育手の地獄夢主設定、風の呼吸の育手の女、元柱、六歳年上。元夫有。名前なし。
風柱をほんの数年。ふとしたことで肺を患い、全集中の常中ができなくなり、それが私の呆気ない引退だった。
風の呼吸の育手の一人に、何人ものみなしごを藤襲山に送り込む。大抵は行ったまま帰ってこない。戻るのを願いはするけど、異形の鬼を相手取り、呼吸の初歩を学んだ程度で鬼殺しろというのが無理な難題だ。
試練を越えた隊士たちが、自分の育手に送る便りや挨拶の絶えた時が、彼らの戦いの終わる日だ。何とも言えずに空しくなる。皆どんどん死んでいく。この頃は病んだ肺も思わしくない。
育手の所に来る隊士の卵は大抵見どころがない。見どころがないとは、つまり藤襲山が最期の地だった。分かっているのだ、彼らが死ぬのは。それでも鬼殺の為に風の呼吸を伝える道を絶やしてはならない。
最終選考に行ったまま戻ってこない子に花を買い、仏壇に生けて鈴を鳴らす。鬼の餌になるか、生き残るか。生死を分ける藤襲山の試練。あんなことはもうやめたがいいと、鬱々としていた時だった。
「先生、こいつ見てくれませんか」
粂野匡近が来て、ああこいつは死なずに頑張っている子だったなあと、笑顔が眩しい思いだった。
「粂野、まず挨拶じゃないのか」
「どうもすいません、先生。でも聞いてくださいよ、こいつ鬼殺を日輪刀なしでやってきた、とんでもない奴なんです」
後ろにいたのを引っ張って前に立たせる。面白くなさそうな顔をした、ほそっこい子供だった。
「不死川実弥と言います。日輪刀を欲しがっているんです。どうか面倒を見てやってくれませんか」
そう言って頭を下げるものだから、むしろ粂野のその頭をまじまじと見てしまった。他人のために頭を下げられる。そのことに、不死川とやらも随分驚いたようで、私よりもしげしげと粂野の頭を見ていた。後ろ頭のつむじが見えていた。
「おい、実弥。お前も頭を下げるんだ。この人は元風柱の先生だぞ」
「アア?」
じろりと睨むように私を見てくる。傷だらけの顔は、鬼の爪痕だ。その上、泥と埃と垢で随分汚かった。浮浪児によくいる身形で、目だけがやたらと殺気立って鋭かった。
「俺が欲しいのは日輪刀だァ。女、てめぇ一体なんだ?」
「口の利き方に気をつけな」
「アア?」
目つき悪くすごんで来る。育ちは良くないようだった。腹も減ったか、態度が悪い。
「不死川と言ったね。これから私がお前の衣食住の面倒を全部見る。そして呼吸の使い方を全部教える。そう言う相手に何て言うのか、知ってるのか」
「……刀、くれるんじゃねぇのかよォ」
「日輪刀が手に入るのは呼吸を覚えた後になる。藤襲山の試練に行っていいかどうかは私が決める。そこから戻って来られたら、日輪刀が手に入る」
「他の手はァ?」
「ない」
じっと顔を見合わせる。不死川はじろじろと私を見た。彼の検分に叶ったのだろうか、やっと彼は私に一つお辞儀をした。
「……ふぅん。じゃあ、しょうがねぇな。アンタの世話になってやるよォ」
そんな風にして、不死川という新しい隊士の卵の面倒を見ることになった。試練を与え、木刀を与え、刀を与え、不死川は呼吸を覚えた。
試練でどろどろに疲れて帰ってくる子らは、はじめ熱を出すこともある。不死川はそういうことがなかった。風呂に入れて清潔にさせて前にいた誰かの着物を与えると、傷の凄味はあるけれど普通の小僧っ子に見えた。
ただこの小僧、はしっこくって懐かない。
「お前、家族を鬼に殺されたか」
飯を食いながら軽く頷く。不死川も大抵の子と同じだった。飯をよく食べるのも、鬼殺隊の隊律についてよく聞いて覚えるのも、些細なことで転げまわって笑うのも、どの子も同じだ。
こいつは生きて帰って来れそうだ、という目論見が不死川を育てている手ごたえだった。そんなことは滅多になかった。自力で鬼殺を行ってきたという覚悟に信頼が置けた。
覚えが良くて、一年で藤襲山に行き、生きて戻って来た時は赤飯を炊いた。めでたいことだった。晴れて鬼殺隊の一員となったのだ。
私ばかりが喜んでいて、不死川は平然としたものだった。つまらん餓鬼だと思ったものだ。
不死川は隊士となってからもしばらく私の家にいて、めきめきと背が伸びた。後輩になる隊士前の子らをただ眺め、中には呼吸の素質がなくて、隠になるために産屋敷に行く子もいて、そんな子の頭を慰めに撫でたのを見た事がある。情はあるけれどあまり表に出さなかった。
不死川は階級が丁の頃に家を出て、それから数年もせずに柱になった。粂野が死んですぐだった。
不死川がお館様に無礼の段があったことが聞こえてきたのは、岩柱の鎹烏からだった。悲鳴嶼がそんなことを言うなら、余程だったのだろう。口の利き方は教えてないのがまずかった。
謝罪の手紙を書いて鎹烏に持たせて送った。切腹は言わないけれど注意して育てる様にとの事だった。
不死川のやりそうな、けれどあれで根は素直だ。そうでなければ技の継承など出来ない。鬼殺隊の禄を食む身の上だし、道理を知れば言うことを聞く。頭はいい。
不死川は頭がいいから、百人一首を人に聞かずに見ることだけで覚えた。あれは元は、いろはを満足に読むことも出来なかった。読む主のいなくなった小さな絵草紙を取っておいたのが役立った。
粂野の笑顔の訪問がなくなって、不死川の不愛想な訪問に変わった。手みやげを持って来て、それがいつもおはぎだった。柱になって元気にやっている。いいことだ。
数えで十八になった不死川に、好きな女はいないか聞いた。
「アア?」
じろりと睨まれ、この家に来たばかりの頃を思い出す。
「なんだ、なにも凄むようなことじゃない。一人前だ。炎柱のようにとは言わないけれど、妻子を持つ柱も隊士もいるだろう」
「なんだァ、アンタいきなり遣手婆みてェなこと言いやがるからよォ」
「なにが遣手婆だ、こんなの普通の世間話だ。年頃になったら周りが面倒見るもんだろ。と言っても、相手はお館様だから、そう言う話もなさそうだけど」
「俺はいいんだよォ。このままで……」
「そう言うけどね。人並みの幸せだっていいもんだと私は思うよ」
「そいつはてめぇがどうにかしろよォ」
肺病病みの女なんぞをどこのどいつが欲しがるが。恨み持つ人を藤襲山に送り込み、鬼の餌にどんどん殺して、業が深い。
「アンタは、隊士に戻れねェのか」
「まあ、無理だろうね」
人手が欲しい柱の気持ちを不死川も持っている。私も育手としちゃ若いから、もしかとおもって声を掛けたのだろう。
不死川は鬼殺に掛ける熱意が凄まじい。だから自分のことは二の次三の次になるのだろう。それでも余裕のある時に育手の顔を見に来るのだから、義理堅い。
玄関先で羽織の殺の字のついた背を見送った。来た時は細い子供だったのが、随分大きな男になった。あれで少し余裕が出来ればいい男と言えるだろう。
子供の頃の切っ先が、大人になったら重く鋭い。痛ましいものを見る気がする。粂野がいたら、あれは鞘のように不死川を収めてくれただろうにと、いない人の面影を偲ぶ。
不死川は抜き身の鋭さのまま、自分の全てを鬼殺に掛けている。その姿を育手として喜んでいいのかどうか分からなくなる。
鬼殺隊に入り、妻子を持てというのが無茶な話なのは分かっている。相当な技量を積まなければ、そんな余裕など出ない。当代の炎柱はそこの余裕が凄かった。
鬼が出たと麓から報せが来た時、怯える子らを落ち着かせ、現場の村に駆け付けた。山の麓の村長は、私が鬼殺隊の柱であったことを知っているし、藤の家も一軒ある。
「おお先生、来てくださったか」
村長は手放しで喜んでくれた。昔の武士のような姿を見て、喜び合う村人たちを見る。私が散ったら、あの子らの面倒を見る育手は誰になるのだろうか。
巡査は人を食い荒らしたのは野犬の仕業と決めて掛かって、鬼の話を迷信としている。それがいつものことだった。
口裏合わせを村長に頼み、夕べに藤の香を焚かせ、村の通りで待ちうけた。田舎の夜長に鬼が来る。曇り空には風もない。
袴に刀を身に着けていることから、鬼は最初から警戒してきた。と言って、食える餌は私一人だ。じりじりと見合い、刀を抜いて、間合いを測る。久々に呼吸を使う。短期決戦、それまで体が持てばいい。
飛び掛かってくるのを躱す。鋭い爪を鎬で防ぎ、遠間で見合う。全盛期と違って体が動かない。こんな小物、一瞬で終わっていたのに。
久々の全集中、それだけで汗が浮いてくる。なんのこれしきと踏ん張れたのはもう何年も前のことだ。あれから大分病も進んだ。出来るだけ動かずに自分を餌に、鬼を狩るしか手段がない。
こちらが弱っているのが鬼にも分かるのだろう。じっと様子を見て、間合いの外で窺っている。じりじりとしたやり取りをしていた。間合いに半歩踏み込んで、またすぐに出る。苛々するのを嘲り笑う。
「女。鬼の病の匂いがする。日輪刀を持ってはいるが、重いぞ、刀は。重いぞお」
鬼の笑う通り、ずっしりと刀の重さが肩に来る。一度振り抜けば、それで終わるのが分かる。その一撃を何としてもこの鬼に当てる。勝機を見定めるために、常中を解くわけには行かない。一度でいい。
月が中天に差し掛かる頃、私は咳き込んだ。常中が解けた。鬼が走り込んで来た。刀を構えようとして、それもできない。静かな夜の、これが最期か。
そう思った時、凄まじい勢いの風が吹いた。刃風が一気に鬼を刻んだ。一瞬のことだった。
「オイ。何してやがんだァ」
咳で容易に返答できない。それを察してだろう、じっと待っている。背に殺の字の羽織。不死川実弥がいた。わざわざ柱が、こんな村に鬼殺に来るとは。
「……久しぶりに、腕試しでもと」
「馬鹿か。何もできてなかったじゃねぇかよォ」
また咳が出た。刀を杖にして体を支えて、何かぼたぼたと落ちた。不死川が舌打ちをした。
「やられたのかァ?」
血を吐いていた。手ぬぐいで口を拭う。離れていても鉄の匂いがするのだろう。
「……違う。病だ」
「どこが」
「肺が」
「いつからだァ」
「お前と会う前からだよ」
「……景気のいい話じゃねェな」
隠が一人やってきて、不死川と何か話し始めた。全身が汗に濡れていて気持ち悪かった。納刀して、地面に座り込んでいた。立つことも出来やしなかった。
不死川が傍に来て、じっと私の脳天を見下ろした。悔しいから立ちたいのに、その力がない。ぜいぜいと息を切らして、その場に座り込んでいるしかなかった。
「どんだけかかったァ」
「二刻ほど」
答えたのは側にいる隠だった。
「暮れの明星の頃に鬼が出まして。そこから二刻ほどですが」
「蝶屋敷は病を診るかァ?」
「さあそれは……」
余計な気遣いをするなと言いたいのに、言葉も出ない。家で子供らが待っている、早く戻らなくては。
「アンタ、蝶屋敷行けよォ」
「いや、子供らがいる」
「気にすんな、風の呼吸の育手は他にもいるだろォ」
「不死川、余計な真似を……」
「余計な真似は、アンタがしてんだよォ。血を吐くほどの病人が医者にかからず、何してやがる」
言い返したいのに出来ない。育手をしながらこのまま静かに世を去るつもりだったのが、嫌な男に見つかった。
「そっと運べよォ」
隠が肩を貸してくれて、藤の家紋の家に向かう。その家は噎せ返るほどの藤の香を焚いていて、中に怯えた男が一人いた。私達を見てヒイと鳴く。
鬼殺は終わったこと。大八車を貸して欲しいこと。自分はこのまま次の鬼殺に向かうことを不死川は言って、私は隠と藤の家に休んでいた。
「元風柱。明日朝には蝶屋敷にお送りします」
「……どうしても?」
「不死川様の言うことですので……」
この隠と視線が合わない。どうやら不死川は隠の間で敬意をもって恐れられているらしい。さもあらん、あれだけの傷のこわもての男だ。
私の家にいた頃の不死川が、二、三度、げらげら笑った事がある。一人絵草子を読み解いて、その意味が分かった時だった。他の子と打ち解けはしなかった。
不死川の心の内に入れたのは粂野匡近だけなのか。痛ましい思いで、用意された布団に横になった。
翌朝、大八車で蝶屋敷まで運ばれた。
屋敷の主の代も変わったが、することはいつも同じ。
「町医者に診せましたか」
「いや」
「なぜ行かないのです」
「鬼の血が胸に入って、それから」
そう言うと、胡蝶カナエという花柱は眉をひそめた。この屋敷の主なら、鬼の血の毒については知っている。鬼の血が触れて鬼になる隊士もあり、毒にやられる隊士もあり。
簡単な診察をして、薬が出た。
十日ほど入院をと言うことだった。
数名の隊士が病室に入っている。その仲間の一人となって、どれも誰も似たように、鬼殺の業に疲れた顔をしていた。
二日目、見舞いが来た。岩柱の悲鳴嶼行冥が、大きな図体で病室に、背のない椅子を二脚出してそこに座らせた。
「久しいな。息災か」
「そろそろ駄目かと思っているよ」
合同任務で彼と一緒になると心強いどころの話ではない。鬼殺隊最強だが、これで心は余程繊細で、良く泣いていた。私の答えを聞いてさえ涙を流しているほどだ。
彼はいつも携えている一連の数珠を鳴らせ、手を合わせた。
「拝むにはまだ早い」
「南無……」
「鬼の毒に気を付けるといい。時を掛けて生きながら食われるようで、不愉快なことだよ」
「……蝶屋敷には、不死川の勧めでと聞いたが」
「ああ。随分と、お節介な男になった」
「不死川は胡蝶が好きだ」
へえ。それはまた。
数珠を鳴らして合掌する悲鳴嶼を眺めて、問い返した。
「どうしてまたそんなこと」
「一緒にいると分かるのだが、不死川の体は胡蝶の気配を追っている。不死川自身は気が付いていないようだが、宇髄あたりは分かっているのではないか」
「それで私に何をしろと……」
「胡蝶に柱をやめて欲しい。あの姉妹には、市井の幸せが似合うと思う」
不死川とあの美人とを娶せる。それはいい思いつきだ。あの男には鞘が必要で、あの柔らかそうな美人なら丁度いいのかも知れない。
「悲鳴嶼さん。それで鬼殺と離れられるとは限らない。不死川は柱だし、胡蝶さんも柱をしてる」
「確かに……」
「柱をしてると忙しい。どうやって娶せる?」
「さあ。そこまで考えていた訳ではない。ただ、そうなるといいと思ったまでのこと」
繊細な岩柱の頭の中は、花が咲いているようだった。おめでたいことこの上ない。そりゃあ確かにそうなった方が、育手としても安心だけど。
山の麓の女房たちの井戸端会議を思い出し、案外この岩柱も、そういう所の方が似合うかも知れなかった。
不死川が来たのは五日目だった。いつものようにおはぎを土産に、見舞いに花がないことに気が付いたのか、目を見返すと、視線がどこかに遊んでいく。
椅子に座り、何を話したものか。あの花柱と話をしたくて私を蝶屋敷に突っ込んだことについては、情けを掛けて言わずにおこう。これでも育手だ。
こわもての風柱だから、病室はすぐ二人きりになる。不死川は見舞いの言葉を持たないようで、しばらく黙り込んでいた。
「……アンタ」
「何だい」
「なんで鬼殺隊に?」
「男だよ」
これ以上ない簡単な説明で、不死川は目をぱちくりさせていた。
「十五の頃に連れ添った夫がいてね。そいつを鬼に殺された。そこから鬼殺に入ったよ」
「知らなかったなァ」
「話すような事じゃない。それに皆、似たようなもんだ。今の蝶屋敷の主はどうなのさ?」
「同じだな。両親を鬼に殺されて、そこを岩柱に助けて貰った」
「悲鳴嶼さんならこの前来たよ」
「俺、あの人に頭が上がらねぇんだよなァ」
「聞いてるよ。お館様の前でとんでもない無礼をしたと、うちに注意書きが届いたから」
「面目ねェ」
「いいさ、間違ったら直せばいい」
生きているなら間違いは正せる。私は不死川をつくづく眺めた。この男が恋を覚えて、その恋を知らずにいる。生き生きしていて、羨ましかった。
この気持ちは恋を犠牲にされて鬼殺隊に入ったからだろうか、それとも鬼殺の道から逸れた自分を拗ねているのか。
「傷が増えたね」
「大した事ねェ」
「稀血だろ。少し気をつけな」
「稀血だから出来ることもあるんだよォ」
「言うね。死ぬなよ」
「当たり前だァ」
そう言って、不死川の目が迷う。
「……家のことか?」
「ああ」
「片付けたのか」
「ああ。隠が大体。後のことは麓の村に頼んでおいた。あの山は産屋敷家のものだから、時々人の手を入れるってよォ」
「そうか……」
「アンタ、聞いてねぇのかァ」
「高原に転地療養に行く、ということだけなら」
ぽんと肩のあたりを叩いて来た手が、優しかった。
「元気でなァ」
「不死川も」
おはぎを残して、病室を出ていった。鬼の毒に対策はなく、このまま衰えて行くのを待つだけだろう。私は他の肺病病みと同じような療養所で死ぬまでの時を過ごすのだろう。現世を離れ、あの世に近い場所に行く。
宇髄が顔を出したのは七日目のことだった。土産は野菊で、隠が花瓶を持って生けに行った。
「派手に痩せたな」
「悪いんだ」
「そりゃそうだ。そうじゃなきゃ蝶屋敷にはいないよな。肺腑から鬼に生きたまま食われてるようなもんだろう。どんな心地だ?」
「嫌なこと聞くなよ」
「これから死んでいくやつに聞かせる話でもと思ったけれど、冥途の土産になるようなことなんか何一つ知らないもんでね。何か言い残した事でもないか」
「そればっかりか」
「なんで蝶屋敷に?」
「くだらん鬼を殺し損ねて。不死川に拾われて、血を吐いて」
もうじき死ぬ元風柱を見る宇髄の目は、とくに同情を感じている訳でもない。当たり前に過ぎて行く風景を見る人の目をしていた。
「俺に聞きたいことは?」
「炎柱は酒浸りのままかい」
「ああ、退いた。その後を息子の杏寿郎が継いでいる。炎柱と水柱はいる」
「そうか。あの人、安定した鬼殺ができるから尊敬していたんだけど、酒は駄目だったみたいだね」
「正直、鍛えなおせば今もまだいけると俺は踏んでいる。でもどうかな。こればかりは本人次第だ」
「まあねえ」
「育手。やってみてどうだった」
「まあまあきつい立場だね。みなしごを拾って叩きあげて藤襲山に送り出して、誰一人戻ってこない八日目の飯が寂しくていけない」
そんなことを話して、機嫌よく宇髄も去った。柱の数は少なく、鬼殺隊の質も下がる一方と聞いていた。
十日目、私は列車に乗って、高原に向かった。産屋敷の療養所がある。そこに行くのに、これだけはどうしてもと言って日輪刀を仕込み杖にして持って行く。
十五の頃に夫が死んで、私に残ったのは結局この刀だけだった。つまらない人生だと思いながらも、ほかに生きる術を知らない。鬼殺隊も罪作りだ、育手なら、不死川のような男が家から出ると楽しいけれど。
高原の療養所はいい所だった。火鉢の傍で、患者同士で自己紹介をし合い、どこから来たかを話すこともあった。私もそこで二、三人の知り合いを作り、数ヶ月の間に一人が彼岸に行った。
その年内に、隠がひとり見舞客として来た。
「どうも。隠の後藤です」
あの口布がないと、どうも締まらない。後藤はそんな様子だった。この一年の総まとめを私に物語るために来たのだという。
後藤は帳面を取り出して、つっかえながら、何が起きたかを話した。誰が継子を取ったか、誰が柱になったか、この年の隊員が何人減ったか、新入りが何人か。
質問すると、返事がある。結婚しているのは宇髄くらいで、ほかの柱にその気はなさそうだった。悲鳴嶼が言っていた、不死川の恋の行方については分からなさそうだった。
一年のまとめを語り、後藤はこの後は高原を下った先の温泉で命の洗濯をするという。
二年ほど療養所にいて、二人の隠の素顔を見た。療養所で知り合った沢山の顔見知りが彼岸に渡った。私は命根性がしぶといようだった。
病状が安定しているので、関東に戻される。できれば育手をやりたかったけれど、それはできないと釘を刺されに、まずは蝶屋敷に向かうこととなった。
蝶屋敷の主が変わっていたのは聞いていた。その人は胡蝶の妹でしのぶといって、病状をふんふん聞いて微笑んだ。
「やってみて欲しい事があります」
姉のほうは、も少しふんわりした笑顔だった。
「藤の毒についてご存じですか」
「いえ」
「調べてみた結果、鬼を防ぐ効能が、あなたの病にも効くのではないかと思われるのです」
行き先は藤襲山に決まった。藤のあちら側にいる鬼の元に行くのではなく、藤のこちら側で暮らし、体調の日記をつけて、鎹烏で送らせる。
人気のない山中に庵を囲って、暮らしに必要なものは隠が揃えてくれるという。藤襲山の試練の入り口とは逆側の山肌に行く。
隠者の暮らしは、高原の生活とあまり変わらない。藤のあちら側は鬼がいて、こちら側は人がいて、生死を分ける。
藤襲山は静かだった。いつになっても藤の香りが立ち込めて、その不思議に慣れ、藤の上に雪が降るのも見た。
藤の香りに包まれていれば仕込み刀を少しは振るえる。体の肉も少し戻って、蝶屋敷で問診をする。
「見ればわかります。具合はいいようですね」
「……私はあの山を出られるだろうか」
「この段階では無理ですね」
しのぶははっきり断った。
「藤襲山の側にいなければ、鬼の毒が体に回る。藤の花の香気のおかげで体が生気を取り戻した。離れない方がいいでしょう」
「一人は飽きる」
「文通はどうでしょう。旧知に便りを送ってみては?」
隠に頼んで手紙を出した。相手は元炎柱の煉獄槇寿郎、元水柱の鱗滝左近次は、何かの用事でお館様と引き合わされたことがあって気が合った。音柱の宇髄天元、悲鳴嶼さんは目が見えないから遠慮した。
そして風柱の不死川実弥は、あれは読めはするけれど書くのはできない。出来ないことが人にばれるのが嫌さで一度も筆を握らなかった。でもまあ、読めはするだろう。
この四人に手紙を出して、返事があるのは二人だけ。煉獄はまだ酒から立ち直っておらず、不死川は筆を取らない。宇髄と鱗滝との文通を楽しみにする。
その鱗滝のためらったような筆で、鬼娘を連れた子が藤襲山の試練を既に終えたのを知った。お館様も知っている。知っていて、あえてそうした。
お館様が動き出したことを知り、次の一手を鬼がどう打つか。駒ですらない私は、この棋を見守ることしかできなかった。
「オイ、いるんだろ」
そう言って、どんどんと戸を叩く者がいる。声に驚いて戸を開けた。不死川実弥が、前よりも少し大きくなった姿で、こんな山奥の家に来た。
相変わらずの目つきの悪さでじろりと見降ろしてくる。
「顔色いいじゃねえか」
「そうか?」
「いっつも青白いからよォ、これから地獄にでも行くのかと思ってたぜェ」
私は自分の頬を撫でた。不死川からあんこの匂いがする。おはぎを持って、この山中を歩いてきたようだ。全集中の常中ができるなら、そのくらいの山道は屁でもない。
茶を淹れて、おはぎを一緒に食べた。
「継子は出来たか」
「いいや」
「私の後に入った風柱がお前だものな。間が数年あいたのは、お館様に申し訳ないと思っている」
「ふうん」
「最近の隊士はどうだ。質が落ちたと聞いている」
「ああ。まぁな。叩き直そうという話が出てる」
「そうなのか。私が手伝えればいいが、そんなことも出来ないからな」
「アンタはここでしっかり休んでろ。そういうのは現役の仕事だし、気にすんな」
「そいつはまたつまらんな」
「病み上がりが何を言いやがる」
何もかも藤と藤の香りとで一色に染まって行く。のんびり話をして、不死川はぼんやりした顔で、こわもての彼が脅しもすかしもしなかった。
いつもの巻き舌の脅し口調ではない。油断した顔で、私が少し水を取りに近くの川へ向かっている間に、不死川はごろんと寝転がっていた。
不死川は、座敷の上でぐうぐう寝てた。
仕方ないから毛布を掛けた。
よく寝た。辺りが暗くなっても起きなかった。みやげのおはぎは、どこの店のか。それを晩御飯にして、不死川には塩鮭を焼き、たくあんと握り飯と味噌汁を作ってお櫃の側に置いておいた。
離れた所に床を取り、寝転がる。いつか粂野から不死川を引き受けた日が戻ってきたような気がして、この訪問はとても嬉しかった。立派な風柱を出したことが自慢だった。
花柱相手の初恋が死で破れたことは、何とも慰めようがない。不死川自身が自分で分かっている恋心ならまだしも、自覚がないから始末が悪い。花が咲けば心痛む時もあるだろう。今も鬼殺が一番か。
起きた時、不死川はいなくなっていた。毛布は畳まれ、盆の上に置いておいた飯は全部平らげて洗い桶に漬けてあったから、まあ、大丈夫だろう。
文通は続き、月に一度ほど、不死川がおはぎを土産に来て泊って行った。隠に頼んで布団を作って貰ったけれど、座敷に寝転がっている不死川を布団の中に入れることはついに出来なかった。
人恋しいのだろうか、育手の所に通うなんて。
私の育手は風の呼吸の使い手で、私の恋を鬼が破ったのを聞いて、それをバネにして頑張るように気合を入れてくれたものだった。
不死川にそういう事は必要なかった。気合は彼が自分で入れていたから、私は補助に徹していた。
そういうことを不死川も感じ取っているのだろうか。なにか助けて欲しいのだろうか。だからここに来るのだろうか。そういうことを何も聞けずにいていいのだろうか。
誰かに聞くか。いや聞くまい。
悲鳴嶼のことを思っていた。悲鳴嶼は鬼殺隊に来る前は、沢山の子供を育てながら寺に居たと聞いている。そんなのどかなことを生業にしていた人が、今は鬼殺の一番の柱だ。何があったかは知らないけれど、相当な過去があるようだった。
人の過去も思いも聞くまい。
話すまい。
不死川のことは誰にも言わずにいようと、手紙を書きながら思っていた。育手とは言え女の所に通う柱は醜聞になるだろうか。色気ある脂なんかが、私に残っていたものか。
そんなことを思うなんて、馬鹿だ。不死川は子だ。育手が子に対して抱く気持ちじゃない。馬鹿だ、馬鹿だ、大馬鹿だ。こわもての巻き舌の脅し口調がなくなったからなんだというのだ。
私は心配すべきなのだった。あの不死川特有の鋭さが鈍ったようで、どうも気になる。あいつは大丈夫なのだろうか。
「鈍ってなんていませんよ」
問診に訪れた蝶屋敷でしのぶが微笑む。
「それはあなたの前だからでは?」
「ええ……」
「お気付きではないのですね」
「こんな年増を捕まえて、言うことでもないものだ」
「女心はいつでも十六歳のままと言いますよ」
誰だ、そんなことを言ったのは。くだらない、女心など、疾うの昔に捨てていた。微笑むとしのぶは少し意外そうな顔をした。
「女くさい育手など、不死川は嫌うだろうよ」
「そう思うのが、女心と言うものなのでは」
「そうかなあ」
「ええ、多分。不死川さんは女心など知らないでしょうから、気が付かないままですよ」
そんな風に決めつけられた。藤の花の薬を渡されて、本来は毒だから気を付けて服用するように言われた。
「この張り紙、外国語が書いてある」
「ウィスタリア・チンキと書いてあるんですよ」
「へえ。うぃすたりあって?」
「藤のことを言います」
しのぶが蟲柱というのは宇髄と鱗滝から聞いていた。薬学の知識はかなりのもので医者いらずだと言う。この外国語を操る所からして、かなりなものだと想像された。
不死川は鈍っていないというけれど、見舞いにおはぎを持ってきては、大いびきで座敷で寝こけた。鬼殺は夜だから昼に寝るのはよく分かる。
なら、産屋敷の手の内にある妓楼でも行ってくればいい。手練手管の美女がもてなしてくれるのは、嬉しい事じゃないのだろうか。
放っておいて、外に出て全集中の呼吸を試す。前に鬼にやられそうになった時よりも常中ができるようだった。暫くこれで過ごしてみようか。と言って、藤襲山から出られないものを。
蝶屋敷で貰った薬を一日三度、藤に囲まれ藤の毒を煽る。
夕方ごろに起き出してきた不死川と、食事をとった。久しぶりに常中が出来ている。
「思うのだけど、不死川。お前の稀血は鬼にとっては毒なのかもな」
「そうか?」
「稀血に鬼が酔うんだろ。酔うなら酒で、酒は毒だ」
「……ああ、元炎柱か。元気なのか」
「返事が来るようになったら弱っている証拠だな」
「なんだそりゃあ」
「返事があるのは、鱗滝さんと宇髄だよ。元炎柱はまだ酒浸りのようだけど」
「俺は詳しくは知らねえけど、どういう人だったんだ?」
「鬼殺と馬が合っていた。一般常識と鬼殺の常識の違いもわきまえていたし、頼りになったんだけど、これがね」
酒を酌む手つきをすると、不死川はフンと鼻先で答えた。
「結局、てめえの気合が入ってなかったってだけだ」
「奥さんが亡くなったのが堪えたようだよ」
「……だからいけねェ、そう言う相手を作るのは。俺は鬼殺で生きて死ぬ。そう決めてんだァ」
飯を食いながら、あの脅し口調の巻き舌が戻って来た。何となく、不死川が来るのはこれで最後のような気がしていた。
「薬が効いたら、山を下りて育手をしたい。呼吸ができるように戻ったら、隊士に戻れるかも知れないね」
「そうかァ」
「今まで言わなかったけど、お前を誇りに思っているよ」
誉め言葉でむっつりするのは変わらない。嬉しい癖に怒った顔で、塩鱈を箸でむしってがつがつ食べた。夜が来て、鎹烏の指令を聞いて、さっさと山を下りて行った。
予感の通り、不死川はそれからは来なかった。
蝶屋敷の診察を受け、薬の効果を確かめる。藤襲山を出ていいと言われたが、すぐに育手に戻る訳には行かなかった。肺の病をどこまで押し返せるのか。回復しているのかを確かめなくてはならない。
藤襲山を下り、蝶屋敷まで小半時ほどの下宿に厄介になることになった。荷物は着替えと仕込み杖くらいなもので、一日中暇をつぶした。
暇潰しに仕事がないかと産屋敷家にお伺いを立てると、小さな事務所を紹介されて、そこで細々と雑事をこなす茶汲み仕事が月三十円。
「君、いつもステッキを持ってるね?」
「形見なんです」
嘘だ。仕込み杖だ。他の隊士は三尺ほどの刀を使うが、私の場合は二尺六寸と短めに出来ている。刀で言えば脇差ほどになる。
短い間合いで詰め寄って殺すから、血を浴びて肺に入る。一日三度の薬を飲んで、月に一度蝶屋敷に通う。
そんな風にして三ヶ月ほどが過ぎた。
「なんと、見合い話が来たんだよ」
「あら。それはまあ目出度いですね」
仕事から離れた笑顔を深くして、しのぶは両手を合わせた。
「目出度いかな」
「いいではありませんか。鬼殺隊を辞めて、何年です。殿方と一緒になるのも道の一つですよ」
こちとら年増で、前の夫を鬼に殺され、鬼の血で病みついて。前の夫のことを思い、もう十年以上も昔のことだ。怒りも恨みもまだあって、仕込み杖を持つような女だけど、これでいいのか。
「薬さえ飲んでいれば普通の暮らしが送れますよ?」
「そうだねえ、見合いを断るのも難しい。一度会うだけ会ってみようとは思うんだよ。それから断れば」
「断るのに会うんですか?」
「育手をしたい」
「あえて辛い道を選ばなくてもいいと思いますけれど。育手の数は足りていますし」
「……」
「素敵な殿方だと良いですね」
そう言う話をしたろうか。いや、断ると言ったような。貸衣装を着て、杖持って。いつもより濃く紅つけて。
喫茶店で顔を合わせた。ごく普通の男の人で、仲人をする勤め先の取引先の部長が何か話しているのを聞き流していた。さて、角の立たない断り方はないものか。
喫茶店であたりさわりない話、互いの腹を探ってみる。活動写真を見に行って、何がいい。私の好みは寄席だった。根っからあわない。
それからまたカフェに入った。甘ったるいミルクセーキを持て余し、活動写真について話す熱心な男が、自分の趣味に私を付き合わせたのがよく分かった。
どうしよう。この人に断りを入れていいのか。帰り道、お送りしますよと親切そうだった。普通の男。普通の暮らし。
そんなことを思いながら道を歩いていた。夜だった。通り過ぎた路地から勢いよく人が飛んできて、悲鳴を上げたのは男の方だった。
「早く、早く逃げろ!!」
抜き身を下げた一般隊士が二人走って来た。鬼だ。血まみれの仲間を抱えて、こちらに逃げろと手を振った。男は怯えて、二の腕を捕まれ、痛い。
蝶屋敷まで歩いて一刻の場所に鬼。私を盾にしようと路地に押しやる、普通の人の反応だ。前の夫は庇ってくれて、一撃で死んだ。
体の前に仕込み杖を翳し、鬼の一撃を逸らす。鬼の爪から返り血が飛沫で散った。久しぶりの風の呼吸。ただの餌が刃向かってきたことに怒りを覚えたか、近くの海鼠壁をばねにして飛び掛かってくる。
一閃。
首を落とした。型を使うまでもなかった。手拭いで刀を拭って納刀し、蹲って震えている男を振り向いた。「残念ですけど、このお話は断らせていただきます」と言った。
災難が去ったと知って起き上がった男は、きまり悪げに頷いて、足早にその場を去るのを一瞥し、驚いている隊士に話しかけた。
柱たちは散って戦っていて、蝶屋敷のあるような関東の中心部は割と手すきということだった。彼らは辛が最高位だった。街中あたりは出ても弱い鬼くらいで、怪我の治りきらない隊士などが担当に当たる。そこを突かれた。
見合いはパアだ。血が飛んだ貸衣装は買取だ。月給の三十円から貯金をしておいてよかった。素寒貧だ。
そんな事があった。
しばらくしてから蝶屋敷に行くと、不死川がいた。帰る所のようだった。じろりと見て、話しかけてきた。
「……アンタ結婚するんだってなァ」
「あれは破談だ」
「アア?」
凄むなよ。
「鬼が出たんだ。そっちはいいけど、男の方がすっかり怯えて。この近くでのことだったよ」
「……あれはアンタがやったのかァ」
「薬が効いて、うまく行った」
「大人しくしてろよォ」
「そろそろ育手に戻れそうだよ」
「街勤めでもいいだろォ」
「悪くないけど、周りが世話して世帯を持たせようとするのがね。ありがたいけど、身の置き場がなくて」
不死川は舌打ちを残し、蝶屋敷を出て行った。何が気にくわないか知らないが、前と同じに尖ったままで、鋭かった。元の不死川だ。
見合いを断った話をしのぶにすると、鬼殺の体力が戻ったのを喜んでくれた。女を盾にする男は論ずるに足らないようだ。蟲柱は理想が高い。
一日ずつ街に馴染む。夜に駆けて鬼を狩った日々が遠くなる。私の手元に日輪刀はあったけれど、これを持って夜を徘徊することはなかった。
産屋敷家からの使いが来て、私は藤襲山に向かった。鬼がいたら殺して欲しいという事で、借りた合わない隊服の背の滅の字を隠すのにありあわせの羽織を着、仕込み杖を腰にして山中に入った。
見覚えのある景色の中は、しんと静まり返っていた。鎹烏の警戒も緩いものだった。
鬼舞辻無惨を倒した話は聞いていたから、藤襲山の鬼も消えているはずで、私がするのは確認作業だ。鬼はどこにもいなかった。呼吸を使う要もない。
結局、私は育手に戻れなかった。育手の元にいる子らの行き先は、産屋敷が相談に乗るという。宇髄と煉獄、鱗滝との文通はうまく行っていた。
産屋敷家への報告は鎹烏に任せ、下宿に戻る。借りた隊服を返しに蝶屋敷に行く。この屋敷はまた主が変わった。
隊士で一杯の賑やかな病室を通って奥は静かだった。見知らぬ片腕の男とすれ違い、その男の出てきた病室を見た。寝てた。
土産の団子の包みを置いて、花を生ける用を足す。それからしばらく寝顔を眺めた。右手の指が二本無かった。戦い終えた風柱。
寝顔を見ながら、自分の夫を殺された所から思い返した。その怒りも恨みつらみも、ぶつける相手ももういない。不死川は仇討ちを討ち果たし、いまはただ休んでいた。
鬼の首魁が退治され、穏やかな日々に戻って行く。私は一足先に事務勤めをして、鬼殺隊を脇に見ていた。
私が風柱を退かなかったら、ということを考えようとしてやめた。どの道、私では死んでいた。あの悲鳴嶼まで死んだのだから。
不死川は痣が出たから、二十五までの。
その寝顔をじっと見た。柱が誇りと言ったけど、そこまで賭けろとは言わなかった。起きるのをじっと待った。起きなかった。
しょうがないので病室を出た。不死川は産屋敷家の持つ妓楼でも行って、命の洗濯でもするがいい。それとも秘境の温泉で按摩に揉まれて天国に行け。
仕込み杖をどうするか、手入れをしても使い道がない。持ち歩くのは流石にやめた。
煉獄は道場があるから剣道を教えることにしたという。宇髄の所は嫁が働いて旦那が家のことをする。鱗滝はこれまで通り、山中の小屋に住む。私は小さな事務所で事務員をする。
月に一度、蝶屋敷で薬を貰う。先生をする若い女の子の名前はカナヲというのを手紙で聞いて知っていた。生き残ったなら柱ばりの実力があるのだろうが、鬼のいない今は無意味だ。蝶屋敷の女先生として、怪我の後遺症に苦しむ元隊士の面倒を見て、今後やって行くという。
そうして鬼殺の荒事から抜けて毎日に戻る。行き遅れの事務員が、肩身狭く生きて行く。見合いの失敗は私のせいにされていて、腹立たしかった。こういう時の女は不便だ。
楽しみも苦しみも、いつも鬼殺隊にまつわることだったのを実感し、どこかにいい人いないかねぇと下宿のおかみさんに言われながら飯を食う。
買い取った訪問着を着て晴れの日に、のんびり出かけて寄席に行く。大いに笑って、帰りがてらにあんみつ食べて。久しぶりだった。女友達が欲しかった。鬼はもういないのだから、夜遊びしてもいいかも知れない。宇髄あたりを誘おうか。
私はすっかり油断していた。
産屋敷から手紙で連絡があり、お屋敷まで来るようにと、日取りと晴れ着の指定に疑わなかった。はて今代のお館様が何の御用だろうかと、隠れ道を使わずにお屋敷に出向いたのも新鮮だった。
案内された座敷には、煉獄がいた。
「お久しぶりです」
「ああ。大分痩せたな」
「戻った方ですよ」
「そうなのか」
紋付き袴の晴れ着でいる。今日は一体なんの日だろうか。鹿威しが庭で鳴る。
「元柱を集めて何の話が……」
音もなく襖が開いた。不死川が立っていた。彼も晴れ着で、平然とした顔でいる。胸元を開けているのは相変わらずだった。それで私の正面に座った。
続いて、小さな男の子が来た。輝利哉様だ。全員が会釈する。輝利哉様が上座について、可愛い声で話し始めた。
「本日は、お日柄もよく……」
お日柄なんて鬼殺隊で使う言葉だったかどうかを暫く吟味し、揃った顔ぶれにじっくり考えて、やっとわかった。お見合いだ。輝利哉様をじっと見ていた。あまね様によく似ていた。
それから、不死川を見た。お館様らしい口上が終わるのを待ってから尋ねた。
「……これで何人目?」
「五人」
答えたのは煉獄だった。
「全員、元隊士と隠だったが駄目だった。恐がったのが三人、寿命を理由に二人。噂話が広まって次が決まらん。育手はどうかと思ったが、他に手がない」
事情を聴いて納得した。不死川の鋭さが、今日は全く凪いでいた。すべきことを終わらせた顔だった。普段の彼が様変わりしたのが不気味に思える者もいただろう。
不死川が見合いを望んだか、誰かの世話か。それを聞いて何になるのか。輝利哉様は機嫌よさげな様子でいた。
腹を決めて話すことにした。
「育手の女は業が深いよ」
「……」
「子供たちを引き受けて数年育て、藤襲山に送り込む。帰らないのが多いんだ。私はそう言う人殺しを続けてきた。そんな業の女でいいか、考えてきたんだろうね」
「考えたァ」
「で?」
「俺が二十五であの世に行くまで、面倒を見ちゃくれねェか」
「……」
「どうせ鬼殺であの世に行く身の上だと思ってた。それが何でか生き延びちまって、行き先がどこにもねェ。アンタには悪いと思うが……」
私は驚いた顔をしていただろう。不死川が素直になっている。輝利哉様はにこにこしていて、煉獄は懐手で顎を撫でていた。
脅し口調をやめたときの不死川を思い出していた。藤襲山の庵で、妙に穏やかだったっけ。
行き先がないと言ったけど、必要なのは止まり木だろう。それくらいならできそうだ。
「ああ、いいよ」
輝利哉様の笑顔が明るくなった。煉獄が聞いた。
「二言はないか」
「ない」
「今のは不死川に聞いたんだが……」
「ああ、いいよォ」
話がきれいに纏まって、輝利哉様が立ち上がった。それに続いて煉獄も席を立った。
「じゃあ、後の話は二人に任せるから」
そう言って、座敷を出て行ってしまった。開け放たれた障子から、明るい庭が見えていた。
「……アンタさァ」
「うん?」
「何だって俺に手紙寄越してたんだ」
ひとりぼっちで暇だったから、誰か相手が欲しかった。四人いた文通相手の一人にすぎないが。
不死川は頭を掻いて、困ったような顔をした。
「別にいいんだ、何だって」
「……」
「ただ俺に、私用で手紙をくれたのはアンタが初で、驚いたってだけの話でェ……」
色恋なんぞ書いちゃいない。時候に体を気遣う親のような内容の短い手紙。そんなんで落ちていたのか。いつのまに。あんなんで落ちるなんてこの先大丈夫なのだろうか。
見た目と中身のちぐはぐぶりに、そういえば不死川は人付き合いもほとんど拒絶するような尖り振りだったのを思い出していた。だから恐がられて人との接触が少なかったからだろうか。こんな手口とも言えない手口に情を覚えるのは。
不死川は鬼殺の日々で、それ以外の人らしいことは置いてけ堀だった。何のためにそんなに尖っていたのかは聞かなかった。憎しみだけで、あんなに尖ることが出来るだろうか。守りたいものを守れたのか、それも聞かない。
人の過去も思いも聞くまい。
話すまい。
不死川が私の名を呼んだ。
「ま、これからよろしく頼まァ」
「ああ分かったよ、頼まれた」
私と不死川の間に一方的な文通があったのを宇髄に報せると、他の者の間では、私と不死川はあまり交流もない育手と子だと思われていたのが分かった。
義理堅く挨拶に来る男だと教えると、あんな殺気立った男が迷惑じゃなかったかと聞かれた。私は別に、迷惑には思わなかった。
朝の食事時、不死川は糠漬けを齧りながらぼやいた。
「姐さん、兄貴、そんな風に呼ばれんだよなァ。ここらのご近所さんは一体どういう心算だァ」
「やめてくれって言ってんだけどね。どうも恐縮されちゃって。多分、このまま死ぬまでいくよ」
「これのせいかなァ」
顔の傷に触る指がない。
「巡査に声を掛けられるのもそれだろうね」
「そうなんだよなァ。最近なんだか鬱陶しい」
「殺気がないから」
「あるほうが危いじゃねェか」
「そうだよ。あんたが昔来た時は、かなりだったよ」
「そうかァ?」
こわもての不死川が、全く自覚がなかったか。育手をしていた頃を思い出す、ぼろぼろの小僧っ子で目の鋭さが物凄かった。それが今はすっかり抜けて、その辺りにいる兄ちゃんだ。
「仕込み杖どうしようか」
「アア?」
「日輪刀だよ。床の間に飾っとこうか」
「……別に、潰しても」
「飾っとこうよ。やることやった柱なんだし」
「好きにしろォ」
食事を終えてお茶を出す。することなど何もないから、朝刊を一日かけて隅々まで読む。私のしている文通の、手紙の文面について話す。
不死川の家には、竈門炭治郎と言う鬼娘を連れていた隊士からの手紙が来る。黙って読んで、微笑んでいた。
返事の代筆について何か言うべきか、言わざるべきか悩んでいたら、買い物から帰ってきて、台所で手際よく何か作り始めた。
おはぎだ。
あれは手作りだったのかと感心して見ていると、ぱっぱと作って、お重に詰めた。私の分もあったので、お茶を淹れた。
「ちょっと出てくる」
「行ってらっしゃい」
出かけて、暮れる頃に戻って来た。
「どこに?」
「面倒を見た隊士の所」
正直、そんな人付き合いができるとは思っていなかったから意外だった。竈門炭治郎について手紙で聞くと、なかなかの隊士らしいという返事があった。中には柱並みだとの誉め言葉がつくものもあった。
二十五までの命の隊士は、不死川を含めて三人。竈門はその一人のようだった。
「ご結婚されたんですか!不死川さん!」
おはぎを入れて渡したお重に、ぎっしり山菜の煮染めを詰めて持ってきた竈門は、まだ二十歳に届かない若者だった。額に噂の痣がある。
挨拶をして、茶と茶菓子を出して、困った顔をしている不死川の横に座る。
不死川は元は荒んだ餓鬼だった。つまり、対等な人付き合いなど初心者なのだ。竈門と交流はあるが、対等の口の利き方が分からない。
「一体いつ?」
竈門の質問が私の目を見た。不死川は黙っていた。
「産屋敷家の世話で先月」
「へえ!じゃあ輝利哉様が仲人を?」
「はい」
「こんなことを聞くのは失礼かも知れませんが、あなたは不死川さんが恐くはなかったんですか?」
「オイ……」
思わず笑ってしまった。
「口の利き方に気をつけろォ……元柱の育手だァ」
「え!」
竈門は驚いて、私と不死川を交互に見た。
「柱をやめた後、育手をしてて。その時に会ったんですよ。その頃と比べたら随分丸くなりました」
「あなたはなぜ柱をやめたんですか?」
「鬼の毒を吸いこんだのが、肺に回って。今も薬を飲んでます」
「ああ、それで病気の匂いがするんですね」
「人妻を勝手に嗅いでんじゃねェよ」
「すみません!」
元気いっぱいで素直で前向きな若者だった。左手が不自由で、片眼の視力を失った。元隊士に片端者が多いのは自然の成り行きだろう。暮れ前に、荷物にならない飴を土産に家に帰した。
来客の後片付けをして、軽い夕食を食べる。長火鉢を囲んで茶を飲んで、ぼんやりしてた。
こうなるまで色々あった。私が鬼殺にかけた時は短く、ほとんどの時間を病と共に死を覚悟していた気がする。それが六つも年下の男と世帯を持つとは。
不死川は甘味を好んで、酒をあまり飲まなかった。なぜか近所から頻繁に送られる酒は、煮物に使って余りある。
隣に座る不死川を眺める。丈高く鍛えられた体で、真面目一方の一徹で、寿命の短いのが玉に瑕。
「なぁ」
「うん」
「不死川と呼ぶの、やめられねぇか?」
話の振出しが床でのことで、うろたえた。前の夫の時なんて、何の参考にもならない。不死川の声は静かだった。
「アンタに名字で呼ばれると、まだ育手の所にいる餓鬼の気分になっちまう。どうにかならねえ?」
「……さ、実弥」
「おう」
「気を付ける」
「おう」
こちらを見て、手を捕まれる。大きな手だった。触れ合うようになったのは結婚してからのことで、それまで他人の距離にいた。
うっちゃっておいた女心が湧いて出たのか、照れ臭くてならなかった。抱き寄せられての接吻で、こんな年増でいいのだろうかと疑念が萌して、勢いに押されて脆くも消える。
長々続けて、火が点いて。
「子が欲しい」
「……」
「アンタはどうだ」
「欲しいよ」
実弥の体に腕を回す。男の体はこんなに固く熱かったか。背に手をやって、顔を覗き込む。どこもかしこも傷だらけだけど、臆病傷はどこにもなかった。
「欲しい」
お願いすると、体を抱え、もう一度接吻をする。そういえば新婚だった。唇が甘かった。床も取らずに火鉢の傍に押し倒される。
「戸締りしたかァ」
「ちゃんとした」
帯を解く音、明るい場所で、消して欲しいと頼もうか。実弥の顔がいつもと違う。襟を広げる手が強い。育手のうちは耐えられたけど、妻になったら耐えられず。こういう仲になったのに、実弥が死ぬのは私はやだよ。駄々が口から漏れそうで。
これは地獄だ。育手の地獄。刃を握らせ鬼を殺せと教えたが、鬼を殺して死ねよとて二十一まで育てたか。
「実弥、殺して」
「アンタ睦言が物騒だなァ」
私の名を低く呼ぶ声の肌を這うのがもどかしい。このまま実弥と一緒に死んで、今度こそ、最期の時まで添い遂げて。