記念に写真を撮った 人並みにミーハーな自覚はある。
アイドルにも芸能人にも心を踊らせたことがあったし、友人と他校の男子の誰それが格好いいと話題に花を咲かせたこともあった。その弾けるような気持ちを行動に移したことはなかったけれど。
紙面やテレビ越しでは満足出来なくなったとか。
このチャンスを逃したら次は無いと大会中に声を掛けるとか。
勇気と無謀と若さをセットにした行為に走ったことは、一度もなくて。
それはその程度の興味関心だったのか、当たって砕けろが出来なかっただけなのかは、今でも分からない。
そんな彩子にも、これまでの人生でたった一回砕けてしまったことがある。
興味関心は十分。だって将来超有望株だ。
当たって砕けない可能性も九割五分。何故なら一番付き合いの長い後輩だったから。
『やだ』
短くて、簡潔で、取り付く島もなかった。
人気のない教室では、そんな一言がいつまでも余韻を残す。
人の目があればここで切り替えることが出来ただろう。素直に退けなかったのは、想定外の態度だったからだ。
だって、三井にねだられていたのを見た。宮城や安田にも頼まれていた。
『名前だけでいいのよ? メッセージなんて書いてくれなくても』
『書きたくねー』
途端に飛び込んでくる、目に刺すような白。
怜悧な横顔も責めるような余白もこれ以上目にしたくなくて、アルバムを閉じるだけでやっとだった。
『そう……そうよね、ごめん。アンタ人気者だから、こういうのもうやんなっちゃうわよね』
きっともう最後なのに。最後の最後でやってしまった。
付き合いの長さと仲の良さがイコールになるのが当然なわけがないのに。こんな時に間違えてしまった。
今すぐここから立ち去って、この空白を埋めて欲しかった。誰でもいい、誰だっていいから。
『先輩もくれなかった』
兎に角、早く。
人がいそうな場所をピックアップする思考を無理矢理引き戻したのは、ぶっきらぼうな声と腕を掴む手。
『な、なに』
『インハイの時。宮城先輩にはやってたのに』
『…………手に書いたやつ? 単なるおまじないよ? アンタに必要ないじゃない』
今年無事に主将を勤め上げた宮城にも、本当は必要無いだろうと思っていた。しかし本人に強く頼まれてノーと言えるほど彩子だって冷たくはない。
『アンタなら誰の後押しが無くたってなれるわよ。日本一の高校生ってやつに』
その姿を、近くで見ることは叶わなかったけれど。
だかららしくもなく欲しがってしまったのかもしれない。最後の思い出、なんてものが。
『なる。絶対。アメリカにだって行く』
『そうそう、アンタはそういう男なんだから』
『向こうでプロになる。お金も稼ぐしデッカい家も建てる』
確かにアメリカなら、日本で規格外扱いされる流川でものひのびと暮らせるだろう。バスケ以外にも青写真があったのなんて初めて知った。
『サインは、その時先輩にもらってほしい』
『大盤振る舞いはやめときなさいよ』
『違う。先輩だけ』
だから、と瞳と手に力が籠もる。
『俺も先輩のが、ほしい、です』
『価値が月とスッポンなんだけど』
『そんなことない、先輩のしかほしくないから』
眉を寄せてもなお美しい後輩を眼前にして、あれ?なんか慕われてるんじゃないかと思ってしまったのは仕方のないことだろう。
数少ない課題がコミュニケーションと言われる少年が、慣れない冗談でなんとか気不味い空気を修復しようとしてくれる。流川は寧ろ被害を被った側だというのに。
それに応えなければ、姉御肌と呼ばれた自身が廃るというもの。
『ありがと、嬉しい。楽しみにしてる』
いつか開かれるバスケ部の集まりか、流川の凱旋を皆で祝う席か。それがどの程度先の未来かは、分からないけれど。
いい大人になった二人がお互いに卒業アルバムを持ち寄って、お互いが不在のアルバムにサインを足す。
そんな空想が許されるくらいには近くにいたのだと知れて、もう満足だった。
埋められなかった空白に胸を痛めることなく、年月が過ぎて。
社会人なんてものが板につき、一人暮らしを機に奮発した大きなテレビで海外の試合なんかもチェックするようになった頃。
オフシーズンに帰国すると、流川から連絡があった。
いつもは他の人間から知ることを直接伝えられ、ピンときた。あのことに違いない。記憶が高校時代に巻き戻る。
となれば欠かせないアイテムが一つある。彩子は週末そっちに帰るから、と実家に電話を入れた。
多少なりとも浮かれていたのだと思う。
社会に出てから出来た友人達とは、他愛のない約束などしたことがなかったから。直接連絡をもらった瞬間、こころに清々しい風が吹き込んだ心地だった。
尤もそれは、指定された店が気楽さとは真逆の場所だと分かった時に一気に沈んでしまったのだが。
「俺はもう書いたから、あとは先輩」
あの時の約束とも呼べないようなやりとりが、現実になって目の前に用意されている。
ただし広げられたのはアルバムではなく、場所もファミレスや居酒屋でもなかっただけで。
二人仲良く並んでサインしたものが、どちらの手元にも残らず役所に回収されてしまうというだけで。
「流川……ちょっと待ってくれる?」
「指輪なくてごめん。サイズ分かんなかったから」
「そうじゃなくて」
「明日それ届けに行く時、店行く? 先輩が気に入ったのがいい」
「そうじゃ、なくてっ」
顔が良い男が首を傾げても顔が良いだけだからやめてもらいたい。首を傾げたいのはこっちの方なのに。
流川が渡米してから二人きりで会うのは今日が初めてで、高校時代だって部活を介しての交流止まり。先輩と後輩という関係でずっとやってきた筈だった。
それがどうしてこんなことに?
今日この店に足を運んでから、驚くことしかしていない。
間近で浴びる流川の成長ぶりや、コースで出される料理の美味しさ。窓の外に広がる煌びやかな街の夜景に。
でも一番驚いたのは、勝率を計算もせずに当たって砕けろをやってのけたかつての後輩……ではなく、
「……パスポートが出来るまで待って」
二十何年慣れ親しんだ名前にさよならをする準備を始めた自分にだった。