『特別だと思ったんだ』 日にちにしてみれば、多分一週間ぐらいだったと思う。
エルガドの方がちょっとゴタついてて、俺にしては結構長い間、カムラの里を離れていたんだ。
たかが一週間、されど一週間。何だか久しぶりな感じがするな。
船から下りて里の中を歩き、道中みんなに挨拶しながら、集会所へと向かう。やっぱり、ほら。教官とは直接会っておきたいし。
今日は里に泊まっていく予定だから、二人でゆっくりする時間が少しでも取れるといいんだけど……
そんな事を考えてる間にも集会所に到着し、いつもの方角へ目をやれば──
いた。教官だ。
アヤメさんと話している、教官の後ろ姿。声を掛けても大丈夫かな……と近付いていた途中で、アヤメさんと目が合った。するとアヤメさんは俺の方を指差しながら、教官に二言三言、何か伝え……て……?
「やあ愛弟子! 元気でやってるかい愛弟子! 風邪を引いたりしていないかい愛弟子!」
こちらを振り向いたと思った次の瞬間、俺の眼前まで一気に距離を詰めてくる教官。そして矢継ぎ早の質問に答えるより早く、
「きょ、教官っ!?」
俺の身体──腕や背中、更には腰とか尻の辺りまでぺたぺた触られ、つい声が上擦ってしまう。
「……特に怪我もしていないみたいだね。流石は俺の愛弟子だ!」
満足そうに笑う教官と、苦笑する俺。教官の後方でアヤメさんが軽く肩を竦めているのが見えて、さっき二人が話してた内容を何となく察してしまった。今回もまた、エルガドで俺がどんな事をしていたか、アヤメさんに聞かせていたのかもしれない。例によって、教官が一方的に、長々と。
アヤメさんをはじめ、里の人達には何だか申し訳なくなるし。俺だって、教官の口から一体どんな事を語られてるのかと不安だったり、恥ずかしくなるから……正直、もう少し控えてくれると嬉しいんだけどな……
「キミの事だから、向こうでもちゃんとしてるとは思うけど……俺の教えは覚えてる? ハンターは体が第一! しっかり食べて、しっかり休むこと、だよ」
「は、はい」
生憎と俺の悩みには全く気付いてくれない教官に諭され、慌てて頷く。
「タイシもこの教えを忠実に守ってるから、最近メキメキと力をつけてきてるんだ。何だか少し……昔のキミを思い出すなあ」
目元を綻ばせ、嬉しそうに語る教官に俺も小さく笑いながら、そうですか、って返そうとしたのだが──
……あれ?
なんだろう。
教官の言葉にちょっと引っ掛かるものを感じ、動きが止まる。
「正式な資格を取るのはもう少し先になりそうだけど、彼もきっと立派なハンターになるよ。楽しみだね!」
うんうん、と頷く教官を余所に先程のセリフを反芻していた俺は、ようやくその違和感の正体に気が付いた。
「あの、教官。タイシって……」
「うん? タイシがどうかしたのかい?」
聞き間違えじゃ、なかった。
今までずっと『タイシくん』って呼んでたのに、どうして急に。
いや、別に名前の呼び方なんて、人それぞれなんだ。教官に弟子入りしたタイシが呼び捨てにされる事だって、何もおかしくはない。そう思っている筈なのに──
何で俺、こんなに動揺してるんだ?
まるで見えない手にでも心臓を掴まれているかのような、息苦しさと不快感。訳の分からない気持ち悪さに、思わずその場で俯いてしまう。
「……アラタ?」
急に無言になった俺を訝しんでか、教官が顔を覗き込もうとしてくる。
その声音には心配そうな響きも含まれていたけれど、俺は教官の瞳が直視できなくて。咄嗟に数歩後ずさりながら、作り笑いを浮かべてみせた。
「す、すみません、俺、用事思い出しちゃって。家に戻りますね」
「え? ちょっと愛弟子!?」
こんな言い訳じゃ、絶対に怪しまれると思ったけど。
狼狽える教官に背を向け、そのまま集会所を飛び出してしまった。モヤモヤした気持ちのまま里の中を駆け抜け、水車小屋の戸を勢いよく開けると、中で掃除をしていたルームサービスさんが目を丸くして俺を見やる。
「あ、アラタ殿!? おかえりなさいませ!」
掃除を中断し、茶の用意に取り掛かろうとしたルームサービスさんを慌てて止め、更に『船旅で疲れたから少しひとりで休みたい』って伝えると、心配そうな顔をしつつも納得はしてくれたようで。何かありましたらすぐ呼んで下さいニャ、と言い残し、帰って行った。
留守中、家の事を色々してくれている彼を追い出すようなマネをして申し訳ないなと思ったが、とにかく今はひとりになりたい。俺は装備を雑に脱いでインナー姿になり、畳んであった布団を広げると、その上にごろりと寝転がる。布団の敷き方もだいぶいい加減でくしゃくしゃだけど、気にしている余裕はなかった。
「……はぁ」
溜息をつきながら考えるのは、先程の集会所での一件。
認めたくはなかったけれど──タイシが教官から呼び捨てにされるのを、さっきの俺は一瞬でも『嫌だな』と思ってしまったんだ。
そんな自分に嫌悪感を抱くと共に、反省する。
一応断っておくが、俺は別にタイシが嫌いな訳じゃない。むしろイオリやセイハクと同じで、里の中でも弟のような存在だと、同時に可愛い後輩だとも思っている。だけど。
俺だけだったのに。
教官から名前を呼び捨てにされてたのは、俺だけだったのに。
とても口には出せないような気持ちが、心の中に生まれ始める。
よせ、もう止めろ。これ以上は駄目だ。
そう思っても不安ばかりがどんどん募っていって、抑える事が出来ない。それどころか──
そのうち、タイシもやっぱり『愛弟子』って呼ばれるようになるのかな。
がん、と頭を殴られたような衝撃が走る。
いやだ。いやだいやだ。
ウツシ兄ちゃんが、俺だけの教官じゃなくなっちゃう。
俺も兄ちゃんの愛弟子でなくなったら、そうなったら──俺には一体何が残るの?
身寄りの無い、ひとりぼっちの俺にとって、それが心の拠り所で誇りでもあったのに。
気付けば俺は布団を頭から被り、身体を丸め込んでいた。
俺って、こんな自己中心的でワガママで、嫌な奴だったんだ。
教官もタイシも何も悪くないのに、勝手に酷い事ばかり考えて。
今までだって、タイシがハンターになる為の手解きを受けているのを、教官と二人で鍛錬に勤しむ姿を、何度も見てる筈だ。それなのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。
「……俺、自意識過剰だったのかなあ」
大きく息を吐いて、瞳を閉じる。
目尻から溢れて零れた涙が、何だかとても不快だった。
◆ ◆ ◆
愛弟子の様子がどうもおかしい。
先程は用事を思い出したとか言っていたが、彼の表情や態度を見る限り、何かを必死に誤魔化しているようにも思えた。
気になる……というか普通に心配だし、彼の家を訪ねてみようか。でも迷惑かも知れないしなあ……最近、里のみんなに過保護が過ぎるって言われた事もあって、悩んでしまう。
けれど俺の足は自然と愛弟子の家方面に向いてしまい、どうしたものかと考えていると──
道向こうから、見覚えのあるアイルーが気落ちした様子でトボトボ歩いてくるのが見えた。あれは確か……愛弟子のところに通っているルームサービスさんだ。
こんにちは、と声を掛けると、俯き気味だった彼が顔を上げ、僅かに目を見開く。そして俺の側へ駆け寄って来るや否や、
「──え、愛弟子が!?」
彼の口から、愛弟子の具合が悪いという事を聞かされて、やはりこれは放っておけない。様子を見に行こうと決意する。
「ウツシ殿なら、アラタ殿もきっとお側に置いてくださると思いますニャ」
少し寂しそうに微笑む彼の頭を軽く撫で、礼を言うと、俺は愛弟子の家へ駆け出した。
「愛弟子」
戸の前に立ち、そこから声を掛けてみる。
「ルームサービスさんに話は聞いたよ。具合が悪いなら、少し診させてくれないかな。万が一って事もあるし、俺もキミの状態を把握しておきたいから、ね」
少し待ってみたが、返事は無い。人の気配は感じられるので、中に愛弟子が居る事は間違いないのだが。
「……愛弟子、ごめんね。開けるよ?」
一呼吸置いてから、なるべく静かに戸口を開き、足を踏み入れる。後ろ手で戸を閉め、薄暗い家の中を見渡すと──
奥の方に、少しこんもりとした布団の塊が見えた。
具合が悪いというのは、どうやら本当なのかも知れない。
「大丈夫かい……?」
はやる気持ちを抑えてゆっくり布団に近付き、屈み込んで顔を寄せ、小声で問い掛ける。だが、相変わらず彼からの返事は無かった。
……寝ているのだろうか?
そう思い、布団から身を離そうとした俺の耳に届いたのは、ぐす、と鼻を啜るような音。
愛弟子が……泣いてる……!?
反射的に、彼の身体を覆っている布団を引き剥がす。ぎょっとした表情でこちらを見やる愛弟子の瞳には──やはり涙が浮かんでいた。
「愛弟子っ!? どこか痛かったり、苦しいのかい!?」
気付いてやれなかった事を悔やみながら、ゼンチ先生の所に行くか聞いてみれば、
「あ、あの、だいじょうぶです、から」
慌てたように身を起こし、目を雑に拭いながら、鼻声で答える愛弟子。
「でもキミ、泣いてるじゃないか……!」
こんな状態で大丈夫だと言われても、納得できる訳がない。何かあったのなら話してほしい。そう彼に伝えると、ほんの少し迷った様子は見せたものの、やがてぽつぽつと語り始めてくれた。
「さっき、集会所で教官がタイシの話をした時から、ずっと変なんです」
「……変?」
眉を顰める俺に、愛弟子はこくりと頷いて続ける。
彼曰く、タイシに良くない感情を向けてしまったこと。
教官を──俺を取られてしまいそうな不安に陥って、心中穏やかでは居られなくなったこと。
「でも、そんな風に思った自分が嫌で、情けなくて。俺、タイシの事だって好きなのに、なんで……」
「ああもう、泣かない泣かない」
またもや肩を震わせ始めたアラタを抱き寄せて、背中を軽く擦ってやる。
彼がこんなにも心を乱している原因。それはすぐに察しがついた。
即ち──タイシへの嫉妬。これ以外に考えられない。
この子の事は小さい頃から知っているけれど、なるほど言われてみれば、他人に嫉妬している姿は殆ど見た記憶がなかった。
俺が忙しくてあまり構ってやれない時は、拗ねたり癇癪を起こしたりする事はあっても、誰かに対してヤキモチを妬くという行動だけはしていない筈だ。俺がこの子ひとりにどれだけの愛情を注ぎ、意識を向けていたか、幼いながらに理解していたのかも知れない。
しかし今、俺の弟子が増えた事によって、初めて経験する嫉妬という後ろ暗い感情。自覚はしても戸惑いや罪悪感を抱き、折り合いがつけられない。そういうものだと割り切る事もできないのだろう。根が真面目で純粋なこの子には、汚いものにでも見えるのか、相当堪えているようだ。
その感情は、人が持っていて当たり前のものなんだよ、と。
懇切丁寧に説明してあげたかったが、これは彼がもう少し落ち着いてからの方がいいかも知れない。むしろ俺の方も、涙ぐんでいるアラタに胸がキュンキュンして大変だった。
だって、こんな健全な──と言っていいのか分からないけど、とにかく王道で可愛らしい嫉妬をされたら、逆に嬉しくなってしまう。特に『俺が取られちゃう』なんて、もはや可愛すぎて頬に口付けしまくりたいぐらいだ。
「……ねぇ、アラタ。キミは俺の特別な愛弟子だよ。それは俺の中でもずっと変わらない事だから、自信を持っていて欲しいんだ。そして俺はキミの教官でもあるけれど──それだけじゃ、ないでしょ?」
ひとまず彼を安心させたくて、身体をギュッと抱き締めたまま、耳元で静かに告げる。
「キミの……キミだけの恋人じゃないか。違うかい?」
「…………」
俯いていたアラタが、涙目のまま顔を上げる。そんな彼に俺は少し悪戯っぽく笑うと、
「それともキミが一体誰のもので、どれだけ愛されてるか……分からせないと駄目かなあ~?」
などと、少し冗談めいた口調で言ってみた。俺としては、この後に『なんちゃって!』と付け加えるつもりだったのだが──
当のアラタは俺の顔を見つめたまま、すん、と軽く鼻を鳴らし、
「……はい。お願い、します……」
俺に身を寄せ、肩口の辺りに額を押し当てながら、そんな事を口にした。
……え?
アラタの反応が思っていたのとだいぶ違い、俺の方もちょっと困ってしまう。俺の予想では『もう、何言ってるんですか!』って顔を赤くしながら、ポカポカ叩いてくるかなあって……
いや、それならば、思いっきり甘やかしてあげよう。
この子の不安が吹き飛んでしまうぐらい、たっぷり愛してあげよう。
俺はアラタをゆっくり布団に押し倒すと、片手を彼の頬に優しく添える。
「後悔しても、今日は途中で止めてあげないよ?」
警告にも近い俺の言葉に、アラタは一瞬だけびくりとした様子を見せたが、すぐに薄らと微笑んで、
「……分からせてくれるんでしょう?」
両手を伸ばし、俺の首筋に絡ませてくる愛弟子の姿に、内心舌を巻く。
まいった。
さっきからこの子にやられっぱなしだ。
狙ってやっている訳ではないところが、逆に怖いというか何というか。
そして『教官』と強請るような声で呼ばれて。
もう! 今度は別の意味で泣かせちゃうぞ!? なんて事を思いつつ。
俺は愛弟子の唇を、自分のそれで塞いだのだった。