ふたりだけのひみつのじっけん「まつ、あのさ」
「うん」
「『きす』で子供ってできると思うか?」
大部屋でのんびりしている最中、唐突に投げかけられた質問。松井は思わず目を丸くして、近くで座っている豊前の顔を見た。二人は好い仲ではあるが、性的な接触には未だ至っていない。
豊前は特に冗談を言っている様子ではなく、真面目な顔で松井を見つめ返している。一応の性知識はある松井はどう言えばいいのかわからず、曖昧な答えを返した。
「えっと……うーん……どう、だろう?」
「まあ、よくわっかんねーよな。そういうのは」
「そ、そう、だね……」
豊前のあっけらかんとした言葉を聞いて、松井の胸に安堵の気持ちが広がっていく。それと同時に、性知識に疎い豊前に対しての悪戯心がむくむくと湧いてくる。
「……なあ、豊前」
「んー?」
「それ……今から『実験』してみないか?」
豊前が、松井の顔をじっと覗き込んできた。
「実験?」
「うん。今日から一週間くらい毎日豊前が僕に『きす』をして、実際に僕が豊前の子を孕むかどうか、試してみるんだ」
「ええ? でも、」
困惑の様子を見せる豊前。松井は豊前が何を言いたいのか察して、先回りするように口を開いた。
「もし、実際に身籠ったとしても……豊前の子なら、育てられると思うんだ」
松井は、本当はそんなことなど起こり得ないと知っている。知っていながら、艷やかに微笑んでみせる。その笑みにあてられて、豊前は少し頬を赤らめた。
「そっ……そうなったら、俺だって責任持って育てるよ」
「フ、嬉しいよ」
豊前の顔の位置に合わせて、軽く上を向く松井。豊前の視線が己の唇へと釘付けになっているのを感じて、松井の胸が次第に高鳴っていく。
「……豊前は、誰かと『きす』するのは初めてなのか?」
「そう、だけど」
「そうか」
フ、と小さく笑う松井。
「僕も、これが初めてだ」
顔に豊前の吐息がかかるのを感じて、松井は瞼を閉じた。豊前の瞳に映るのは、松井の切れ長の目を縁取る睫毛と、桜色の唇。口づけを待つ松井の顔は、まるで美術彫刻のような美しさであった。豊前はふと自分の子供を体に宿した松井のことを想像してしまい、胸の奥にじんわりと熱が灯るのを感じた。
薄桃色の唇から目が離せないまま、豊前の心音だけが疾くなっていく。やがて豊前は意を決して、己の呼吸を軽く止めた。そのまま松井の顔に唇を近づけていくと、
「ん、」
優しく柔らかく、触れるだけの接吻をした。初めて感じる仄かな温もりが、豊前の胸の中に甘い波紋を広げていく。
しかし、そのまま淡い快感に浸ろうとしたところで、豊前は自分の子を孕んだ松井を脳裏に浮かべてしまう。この一度の接吻で、本当に松井が身籠ってしまったら。そう考えただけで、豊前は背徳感が己の脊髄を駆け上がっていくのを感じる。
「ぁ、」
唇が離れた瞬間、松井の口から吐息混じりの声が漏れた。顔を遠ざけると、松井が軽く惚けたような表情をしているのが見える。初めての口づけを経た二人を取り巻く空気は、すっかり甘く湿っぽい色になっている。
「…………こんな、感じなんだね」
「……ん」
照れて互いの顔が見られない二人。そのまま二人は、何も言わずに唇に残る相手の温もりを反芻していた。
こうして秘密の実験が幕を開けてから、豊前と松井は毎日、最低一度は唇に触れるだけの接吻を行っている。何度も唇を重ねているうちに照れることは少なくなってきて、代わりに二人が覚える多幸感は増大していった。
そうして一週間に及ぶ『実験』の最終日、豊前は江の大部屋にて、松井を前にいつになくそわそわとしている。その様子が気になって、松井は心配そうに声をかけた。
「豊前、どうかしたのか?」
「や、なんつーか……」
ちらりと松井の目を見る豊前。その表情に庇護欲を刺激され、松井はじっと豊前の紅い瞳を見返した。
「あの、『実験』のことで思いついたことがあってさ、」
「うん」
「……引かねーでほしいんだけど、」
松井は真剣な眼差しで豊前を見守っている。見つめてくる蒼い瞳に見つめられ、豊前はこわごわと口を開いた。
「……舌をさ、入れたら……、その……どうなっかな……なんて、」
羞恥で耳まで赤くなる豊前。しん、と一瞬だけ横切る静寂。問を受けた松井は、目を丸くして豊前の顔を見ていた。そして、
「んんんッ!!!」
豊前への感情が突沸した結果、松井は鼻を押さえながら仰け反ってしまう。その様子を見て、豊前は慌てて松井を宥めようとする。
「まつ、平気か!?」
「だ、大丈夫……大丈夫だよ」
舌を入れる口づけをしても、子供を身籠ることはないということを松井はきちんと知っている。しかしそれをそれを知らないはずの豊前が、通常より濃厚で官能的な口づけを提案してきた。その事実に淫靡なものを感じて、松井はどくどくと鼻血を溢れさせてしまう。
鼻を押さえている松井に対し、豊前はちり紙を何枚か差し出した。そのちり紙を受け取ると、松井は己の鼻血を拭う。血で赤くなったちり紙を処分してから、松井は豊前の方を向いた。
「それじゃあ、……それも、試してみようか」
婀娜っぽい笑みを見て、豊前の胸の奥がドクンと跳ねる。
唇を少しだけ開いて待っている松井。豊前が躊躇していると、松井の両腕が背中の後ろに回される。松井の手はそのまま刈り上げた襟足に伸ばされて、そこから首筋を優しく撫で下ろしていく。その動きに促され、豊前は松井に顔を近づけた。
顔に吐息がかかるのを感じて、松井はそっと目を閉じる。そのまま、二人の顔の距離が近づいていき、
「んむ、」
二つの唇が柔らかく押し当てられる。松井は豊前の下唇を己の唇で軽く喰んで、甘やかな刺激を与えた。更に松井は少し開いた口から舌先を覗かせて、豊前の下唇をそろりと撫でる。その動きに誘われるように、豊前も自らの舌先を松井の口内へとゆっくり差し込んでいく。
「っ、」
どちらからともなく、甘い鼻息が漏れる。舌先が松井の犬歯を掠めた瞬間、豊前は松井の口腔内に舌を差し入れていることを改めて認識した。やがて二つの舌先が優しく接触して、二人は軽く痺れるような昂りを分け合う。その感触を、その官能をもっと味わいたくて、豊前と松井は互いの舌を縺れ合わせる。豊前は無意識のうちに両手で松井の耳の横にある髪を軽くかき上げて、そのまま松井の両耳を塞ぐ。
(これ、凄っ……♡♡)
舌と唾液が絡む音が、松井の頭の中に響く。松井はうっとりと目を閉じて、口と舌を完全に豊前に差し出した。
本当に接吻で生殖を行えるのなら、この濃密な口づけだけで、豊前の子を身籠ってしまうかもしれない。そう考えて、松井は胸の昂りが止まらなくなってしまう。
「んぁ、ふ」
呼吸も忘れて、互いの舌と唇を貪る二人。意識がふわふわしてくるのを感じて、松井はうっとりと目を閉じる。そのまま気が遠くなりかけたところで、
「ぁ、」
先に息が続かなくなったのか、豊前の方から顔を離した。呼吸が戻り、明瞭になっていく視界。松井は豊前の顔を見ながら、舌と唇に残る感触を反芻している。
その松井の体を優しく抱き寄せる豊前。松井は感覚を研ぎ澄ませて、豊前の体温と香りを余さず感じようとした。
「……まつ、ごめん」
「どうした?」
「実は、あの『実験』やるぞってなった後……本で読んでさ、」
ぽつりぽつりと呟く豊前。松井は何も言わず、豊前の腕の中でその言葉を聞いている。
「本当は『きす』で子供できねーこと……わかってた」
松井を抱きしめる腕に力が入る。
「でも、まつと『きす』したかったから、言えなかったんだ」
「……豊前、」
「騙すみてーになって、本っ当にごめん……!」
松井が顔を上げた。
「じゃあ、その……さっきの、舌を入れてみよう、ってのは……」
「……それも……まつとしたかった、から…………ごめん…………」
耳どころか首筋まで朱に染める豊前。その様子を見て、松井も頬が火照ったように熱くなるのを感じた。
「豊前……その……」
豊前の腕の中でもじもじしている松井。松井も照れで顔を赤くしながら、微かな声で呟いた。
「僕も……あの……最初から、知ってた…………」
「えっ、」
凛とした吊り目が、ぱちくりと瞬く。
「豊前と……『きす』したかったから、黙ってたけど……」
間近にいる豊前の耳にしか届かないほどの、消え入りそうな呟き。羞恥で頭が湯立つかのような感覚に襲われながら、松井は言葉を続ける。
「お、同じ……だね、僕たち……」
豊前と松井は、互いの顔を見られないほどに照れていた。周りの空気も、滲み出る二人の恥じらいで甘く染められていく。やがてその空気にあてられて、二人はちらりと互いの目を見た。
二つの目線が優しく絡み合う。そのまま互いの瞳に引き寄せられるように、二人の顔が近くなっていって、
「ん、」
豊前と松井の唇が、そっと重なった。
唇から伝わった体温はじんわりと胸の中に広がって、甘い多幸感に変わっていく。二人はうっとりと目を閉じて、その感覚に酔いしれていた。