怖いもの、は、あっただろうか。
例えば幼い頃、夜中にふと目覚めてしまった時の手洗い、それは母の起きている時間であって、家には灯がともっていたから怖くなかった。
例えば教訓や娯楽のために作られたおぞましい物語、それらも作り物だと強く信じれば立ち向かえた。
例えば幾度か遭遇した命の危機、その時も感じたのは恐怖よりも焦燥。
思い返してみれば心の底から震えるほどの恐ろしさなど、感じたことはなかった。なのに。
俺は今、想像しただけで喉が詰まって痛むほどの、そう、これこそが恐怖だと思い知らされるものを、目の当たりにしている。
想像と違う、もっと温かくて、浮き立つような、夢見心地の、それこそ幸福と言えるものだと思っていた。
それなのに。
恋とは、こんなにも、恐ろしいものなのか。
好きだと伝えたらどうなるだろう。
例えば、もう俺とは話さなくなるか?
例えば、俺から逃げるか?
例えば、俺には、もう、二度と、笑わなく、なるか?
いやだ、怖い、離れないでくれ。
恐ろしくて不安で仕方ない。
それならいっそ伝えないほうがいい。
と、分かって、いるのに。
どうして、俺は──
「好きだ」
と、伝えて、しまったのだろう。