竜三が剣術を習う話「身分違ぇの友なんざ、作らん方がええ」
そう歯抜けの口を歪めて笑うのは、今しがた散々に薪で己を打ち据えた老爺である。その歳では考えられぬ程の敏捷さで、三合とまともに打ち合えぬままに小手を打たれて棒切れを弾かれ、その後は言わずもがな。
竜三は悔し気に地面から起き上がると、未だに痺れが取れない右手首を摩りながら、じろりと老爺を睨みつけた。
「煩え。狒々爺」
血の混じった唾を吐き出す。先程脚を掬われて倒れた弾みで口の中を切ったようだ。じゃり、と砂の感触が不快であった。
老爺は可笑しそうにひひ、と笑うと「さぁて、今日の棒切れ遊びは終いぞ。薪を割ったら酒を購ってこい」とだけ言いのこしてさっさと荒屋に引っ込んでしまった。
鳥は生まれながらに翼があるが、犬は幾ら空を見上げても飛べやしねぇよ。と言う言葉は、竜三の胸の中に鉛のような重さを残した。
山に天狗が住み着き始めた。
そう噂が立ったのは、夏の終わり頃だった。
誰も住んで無い筈の荒屋に、天狗のような老爺が入ってゆくのを、野草を採りに行った女房達が見たというのだ。その噂は村の子供達にもさざめきの様に伝わり、竜三の耳にも入った。
「何でも、天狗の面を付けておるらしいぞ」
隣で顔を手拭いで拭いていた宗太が竜三に言った。日照り続きの畑は土が硬く、皆掘り耕すのさえ一苦労していた。
「物狂いじゃねぇのか?」
平素からそんな面を被っているなどまともでは無い。竜三がにべもなく言うと、宗太が畑仕事で分厚く鍛えられた肩をすくめた。
「だが、でかい猪に襲われてた女を助けたって話だ」
「かなりの爺なんだろう? 本当かよ」
「まぁ聞けよ。その爺、ふらっと前に出でると、唯の鉈で猪の首を落としたんだとさ。俺が思うに、あれはどこかなの名のある武人だぜ」
「ふぅん」
その時はあまり興味を持たぬ素振りで返したが、竜三は天狗爺に会わねばと心に決めていた。
幼馴染である境井家の嫡男、仁が来春から城に上がる事となり、太刀や弓の稽古をしていると本人から聞かされたのだ。
確かに、地頭の甥であり直臣の家の子と唯の下人の子では最初から天と地ほどの差があったのだ。それは竜三も嫌と言う程理解していたが、胸の中に渦巻く忸怩たる想いはそう簡単に消化できる筈もなく、常に鉛の様な重さが腹の底にじわじわと溜まってゆくのを感じていた。
(彼奴に遅れを取りたくねえ)
せめて、剣だけでもと棒切れや丸太を振るも所詮は素人の生兵法で、ただただ振り回すだけで終わる。
その翌朝、竜三は天狗が住み着いた山に入った。
薄暗い森の中を進み続け、川を渡り、それらしい荒屋にようやく辿り着いたが、陽はとうに暮れている。
どうにもならない怒りや焦燥が、竜三を突き動かしていた。
「おい!! 天狗!!」
息を吸い、腹の底から声を張り上げる。
「俺と立ち合え!!」
手製の木刀を構え、荒屋に向けて吼えた。満月の光差す森の中に響き渡る。
すると、のそりと黒い影が中から出てきた。目を凝らせばそれはぼろぼろの小袖を纏った矮躯の老爺だ。酒でも呑んでいるのか、その足元は覚束ない。
「仔犬が夜更けに煩いのう」
低い嗄れ声が響く。かすかに笑った様だ。
それが無性に苛立って、竜三は木刀の切っ先を老爺に向けて睨みつけた。
「おう、棒切れ遊びか。童には似合いよ」
「莫迦にするな!」
くあ、と面倒くさそうに欠伸をする老爺にかっとなり、竜三は木刀を振りかざして老爺に迫った。
だが、ひょいと避けられた上に足を引っ掛けられて、無様に倒れ込む。
強かに顔面を打ち、星が飛ぶ。
「面白い仔犬じゃのう」
その言葉に「糞爺…」と悪態をつきながら竜三の意識は闇に沈んでいった。
瞼を透かす勢いで白い光を感じて、眩しさに堪らず起き上がる。ずきりと額が痛んだ。
「ってぇ……」
触るとぼっこりと瘤が熱を持っている。暫くは引かぬだろう。
「ようやく起きたか。犬っころ」
嗄れ声が痛む頭に響く。襤褸を纏った背中がそこに佇んでいた。傍らの瓢箪をぐびりと口元に持っていく。中身は酒だろうか。
「俺は犬っころじゃあねえ。くそ爺」
悪態をつけば老爺がくつくつと笑う。
「威勢がいい犬ころじゃ。のう、犬ころ。ひとつ賭けをせんか」
ゆらゆらと瓢箪を揺らしながら老爺が言った。
「今より三日。儂に一撃を入れる事が出来たら、棒切れじゃなく、人の斬り方を教えてやろうぞ」
ひひ、と低い笑いを漏らす老爺の言葉に、竜三はごくりと息を飲み込んだ。
それから、竜三は老爺の荒屋に度々来ては棒切れで挑み、強かに打ち据えられ転ばされる日々が続いた。
「くそ!」
今日は転寝している後ろから殴り掛かったというのに、この爺はいとも容易く受け止めて、酒が入っていた瓢箪で強かに額を殴られた。
あまつさえ、「酒を購って来い」と言い捨てまたごろりと横になってしまった。