我が身こそその唯一で在れと本丸から眺める風景はすでに秋桜に揺れているというのに身体に纏わりつく空気はいつまでも独特のこもった湿り気を帯びてあつい。
「主、惜しかった。」
暑さと過ぎた集中でもう何度目なのか記録に記すのも怪しくなってきた頃、近侍の声が鍛冶場へ静かに広がった。
額に流れる汗を拭ってゆく手のひらには労りが込められ、片膝をついて覗き込んでくる眼がこれ以上の鍛刀は否と告げている。
肺に満ちていた緊張を解き放つように、深い息をひとつ吐いた。
握りしめていた札がゆっくりと己の手を離れていくのを見送る。
札が近侍の胸に納められるのを見届け、その両の手を借りた。
重なった手のひらがどちらからともなく強く握られる。
必ず顕現させると意気込んだ手前、情けなさと申し訳なさが相まり遣る瀬なさに鼻の奥がつんとした。
眼前の近侍は少し困ったように微笑みその首を左右に揺らす。
茹だるような湿り気の中、ただ鈴虫の音だけが響いていた。
「日向、あなたのお兄さんは…随分と難しいの?」
日も沈み月が高く空に昇った頃。
床間で互いに絡んだ足はそのままに、ゆるく身体を弛緩させながら問うてみる。
「何度かその気配はあったのに…途中ですり抜けていった。」
「…石田の兄上は何か考え事をしていたのかもしれないね。歩いてくる道のりが長いと、何かと思案することが増える。」
「なかなかの牛歩だねえ…那由多の時が過ぎてもこの本丸には顕現しないかもしれない。」
確かに気配はあったのに…と頭を沈めると、鼻先に触れている白い喉が軽やかな笑みを伴って上下した。
「主がそこまで石田の兄上を想ってくれるのは同じ正宗として誇らしいよ。」
けどね、とゆるく背を撫でていた腕に力が籠る。
つい先刻まで燃え盛る鉄のように熱を放っていたその肌は未だ熱を帯びて冷めてはいない。
眼を上げると、静かに覗き込んでくるその瞳と交差する。
「…この本丸の、君の唯一の正宗として 僕は上手くやるよ。これからも。」
重なる皮膚の熱さとは裏腹に穏やかに包み込むように囁かれる声音が心地良い。
目を閉じると瞼に額にと幾度も下りてくるその熱に長い夜を予感するのだった。