黄緑色のくちびる、というたぐいの呪い「……きみのせいだろう」
大雨の中玄関扉を叩かれたので、そっとドアを開けたところ、だしぬけにそういって仏頂面を向けてきたのは黒いフードを被った人物。その彫りの深い顔立ちとタレめのまなこは、リーチェのお気に入り。だがこれは――あたしも初めて見たわね。相手の唇が鮮やかな黄緑色になっているので、リーチェはまつ毛のながい黒目がちな相貌をすこし見開いた。
可哀そうなあたしのヴェル。どこぞのだれかに呪いなんかかけられちゃって。それも、唇が黄緑いろになるなんていう、くだらない呪い。
「とりあえず入って、傭兵さん。風邪を引くわ」
といって彼女を部屋に通すと、雨のにおいが強く香った。鼻孔を膨らませてにこりと笑んだリーチェの顔を、ヴェルがまじまじと見る。
「風邪なんて引くもんか。それより、やっぱりきみのせいだろ」
居間の真ん中には囲炉裏があって、今そこでちょうど湯を沸かしていたところだった。お茶を淹れようとポットのある戸棚へ向かいながら、リーチェは肩をすくめた。
「残念ながら違うわ。あたし、あなたのくちびるの色はいままでので満足しているの」
「……本当に? 私に何もしてないのか?」
なおもいう相手に、リーチェは黒い唇を吊り上げた。
「ふふ。あなた、悪いことはなんでもあたしのせいだと思ってるのね」
「いや、そういうわけじゃ……」
ヴェルの巨躯が立ち尽くす。黒いローブに隠されていても、立派に隆起した筋肉のさまは透けて見える。ふいにその体に触れたくなって、リーチェはお茶を淹れるのを取りやめて踵を返した。
ひたりと一歩、彼女のほうへ足を踏み出す。
「……そうかもしれない」
数拍の沈黙を置いてからヴェルがそういったので、リーチェは小首を傾げた。巨女は続けた。
「確かに私は、なんでも悪いことがあるときみのせいにしている。すごく失礼なことだ。すまない」
そういってヴェルが謝罪のしるしに拳を持ち上げるお決まりのしぐさをしてみせたので、リーチェはほほえんだ。
「いいのよ。そうやっていちいちあなたに思考を飛ばされるのって、あたし嫌いじゃないわ。それにしてもいったいどこの誰かしらね、城でいちばん強い傭兵の唇を、わざわざ黄緑いろに変えようなんていうおかしな人は」
そういったとき、すでにリーチェはヴェルのすぐ目の前に立っていた。そっと、青白く長い手指でヴェルの上腕に振れると、布越しに彼女の鍛え抜かれた筋肉がぴくりと動いた。
「……嫉妬だろうか」
まなざしでリーチェの腕の輪郭をたどりながらヴェルがそっとつぶやいた。
「ばれてるっていうの? あたしとあなたの関係が」リーチェは考えられない、という意味を込めてそう返した。
「宰相の一人娘で、かつ帝国主導の魔物討伐でいちばんの戦績を収める、優秀な美しき魔術師、リーチェ」
滔々語るようにヴェルがいい出したので、リーチェはちょっと面白くなった。恋人は続けた。
「そんな引く手あまたの娘の愛情を独占する、しがない厩舎育ちの女傭兵。悪意を向けられても仕方ないのかもしれない」
「それで、その悪意に甘んじるの?」リーチェの美麗な顔貌が、ヴェルの武骨な面と、息のかかる距離まで接近する。ささやくように魔術師はいった。「疎まれ、なじられ、呪われて、ひとの悪意を山と集めて、それで最強の傭兵さんはどうするのかしら」
「別に。どうもしないよ」ヴェルが肩をすくめた。いつも皮肉っぽい笑みにはためいている口角が、いまもまたちいさく上がる。ふとくたくましい腕でリーチェを抱きしめて、ヴェルはいった。「外野がなにをしようとたいした影響はない。物語の終わりはこうだよ。傭兵は魔術師と幸せに暮らしましたとさ、おしまい」
おしまい、のいい方が可愛らしかったものだから、リーチェは喉の中でくつくつと笑った。「かわいいひと! 復讐心がまるでないんだわ。でも、あなたと添い遂げるつもりの魔術師は、こわいこわい女なの。恋人の唇をへんな色に変えられちゃったら、すこしばかり、いたずら心が働いちゃうのよ。だから――」
リーチェは相手の呪われた黄緑いろの唇に、押し付けるような接吻をした。
きっかり5秒のお熱いキッス。
とたんに、傭兵の唇が本来の、ほのかなピンク色に変わる。呪いは主に返されたのだ――ちょっとしたおまけ付きで。
ヴェルは、なおも己の腕の中にいる魔術師に、こう訊いた。
「それで、我らが呪いの主は、いったいどんな罰を受けたの?」
「それはね、」
つまさき立ちした魔術師が、傭兵の耳にささやいた返答に、ヴェルは目をぱちくりさせた。
「………………よ」
そうしてヴェルは、なるだけこのひとを怒らせるのはよしておこう、と思ったのだった。(了)