静かに吹く風。
川の流れる音と、水の匂い。
集会所の奥の席は、いつもながら心地良い。
青空の下で飲む淹れ立ての茶も美味かった。小さな吐息が自然と零れる。
しかし──である。
俺の隣に腰掛けている英雄殿は、先程からとてもご機嫌斜めだ。
目の前にうさ団子が置かれたその一瞬だけは、嬉しそうにしたものの。すぐにむくれた顔つきに戻り、無言でうさ団子を頬張り始める。
「まだ怒ってるのか」
「……だって……」
俺の問いにアラタは言い淀み、表情にも少し翳りを見せたのだった。
話は少し前に遡る。
アラタと共に集会所へ向かうべく、並んで里を歩いていた時の事だ。
「あっ! あんたがカムラの里の英雄か!?」
背後から急に掛けられた声。振り向いてみれば、そこには余所のハンターと思しき若い男の姿があった。見た目は20歳そこそこ──俺と同年代ぐらいだろうか。
百竜夜行を終息させて、里の安全が確約された今。
里外から観光客やハンターが訪れる事も増え、ここ最近のカムラの里は、以前よりも活気に溢れていた。
風光明媚な里の風景は勿論、様々な特産物も訪れる客人を楽しませてはいたのだが、それ以外にもう一つ。彼らの興味を引くものがあった。それが『カムラの英雄』である。
何でもまだ年端のいかない若者が災禍を祓い、里を救ったらしい。
まさに英雄譚たる話の内容だ。しかもその主役がこの里に居るというのだから、一目見てみたい。同業として肖りたい。そういった人々を俺も何度か目にしたし、このハンターも恐らくその類なんだろう。
俺とアラタが思わず顔を見合わせていると、興奮を隠しきれない様子でこちらに駆け寄ってくる、件の男。
──そう。アラタではなく、俺の眼前に。
「まだ若いのにすげーんだってな! あのさ、良かったら一緒に写真撮ってくれないか!?」
「いや、俺は……」
「イケメンで背も高くて強いだなんて羨ましすぎるぜ……俺、最近ハンターデビューしたばっかりでさ。少しでもいいから、あんたみたいに立派なハンターになりたいんだ。あれ、カメラどこだったかな……」
男は目を輝かせながら一方的に捲し立て、自分の荷物を探り始める。
これは……まずいな。
そう思い、隣で俯き、沈黙したままのアラタに視線を送れば、つられるように男もそちらに目を向け、
「あ、この子は弟さん? ごめんね、お兄さんちょっと借り──」
「こっちだ」
「え?」
「カムラの英雄は、こっちだ」
「えっ……」
俺の言葉と視線が意味するものを悟ったのか、男が硬直する。
やがてゆっくりとした動きで俺とアラタを交互に見やり、
「……ええと、その…………すみませんでした…………」
非常に気まずい雰囲気の中、消え入りそうな声で謝罪した。
この出来事が原因ですっかり臍を曲げてしまったアラタは、集会所に着くなり大量のうさ団子を注文し、自棄食いを始めたというワケだ。しかし本人には悪いが、俺はアラタのそんな様子が少し可笑しくて。うさ団子を頬張り続けるアラタに、つい余計な口を叩いてしまう。
「普段は英雄呼ばわりされると嫌がるくせに、珍しいな」
「それはそれ! これはこれ!」
言いながら、手にしたうさ団子を一気に食いちぎるアラタ。そのまま勢い良く茶を呷ったかと思えば、大きな溜息と共に卓に突っ伏した。
「……別に、英雄扱いされなかった事に腹を立ててるわけじゃないよ。ただ……一人前のハンターにも見てもらえてないのかな、って思って……」
むう、と頬を膨らませている姿は、傍から見れば子供そのものだ。実際こいつはまだ16で、顔つきも幼さが残っているせいか、里外の者には侮られる事も珍しくなかった。だがそれは、あくまで見た目に限った話である。
「まあ、お前からしたら確かに心外だろうな。俺よりよっぽど実力のあるハンターなんだから」
「そんな事ない!」
俺の言葉を聞いたアラタが、バッと身を起こす。何だか咎めるような上目遣いでこちらを見つめながら、
「ハル兄はいつもそういう風に言うけど……ナルハタタヒメに勝てたのだって、ハル兄が一緒に戦ってくれたからだし! 俺、ハル兄が弓撃ってるところ、カッコ良くて大好きなんだからさ……もっと自信持ってよ……」
お前の方こそ、俺を買い被りすぎだ。
内心そんな風に思ったが、それを口にすると余計反論してきそうなので、とりあえず曖昧に頷いて誤魔化した。
アラタと共に挑んだ、雷神龍とのあの一戦。
止む事のないナルハタタヒメの猛攻に、満身創痍な俺もアラタも流石に疲れが見えてきて。今度ばかりは駄目かも知れないなという考えが頭をチラついた。
しかし同時に、アラタを死なせたくない。せめてアラタだけでも生きて帰ってほしい。そんな一心で必死に弓を引き絞り、何度も射った。これは兄貴分としての責任感というよりも、単純に俺が、こいつを──
ああ。
こんな時に気付くなんて、馬鹿か、俺は。
身体の痛みは、そのうち感じなくなった。血で滑り、ともすれば力の入らなくなりそうな指先を叱咤し、何度も何度も矢を放つ。少しでもヤツが怯めば、隙が作れれば、それがアラタの攻撃チャンスにも繋がる。だから、手を止めるな──
「……っ!?」
突如、足場が持ち上がった。
隆起した地面に足を取られて身体のバランスを崩し、狙いが逸れる。
「く──」
よろめいた体勢を整え直し、顔を上げた時にはもう遅かった。
目の前に迫る、雷神龍の放った雷の柱。
──躱しきれない。
それでも何とか最大限に身を捻り、直撃を受けるのだけは免れた。
身を焼く雷撃に吹き飛ばされ、朦朧とした意識で俺が最後に見た光景。一際高く跳躍したアラタが、手にした棍と共にナルハタタヒメの頭部目掛けて急降下していく姿だった。
それはまるで、空を駆ける、流星の、ような──……
ふ、と目を開けた俺が見たものは、心配そうにこちらを覗き込んでいるアラタの顔。俺と目が合うと、アラタは泣きそうな顔つきのまま笑って、小声を漏らす。
「俺達、勝ったよ」
その短い一言は、現状を把握するのに充分だった。
正直、喜びよりも安堵の方が強く、俺は空を仰いだ体勢のまま大きく息を吐き、そうか、とだけ返した。
お互い酷くボロボロではあるが、生きている。
その事に感謝しつつ、さてこの後はどうするかと思案していたら、程なくして駆け付けてきた教官に、2人揃って抱き締められて。教官に肩を借りながら舟へと戻り、何とか里に帰還したのだが──
里に着くなり俺もアラタも診療所へ担ぎ込まれ、そのまま俺達は安静を余儀なくされる事となった。
「何日かはそれで我慢するニャ」
布団の中で上半身を起こしたまま、包帯だらけになった身体を見下ろす。頭や腕、胴は勿論、指先まで丁寧に巻かれており、日常生活も暫く不便を強いられそうだ。気が重い。
「これといった後遺症も特に残らんじゃろ。若いっていいニャア」
桶の水で手を洗っているゼンチ先生の小さな背中は、どことなく疲れて見える。まあ、重傷だったアラタと俺の2人を立て続けに診てくれたのだから、無理も無いだろう。
アラタとはそれぞれ別の部屋で治療を受けていたので、今あいつがどうしているのかは分からない。帰りの舟でも意識はしっかりしていたし、普通に会話も出来ていたから、命に関わるような事は無いと思うが──……
ゼンチ先生が部屋を出て行くと、いよいよ本格的に手持ち無沙汰となった。とはいえ大人しくしていろと釘を刺されているし、とりあえず寝るか……と身体を横たえようとしたのだが。
「……ん?」
部屋の外から聞こえてきた大きな足音に、耳をそばだてる。どうやら誰かが廊下を走り回っているようだ。
騒がしいな、一体何事だ──と思った直後。部屋の障子が勢い良く開き、俺と同じく包帯まみれのアラタが顔を覗かせて、
「ハル兄! 怪我、大丈夫!?」
後ろ手で障子を閉めると、俺の傍らに慌ただしく座り込む。そのセリフはそっくりそのまま返してやりたいところだったが、ひとまず俺の方は問題無い事を伝えると、
「……よかった……」
「──おい!?」
顔をくしゃりと歪ませ、小さく嗚咽を上げ始めたアラタを前に、ぎょっとする。
「ハル兄が、もう弓撃てなくなったらどうしようって、ずっと、こわくて」
鼻を啜りつつ、辿々しく言葉を続けるアラタ。
そういえば──と。
帰りの舟での事だ。酷使し過ぎて皮膚が裂け、爪も何枚か剥がれ落ちていた俺の指先に気付き、蒼白になっていたアラタの様子を思い出す。
「よかった……よかったよぉ~~」
とうとう幼子のように泣き出したアラタを前に、困り果てる俺。
泣くな、と言ってもそれが聞き入られる事はなく、アラタは肩を震わせながらしゃくり上げ続けている。
……やれやれ。
俺は短く息を吐くと、アラタの後ろ頭に手を当て、グイッと引き寄せ──
そのまま、唇を重ねてやった。
身体を強張らせたアラタが、俺の眼前で驚きに目を見開いている。
涙を湛えた、空色の瞳。ゆらゆら揺れているその様が、綺麗だと思った。
ゆっくり身を離せば、泣く事も忘れたかのようなアラタは相変わらず固まったままだったが、濡れた瞳を何度も瞬かせ、
「あ、あの、ハル兄、俺……」
顔を真っ赤にしながら何か言い掛けた、その時。
スパーン、と小気味よい音を立てて開かれる障子。
そこから姿を現したのは、顔に怒りの色を滲ませたゼンチ先生だった。
「コラッ! お前もまだ安静にしとれと言ったはずニャア!」
「いててて! ゼンチ先生、俺、怪我人!」
ゼンチ先生に耳を引っ張られ、アラタが悲鳴を上げる。
さっさと部屋に戻らんかい、とそれこそ尻でも蹴り上げそうな勢いで、アラタを追い立てるゼンチ先生。
騒がしく退場していく2人を見送りながら、俺は──
怪我が治ったら、一度あいつと話をしよう。ナルハタタヒメとの戦いの最中に自覚した気持ちを、どんな言葉で伝えようか、などと。
あれこれ考えながら、今度こそ身体を横にした。
「大体、猛き炎とか英雄だとか、大袈裟すぎるんだって……」
みんなの気持ちは嬉しいけどさ、とぼやくアラタに、俺はとある提案を持ち掛けた。ほんの軽い冗談のつもりで。
「なら、お前と俺の二人で『猛き炎』を名乗ってみるか?」
「……ハル兄と、俺で?」
不思議そうに小首を傾げるアラタに小さく笑いながら、告げる。
「ああ。炎って字は2つの火から出来てるだろう? 俺達も大体2人で行動してるから──」
「あ、分かった! 俺とハル兄のそれぞれが火で、2人合わせたら炎になるって事!?」
「そういう事だ」
「おおー……」
何やら目を輝かせ始めたアラタは、両手をグッと握り締めながら、
「それ、カッコいい! 今日から俺達2人で『猛き炎』ね!」
先程までの不機嫌そうな顔はどこへやら。心底嬉しそうに俺の提案を受け入れている。
……まずい。
ここまで喜ばれると、今更『冗談だ』とも言えなくなってしまった。
大体、俺とお前が同格になるなんて烏滸がましいにも程があるだろう。そこは否定しておけ英雄殿。
「へへー。ふたりセットで『猛き炎』かあ」
だがアラタは余程嬉しかったのか、噛み締めるようにその言葉を繰り返し、
「じゃ、俺達ずっと一緒だね。どっちかが欠けたら炎にならないんだから」
ね! と無邪気な笑顔を、こちらに向ける。
そんなアラタを見ていたら、先程の話を無かった事にするのが余計に躊躇われてしまって。
「……そうだな」
風に吹かれて軽く揺れている、アラタの赤い髪。手を伸ばし、ふわりとした感触を楽しみながらも静かに撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めている。
「──よっし! 腹も膨れたし、一狩り行こう!」
「お前、まだ本調子じゃないだろう? あんまり無理はするなよ」
「分かってるって~」
軽い返事でミノトの所に向かうアラタに不安を覚えるが、まあ依頼の内容によっては彼女が止めてくれるだろう。何だかんだで里の連中はアラタに甘いが、同時に厳しくもあり、そして優しいのだ。
案の定アラタが受けようとしたラージャンとジンオウガの多頭狩りは却下され、代わりにイソネミクニの討伐を持ち掛けられていた。微妙に渋っている様子のアラタに代わってそれを受注すると、俺は出発口の暖簾をさっさと潜る。慌てて後を追いかけてくるアラタ。
かと思えば俺の数歩先まで進み、くるりとこちらを振り向きながら、
「ねぇねぇ、ハル兄」
「うん?」
「今度、俺達の名乗りの口上みたいなの考えようよ! 新生・猛き炎のアピールしなきゃ!」
「いや……それは……」
「カッコいい決めポーズとかも!」
「勘弁してくれ…………」
やはりさっきのは冗談だと言っておくべきだったかも知れない。
はしゃいでいるアラタを適当にあしらいつつ、肩口の弓を担ぎ直して。
俺達は今日も2人、狩りへと赴くのだった。