「久森サン、今日はあれつけてないの?」 ヒュ、と不自然に息を呑む音が隣から聞こえた。
矢後が左隣に視線を向ければ、そこには見慣れた黒髪のてっぺんが見える。戦闘後は大抵疲れていつもの半分ほどしか開かない目は大きく見開かれていて、心做しか冷や汗すらかいているように見える。両手はおでこに当てられ、忙しなく左右に揺れる眼球は明らかに正常ではない。
少し俯きがちなその姿は、傍から見れば久森が未来視で良くない未来を見てしまったのではないか、と推測されかねない程の動揺を露わにしていた。
だが矢後は知っている。
この顔に、この動揺。最近も見た。
天井付きガチャで天井まで回したのに、狙っていたSSRでは無い方のSSRを引いてしまった時の絶望っぷりにそっくりである。
久森は少しだけ左右に首を動かして周囲を確認した後、すり、すり、と足をニ歩分引くと、今度は右側にズリ、ズリ、とニ歩分横にスライドした。かと思うと、その額を自分の背中にドン、と押し付けてきた。
何してんだこいつ、と後ろを振り返ろうとした首は肩が見えたところで止まった。そろりと伸ばされた指先が、自分のヘアバンドを引っ掛けたからだ。
「…おい」
「矢後さん、後生です。一生のお願い聞いて貰えませんか」
「コショウ?それ、こないだガチャ引いた時も聞いた」
「一度とは言ってませんから」
「お前、なかなか図々しいよな」
「…このヘアバンド、貸して貰えませんか」
「やだ」
「酷い、返事が早い。お願いします、緊急事態なんです」
「めんどくせー」
「お願いしますせめて解決策が見つかるまででいいんで…今度の週刊誌、僕がお金払うんで…」
「…何に使うんだよ」
「ヘアバンドなんて、頭につける以外にどう使うんですか」
それもそうだ。
「…ん」
「っ!ありがとうございます…!」
頭から抜き取ったヘアバンドを肩越しに久森に渡せば、よほど嬉しかったのか顔を上げてそれに手を伸ばした。
「…あ」
「は、うける。なにその前髪」
「み、見ないでください!!」
ズボッと勢いよく頭にヘアバンドを頭に通したせいで付け方は正直クソダサい。加えてよほど恥ずかしかったらしい、首まで真っ赤だった。そんなに恥ずかしがるか?たかが前髪がぱっつんになったくらいで。人のモンだってのに容赦なくヘアバンドをクシャりと握って何かに耐える姿はさながら小動物である。
「つーか、お前それ似合わなさすぎだろ」
「それは髪型のことですか、それともこのヘアバンドのことですか」
「りょーほー」
「容赦ないですね。僕も自分に似合ってるとは思ってませんよ」
あまりのダサさに、いつも自分がやっているように横髪や前髪を少しだけヘアバンドから抜いて多少マシになるように整えてみるも、一向に改善される様子はない。
「いや、やっぱダセーわ」
「改めて言う必要ありました?」
「これならつけてねー方がマシ」
「で、でもこんな短い前髪、とてもじゃないですけど恥ずかしくてこのまま生活するには些か支障が…」
ぐだぐだと煩い久森の言い訳を矢後が大人しく聞き届けるはずもなく、矢後はその腕を久森の頭に伸ばしたが、反射的に久森は渡すものかとそれを両手で握りこんだ。両者ともに無言である。
つけてない方がマシなのでヘアバンドを抜き取りたい矢後VS何がなんでも前髪のぱっつんを隠したいのでヘアバンドを譲りたくない久森による地味なヘアバンド争奪戦に終止符を打ったのは、いつまでも集合場所にやってこない二人を呼びに来た佐海だった。
「矢後さーん!久森さーん!大丈夫ですか?いつまでも集まんないからみんな心配して…って、何やってるんですか?」
「わっ!佐海くん!?ごめん!すぐ向かうからそれ以上こっちには…!」
「佐海、お前もこれ手伝え」
「えっ」
他校とはいえ先輩である二人からの相反する要望に、佐海は困惑して中途半端な位置で立ち止まってしまった。何故久森さんは矢後さんのヘアバンドをつけているんだろうか、とか、それをどうして矢後さんと取り合っているんだろうか、とか、どうして俺はそこに巻き込まれてしまったんだろうか、とか、そんな疑問ばかり浮かんでいた。思考をグルグル働かせて動けなくなっていた所に先に声をかけたのは、矢後の方だった。
「佐海!お前ヘアゴム持ってただろ」
「え、あ、はい!持ってます!」
「それ、貸せ」
「えっ、でも今あるの妹に貰ったやつしかなくて」
「それでいー、別に壊したりたりしねーから」
「あ、まぁ、はい、大丈夫ですけど…」
けど、ほんとにこれでいいのか?と思いながら、佐海は自分に伸ばされた掌の上に持っていたヘアゴムを恐る恐る乗せる。矢後は左手は久森のつけているヘアバンドを掴んだまま、右手に乗せられたヘアゴムを確認すると、ニヤリと悪どい笑みを浮かべた。
「おい、ヘアバンドから手ぇ離せ」
「い、嫌です」
「お前にはこれよりもこっちのほーがぜってーにマシ」
と、勢いよくヘアバンドを引っこ抜き、すぐさま自分の首にかける。あぁっ、と久森が動揺している隙に問題の前髪を一纏めにしてひっ掴む。何も知らない人から見たら久森が矢後に暴行を働かれている現場である。現に佐海はギョッとして狼狽えていた。
髪を引っ張られて苦痛に歪んだ久森の顔を無視して、矢後は慣れた手つきでその前髪をゴムで括る。
「ん」
「い、ったい…髪の毛なくなるかと思った…」
「久森さん!大丈夫で、す…っ」
どこか満足げな矢後と軽く涙目な久森の元に近寄った佐海は、久森を視界に入れてキュッと口を噤んだ。久森のおでこの上でサラサラな黒い前髪が、少し右側になだれるように器用にひとつに結ばれていた。動く度にゆらゆらと毛束が揺れる様子はススキそのものである。その根元には、可愛いピンクうさぎのマスコット。紛うことなき、先程佐海が矢後に渡したヘアゴムである。ご丁寧にうさぎは正面を向いてにっこりと笑っている。矢後さん、実は器用だったのかな、なんて真っ先に思うべきではないだろうことが率直な感想として浮かんだ。
「さ、佐海くん…?」
「あ、や、なんでもないです。よく似合ってると思いますよ、ははは」
「いや、男子高校生が前髪括って似合ってるは言われても嬉しくないよ」
「けどさっきのよりはマシだろ。うちのにもこーゆー奴いるし」
「えっ、そんなやんちゃしてそうな見た目になってるんです!?」
それは嫌だ!と、ヘアゴムに伸ばそうとして、手をピタリと止めた。このゴムは佐海くんが妹から借りた物をさらにわざわざ貸してくれた物だ、それを乱雑に扱うわけにもいかない。なんせ今は戦闘直後で手が少し汚れているのだ。さらに今は他の人たちも待たせている状況である。この様子だと矢後さんからヘアバンドを取り返すことは不可能、残された選択肢はぱっつんのままみんなの前に出るか、ひとつに括ったまま行くか。
究極の選択肢に、久森は大変混乱していた。混乱しきった頭のまま、ひとつに括っていた方がマシだという選択肢を選んだ。どうみても久森は大変混乱していた。
久森ははぁ、とため息をついて、待たせてごめんね、早くみんなと合流しよう、といつも以上の疲労を滲ませながら小走りで集合場所へ向かった。
その背中を見ながら、佐海はあのヘアゴムを使うのは家の中だけにしよう、と密かに決心した。
久森がヘアゴムにうさぎのマスコットが着いていることに気がついたのは、佐海にヘアゴムを返すべく新品のピンを買いに行って付け替えた時である。そこでようやく集合場所に辿り着いた時のみんなの生暖かい微笑みの意味や、やたらと楽しそうな北村のセリフの真意を察した。
顔を赤くしながら何とか佐海にヘアゴムのお礼を言い(何故か佐海まで顔を真っ赤にさせていた)、元凶である矢後には寝ていたところにクッションを投げつけておいた。ダメージは全く与えられなかったようではあるが。
尚、この件に関して北村からの弄りは一週間ほど続いた。