あの子の作る卵焼き あの子が作る卵焼きは、砂糖の入ったほんのり甘い卵焼きだ。甘党なあの子の好みだと思いきや、この味はいわゆるおふくろの味だった。
チヅルが幼い頃に亡くなってしまった彼の母は俺もよく知っている人で、俺にハンターの全てを教えてくれた師匠でもあった。
あの子がまだ生まれる前から俺は師匠の作る料理をよくご馳走して貰っていた。彼女の作る卵焼きもほんのり甘かったのを覚えている。曰く、旦那が甘い卵焼きが好きなのよ、と惚気られ反応に困ってしまったことがあったが、その顔はとても幸せそうだった。
チヅルがお腹に宿った時から師匠はハンターを休業したが、俺の師匠であることに変わりはない。しかし身重の師匠に指導して貰うわけには行かず、彼女の夫であるチヅルの父君から指導を受けることになった。
身重で大変だった筈なのに、それでも彼女はいつものように弟子である俺に手料理を振舞ってくれた。親のいない孤児の俺に、家族というものを教えてくれたのは師匠達だった。
そうして十月十日が経ち、師匠達の元に男の子が生まれた。彼はチヅルと名付けられた。
それから師匠は夜な夜な紙の束を一枚一枚丁寧に取り出し何かをしたためるようになった。夜中にたまたま目覚めた時に見掛け、何をしているんですか、と問うと、将来息子の役に立つものだと言い微笑んだ。
それが師匠の作る料理のレシピを書き留めたものだと知ったのは、チヅルに初めて料理を作って貰った時だった。彼はレシピの書かれた紙束を纏めて紐で括り一冊の書物にして見やすいようにしていた。
その少し前に、チヅルのご両親である師匠達はモンスターに襲撃されたこの子を救うためにその命を散らしていて、俺とチヅルは二人で暮らしている時の出来事だった。
あの子が初めて俺に作ってくれたのも卵焼きだった。けれど、所々焦げて黒くなった卵焼きは見た目はお世辞にも良いとは言えなかったが、味は美味しかったのを覚えている。美味しいよ、と言ったのにチヅルは泣きそうな顔をして「次は上手に作るから…」と悔しそうに言葉を漏らしたのだ。
本当に美味しかったのにな、と素直な感想を言ったのにチヅルには俺が気を遣ったのだと思われてしまったようで。気なんか遣っていない、本当に美味しかったんだよ、と言うとチヅルは「母さんの作った卵焼きを食べてるウツにぃが幸せそうだったから作ってみたのに、同じ顔にしてあげれなかった」と何ともいじらしいことを言ってくれ、思わずぎゅうっと抱き締めた。
確かに、チヅルの作った卵焼きは師匠の作るものと同じ味で、懐かしくて泣いてしまいそうになった。表に出さないようにしていたが、無意識にそんな顔をしてこの子を悲しませてしまったらしい。チヅルの小さな体を抱き締めながら、また作って欲しいと言うのが精一杯だった不誠実な俺に、チヅルはこくり、と頷いてくれた。
それからチヅルは俺の知らない間にミノトさんの所に通い、料理を教わるようになった。料理の基礎をミノトさんから学びながら、チヅルはレシピを覚えていったらしい、と後でミノトさんから聞いた。
元々物覚えの良い彼はメキメキと上達していった。今日はこれを作ったとか、ここを失敗したのだと話しをしながら彼の作った料理を食べるのはとても楽しかったし、何より俺の為にチヅルが頑張ってくれていることが嬉しかった。
今思えばだが、そうしてあの子の料理を食べていく内に俺の胃袋は完全に掴まされてしまっていた。
チヅルがハンターとして修行を始めても、変わらずに食事を作ってくれていた。修行で疲れているんだから無理をしないで、と言ったのだが、あの子は「教官のメシは俺が作るって昔から決めてる」と言い、本当にこの子は俺のドツボを突いてくれた。
しかしやはり修行の疲れが蓄積して作れない日もあった。それでもチヅルは作るのだと言って聞かないから、そんな時は俺も一緒に作ることにした。
けれど、困ったことに俺はここ何年も料理をしていなかったことに気づいたのだ。狩猟中に生肉を焼くことはあっても、自宅で炊事をすることはついぞ無くなっていたことで、俺は見事に失敗した。
その日俺が作った卵焼きは、チヅルが最初に作ってくれた卵焼きよりも酷かった。ところどころか全体的に焦げついて味もくどくなってしまったそれに、俺は面目無い…とチヅルに謝る。けれどチヅルは「教官でも失敗するんだな」と言い笑った。ころころと笑う彼を見て俺もなんだか可笑しくなってしまい、二人で笑いながら焦げた卵焼きを食べた。
そんな思い出深い卵焼きを、チヅルは今日も作ってくれる。
ハンターとして独り立ちし、もう俺と一緒に暮らしているわけじゃないから本来なら作る必要はない。けれど俺とチヅルは師弟を超えて恋仲と呼ばれる関係になった。恋人としての特権をフル活用してチヅルの手料理に甘んじるのは当然のことだった。
今も家の中だからと作務衣を緩く着て、漆黒の髪をこれも緩く結び台所に立っていた。その後ろ姿は昨夜の情事の名残を思わせる。
うなじに着けた鬱血痕を発見し、情事に見せた扇情的な表情と、今の真剣に料理をする様子とのギャップに少しだけ欲望がぶり返しそうになる。けれど、何とか押し留めた。
そんな俺の不埒な視線に気づいたのか、チヅルがこちらをちらりと見て、すぐに視線を逸らした。その耳はほんのり赤い。
「…ウツシ」
「ん?」
「何、見てんだよ。すけべ」
「うん、ごめんね?」
「絶対ごめんなんて思ってねぇ」
ははっ、と笑いながら、チヅルが焼きたての卵焼きを皿に盛り付けたのを確認し、彼の背後に立つ。鬱血痕にちゅっと口付けるとチヅルの身体がびくりと面白い程大袈裟に跳ねた。
「チヅルが朝からエッチだから、つい」
と、いけしゃあしゃあと言い放ってみた。案の定、チヅルは顔を真っ赤にしている。
「〜〜〜っ、アンタが、こんな風にしたくせに!」
と怒鳴ったが、ああエッチなのは認めるんだな、と俺はほくそ笑んだ。それに墓穴を掘った事に気づき、チヅルはクソッと悪態を吐いている。
「あんま意地悪言ってると、もう卵焼き作んないからな」
そんな可愛い一言まで頂いてしまった。卵焼き以外は作ってくれるんだ?と聞きたい衝動に駆られるが、意地悪も程々にしておかないと本当に作ってくれなくなる。俺は再びごめんね、と言いながらチヅルの唇にちゅっと口付けた。
そんなんで絆されると思って…とぶちぶちと愚痴っているが、実際キス一つで許してしまっているチヅルがとてつもなく可愛くて仕方がない。
そんなやり取りを俺とチヅルのオトモ四匹が呆れた様子で眺めていたが、いつもこんな感じのやり取りをしているのだからそろそろ呆れるのは止めて欲しいと思う。
チヅルはそんな四匹に気づくことなく、オトモ達にごはんをあげてから、俺達も朝食を食べ始めた。
白米にじゃがいもと玉ねぎの味噌汁、卵焼き、その横には大根おろしがちょこんと乗っているシンプルだがとても美味しそうな朝食を食べ進める。しかし卵焼きを齧るといつもと違う味がした。
いつものほんのり甘い卵焼きではなく、出汁と醤油が効いた、ほんのり塩っぱい卵焼き。だから卵焼きの横に大根おろしがついていたのかと合点が行く。おまけに俺がすごく好きな味つけであっという間に全て平らげてしまった。
「ねえチヅル。今日はなんで卵焼きの味つけを変えたの?」
ご馳走様、と二人で合掌した後チヅルに問い掛けた。いつもの甘い卵焼きも美味しいのだが、今日の塩っぱい卵焼きは特に美味しかった。どんな隠し味を入れたのか気になってしまう。
しかしチヅルはまたもや視線を逸らす。理由はあるが言いたくないです、という顔をしている。
「チーヅール?」
黙りを決め込むらしい。相当言いたくない理由なのか、そんな顔をされては益々気になるじゃないか。
「チヅル」
声をワントーン低くして名前を呼んでみた。するとチヅルはぴくりと僅かに反応した。キミが俺の声好きなの、随分前から知っているからね?
「ね、チヅル。教えて?」
チヅルに近付いて耳元で囁くと、チヅルはとうとう観念した。
「…この間、アンタ弁当貰ってただろ」
里外の、ハンターに…と、最後はか細くだが白状した。
「ああ、あれ?」
そう、確かに貰った。百竜夜行を退けるためにギルドから派遣された子で、上位ハンターになったばかりだと聞いた。そんな子を俺のいる最前線に置くのもどうかと思い、最初は後方支援に回って貰おうと思ったのだが、本人が最前線で戦いたいと強く希望した。
結果その子は最善を尽くしてくれた。傷だらけにはなったが、よく戦ってくれた、感謝すると礼を述べたら顔を紅くしていた。
その後、百竜夜行から二晩経った頃、集会所で闘技大会の受付業務をしていると、彼女が弁当を持参してやってきたのだ。その弁当は明らかに手作りで、いくら俺が鈍感であっても察しはついた。案の定彼女から告白されたが、付き合っている子がいるからごめんね、とハッキリと断った。しかし、弁当だけは受け取ってくれと言われ、それだけなら、と受け取ったものだった。
その一連の流れをチヅルに説明すると、やっぱり…とちょっと苦々しい顔をした。
「その弁当、教官食べたんだろ」
「うんまあ。勿体ないしね」
誰かにあげる事も出来るが、それはその子の気持ちを無碍にする事になる。気持ちには応えられなくとも貰ったものにはせめて責任を取る義務があると思うのだ。
そう言うと、その誠実さがアンタの良い所だけど、とチヅルは苦笑いを零した。
「その弁当を食べてる時に、俺たまたま教官を見掛けて…アンタには疚しいことは何もなかったんだろうし、俺も別に女から告白されて弁当受け取ったくらいで嫉妬もしない。けど…」
「けど?」
チヅルが一旦口を噤んだ。きっとこの子にとって一番引っかかっている部分なのだろう。次の言葉を黙って待つ。
「けど…教官が俺の作ったメシ以外、美味そうに食ってんのが、なんか、いや、だった…」
改めて口にした事で羞恥が勝ったのか、顔を真っ赤にして最後は途切れ途切れになった。しかしチヅルの真意を聞くことは出来た。
本当にこの子は…。俺は思わず天を仰いだ。
「呆れてんだろ。こんな、子どもみてぇな…」
「そんなわけないだろう。本当にもう…キミって子は」
俺はチヅルをぎゅうっと抱き締めた。
愛おしい。愛おしくて仕方がない。こんな可愛い子に愛されることの、なんと幸せなことか。
「ね、チヅル。またさっきの卵焼き、作ってくれるかい?」
先程食べた塩っぱい卵焼きの味を思い出し、愛し子の顔を見ながら問う。するとチヅルはこくりと頷いて微笑んだ。
「アレで良ければいつでも」
そう謙虚に応える恋人に、アレがいいんだよ、と付け加えて再び力強く抱き締めた。
おわり