夜海のバカンス銃声が聞こえた。
気付いた時には、俺は1人で銃を構えて荒れ果てた地に立っていた。周りを見なくても、硝煙の匂いや焦げ臭い匂いが立ち込めていてここが戦場だと言うことはすぐに解った。ただ、様子がおかしい。ここには誰も居ないという確信があった。
「誰か、誰か居ないのか!?」
叫んでも答えてくれる人は居なかった。敵の気配もしなければ、生きている人間の気配もない。戦場なら必ずする筈の、腐った様な血の匂いもしなかった。
「……エー…ル。」
僅かだけど後ろの方から声がした。
生きてるやつかもしれない、声のする方に振り返って、
「タバティエール!」
ハッと目を覚ますと、心配そうにこちらを覗き込んでいるマスターが居た。
辺りを見渡すとそこは戦場ではなく、士官学校の談話室で、俺とマスターの他にもシャルルくんやシャスポー、グラースも居て、3人ともこちらを見つめていた。短く息をはいて呆然としている俺を見かねて、シャスポーがため息をつきながら問いかけた。
「魘されてたぞ、大丈夫か?」
「あ、あぁ……悪い、いやな夢を見て……。」
「汗凄いよ、ほら、」
マスターがそっと額を拭ってくれる。
最近、夢見が悪くて、夜眠る時もさっきみたいな恐ろしい夢を見て眠れていない。今だって談話室のソファでレシピの本を見ていたはずだったけれど、睡眠不足が祟ってうたた寝をしてしまったみたいだ。
「タバティさん、働きすぎなんじゃない?たまにはゆっくり休んだ方が良いよ。」
「ハッ、世話焼きがぶっ倒れちゃ元も子もないな、お兄様?」
「……お前だってあれこれ甘えてるじゃないかグラース!」
「はぁ?甘えてなんてねぇよ!」
シャスポーとグラースの口喧嘩を聞いて、シャルルくんが呆れた様にため息を付く。
すると、俺の前で心配そうにしていたマスターが、顔を上げた。
「タバティエール、海に行こうよ。」
「……海?」
聞き返すとマスターはにっこり笑って頷いた。
丁度明日は休日だけれど、ただ、普通の休日に海に行っても日帰りになるし、ゆっくり出来る時間は無さそうだ。それに、わざわざ俺の為にマスターに付き合わせるのも悪い気がする。どう答えようか考えあぐねていると、マスターがフォローするように、俺の手を取った。
「大丈夫だよ、今夜すぐ行ける海だから。」
「こ、今夜?」
「うん、だから開けておいて。あと、寝不足なら今日はあんまり無理しちゃダメだよ。」
そう言ってマスターは立ち上がって、騒がしいシャスポーとグラースの方を振り向く。
「シャスポーもグラースも、今日と明日はタバティエールに甘えるの禁止。」
「「はぁ!?」」
「用事があるなら俺を通す事、せっかく明日は休日なんだからちゃんと休んで貰います。いいよね?」
甘えてなんかないと2人の顔に大きく書いてあったが、マスターの言い分に異論は無いのか黙って頷いた。シャルルくんが心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「タバティさん、マスターの言う通り、無理しない方がいいよ。」
「ああ、悪いね心配かけて……。」
「全然いいよ!いつもありがとう、マスターとゆっくり休んできてね。」
*
「マスターちゃん、居るのか?」
その日の夜。もう少しで日付が変わりそうな時間に、シアタールームの扉を開けた。中を覗くとなにかビデオデッキを弄っていたマスターがこちらを振り返った。寝巻き姿、いつも縛っている髪も下ろしていてあまり見慣れないから新鮮だった。美しいブロンドの髪が電気を小さくした部屋には暗闇にキラキラと光って見えた。
「ちゃんと寝る準備してきた?」
「ああ、してきたぜ。」
「うん、じゃあ今日はここで寝よ!毛布も持ってきたし、風を入れたいから窓は開けるけど今日はそんなに寒くないから平気だと思う。」
ここで寝る?と不思議そうにしていると、モニターの傍に2人くらい座れるソファが置いてあった。そして、モニターの電源を入れると、夜の海の映像が流れてきた。
そこでやっと、彼のやりたいことが分かった。
勘づいた俺の表情で分かったのか、マスターは肩を竦めて笑った。
「ほんとは、本物の海に行きたい所なんだけど今日はこれで我慢して。」
「いや……こんな手の込んだ事、いいのかい?」
「もちろん、本物は今度のバケーションまでお預けって事で……。映像でもヒーリング効果があるみたいだし、海の漣の音もリラックスしてちゃんと眠れると思う。あとは、俺が隣に居るから抱き枕にしていいよ。」
男が2人座っても余裕がありそうなソファに先にマスターが腰掛ける、立ち尽くしたままの俺に向かって、彼は笑って手招きをした。
「こっち、来て。」
俺を招く声には甘さが含まれていた、招かれるままにマスターの隣に腰掛けると、包まれるみたいに薄手の毛布が掛けられた。おずおずと、隣の彼の肩に頭を預けると髪が頬に触れて少し擽ったい。
「寒くない?」
「ああ、大丈夫だ。」
「そう、良かった。寒かったらもっとくっ付いていいよ。」
何となくこれ以上甘えるのは気が引けて、俺はそのまま毛布を肩まで被った。目を閉じると、隣の暖かい温もりを感じられて安心する。海のさざ波の音も、開けた窓から吹いてくるそよ風も心地がいい。まるで本当に、夜の海の傍で眠っている様だった。
「……本当に、海に来たみたいだね。」
「さざ波の音のせいだろうな、安心するというか、落ち着くと言うか、そんな感じがするよ。」
「うん、俺の方が先に寝ちゃいそう……、」
ふわぁ、と欠伸をする彼に思わず笑みがこぼれる。
「先に寝たって良いんだぜ、マスターちゃん。」
「いや、今日はダメ、俺は貴方の抱き枕なんだから……せめて貴方が寝るまでは、」
ふるふると頭を振るマスターを、それなら遠慮なく、とその背中に腕を回して抱き締めた。胸の辺りに耳を寄せれば規則正しい心音が聞こえてくる。
「タバティ、エール……?」
「んー、温い抱き枕だなぁ、」
「っ、ふふ、髪擽ったい。」
マスターはそう笑って、俺の背中に手を回した。とん、とん、とまるで子どもをあやす様に規則正しく背中を叩いてくれる。そのテンポが気持ち良くて、波の音も相まってうつらうつらと、意識が行ったり来たりする。
「ねぇ、タバティエール。」
マスターが呼んだ声に目線だけで答える。彼は俺の返事を待たずに話を続けた。
「お願いだから、あんまり無理しないでね。シャスポーとグラースの世話を焼きたくなる気持ちは分かるし、貴方はサポートするのが好きだからしょうがないんだろうけど、それでも俺は心配なんだ。」
言葉を選んでるのか、ゆっくりとマスターの言葉が自分の中に落ちてくる。咎めるような声ではなくて、本当に心底心配してるって声は、いつもより優しくて穏やかだった。
「だから、また寝れなくなったりしたら俺の所においで。そして甘えてよ。貴方と比べたら俺なんてまだまだ子どもだろうけど、頼って欲しいし寄りかかって欲しいな。」
くっ付いている所から伝わってくる人の体温にとろとろと思考が溶かされていく、それを波音がもっと遠くに攫って行ってしまいそうな感覚になる。もう目を開けて居られなくて、俺はゆっくりと身体の力を抜いた。
「次は、本当の海に行こうね、……おやすみなさい。」
ちゅっ、と音が鳴って、額に柔らかい感触があった。それに反応する気力もなく、俺の意識は深い底まで落ちていった。
その日は、悪夢は見なかった。