君の名前(2023.10.27) パリの灯が遠ざかっていく。
「プリンス・ヘンリー……ヘンリー・ジョージ・エドワード・ジェームズ・ハノーヴァー=スチュワート=フォックス……か」
薄暗い機内で、僕は知ったばかりのその名を小さく呟いた。意地を張っていた頃の自分なら、格式張って長ったらしい名前だ、と顔を顰めたことだろう。なのに、今では胸の奥がじんわりと甘く疼くのがなんだか不思議な気分だ。思えば二人でケーキまみれになったのが遠い昔のようだった。あの時の僕は想像もしていなかっただろう。ヘンリーとこんな夜を過ごすことも、一人でアメリカに帰るのがこんなに淋しいということも。
ふう、と息を吐いて窓の外を見つめる。空がうっすらと白み始めている。まだ彼はパリの空の下にいるのだろうか。それとも、もうすっかり身支度を整えて「プリンス・チャーミング」の顔をして英国に戻ってしまったか。
身体を包む心地よい疲労感にまかせて瞼を閉じると、そこに浮かぶのは思い出というには生々しいほどに鮮やかな数時間前のヘンリーの姿だ。穢れというものを一切知らないような美しい身体と掌に吸いつくような極上の触り心地の肌。潤んだ榛色の瞳はもちろん、感じ入って寄せられた眉間の皺までもが美しく、僕はベッドサイドのランプが作るヘンリーの睫毛の影にすら魅せられていた。何度も何度もキスを交わした唇は熟れたベリーのように赤く艷やかで、そこから零れる熱い吐息ごと食べてしまいたい、とまた口づけた。
情けないところを見せた僕を「委ねればいい」と抱きしめてくれた彼は、確かにある部分ではその経験を感じさせたけれど、その一方で何もかもが初めてのようでもあった。深く息を吐きながら僕を受け入れてくれたヘンリーが、事の最中に喘ぎながら僕の名前を呼んだ、それだけで僕の頭は何も考えられなくなって、ただ目の前の彼に溺れるしかできなかった。
「参ったな……」
こんな恋はティーンエイジャーで卒業したと思っていたのに、いい歳をしてこのザマだ。別れの時間の最後の最後まで離れたくなかったし、離れた途端に会いたさが募ってどうしようもない。早く会いたい、と口に出してしまったら余計に淋しくなりそうで、その代わりに愛しい人の名前を舌の上で転がした。
「プリンス・ヘンリー・ジョージ・エドワード・ジェームズ・ハノーヴァー=スチュワート=フォックス……ふふ、やっぱり口が疲れちゃうな」
あのときヘンリーが口にしたジョークを思い出して小さく笑った僕は、座席に深くもたれて訪れる微睡みに身を委ねた。
Fin.