火遊び 4話side.Master
昨日、俺は初めて他人に自分からキスをした。
グラースから煽られてムキになっていたとは言え、男を押し倒してキスを仕掛けたなんて、我ながら信じられない。
(性感帯か……。)
自分の指を口の中に突っ込んでみる、昨日グラースにやられたように上顎を撫でたり、舌の裏側を擦ったりしてみるものの、イマイチよく分からない。ベッタリ着いた自分の唾液にももちろん何も感じなくて、そのまま洗面台で洗い流した。
「あ、」
着替えようと姿見の前に立つと、首筋に赤い痣が出来ていた……いくつも。
確か、昨日散々グラースからキスされたり噛まれたりした所だったと思う。なるほど、これが俗にいうキスマークってやつなのか。ゆっくりと指先で触れる……もちろんただの痣なんだから痛いとかは無い、けれど。どうしてだか付けられた所がジリジリと熱を持っているような気がしてならなかった。
「……意外とグロテスクだな。」
肌に付いたその痕は赤いものや、紫に変色しているものもあった、小説でそれは花のように例えられるけれどまったく美しく見えなかった。
制服のシャツを羽織るとギリギリの所で隠れたのに思わず笑ってしまう。アイツ、本当に手馴れてるんだなと思いつつ、上着を来てネクタイを締める。これで、前を開けない限りは、痕なんて分からないだろう。あとは、
「俺が見えない所に付けられてなきゃ良いけど。」
鏡の中の自分が苦笑いを零して、部屋を後にした。
*
「マスター、いつもと違う匂いがする。」
昼休み、俺はマークスとライク・ツーと一緒に食堂に来ていた。この後の授業は、特別クラスと合同だからとマークスに誘われて、近くにいたライク・ツーも巻き添えにした。何か不満そうなマークスの顔は見なかったことにする、いい加減仲良く、とまではいかなくていいけど喧嘩の数を減らしてもらいたいものだ。
昼食を乗せたお盆を持って2人が待っている席まで行くと、突然隣のマークスがそう言い出した。
「違う匂い?……なんだろう。」
「出たよ、忠犬発言。」
「アンタは黙ってろ。」
「チッ……あっそ。」
俺の正面に座っているライク・ツーはうんざりしながら自分の食事に手を付ける。マークスは相変わらず鼻をすんすん、と動かして首を傾げている。俺もそっと自分の腕の辺りに顔を近づけて大きく息を吸い込んだ。制服から香ってきたのは洗剤の匂いだけで、あとはいつもと何も変わらない気がした。
「んー……??甘い、匂い??花の香り?」
「花?別に石鹸とか変えてないけどな。気のせいじゃない?」
「いや!俺がマスターの匂いを間違えるわけない!」
「マークス……それじゃ貴銃士じゃなくて本当に犬だぞ。」
苦笑いしながら手を合わせて食事を摂る。
すると目の前のライク・ツーがこっちをジーッと見つめていた。色の違う2つの瞳がまるで自分を品定めでもするようにゆっくりと動く。
不思議に思って首を傾げると、ニヤ、と薄ら笑みを浮かべた。
「ふぅん。真面目で優等生なお前がねぇ。」
「……どうしたんだライク・ツーまで。」
「別に、俺は匂いの正体分かったけど。」
「な、なんだと!?なんでお前に分かって俺に分からないんだ!!」
マークスとライク・ツーが睨み合っている所に、恭遠審議官が傍を通りかかった、俺たちに気付くと眉を下げて微笑んだ。
「マークス、ちょっといいかな。これから補習の小テストをするから、昼食を食べ終わったら教室まで来てくれ。」
「教官……ちなみに科目は?」
「古典だよ。」
科目を聞いた瞬間、しょんぼりと肩を落とすマークスに中々キツく言えず、困ったように苦笑いしか出来なかった。とりあえず励まそうと声をかける。
「次のテストの前には声掛けて、教えてあげるから。」
「でも、マスターはマスターの課題があるだろ?」
「あるけど、補習続きなんて嫌だろ。一緒に勉強しよう、古典なら得意だから。」
ぽんぽん、と背中を叩いてあげると、マークスは瞳をキラキラと輝かせて席を立ち上がった。がたん、と大きな音が鳴って周りに座っていた生徒たちもこちらを振り向く。
「補習、すぐ受けてくる!」
「え、えぇ?」
「そして、すぐにマスターに分からない所を聞く!その方が効率良いだろ?」
「それはそうかもしれないけど。」
「行ってくる、ご馳走様でした!」
スタスタと食器を返しに行ったマークスを背中を見つめて、思わず笑ってしまう。こないだまで銃だったせいか、それともマスターである俺を信じきっているのか、あまりにも素直過ぎる。
恭遠審議官の方を向くと彼も肩を竦めてやれやれ、とジェスチャーをした。
「やっぱり、マークスはキミの言うことならすんなり聞くね。」
「すみません、補習よろしくお願いします。」
「ああ、任せてくれ。昼休憩の邪魔して悪かったね。」
「いいえ、」
恭遠さんとマークスの後ろ姿が見えなくなるまで見つめていると、肩を叩かれた。振り向くと、向かい側に座っていたライク・ツーがすぐ目の前に立っていた。
「こっち。」
「……?」
食堂を出てあまり人気のない廊下まで出てくる。彼は周りに人がいないのを確認した後、こっそりと耳打ちしてきた。近づいた桃色の髪に、左右の色が違う瞳に思わず目を奪われる。
「お前、ここ、首元に痕ついてる。」
「……あ、」
「何、恋人でも出来たわけ、あの忠犬が匂いが違うって騒いでたのもこれ、だろ?」
彼の細い指が、俺のシャツの襟をクイっと引っ張った。目線だけ移せばくっきりと赤黒い痕が見えた、少し動いた時、身をかがめた時に見えてしまったのだろうか。
そっと首元を手で隠して、襟を正した。
まぁ、かなりギリギリの所で付けられてたし観察力が鋭いライク・ツーにはバレてしまったらしい。マークスは、バレてもキスマークという発想は無いだろうし、ただの痣とか虫刺されだと思うだろう。むしろそうであってくれ。
「んー、そんなに匂うかな、アイツの部屋そんなに芳香剤とかなかったと思うけど。」
「うっわ、生々しい。」
「ごめん、ライク・ツーは目敏いな。流石。」
「んな事で褒められても嬉しくねぇ……。」
彼はそう言って、はぁ、とため息をつく。壁に背中を預けて、彼はそのまま窓の外を見ながら話を続けた。
「まぁ、匂いは正直分からねぇけど、アンタ、なんか変わったなと思った。」
「変わった?」
「そう、……んー、言葉にすんの難しいな、例えば、さっきの痕。」
ライク・ツーが言葉を選びながらゆっくりと話をする、マークスと一緒にいるとどうしてもキツい印象を持つけど、しっかりしてるし俺と同じくらい成績優秀だし。気遣いもできる、貴銃士として生きた年月がそうさせるのか、それとも銃としての性能がそう顕現していたりするのだろうか。
「前までのお前なら、もっと慌てて、照れて隠してたと思う。でも、さっきのお前は、なんだそんな事かとでも言わんばかりに落ち着いてた。」
「……。」
「だから、お前なんか大人びたよ。まぁ、俺の認知が最初から間違ってただけかもしれないけど……。」
少し視線を落として自信なさげに答えてるけど、その観察は当たっていると思う。昨日の一夜で、自分の中で何かが塗り変わった気がしていたからだ、たった、あのひと時の悪趣味な戯れだけで。
勘が鋭いのか、他人をよく見てるのか……、ライク・ツーに隠し事するのは結構大変かもしれないな、と思って俺は微笑んだ。
「大人びたかな?普通に恥ずかしいよ、バレたの……。」
でも、普通の優等生は後ろめたく思うものだろう、情事の痕がバレるなんて最悪だ。
だから肩を竦めて、はは、と笑ってみせる。そんな俺を見てライク・ツーは呆れたようにため息をついた。
「なんだよ、……どこまで行っても変わらないなお前。」
「人は簡単には変わらないよ。」
「そうか?俺は簡単に変わるもんだと思うけど、特に恋愛とか。」
ぎょっとする。ライク・ツーからまさか、恋愛なんて単語が出てくるなんて。
俺の反応で意図を感じ取ったのかじろりと睨まれた。
「お前なんか失礼な事考えてないか?」
「いや、意外だなと思って。どうした、気になる子でも居るのか……?」
「馬鹿言ってんじゃねぇ!一般論だろうが!!……ああ、そういえば、あいつ、フランスの、弟の方。」
「グラース?」
「そう、アイツと関わった奴全員、人が変わったように前向きになってるらしいぜ。」
「……へぇ。」
関わったやつ全員ということは、この前、ジョージと話していたあの同級生の女子生徒のようにグラースは他の生徒にもいい影響を及ぼしているのだろうか。
フランス人、凄いな……いや、アイツが凄いのか?
「最近はあんまり他の生徒と歩いてるの見てないけど、そういうの聞くと、ただ遊んでるだけじゃないのかもなって思う。」
ライクツーの話を聞きながら、俺はまた考え込む。
ラッセル教官の話では、生徒からもグラースの奔放な交友関係をどうにか止めて欲しいという声が上がっているはずだった。それは、グラースが複数の生徒と身体の関係を持ちながら気持ちを弄んでる、という事に対して被害を受けている当事者からの告発だと思っていたけれど。
そうではなくて、周りの人間からの告発も有り得る。年頃の生徒であれば、他人の色恋にあれこれケチをつけるものだ。せっかくだし、人をよく見ているライク・ツーに探りを入れてみる。
「ライク・ツーはさ、グラースが誰かと揉めてる所見た事ある?」
「は?……シャスポーとかタバティエール相手だったら死ぬほど見てる。」
「はは、その2人以外は?それこそ、一般生徒とか。」
「いや?痴話喧嘩みたいなのも見た事ない……けど、影からアイツをすげー怖い顔で睨んでる奴は見た事ある。誰彼構わないから外野から相当恨まれてたりするかも。」
「……外野。」
「なに、素行調査でもしてんの?」
サラサラと自分の髪を弄びながら、ライク・ツーが不思議そうにこちらを見る。ピンク色が揺れるのを見て、口元で笑って見せた。
「これは秘密なんだけどさ。」
「……なんだよ。」
俺、グラースと仲良くなりたいんだ。
こっそりと耳打ちをするとライク・ツーが勢いよくこちらを振り返った。信じられない、みたいな顔をされて思わず笑ってしまう。
「お前、アイツと合わないだろ。」
「そうかな、まだちゃんと話した事無いし……これからだってジョージから言われたけど。」
「それはあいつが脳天気なお調子者だからだ、お前も他の奴らみたいに弄ばれたって知らねぇぞ!」
それはもう、この状況を考えれば現在進行形で弄ばれてるだろうなと思う。
俺は身を翻してライク・ツーに向かって手を振った。
「ちょっとラッセル教官の所に行ってくる。またね。」
去っていく背中を見つめて、ライク・ツーはそのままゆっくりと息を吐いて冷たい壁に背中を預けた。
「何隠し事してんだか……ま、別に良いけど。」
*
教官がいる執務室までの廊下。
人気の無いその場所で、2人の女子学生がなにやら言い合いをしていた。大きな声に驚いて慌てて影に身を隠す。
よく見れば片方は最近可愛くなったらしいクラスメイトの女の子だった、もう片方はよくその子と一緒にいる仲が良い女子学生。いつも仲が良くて、言い合いなんてする事無いのに、一体どうしたんだろう。
「だから、騙されてたんだって!!」
「やめてよ、あの人はそんな人じゃ……!」
「何言ってるの!?あんなの人間ですら無いじゃない!」
「っ、ひどい。」
「ひどいって何よ、私は貴女の事を想ってっ!!」
このまま見ていてもヒートアップするだけで拉致が開かないかもしれない。そう思った瞬間、俺は2人に声を掛けていた。
「そこで何してるの。」
ハッとした顔で2人が振り返る、俺の姿を見て少し安心した様だった。ここは上官も通るし、揉め事には心底向かない。2人に向かっていつも通り笑いかける、まるで通りすがりかのように。
「喧嘩?珍しいね。」
「……何よ、――くんには関係ないでしょう。」
「うん、関係ないけど。凄い声が響いてたよ、教官とか誰か駆けつける前に場所を変えたら?」
頭に血が上っていたのが落ち着いたのか、一方的に怒鳴っていた方の女子学生は、仕方なさそうにため息を付いて反対方向に立ち去ってしまった。
残された子の顔を覗き込むと、目には涙が溜まっていた。
「大丈夫?」
「……ごめんなさい、心配かけて。」
「ううん、ハンカチいる?」
「大丈夫……あのね、――くんに聞いて欲しいことがあるの。時間、いいかな。」
そう言い出した彼女の顔があまりにも深刻だったから、俺は二つ返事でその子の話を聞く事にした。
「グラース様の事なんだけど……貴方は何か聞いてる?」
「ラッセル教官から少し、夜遊びが過ぎるって。」
「ふふ、上手く濁らすのね。でも、たぶん貴方が聞いてるより酷い人じゃないの。だって、グラース様と話して変わった人が沢山居るのよ。」
さっきの険悪な空気とは打って変わって、その子はとても嬉しそうにグラースの事を語った。俺は時々相槌を打ちながら、大人しくその話を聞いていた。
引っ込み思案な自分の性格が嫌で、堂々とできるように自信をつけて貰ったこと。
訓練ばかりで外見に気を使えないことを相談して、小さな出来ることからアドバイスを貰ったこと。
自分の他にも付き合っている生徒が居る事は知っていたけど、他の生徒もグラースに変わるキッカケを貰っていることを知って、自分の気持ちに折り合いを付けたこと。
「だから、すごく感謝してるの。グラース様には。」
「……そっか。」
「もう個人的には会えないって言われたけれど、――くんが何か言ったの?」
「あぁ、そうだよ。不純な交友関係は風紀が乱れるからやめろって……君の話を聞くと実際は、そんなに不純じゃなかったみたいだけど。」
無理矢理関係を断ち切る真似をしてしまった事を、少しだけ申し訳なく思うと同時に、アイツのことが、よく分からなくなってきた。
俺や教官たちが想像しているような関係じゃなかったとしたら、アイツは何で俺とキスをしたんだろう。あくまでも、他の生徒と関係を切る変わりだった筈だ、変わりにしては些かやり過ぎじゃないのか?だって、少なくともこの子とは身体を重ねる様な間柄では無かったようだし。
「いいの、実際に私の周りの人達は良く思ってなかったもの。」
「さっきの喧嘩も、それ?」
「ええ、あの子は私が本当にグラース様に無理矢理変えられてしまったって思ってるみたいだった。あの子の他にも、仲が良かった子達も……引っ込み思案で、暗い私の方が好きだったみたい。」
馬鹿みたいよね、と何かを諦めた様にため息をつく。
皮肉な話だ、前向きな変化でさえ、男に変えられたという事実が、良くない方向に向いているように見えるのだろう。この子の交友関係に詳しいわけじゃないけど、どうしても男子学生が多い士官学校での女子学生の立ち位置は難しい。限られたコミュニティの中で、爪弾きにされたりしたら堪らないだろう。
でも。
「君が変わりたいと思って、グラースがその背中を押して、その通りに変われたのなら凄いことだと思うよ。」
「……。」
「人は、そう簡単には変われない。みんな自分にあれこれ言い訳して、楽な現状維持を選ぶのに……君はちゃんと理想通りになれたんだよね。」
それが、グラースのお陰だと言い切るこの子の言葉と気持ちは偽りではない。それだけは伝わってくる。
俺の言葉を聞いて、彼女は控えめに微笑んだ。
「優しいのね、ほんと。……ねぇ、グラース様の事、見直してくれた?」
「うん、少なくともふしだらな事はしてないっていうのは分かった。あと、君も含めてアイツの事を悪く思ってる人はほとんど居ないって事もね。」
「良かった。……ああ、でも。」
女子学生の手がそっと俺の襟元に伸びる、ほぼ反射的に俺はその手を払い除けた。
パシン、手と手がぶつかる乾いた音だけが静かな廊下に響く、彼女は驚いた様な顔をしてから、一歩後ろに下がった。
「その痕、あの人に付けられたの?」
「……なんの事。」
「とぼけ無くても良いのよ、誰にも言わないから。でも、私達から遠ざけた代わりに、貴方がグラース様と……。」
「ちょっと待って!……っどうして分かるの。」
「ふふ、だって、――あの人の匂いがするから。」
ひゅ、と喉から息が漏れる。
驚いて何も言えなくなった俺を見て、彼女は見た事ないくらい大人びた笑みを浮かべた。――ああ、確かに彼女は変わったのかもしれない、少なくともこんなに色気があるように笑う子じゃなかったから。
「これ以上口出しはしないけど、バレないように気を付けて?優しくて真面目な貴方だからきっと皆挙って話題にすると思うわ。」
「……ご忠告、どうもありがとう。」
絞り出したその声は少し震えていた。
彼女は手を振ってその場を後にする、俺はまた少し熱を持ち始めた気がする首元にそっと触れたまま、しばらくその場に立ち尽くした。