神食みし者ども 神は泳いでいた。日本海の東、水深の浅いところを悠々と泳いでいた。おおぶりのタイの姿形なぞをとって泳いでいた。ひとの暦でゆうに6週間は泳ぎ続けていた。人の所業にそも関心のない神であるからして、そのうちうっかり人間の漁船の広々と幅を取った網に捕まってしまった。
タイの姿ではタイくらいの知能しか持てず、神はなすすべもなく人間に捕まってしまった。
神はおおぶりのタイとして高値で取引され、そこそこ名のあるレストランにて団体客に供された。春の良き日のことであった。
某県の中小企業H商事に勤めて二年目の25歳、古川玲奈君は職場の新年会に出た。そこで出されたおおぶりのタイを皆で囲み、舌鼓を打った。となりに座る別の課の初対面28歳の返田春斗君と、「このタイ不思議な味がしますね。けど、おいしい」「ですね。特別なタイなのかな」と言葉を交わすなどした。酒を飲み、玲奈君は帰りがけにタクシーのバックミラーに妙なものを見た。いるはずのない死んだ祖母であった。翌朝玲奈君はその記憶を、酔いのせいであると決めつけて安堵しようと試みた。
春斗君は電車で帰った。べろべろに酔っていたものだから、電車の窓が4重の頑丈な窓に見え、その向こうに見知らぬ尖塔などが見えても、気づくことがなかった。それよりも激しい腹痛と下半身の局部の痛みに、腹を抱えてひたすら悶えていた。
H商事の総務課長である57歳の山内源蔵氏も、新年会に出席してタイを食べた一人である。源蔵君は酒は飲まない。そのため自家用車で帰路についた。そして事故を起こして、救急車の到着を待たずに亡くなった。てんかんの発作を起こしてコンビニに突っ込んだとされた。通夜が翌日に、葬儀が翌々日に行われる運びとなった。
神を食べた面々がだいたい皆葬儀に出席した。当然黒服を身にまとって喪に服した。玲奈君はそのうち幾人かの顔に大きな穴が開いているのを見た。その日玲奈君はもちろん酒を飲んでいなかったので、自分をごまかしようがなかった。新年会の夜以降、異様なことが起こり続けているので、玲奈君は不安だった。周囲を見回すと、そこには同じように不安がる春斗君がいた。それまでまるで交遊のなかったふたりは意味ありげなまなざしを交わした。
玲奈君と春斗君は翌日の日曜日にはもう体の関係を持った。惹きつけ合うふたりの引力は何にも妨げようがなかった。体の相性が恐ろしく良いことに二人とも気づいていたし、寝物語にぽつぽつ語りだした玲奈君の話に、春斗君も同調した。新年会の日以来異様なものが見えるのは己だけではないと知り、ふたりは安堵した。ラブホテルを出て空を仰ぐと、昼にも関わらず星空が広がっていた。それは美しい星空で、二人はいざなわれるように熱い口づけを交わした。通りがかりの初老の男性が二人を見て眉をひそめたが、二人の目には入らなかった。
異変は次々に起こった。H商事はもはや正常な業務を続けられなかった。電話の受話器が巨人の指に見えるものもいたし、妖精たちに食われて死ぬものもいた(その場に神を食べていないものがいなかったため真相はわからなかったが、実際その女は複数の小さなものに群がれて食われたような死に方をしていた)。死者が出たことで警察が介入した。警察の聞き取り調査によって、H商事の大勢が幻覚を見ていること、不安の発作に襲われていること、そして、最近急に――性別を問わず――肉体関係を持った二人組ないし三人組が多くいることが明るみに出た。警察は違法な薬物のせいではないかと検討を付けたが、H商事社員の身辺をくわしく洗い出しても、薬物とのつながりは一向に見られなかったし、全員が薬物検査において陰性を出した。だがこのような事情を述べても仕方がないだろう。かれらの異変はもちろん神を食べたせいだからである。
警察はついに新年会の存在に行きついた。新年会に出た者だけに異変が生じていること、出ていないものは全く普通なことがわかり、某レストランに立ち入り捜査をした。
だが収穫は何もなかった。その日特に大きいタイが入荷して、それをふるまったが、ごく普通のタイだった。という、有益であるかどうかわからない情報が得られただけだった。
だが、新年会からちょうど7日目、自体は急速に収束した。
その日、H商事においては全員が自宅待機を命じられていたが、玲奈君と春斗君は同じベッドに横になっていた。呼吸よりも口づけを欲する若き二人は、互いの体をむさぼっていた。むさぼるうちに、回した胴と腕が少しずつくっつきはじめた。口唇と口唇、鼻と鼻、まつげとまつげが融合しあい、ふたりはたちまち一つの肉塊になっていった。
市内のあちこちで同じ現象が起きた。体を重ねていた二人組ないし三人組は、徐々に溶け合って一つの大きな、不格好な肉塊になって、ベッドを降り、床を妙にねっちょりとした液体で濡らしながら、コロコロ転がり始めた。そしてドアを溶かして通り抜け、階段を降り、人々に悲鳴をあげさせながら、一番近い浜辺に向かった。だれとも一緒にいなかった者も、少しずつヒトの形を失いながら、ふらふらずるずると浜辺に向かった。
肉塊はゴロゴロ集まっていた。そして、潮風が気持ちよく吹く中で、とうにヒトの形を失った肉の塊は、ひとところに集まって、くっついた。くっついて、まばゆい光を発しながら、大きな一つのかたまりになった。
神の復活である。
神は復活ののち、少し考えるしぐさを見せた。
そして今度はウナギに似た形になって、夕暮れ時の海原に入り、悠々と遠泳を楽しみはじめたのだった。
おわり。