窓際「先生?」
少し下から淡い視線が飛んでくる。幼い顔立ちに不思議と馴染んだ低くやわらかいその声が、自分に対しておおきな許容と邪気のない尊敬を溶かした固有の敬称を用いることを、どこか真っ直ぐ受け取れずにいる。
「先生」
普段は伏せがちな顏が間違いなくこちらを捉え、彩度の落ち着いた青色が僕の黒を射抜くこと。
心の窓とはよく言ったものだが、長年染み付いた習慣がそうさせるのか、あるいは何か痼のような後ろめたさ故か、磨り硝子じみて霞むそこから彼は何を読み取るのだろう。
朧気な立ち姿の彼。
雨が降っている。結露し曇ったつめたい窓際。ノイズのようなその音が、深い思考をただ冗長なものに変えていく。
冷えた空気が足元に滑り込む。
少し隈を濃くした彼は手元に目線を落としたままで、どこか控えめに口を開いた。数言のやり取りの後、割り込んだ雨音が彼の言葉の余韻をかき消し、再びその場に沈黙が訪れる。
…もし、こんな時口が回れば、気も紛らわすことができたのだろうか。
今更自らを嘲笑する気も起きない。
その瞬間、正面から目線を感じて顔を向ける。
ゆるく下がった眉。引き結ばれた口元。そして、泣きそうに緩んだ大きな瞳は、案ずるようにこちらの様子を窺っていた。
表情に乏しい彼が時々みせる、迷子の子供のようなその表情。
ある意味、彼の気は逸れたのかもしれない。
ふと、彼の淡い輪郭を指でなぞる。白い肌を透かす血液の色…薄く、乾燥した唇に僅かに滲む、その色。
彼がそれを拒まないと知りながら、しかし彼がこの行動から読み取れる情報の糸口を丹念に丹念に潰していく自らの姿を俯瞰する。
この人間を恩師と慕う彼の、この人間をやわらかく呼び求める彼の、あまりに健気なこと。
軽く触れただけのその行為に対し、彼は何も言わなかった。
ただ、しばらく置いた後に、また慎重過ぎるほど言葉を選んだであろう彼は、一言、半ば自らも諭すように。
「眠りませんか」
俺と先生にとって今、それがどんな意味を持っているのか、必ず理解してくれる。先生であれば。
「…ええ、そうしましょう」
あまりに透明に、そして彩やかにそれは揺れた。
彩度を捨ててしまった漆黒の奥に、彼は何を見たのだろうか。
ボクの返答を聞いて唇を噛んだ彼は、眉を下げたまま目を伏せて、躊躇うように流した視線を足元に数度彷徨わせた後、何も言わずに踵を返し、一足先に部屋を出た。
雨音はいつの間にか激しさを増していた。屋根を叩く涙滴が途切れるにはもうしばらくかかりそうだ。
数度瞬く程の時間を挟んで、彼の背中を追うようにその場を立ち去る。
ノイズだけが耳を刺す暗い部屋でひとり、ひんやりと、しかし湿度を増すばかりの重たいそれを纏って、暫し。
「先生」
その呼び声を待つ。
終。