彼の荒野にて「どうぞ、おはいり。なにもないところだけれども」
彼は非常に恐縮しながら、手をとって私を迎えいれた。
私は、「おかまいなく」と返事をするのに精一杯で、きょろきょろと身を乗り出して暴れまわる目玉を止めることは出来なかった。
あなたの部屋はシンプルで、住みわけがきちんとしてそうだったのに。漠然と持っていた先入観を、慌てて子供服の尻ポケットに詰め込んだが、しっかりと見咎められていたらしい。
「安心して、ランゴリアーズは出ないよ」
と、嗤われた。
色はないのに音はある。匂いはないのに、ただ冷たい。遠くでごうごうと風の吹き荒ぶ音が聞こえる、一面の岩場。
降谷の夢の中は、モノクロームの荒野があるだけだった。
ひとつきほど前、組織壊滅後から専属で研究を委せていた機関の医者に呼び出された。
「宮野さん、いえ灰原さん、大変残念ですが、あなたの身体は死ぬまでそのままですし、死ぬまでといってもそれもあまり困ったことにはならないかもしれません。なにしろ我々の予測ではだいたいあと二年ほどです」
「そうですか」
私はその場にそぐわない、子供らしく明るい返事を返した。
言われなくても解りきっていたことだ。あなたのその手元の資料の二枚目、私が作成してあなたの上の上に渡したものじゃない。
資料は三枚目に移り、淡々とこれからの余生の観察予定が告げられていく。
私はぼんやりと窓の外を見ていた。
窓枠の中で、青い空をときおり、緑の葉がくすぐり、撫でる。
十代の頃に繰り返し見た、そのなんの感動もない青い空と輝く緑は、いつだって窓枠に縁取られた陳腐で低俗な絵画だ。外の世界などあるから、閉じ込められた自分に気づく。私には必要のない、しかし掛け外すことも出来ない、苦痛の象徴だ。
工藤くんは無事、日常に帰った。
私の方は、この分じゃ、この先二年ほどかかってから、なんかちょっと小さめの小学三年生として死ぬ。それだけのことである。
「ところで宮野さんは、第二ラボの方で研究されていたことについてはご存知ですか?」
さあ、わかりません。ぶらぶらと遊ばせていた脚に勢いをつけて椅子から降り、適当に頭を下げて医者に背を向けた。残りの二年は、一秒でも楽しいものでなければ。
医者は構わず続けた。
「そこでは、人間の無意識領域に関する研究が行われておりましてね。ようは死んだあと、誰かの夢の中に転移するんです。夢なんていうと微笑ましいですが、早い話が他人の無意識の一部に魂だけ間借りさせて貰う、ああ、ネットワークコンピューティングみたいなものです。ほら、ネットに繋がったパソコンの一部領域を、プログラムの解析に貸し出すあれですよ。おたくのボス、相当変わった概念をお持ちのようだ。これなら、少なくとも対象の寿命までは共に生きられますからね」
扉にかけた手が、じっとりと吸い付いて離れず、動かすことが出来ない。本題はこれであったか。
「灰原さん、誰かの夢の中に生きますか?」
どこまでも続くモノクロームの荒野が、靴の下でジャリジャリと砂の拍手を鳴らした。
岩場は、何度も私の足をなめ、歓迎した。擦れた膝下がヒリヒリと熱い。彼の荒野にとって、ここに他人が居ることは、たいへん珍しくおかしいことであるようだった。通りすぎるたびに砂埃が、ふしぎそうに私の顔を振り返った。
「降谷さん、待って」
はぁはぁと、喘ぐように吐き出した。夢の中なのにこんなにもキツいとは。どうかしている。
「ああ、ごめん」
彼は私の手をとり、高い岩場から抱き上げ、降ろした。そのまま岩陰に腰をおろすように促され、私たちはしばし、砂埃から姿を隠した。
何千、何万と、一人でここを歩いていると、他人に対する配慮がわからなくなるのだ、と、彼は哀しそうに呟いた。
「あなたの夢には少し期待してたのに」
口を尖らせると、彼は小さく「ごめんね」と笑った。
「前の二人の夢は、あまり居心地良くはなかったのかな?」
知っているくせに、と思いながら「そうよ、全然」と改めて教えてあげた。
工藤くんは、意外にも協力的だった。
研究所の会議室に集められたメンツが、自分の他には、赤井さん、降谷さんと、我々より年上の人間だったことを気にしたらしい。
テーブルの真ん中に何故か置かれた桃色の花が、私以外の男たちを、品定めしようと、しきりに視線を送っていた。
はしたないと思い、花瓶の向きを変えると、瓶には、自分の真っ黒いワンピースが映った。
私は一体、これから自分のお通夜でも開催するつもりだろうか。
「俺の夢に生きた方が、お前、寿命長く生きられそうじゃないか? 俺の方が若いし、そうじゃなくたってあの二人、大人しくじいさんになる命とも思えないぜ」
工藤くんは、何故かワクワクした口調で、耳打ちしてきた。未知のことを前にしてなお、自分の優位を確信している。私は、名探偵のそういった部分を好んでいた。死という未知も、また悪くない気さえしてくるからだ。
転移先での私の意識の寿命は、対象者の寿命に依るものになる。よって、寿命そこら辺は、事件への首の突っ込み方を考えると、正直全員どんぐりだろう、と私は思ったが、もごもごとそれを頬袋に仕舞った。あなた、誰の薬で死にかけたのよ。
入ってきた研究員が、実験的一晩のための資料と同意書を、全員に配った。
ひとまずは相性もあるだろうからと、六時間ごとの体験が予定されることになったのだ。
工藤、赤井、降谷の順で、三日後の夜から開始される。
赤井さんは、「他の人間も、実験も必要ない、志保が良いなら初めからずっと俺の中で生きればいい」と繰り返し言った。
花瓶の花はその姿をうっとりと見つめていたが、私は、赤井さんが優しく喋れば喋るほど、眩しすぎてほとんど姿を見ることが出来なくなっていった。
降谷は、周りのやりとりには一切口を挟まず、手元の資料の方が恐縮するほど、丁寧にそれを読み込んでいた。
私はなんだかばつが悪いような気がして、右上の紙端を指で丸めてはのばし、丸めてはのばしていた。
降谷にとってこれは正直、完全なとばっちりだろう。別に私の肉親でも親友でもない。もともとの知り合いでもなければ、こうなってからの関わりだって、実に数えるほどなのだ。
ただ、私と降谷の間には、お互いが補完できうる内容の思い出が介在しているというだけだ。それについてだって結局、話す機会はもてないままでいる。
冬の日に、マドレーヌがひとかけら紅茶の海に落ちるような膨大な記憶は、呼び覚まされることなく冷えていく。
気まずそうな私の視線が頬を刺したのか、降谷が顔を上げ、少し微笑んだ。我々の間に置かれていた、テーブルの上の桃色の花が、その笑顔をみるやいなや、ふにゃふにゃと溶けていった。あきれたことだ。
その日の話し合いではひとまず、辞退者はいなかった。
私は、謝辞を述べた。
気にするな、お安いご用だ、口々に述べる二人に対して、降谷だけは、最後まで必要最低限の応答しか口にしなかった。
ただでさえ、忙しい人間だとはきく。くだらない少女の感傷に付き合わせるだけの行為に、怒っているのかもしれない。
シンと沈む廊下の上に、降谷の金が残した光をたどっておいかける。
休憩スペースの自動販売機がガシャンと音をたて、その陰から降谷が右手を差し出した。追いかけてくるのがわかっていたと言わんばかりに、オレンジジュースだった。
「あの、あなたにとってこれは予想もしていなかったことだと思うの。でもどうしても三人くらいはいなくっちゃ、データがとれないって言うものだから…。もちろん博士も考えたのだけど、事情を理解してるだけに長生きにこだわって逆にストレスためちゃいそうで…」
私は早口で捲し立てた。降谷はこちらを一瞥することもなく、ゆっくりと缶コーヒーを飲んでいた。
「断ってくれてかまわないから」
返事はない。私は困ってしまい、隣に腰掛けると、ペットボトルの蓋を開けては閉じ、開けては閉じた。ついに、中身のオレンジジュースが、どうしましたか、と顔を覗かせ、この日のために新調したブランドものの子供服にポタリと着地した。
ハンカチを持ってくれば良かった、でも、黒だから見た目には染みにならない。きっと誰にもわからないだろう、何が染み込んでいようと、これはただの子供服の可愛いらしいワンピース。
にせものの子供は、なんだか恥ずかしくなり、ジュースが落ちた辺りを必死でこすりあわせた。どうせ死装束なのだから、真っ白でも良かった…。
「ごめんなさい、正直なところ、寿命にこだわりがなさそうな人だなと思って選んだの。私が中にいることを、あまり気にしないで生きてくれそうな人として…」
スカートに染みた焦りから、私は結局面倒になり、正直に告白した。
これ以上、何かを隠したりするには、自分にもう余裕がない。なにせまともに会話をするのは、これがほとんど初めての相手だった。
言葉が紫煙のように二人の間を漂い、昇っていった。降谷は、頭の上に燻る煙を、ふぅ、と吹いて消した。
「パソコン貸し出すようなものなんでしょう。起きたら僕は覚えていない程度とも」
でも無意識領域なんて自分でもわからないものな。パスコードロックができる訳じゃないし。自分の中を、小さな女の子が生きてるけれど、僕はそれに全く気づくこともなく、生きていくわけだ。
独り言の雨だれを落としていたかと思うと、突然はっきりとこちらを向いた。
「なんだか、えっちだね」
「はぁ!!?」
「違うの?」
君はそれを望んでるのかと思ってた。工藤くんに。
私の顔に怒りを確認すると、「僕はピエロかな」と言い捨てて去っていった。
なぜか、あくまでも降りるつもりはないことは、わかった。
一晩目、私と工藤くんには、渡されたヘッドセットの仰々しさに噴き出してしまう余裕があった。確かにあらゆる記録は録れそうだが、そもそもこれを着けて、ちゃんと入眠出来るだろうかと、実験が始まるまで二人で笑い合った。
スタッフが時間を告げにきた。なんとなく、このまま現実の工藤くんにすがりつきたい心細さがあった。
別々の部屋に入れられる前に、工藤くんは右手を差し出した。
「心配すんな。夢の中だって守ってやるから大人しく寝ろよ」
触れ合ったことは、数えきれないほどあったが、穏やかに握手をするのは初めてで、照れくさかった。工藤くんの右手は、子供の私の右手をすっかり包み込み、私たちの道は、今分かたれていることを印象づけた。
一面に広がるひまわり畑を、太陽が舐めて慈しんでいた。青い空の真ん中を、つい、とトンボが横切り、遠くの山から風が吹いて、小川の音を連れてきた。どこまでも爽やかで、生命に溢れる、これが彼の無意識の中らしい。
私は木陰でセミの鳴き声に起こされ、ゆっくりと立ち上がった。
「灰原、こっちに来いよ」
ひまわりの中から、彼が手をふった。
走り出したい気持ちを抑え、左手を陽の中に上げると、思わずギャッと、声をあげてしまった。
左手首が、ぼろりと焼け落ちた。
驚いて出した一歩の、そのつま先も。
「そっちには行けないの、私、焼けてしまうわ…」
「灰原、大丈夫だよ。暖かいよ」
「あつい、あつい…」
「それはお前が怖がるからだよ、灰原」
私はもうほとんどバラバラだった。
「灰原、あれが俺のいっとう大切な星なんだ」
激痛に耐え、顔をあげて見ると、工藤くんはひまわりの中で太陽に笑いかけながら、小さく「蘭」と呟いていた。
眼を開けると、さっき私にヘッドセットを着けたスタッフの顔が見えた。
「おはようございます。といっても、まだ入眠からほんの三十分です」
私を夢から追い出した工藤くんは、隣室で穏やかに寝息をたてていた。
私は、ほんのいっとき、工藤くんの木陰にいただけだった。そのことを充分に、理解した。
スタッフには、あまり短時間で追い出されたことを、被験者らには告げないよう頼んだ。
二晩目、重たい扉をノックし、赤井の屋敷の中に入ると、そこにはたくさんのドアと奇妙な隠し通路と、忙しなく聞こえてくる開閉音があった。
なんとなく、この屋敷自体がひっそりと伸びをして、膨らむのを感じた。ウィンチェスター邸宅と同じ、休みなき改築が続けられている。
背伸びして窓から覗くと、隣の棟に赤井さんの姿が見えた。髪を振り乱し、ライフルを肩に掛け、左手に拳銃を持ったまま、そこらじゅうのドアを開けては血眼で何かを探し、乱暴に閉めていた。
ときおり聞こえていた開閉音はこれか、と思い、私は手を振り、大きな声で呼んだ。
「赤井さん! 私はここよ」
視界の端に、眼を見開いて銃を構える赤井さんの姿が見えたが、それに驚く頃には、私は床に転がされていた。
さっきまで私が掴んでいた窓枠を、銃弾が掠めた。
「大丈夫ですか」
優しい声が降って、見上げると昴がいた。
「大人しくしていれば、あれはこちらが出ていかない限りは見つけられないんです」
昴は私を廊下の脇のドアの向こうに案内した。
暗い小部屋に押し込められたことで、自分の息の早さに気づく。思えば、窓の向こうに見えた赤井さんは、自分が知る人間ととても同じには思えないほど恐ろしかった。
「あれはなにを探してあんなにうろちょろとしているの?」
「殺すべき自分を探しているのです。ところがここには鏡がない」
すぐ後ろのドアが盛大に閉められる音がした。もうここまで来ている。
死神が近くにあるというのに、昴はなぜか笑いながら話した。
「つまりあれは、殺すべき自分が自分であることに気づくことなく、ああして日夜せわしなく探し回っているのですよ」
「冗談じゃないわ。こんなぶっそうなところで暮らせるもんですか」
「でしょうねぇ、とても残念です」
「ばかげてる! あなたはあなたを許すべきだわ」
いきおい、扉に手をかけた。
「そとは危ないですよ」
昴の声は最後まで優しかったので、扉を開けて死神に睨まれてもなお、楽園にいるような心地のまま、銀の弾を腹に受けた。
せめて、この、赤井さんの頬に触れたかったな、と思った。
二人の結果如何で、降谷は除外するつもりだったが、こんな短時間のデータでは、なんの有用性もありはしないだろうと、ため息をついた。
せっかく、死に行く身を投げ出してみたというのに。
「どっちも三十分で追い出されたって?」
実験室脇の廊下で、背中に何かが刺さった。抜かなくてもわかる、この棘はそこの男の嫌味だ。
時間のことは、工藤くんにも赤井さんにも伏せられていたはずなので、どこから聞き出した情報だろうかと思うと、やはり降谷のことが恐ろしくあった。
窓の外の夕陽が、どんどんと降谷の金に吸い込まれていき、やがて美しいたてがみの獅子が現れた。
「今日このまま僕と寝ようよ」
「実験は零時からよ。あと気持ちの悪い言い方しないで」
言われて初めて気がついた、とゲラゲラ笑った。何がそんなにおかしいのか。
「ひとつになるんだ、あながち間違いじゃない。愛し合おうか」
「私、お試しで一晩、男と次々ひとつになってるような女なのよ。ごめんなさいね」
フン、と鼻を鳴らし、獅子は休憩スペースへ去った。
このころには、私は、どれだけひとつになろうと男たちのなかに、私の望んだ愛はないことを理解していた。それを知らないで、自信満々の獅子を、不憫に思った。
他人のなかにあるのは、「私」の孤独のみなのだ。
午前零時、今までと違い、我々は同じ部屋の中で寝かされることとなった。
実験における物理的距離の問題だろうかと質問したが、単純に被験者の降谷からの要望だと告げられたので、ぞっとしながら部屋に入る。
ベッドは二つ。安堵した。直前に妙なやりとりをしたせいで、同じベッドに寝かされることになるのなら、さすがにリタイアを申し入れようと思っていたからだ。
隣のベッドからゆったりと、微笑みが香った。
「居心地の良い空間を提供出来るように努めるよ」
憐れんでいるのか、パフォーマンスであるかはわからなかった。
眼が乾く。それになんだか口のなかも砂でじゃりじゃりする。しかし、隣に座る彼は平気そうなので、これはもしかしたら時間という慣れが解決するのかもしれない。
砂の女の男も、最後はその辺のことではあまり悩んでいなかったように思う。
「いじわるするつもりはなかったんだけど。きみに嫌われるのはいやだったんだ。いやなやつの中身なら、きみがもうここで何をみても驚かないだろうって、もしかしたら僕は僕の中身について勘づいているのかもしれないな」
「外側のこと、あなたはわかるのね」
「僕にとっては僕のことだからね、きみはここにいても外側の僕のことは認識できはしないだろう」
だから多分、僕よりはきみの方が少しはましかも、心労が絶えないよ、とつけ加えた。
私たちはまた、荒野を歩き始めた。
急な岩壁を苦労して登り、はるか上から、彼の大地を見下ろす。
たくさんの降谷零が折り重なり、積み上げられて出来た、死骸の山があった。
「あれはなに」
と、私は訊いた。
「あれは僕の後悔と哀しみと無力と絶望とか、その類いのぬけがらだよ」
と、彼は答えた。
なんとなく理解した。傷つくたびに、震えるたびに、深い哀しみを埋葬することも出来ず、積み上げて荒野に置いてきた。
そうして、彼は息をしているのだろう。
ぬけがらの降谷零をひとつひとつ見つめながら、私は口を開いた。
「ねぇ、私、実を言うと結論は決めていたの。別に誰のことも選ばない。ただ、どうせ死ぬのなら、誰かの心のなかに、いっときでも軽薄な興味があったの、ごめんなさい。この一晩ずつの旅を終えたら、私はどこか遠くで、静かに二年を生きて、死ぬわ」
「きみのことだからそうだろうね」
「知っていたのに、招いたの?」
私は、すこし驚いて、彼を覗き込んだ。その私の声に驚いて、周りで踊っていた砂埃たちも、はたとダンスをやめてしまった。
「だから、招いたんだ」
「僕が大切にしている僕の思い出やあたたかいものは、多分もっと意識的な領域の管轄なんだ。いつだって思い出せる、引き出しの上の方のものさ。きみが期待したであろう、きみの家族との思い出や、小さな探偵たちとの日々は、残念ながら、ここにはないんだ」
「ここにあるのは、死骸の山だけ。でも、きっと僕は、これをどうしても、きみに見せたかった」
こみ上げてくるものが、涙かどうか、わからなくなっていた。
「私、母じゃなくて、なんだか申し訳ないわ」
「先生には見せないよ。好きな人には、圧倒的他者であって欲しいものだよ。きみの工藤くんとおんなじさ」
なぜだか、工藤くんというワードより、母には見せないという言葉の方が気にかかった。
涙がこぼれるのを阻止しようと、唇の端を噛む私をよそに、彼は、うやうやしく私の手をとった。
「話したいことが、たくさんあるんだ。ここを出たらそれからは、僕を抱いて寝てあげてよ」
「こんな身体じゃむりよ」
「でもきみに嫌われることをひどく恐れてた」
「母のことがあるからよ」
「寄り添ってくれたらそれでいいんだ」
「やめてよ、なんだか…」
私はそこで言葉を止めた。
なんだかあなたあんまり弱気だわ…。
ライフルと拳銃を持って、殺すべき自分を探して駆け回る赤井さんと、自分以外を焼き尽くすほどの陽に、恋焦がれて生きる工藤くんを、想った。
誰か他人の無意識の中なんて、ほとんどこの亡骸の山や、自分専用殺人鬼と過ごす状態で変わりないのだろう。
他人の心のなかに入り込んでおいて、美味しいご飯や、素晴らしい調度品に囲まれ、豪奢なもてなしを受けようなんて、どだい無理な話だ。
あんな恐ろしい巨大な力をもった組織のボスが、まさか最後に選ぼうとしていた選択肢に、こんな素朴な絶望を用意していたなんて。
「僕と荒野に生きてよ」
雨だれが歌うようなプロポーズ。
「ややこしい話だわ」
言いながら、私は少し泣いた。その場合の荒野の意味するところが、迎えの気配を差し出している。夢の夜が明けるのだ。
しゃがみこんだ私の背を、彼はゆっくりと撫でていた。
私は寂しいの、私は淋しいのよ。
彼は、「うん」とだけ小さく呼吸をして、後ろから私を包んだ。
私の十八年は、何も知らないただの女の子供であった。そのことを不幸なことだと気づいたのは、小さな姿で生きなおすことになってからだ。
あのまま、漆黒の闇の中で、何も知らないまま死ねたら、それがどんなに幸福であったかーー。
地平線が瞼を開け、差した陽があたりを照らした。ランゴリアーズが喰い尽くすかとすら思っていた彼の夢の夜明けは、実際に訪れてみると、ただあたたかく美しかった。
「私はどうなるの」
と、夢の中の「私」の行く末を訊いた。
僕が抱いてずっと一緒に眠るよ、と答えた彼の頬は、モノクロームのなかで確かにうす桃色をしていた。
「ありがとう」
私もこれから、そのうす桃色を抱いて生きるだろう。
「朝まで眠っていたのは初めてですね」
「そのようね」
夜の間に交代したのであろう、いつもは昼間に見るスタッフだった。バイタルをとられる間に、隣のベッドを見遣ると、薄いカーテンの向こうに、降谷のおだやかな金色が見えた。
裸足のまま、床に降りた。
MRIの撮影予定にはまだ時間があるはず。朝食までに、一階のロッカーに、携帯を取りに行こう。
不思議と、私は誰かと会話していたかった。博士や工藤くんや赤井さんや、事情を知りうる限りの人間に、すぐにでも連絡をとりたい気持ちでいっぱいだった。
お礼を言わなくちゃ。
ドアの外には、私の滑走路があった。
わずか六時間、他人の色のない夢にいた。
その六時間の世界との別離。
廊下の窓枠が縁取るありきたりな外の景色は、今、一瞬毎に、あまりにも絵画だ。
生きなければ、と思う。
自分の内側を、亡骸の山にしてでも、私はもう生きなければ。
おはよう、と少し戸惑いを含んだ声が髪に絡み、振り向くと入院着の降谷が廊下に立っていた。
もじもじと、初めて夜の秘密を知った子供の風情でいるので、私は笑ってしまった。「抱いて眠るよ」と照れた彼と、これは確かに同じ魂を有する人間なのだろう。
そうね、あなたには「おはよう」がよく似合うわ、と思いながら、髪に絡み付いたおはようを降谷に見えないようにそっと床へ棄てる。
「きみは、何か憶えてる?」
窓から風が吹いて、ひだまりを食べた猫のような甘く香ばしいにおいがした。
そのことの残酷さが、ただかなしかった。
ここはもう色も闇も持たず、なんの匂いもしない、あの亡骸の山の世界ではないのだ。
彼に会いたかった。
「何も憶えてはいないの。無意識のなかの話だもの」
用意しておいた、二人に訊かれたときと同じ答えを、降谷にも差し出してみた。
降谷は少し残念そうな顔をした。それは恐らく純粋な探求心からくるものだろうと私は予測した。降谷は自分の内側の具合を知りたいのだ。
「でもとても素晴らしい気分だわ、きっと素敵なところだったのよ、あなたの中身」
降谷に背を向け、窓の向こうを見つめ、早口に吐き出した。
かすかに、降谷が笑ったような音がするが、お邪魔させていただいたのだから、こうしてお礼とお世辞くらいは述べるべきだろう。頭のなかに亡骸の山がちらりとよぎる。
私の亡骸もきっと今頃、あの山の上で彼に抱かれ、降谷を構成する一欠片になって眠れていることだろうか。
眼をつむる。開く。
それじゃありがとう、と踵を返した。
窓から降る太陽の子供達が、彼の金の上で跳ねては笑っていた。色の在る世界で、彼はあまりにも美しく、眩しかった。
「でもこれからどうするかを、僕たち約束したしね」
得意気な声が、背中を追いかけてきて肩を叩いた。
私は驚いて、彼を見遣った。
「僕はこれから、きみをずっと抱いて寝なくちゃ」
金の髪の上で踊っていた子供達が、一斉に私の顔を覗き込み、そして私の頬を、亡骸の世界から桃色がそっと撫でてかたちどった。
約束は多分、果たされるだろう。
私たちはわかり合うために、手をとり、永久に他者であらねばならない。