セブンティースリー ガラッ、と少し乱暴にドアが開けられる音で目が覚めた。
真っ白な天井に自分の腕に繋がれた点滴、周囲をカーテンで仕切られたベットに寝転がる自分の状態を把握する。
勢いよくなんの遠慮もなしに開けられたカーテンからは見慣れた先輩が顔を出した。起きている自分の姿をその目に写しても、さして驚く様子はない。
「はっ、いっつもと逆だな」
「僕だって怪我くらいしますよ」
ゆっくり体を起こすも、怠さと鈍く響く痛みに眉間にシワが寄る。それでも我が物顔で椅子に腰かけた先輩は手ひとつ貸さない。知っている、この人はそういう人だ。
寧ろ今まで矢後さんの流れ弾に当たってこなかっただけ奇跡ですよ、と、呆れ顔で付け加えれば、お前が流れ弾で死ぬタマかよ、と真顔で返された。一体僕はなんだと思われているんだろうか。
怪我自体は大した事ない。地球とリンクしている最中の怪我でもあったので回復も早いはずだが、それも致命傷を重症に抑える程度の効果に留まっていた。緊急手術によって使用された麻酔のせいで体の動きも感覚もはっきりしない。
「イーターの様子はどんな感じですか」
「お前が倒れる前と変わんねーよ。大量発生したり、引いたりの繰り返し。さっきが第七波つってたか」
「そう、ですか。僕、随分と寝ちゃってたんですね」
「寝てさっさと怪我治すのがお前のさいゆーせんじこーじゃねーの。ローテに支障は出てねーし、まだ休んでろ」
「それでももどかしいですよ。そりゃ僕の戦力なんてたかが知れてますけど、でも一人だけのうのうとベットの上で寝てるなんて、」
「別に、お前が前線に戻ってくんのに一番の近道は今休むことってだけだろ。早く久森が帰ってこねーと俺のフォローするやつがいないせいで頼城がうるせーし」
「…ベットの上で大人しく出来ない人の言葉とは思えませんね」
「俺は自分でそのへんの加減分かってっから問題ねーんだよ」
「んぐっ、いひゃい!」
軽口を叩く僕をこれ以上喋らせないためにか、矢後さんは大きな右手で僕の両頬を鷲掴んだ。麻酔が取れかけているのか、力加減を間違っているのか、普通に痛い。その掌から酷く濃い血の匂いがした気がした。
「わーったらさっさと寝てろ」
そのまま枕に押し倒そうとする腕を両手で掴んで、腹筋に力を入れることで耐える。ズキリと横腹に鈍い痛みが走り、息が詰まった。それを自分の力加減を間違ったせいだと勘違いした矢後さんは、一瞬掌から力を抜いた。
そんなに驚かせるつもりはなかったんだけどな、と矢後さんの垣間見せた優しさに少しだけ罪悪感を感じつつ、その掌がすごい力で自分から引き離される前に自分から顔を近づけてそこに舌を這わせた。
「っ、おい」
しっとりとした手から、少しだけ土と汗の匂いがする。この人は休憩に入ってから真っ先にここへ来てくれたのだろうか。そう思うと、少しだけ胸が締め付けられた。
矢後さんが痛みを感じないのをいい事に、かすり傷に少しだけ舌を差し込む。痛覚はなくとも何か感じるのか、指がピクリと動いた。うっすらと血の滲んだそこを慰めるようにキスを降らして、舐めとって、目を閉じてその味覚にだけ神経を向けた。血の匂いは濃いままなのに、味覚はそれほどの味を拾わない。
チュ、と普段鳴らさないようなリップ音をたてながらキスをしても、執拗にその傷口に舌を滑らせても、矢後さんは最初に声を出したきり僕の好きにさせてくれた。時折指先が頬や顎の下を撫でて遊ぶくらいで、儀式にも似た僕の行為を邪魔することは無かった。
最後に傷口にキスを送り、瞼を開ける。うっすら唾液でコーティングされた掌は血で汚れているはずもなく、傷口もほとんど塞がっていた。
シーツを手繰り寄せ、自分の唾液まみれになったその掌を拭きながらちらりと視線を奥に向ければ、深海のような暗い青の奥に、赤い苛立ちが静かに唸っていた。
「…お前のそーゆーとこ、ほんとどうかと思うわ」
「すみません、楽しくてつい」
「これ終わったらぜってーに抱き潰す」
「矢後さん、それフラグだって思わないんですか?」
「んなのかんけーねーだろ。お前絶対覚悟しとけよ」
そうですね、なんて適当な返事をしながら多少綺麗になった矢後さんの右手を両手で掴む。
「次の波、今までで一番大きいです。今戦闘に出てる皆さんには申し訳ないですが十四人全員で迎え撃つようお願いします。それでも結構苦戦するかもですから」
「…お前、」
「それから。そこから動けそうな人たち、出来れば三名以上が望ましいんですけど、東側…江波辺りですかね、すぐにそっちに向かってください。次の波が西側に集中してるので移動に苦労するかもですが。そこで最後の波が来て、それで多分終わりです」
「タイムリミットは」
「…詳しくは分かりません。ですが西側のイーター討伐に三十分、移動も込みで考えたら四十五分が限度です。それまでに江波に辿り着いてもらわないと、大量のイーターが中央に流れ込んできて、ALIVEの本社も、一番大きいシェルターも危ういと思います」
「上等」
ニヤリと口角の上げた挑発的な表情は完全に戦闘に対する高揚感で埋め尽くされていて、先程の欲情は鳴りを潜めていた。
その表情を確認して、僕は矢後さんの座っている場所の横に備え付けてあった小さなテーブルに手を伸ばした。ヒーロー活動中はほとんど物を持ち歩かない。そんな中で一番多く持ち歩いている「73」の番号が埋め込まれたユニットリンクをひとつだけ手に取り、矢後さんの右手にそれを掴ませた。
「あ?何、お前そーゆーの嫌いだっただろ」
「そうですね。矢後さん自分の分だけでも管理できないのに僕の持たせたって仕方ないし、間違って使っちゃうのも問題だし、何より矢後さんはお守りとか信じないですしね」
「分かってんなら持たせんな」
「まぁ、今がタイミングだと思ったんですよ。多分最初で最後ですから、受け取っといてください」
「お前の方こそ、それがフラグってやつだろ」
「そこは僕もヒーローですから。フラグの一つや二つ、へし折ってやりますよ」
だから持ってってください、と無理やり押し付ければ、壊しても文句ゆーなよ、とそれ以上ごねることなく矢後さんはそれをポケットに突っ込んで病室を出ていった。
ガンッと強めにドアを締められる音を確認して、ようやく震える息を吐いた。気づかない振りをしていた心拍は途端にうるさくなるし、血の巡りは酷く早いのに指先は冷たく震えていた。上手く力が入らない足で立ち上がり、カーテンを開く。ちょうど病院から出て行った矢後さんを確認して、再びベッドに腰を下ろした。
力いっぱい組んだ指に力を込めて深呼吸を繰り返す。
「…よし」
覚悟は決めたつもりだった。けれどいざその現実と対峙しようとした時、やはり怖いものだなと思った。毎日命懸けで生きてたつもりだけれど、それが先に分かったところでひとつも気が楽になることは無い。やっぱり矢後さんは僕には一生理解できない場所にいる人だと、この際全く必要ない再認識までしてしまった。
けど、曲がりなりにも自分はヒーローだという自負も、自分はそこそこ持ち合わせていたらしい。おかげで想定よりは遅くともなんとか腹はくくれた。
テーブルいっぱいに転がったリンクユニットをふたつだけ残してあとは全て入院服のポケットに突っ込む。まだ麻酔で鈍っている体を叩き起すために、テーブルに置き去りにしていたリンクユニットふたつを同時に握り壊し、看護師さん達にバレないよう窓からそっと抜け出た。
目指すのは、江波区。
通い慣れた道は多少荒れていたが特に問題なく指定の場所までたどり着いた。イーターの出現は、まだない。
「あー、神ヶ原さん、聞こえますか?……はい、久森です。想定より早く体調が戻ったので戦闘に復帰します。矢後さんから話は聞いてますか?…はい、そのままで大丈夫です。けどすみません、僕は一足先に江波に向かいます、こっちはとりあえず一人で何とかするので、そっちが終わり次第動けそうな人をこっちに応援で呼んでください。…はい、お願いします」
仲間に託すにはあまりにも不適切な「73」。それを矢後さんに贈ってしまったのは、ひとえに僕の弱さだろう。だけど今は、結局僕は矢後さんの運命をねじ曲げる摩訶不思議なあの力を信じてしまっているのだから、もう笑うしかない。
そう、これはただの願掛けだ。
多分矢後さんは僕の「73」を壊してくるだろう。そして僕は笑うんだ、「だから壊さないでって言ったのに」って。視るまでもない。
タイムリミットはあと四十分。何がなんでもこの先、一匹たりとも通しはしない。
これでも一応、僕はヒーローだから。
目の前を睨みつけて、僕は「73」をまたひとつ砕いた。