隠れ家 そこは、僕のとっておきの隠れ家だった。
フィレネ王城の一角、使わなくなった調度やがらくたを一時的に保管している場所をくぐり抜けた先にあるちょっとした空間。なんてことはない、ただのゴミ捨て場に出来た隙間に過ぎない。
それでも小さかった僕には、ここがとても素敵な場所に思えていた。なにせここに集められるゴミの中には僕が見たこともないような古びた本だったり武器だったりが紛れ込んでいる。綺麗な刺繍が施されているけれど破けてしまった窓掛けや、縁の欠けた上等な花瓶、底の抜けた高そうな鍋。そいつらはどれもこれも僕には仲間のように思えていた。
僕はいずれフィレネを継ぐ立場にある。立派な王になるために父上や母上から色んなことを学んで、正直なところ自分でも王子さまとしてちゃんとやれていると思っていた。
でも、僕の身体は言うことを聞いてくれない。発作を起こして息ができなくなったり、苦しくてうずくまってしまったり、何日も何日も寝込んでしまったり。僕は人ほど長く生きられないのかもしれない。父上が流行り病で亡くなられてからは一層そう思うようになっていた。
だから、隠れ家に運ばれてくるがらくたたちは僕と同じだ。綺麗で、立派で、ちゃんと役目を果たしていたけれどもうみんなの役には立てない。いずれ僕もそうなるのだろうと内心思っていた。
そうならないように鍛錬を始めて発作の回数は減っていったし、健康になったのだと思うほどに僕は隠れ家の存在を忘れていったけれど。
邪竜との戦いのさなかにひどい発作を起こして、不意に僕はこの場所のことを思い出したのだった。誰にも発作を見られたくない時、一人で声を上げて泣きたい時、そっと隠れた僕だけの秘密の場所を。
恐らくは時の流れと共に、もう失われてしまっただろう隠れ家のことを。
「まだこんな場所があったのか」
だから僕は、記憶の中よりずっと小さいその空間を見つけて思わずそう呟いていた。
戦争が終わってフィレネに帰ってきて、落ち着いた頃合いを見計らって僕は隠れ家のあった場所をこっそり訪ねてみた。城の一角、あまり人も通らない通りの奥に相変わらずゴミ捨て場はあったし、むしろ邪竜軍の侵攻の時に被害を受けた品々が積み上がっている。その隙間をくぐり抜けて(大きくなった僕はかなり難儀したけれど)出た先に、変わらず隠れ家は存在していた。
小さな僕には十分な空間だったけれど、大人になった僕には少し狭い。それでも腰を下ろすくらいはできそうだったから、僕は穴の開いた絨毯を引っ張り出してその上に座った。
「懐かしいなあ。もうとっくになくなってしまったかと思ったよ」
さすがにあの頃僕が使っていた窓掛けや花瓶はなくなってしまっていたけれど、そこから見える景色はあまり変わらなかった。戸の閉まらなくなった棚や脚の欠けた椅子が整然と積み上げられ、その足元にはやっぱり破けた布や欠けた陶器が転がっている。
僕がリトスへ救援を求めに行っている間に侵入した邪竜の信徒を、母上は上手にあしらっていたようだ。壊れたものはさほど多くなく、貴重なものもなくなっていない。王城まで攻め込まれて大した略奪もなくぎりぎりで守りきった母上の手腕には、まだまだ僕も学ぶところが多かった。
注ぎ口の折れてしまったポットの傍らに一冊の本が落ちていて、なんとなく僕はそれを拾い上げて読んでみる。半分から後ろが無惨に引きちぎられてしまったその本は、フィレネでは有名な騎士物語だった。僕も幾度となく読んできた物語だ。神竜と出会った騎士が大冒険の果てに大成し、最後は神竜のもとで立派に役目を終えてその腕の中で死んでいく。騎士たるものかくあるべしと説くその生き様に、幼い僕もそれはそれは憧れたものだった。
だって素晴らしいじゃないか。国のため神竜様のため、己の力をいかんなく発揮して全てをやり遂げて永遠の眠りにつく。そこまで生きられないかもしれない僕にとって、「己のやりたいことをまっとうする」生き方はまさに夢物語だ。こうありたいけど、きっとそうはできない。その悔しさにここでこっそり泣いたことだってある。
ぱらぱらと半分だけになってしまった本をめくり、天井を仰ぐと張り出した枝に小鳥が止まっているのが見えた。子供の頃はここまで大きな樹ではなかった気がする。降り注ぐ日差しを枝は程よく遮ってくれていて、木漏れ日が僕や床に綺麗な模様を描いていた。
ぽかぽかと日差しは温かくて、つい眠気に誘われて瞼が重たくなる。いけないと思いつつも僕は絨毯の上に寝転がった。木漏れ日と、吹き込む風が心地良い。
少しくらいなら、うたた寝くらいは許されるかな。僕はほんの少しだけと自分に言い聞かせて目を閉じた。
――誰かが僕の頭を撫でている。こんな風にして優しく触れられたのはどのくらいぶりだろう。身体が弱いばかりの子供だった頃は、よく母上やそれを真似したセリーヌが撫でてくれたものだけれど。
手付きだけでも十分に僕を大事にしてくれていると伝わってきて、僕はいい気分になった。そのままもう一眠りしようとして、ここがどこだかを思い出す。意識と身体とがつながって、僕は眠気を引き剥がすように目を開けた。
「あっ、起きちゃいましたね」
「……神竜様?」
僕の視界いっぱいに綺麗な赤と青が広がっている。それはぱしぱしと瞬きをして、それぞれの色の中に僕の寝起きの顔を映していた。僕が起きたのを知った彼女は、嬉しそうににっこりと笑う。
「おはようございます、アルフレッド」
「ああ……僕は寝てしまっていたのか。みっともないところを見せてしまったね」
「いいえ。眠るあなたの顔をじっくり眺めるなんてそうそうできませんから」
いつもは、僕の方が彼女を起こしに行く側だったし、長い間眠っている彼女に何度も会いに行った。だから、僕の寝顔を見られるのは彼女にとっても特別な意味があるのだとしたら、それは少し嬉しい。辺りに誰もいないか確かめようと僕が周囲を見渡すと、彼女の笑みが深まった。
「ここを見つけたのは私だけです。誰もいませんよ」
それは、ただ誰もいないと僕に教えるだけの言葉ではないのはわかっている。僕は半身を起こして、彼女のおはようのキスを受け止めた。
「よくここが見つけられたね、リュール」
「はい! 私はあなたのパートナーですから。花の香りを辿っていったら、見つけちゃいました」
彼女を神竜ではなく名前で、一人の女性として呼べるのは今のところ僕だけだ。僕だってフィレネの王子だから人の目のあるところでは気安く呼べない。だから誰もいないとリュールが言う時は、彼女を独り占めしてもいいのだという合図だ。
「アルフレッドこそ、こんなところでお昼寝なんて無防備すぎませんか?」
「あはは、そうだね。でも大丈夫だと思うよ。ここは僕の隠れ家だし」
「かくれが」
「そう。子供の頃、辛いことがあるといつもここに逃げ込んでいた。こんながらくたの奥に僕がいるなんて、誰も思わないだろう?」
「確かに、あなたの香りがしなければ私も通り過ぎてしまうところでした」
フィレネ城は広い。その中でわざわざがらくた置き場の、更にその奥に行こうなんてもの好きはそんなにいないと思う。僕だって、偶然かがみ込んで奥があると知るまではこんな場所があるとは知らなかったし、隠れる僕を誰かが見つけたことはない――リュール以外は。
隠れ家があっさり見つかってしまったのは少し残念だけれど、リュールが僕を見つけてくれたのは嬉しかった。
「でも、とっても気持ちいいですね。お日様がぽかぽかしていて、アルフレッドがついお昼寝してしまうのもわかります」
「だろう? 上に張り出した木は僕が出入りしていた頃はもっと細い若木だったんだ。こんなに大きくなっているとは思わなかった」
「じゃあ、アルフレッドと一緒に成長していったようなものですね。隠れ家というのも分かります。私だって、こんな場所があったら毎日だって駆け込んでしまいそう」
リュールは僕と同じように空を仰ぐ。きらきらした木漏れ日に目を細めて、気持ちよさそうに伸びをする彼女は本当に心地よさそうで、ここを気に入ってくれたようだ。僕が褒められたわけではないけれど、なんだか少しくすぐったい。
僕は照れ隠しに少し笑って、こっそりリュールの横顔を覗き見た。目覚めたばかりの頃は生まれたてのひよこのようにあどけなかった横顔は、今はもうすっかり立派な女王様の顔だ。凛々しくて、気高くて、それでいて優しい。幼い頃に僕をソラネルに迎えてくれたルミエル様に段々似てきた気がする。
リュールは僕より本当はずっと年長だし、ただの人間の僕がこう言うのはおかしいかもしれないけど。
(大人になったな)
そう思う。
光栄なことに僕はこの横顔を一番近いところで見続けてきた。笑顔だけじゃない。彼女の愛らしい顔が怒りに歪んだことだってあるし、悲しみに沈んでしまったことだってある。けれどその度に彼女は大人になっていって、僕が守らなければ危ういとさえ思っていた雛鳥のような少女は、今や背中を預けられる立派な伴侶だ。むしろこれからは、僕が彼女に置いていかれないようにますます努力しなければならないだろう。
僕の視線に気付いて身を乗り出してくるリュールを脚の間に迎えて、ガラクタの山に寄りかかる。誰も来ないとは言え外でそうすると、彼女の重みも温みも部屋でそうしている時と変わらないのになんだかとてもいけないことをしているような、そんな気持ちになった。
「なんだか不思議な気がするよ。あの頃の僕に、ここに神竜様が来ていると教えたらさぞびっくりするだろうね」
「会ってみたかったです、小さなアルフレッド……きっとすごく可愛かったんでしょうね」
「生意気な子供だったかもしれないよ?」
「ふふっ、イヴ女王やセリーヌを見ていればわかりますよ。あなたはとっても素敵なお兄さんだったんだって。今もその陰からひょこっと顔を見せそうな気がします」
リュールは抱きかかえる僕の手に自分の手を重ねて指を絡めてくる。彼女がそうしてくる時は僕に甘えたい時だし、僕が彼女に甘えてもいいのだという合図だ。僕の方からも指を絡めて、彼女の腰を抱く腕にほんの少しだけ力を込める。一層力を抜いて僕の胸にもたれかかってきたリュールの口から、うっとりとため息が漏れていた。
「本当にここは気持ちいい場所ですね」
「君が気に入ってくれてよかった」
「本当はね、木漏れ日の中で眠っているアルフレッドを見つけた時、少し悔しいなって思ったんです。こんな風にあなたが手放しで眠っていられる場所があったなんて、って」
僕には一瞬リュールの言っていることの意味がわからなかった。悔しいなんて言葉を、彼女はそうそう口にしないから。でもすぐに理解が追いついてもっと強く彼女を抱きしめる。
「嫉妬してしまった?」
「ちょっとだけ。アルフレッドのあんな可愛らしい寝顔が見られるのは、私の隣だけでいいのに、って……そんなことを思ってしまいました」
その瞬間にこみ上げてきた気持ちをそのまま表現できればどんなに素敵だろう。でも僕はそうするにはまだまだ臆病で、もう十分に大人になってしまっていた。可愛い装飾品を見つけたオルテンシア王女や、値打ち品を見つけたアンナさんのようにはしゃぐわけにもいかず、彼女の肩口に顔を埋める。
「その嫉妬は、ずるいよ」
「ずるい、ですか」
「だって可愛すぎる」
「……あぅ」
僕らは二人揃って照れて無口になってしまった。リュールは時々こんな風に僕を煽る。煽るくせに自分で照れてしまうものだから、それがまた可愛くて僕も照れてしまう。もじもじ、もだもだ、きっと誰かが見ていたらいたたまれなくなってしまうだろう。今は幸い、僕らしかいないから二人でひたすら照れているだけだけど。
でもそうしているだけでは次第に物足りなくなってくる。もっとたくさんリュールに触れたい。リュールの可愛いところを見たい。そういう欲がむくむくと頭をもたげてきて、僕はリュールの頬に自分の頬を重ねた。
「あ……アルフレッド」
「じゃあ、今日からここは僕ら二人の隠れ家にしようか」
「ええっ、でもあなたの思い出の場所でしょう」
「いいじゃないか。子供の頃は僕一人の思い出の場所だったけれど、これからは僕らの思い出の場所になる。ひょっとしたら十年後には僕らの子供の隠れ家になるかもしれないよ?」
「こども」
重ねた頬が、ますます熱くなったような気がする。そういうつもりで言ったわけではないのだけれど、もしかしてリュールには色っぽく聞こえてしまっただろうか。僕らは一緒に暮らすことは出来ないけれど世間一般で言うなら夫婦の間柄だし、子供ができるにはどうしたらいいかだって知っている。
――それがどんなに気持ちよくて、幸福かということも。
何を言えばいいだろう。そういうつもりじゃなかった、と言うのは変な気がする。でもそのつもりだったと言うのも下心があるみたいで嫌だ。曖昧にお茶を濁してしまおうか。でも、そうしたくないわけじゃない。
迷う僕の背を押すように、リュールの方から僕に頬を擦り付けてきた。絡めた指は少し震えていて、でもしっかりと僕の手を握って離さない。
「……リュール」
耳元で名前を呼ぶと、腕の中で彼女の細い肩が震える。小さく聞こえた声がひどく色っぽくて、もうそういう空気になるのは避けられそうにない。でも、がらくたで遮られているとはいえここは外だ。吹き抜けていった風が、ほんの少しだけ僕を冷静にさせてくれた。
「そろそろ、部屋に戻ろう」
「もう出てしまうんですか?」
「僕らが長いこと隠れていては、皆が心配するかもしれないだろう?」
「もうちょっとだけ、ここにいたいです」
振り返ったリュールは、目を潤ませて僕をじっと見つめてきた。そんな顔をされたら僕の我慢なんていくらもきかない。なにせ、我が儘を言う時の彼女はとびきり可愛いんだ。なんだって言うことを聞いてあげたくなってしまう。
「アルフレッドを、独り占めしていたいから……」
とどめにこの一言だ。僕はもうすっかり部屋に戻る気を失って、ぎゅうぎゅうと彼女を抱きしめた。
「じゃあ、少しだけだよ?」
子供をあやすようにほんの少し兄ぶってみたけれど、大輪の花が綻ぶように笑う彼女の前には虚しい虚勢でしかない。とうとう観念してまたがらくたに寄りかかった僕に、腕の中でくるりと向きを変えたリュールは自分から抱きついてきた。
「大丈夫ですよ。久しぶりに会えたんですもの、きっとみなさん分かってくれます」
「そんなに僕に会いたかった?」
「会いたかったです。一人で眠るのがあんなに寂しいなんて思いませんでした。千年も一人で眠っていたのに、アルフレッドと眠る夜を知ってしまってから寝台がとても広すぎるような気がするんです」
それは僕も同じだった。大人になって大きくなった寝台を広すぎると感じた事はなかったのに、今はやけに広すぎて寒く感じる。僕らが同じ気持ちなのは嬉しいけれど、彼女に寂しいという気持ちを教えてしまったのは少し申し訳なく思う。
そんな僕の内心を見透かしたのかもしれない。リュールはくすくすと笑って、僕の耳元で囁いた。
「だから今日は、いっぱいあなたに甘えちゃいます。ちゃんと、責任をとってくださいね?」
――ああ、今日はもうすっかり彼女に負けっぱなしだ。
上機嫌で身体を弾ませてはしゃぐ彼女をしっかりと抱きとめて、僕は負け戦にため息をつく。世の中でこんなに幸せなため息なんてあるだろうか。ただの女の子のようにはしゃぐ僕のリュールはこんなに可愛くて、愛おしい。そんな気持ちのままに吐き出したため息は、自分で言うのも何だけれど幸福に満ちていた。
(幸せだなあ)
声には出さずに、胸の内だけでそう呟く。
木漏れ日はぽかぽかと暖かくて、吹き抜ける風は春の香りがする。思わずこみ上げてきた欠伸を噛み殺して、僕は甘えてくるリュールの背をゆったりと撫でていた。
――久しぶりに会えた二人が隠れ家で二人きりを堪能して、その空気のまま部屋に帰って。その後どうしたかなんてそんな野暮な事は、語るまでもないだろう。ちょっとやりすぎて、翌朝リュールに怒られたことだけは、言い添えておくよ。