掻いていた。上に提出する書類の特記事項は空欄にしときたいんだよ、何か書かなきゃいけないような問題起こされたら俺がお咎め食うんだよマジ勘弁してくれよな、とぶっきらぼうに言った面倒くさがりで不真面目な言動の反面、実のところ日下部は細かいところまでよく見ているし面倒見が良かった。おそらく元来性根が優しいのだろう。
だからこんな事を頼もうと思ったのだし、こんな事を頼めるのは彼しかいないと思ったのだった。
◆
夕食時間もとうに過ぎて厨房も消灯されている食堂に日下部と2人で座っている。テーブルには数本の缶ビールなどの酒、食事を済ませた後だというのに乾き物だのつまみの袋が広げられている。
日下部をここへ呼び出したのは俺だ。相談したい事があるからできるだけ人目の無いところがいいと伝えたのだが、「そんなとこ高専にはねーよ」と一蹴され、「どうせなら飲みながら話そうぜ」と人がはけた食堂に腰を落ち着けたのだった。
お互い1本目のビールを飲み終え、パリパリとつまみを咀嚼しながら当たり障りのない雑談をする。自分から相談と言っておきながら、どうやって伝えたらいいものかまだうまく整理ができていない。
「ほんで相談ってなんすか。やべー問題起こしたとか言うなら今すぐ逃げるから自分で責任取ってくださいよ」
2本目の缶を開けながら、日下部が言う。
「まぁ言おうと思ったけどやっぱりやめたとかなら別に言わなくていいですけど」
こちらの迷いを見透かしたように続けられ、気まずくて俺もビールを一口飲んで誤魔化す。本来なら酒を入れない状態で話すべき事なのだが、自分の優柔不断さを酒の勢いを借りて切り出すのもひとつの手かもしれないと思った。
「…君は今現在、交際している相手はいるか?」
「は?いねーよ。つかそんな豪速球みたいな話題いきなり投げんなよ」
「だからできるだけ人目の無い場所をお願いしただろう」
「…お前って圧倒的に説明が足りないよな」
呆れ顔で日下部は大きく溜め息を付いて、ぐびりとビールを煽る。
「しかし交際相手がいないのは好都合だった」
「嫌味かっ」
「実は折入ってお願いしたい事がある」
「待て待てこの流れでか?お前直球以外の投げ方知らんのか?」
「日下部、すまないが俺と交際してほしい」
日下部はあんぐりと大口を開けてそれをゆっくりと閉じ、残っていたビールを一気に干してまた新しい缶を開ける。
「君こそ待て、それはアルコール度数が10%と書いてある。もう3本目だから流石に飲み過ぎだ、明日も授業があ」
ゴッと頭に衝撃が走り、顔を顰めてさする。目にも止まらぬ早さで日下部の渾身の手刀が頭頂部に炸裂したようだ。
「やかましいわっ!アホか!そんな事言ってる場合じゃねーでしょ!」
グビグビと日下部は度数などお構いなしに半分ほど空け、ガツンと音がするほど強く缶をテーブルに置く。
「お前なんのつもり?」
「言ったままの意味だ。君と交際して俺に相手がいるという既成事実を作りたい」
「既成事実ぅ〜?平成のトレンディドラマかよ!つかお前断られるパターン想定してんの?こんなもん承諾する奴の方が稀だろうが」
「勿論想定した。だから偽装でいい。君と俺が交際しているという噂が広まってくれたら助かる」
「それ俺に何のメリットもないよな?」
「勿論ただとは言わない。君が任務に出る時は代わりに俺が出動する。君は教職に集中できるし、命を懸けるリスクが減る。悪い話では無いだろ」
ジロリと鋭い視線が睨みつける。眉間には深い皺が寄っている。
「……一応聞いてやるけど何でだ?」
「君は話が早くて助かる」
「勘違いすんな。了承とは言ってねえんだよ、わけわからん企みに利用されるなら任務で死んだ方がマシだっつー話だよ」
俺も残っていた酒を干して次のを開ける。日下部は口をへの字に曲げて腕組みして続きを待っている。
「数ヶ月前に虎杖に付き合ってほしいと告白された」
「あ?」
日下部は口を開けたまま数秒天井を眺め、視線を落として床をまた数秒眺めて目を閉じて眉間の皺を更に深くする。
「それとこれと何の関係があんの?あと確認だけどこれアウティングに当たるってお前は解った上で言ってんだよな?」
「無論だ。君がそれを茶化して吹聴するような人物でないと思った上で相談している」
「……俺を買い被ってくれんのは有り難いけどよ、そういう事は虎杖本人と話し合う事なんじゃねぇの?」
「ちゃんと本人と話をしてきちんと説明して断った。それでもちゃんと伝わったか確証が持てない。今でも虎杖が側で笑っていると不安になる。だから俺に交際相手がいると思ってくれたら気が変わるんじゃないかと思ったんだ」
「何でそれを俺に頼んだ?」
「君は頭の回転が早くて理解力があって人の弱さに寄り添う優しさを持っていると思ったからだ。無茶を言っている自覚はある。だから本当にフリだけいいんだ、虎杖が諦めてくれるまででいい」
馬鹿げている。人に頼むにしても自分の都合しか考えずに押し付けている。それは理解しているがこうするしか思い付かなかった。ずっと液体を飲んでいるのに喉がカラカラに乾いて水を何日も飲んでいないような気分だった。
「どうしてそこまで虎杖に諦めさせたい?未成年だからって当たり前は差し引いても何でよ」
「俺は…」
「言っとくが人を殺してるとかこの界隈じゃ何の言い訳にもならんぞ。俺もそうだし、虎杖だってそれはしてる」
さらりととんでもない事を当たり前のように言われて怯む。呪術師という世界はあまりに冷たくて現実的で、虎杖のような実直な少年が居ていい場所のように思えなかった。
「………俺はこれから成長していく虎杖の指標や足枷になりたくないんだ。これが自意識過剰の自惚れだというのは理解した上でそれでも尚、彼には今ではなくこれからに向かってほしいと思う」
「はぁん?…狭い世界で完結せず視野を広げろって話か?」
「……………なるほどそう言われると簡潔でわかりやすいかもしれない」
「おい、お前が言った事だろうが」
「…考え過ぎて自分ではよく解らなくなっていたんだ。虎杖は俺にとって特別な存在で、だからこそ俺に拘泥せず健やかに成長してほしいんだ」
日下部は頭の後ろで手を組んで椅子をぐいっと後ろに反らして下唇を突き出している。
「それさ、やっぱ俺じゃなくて虎杖に直接言えば済む話だよな?」
「説明したが伝わらなかったと思う…」
「さっきも言ったけどお前は圧倒的に説明が足りてないんだよ。天才が100考えた結果の結論だけ投げられても凡人には理解できねぇんだわ」
「虎杖は凡人じゃない」
「凡人だよ。お前が言ったみたいに経験不足だし、視野は狭いし、クソ生意気だし、どこにでもいるガキなんだよ」
日下部は大きく伸びをして残りの酒を一気に飲み干す。
「ああクソッタレ、明日これで二日酔いになったらお前のせいだからな」
くしゃりと缶を握りつぶしてゴミ袋代わりにしていたレジ袋に放り込む。それから大きく溜め息をついて、ポケットをあさって飴を取り出すと口に放り込んでコロコロと転がしていた。俺は手の中でぬるくなったビールを一口飲む。しばらく2人とも言う事もなくて沈黙が流れたが、丁度その時ガコンと大きな音がした。誰かが食堂の入り口前にある自動販売機で飲み物を買ったのだろう。
「おっ、グッドタイミング」
日下部がそう言って入り口を指差す。遠目のガラス越しに淡い色の髪がふわふわと揺れている。
「別にお前に付き合ってやってもいいけどよ、とりあえず本人と話してからにしろよ。つか交際とか既成事実とかお前の冒頭陳述みたいな喋り方もうちっと何とかならんかね。そりゃガキには伝わらねーわ」
日下部は立ち上がると数回首を回し、「ほんじゃおやすみ、片付け頼むわ」と立ち去ってしまった。俺は1人残されてテーブルの上の乾き物を眺めていた。