万屋街の片隅で、僕たちは(続き) 薄暗い空き家の廊下を、豊前は手を引かれながら奥へと進んでいく。土足のまま屋内に上がるのに慣れていないせいか、豊前は少し居心地の悪さを覚えていた。
屋内は特に荒らされた様子もなく、居住者の気配だけが忽然と消えたようであった。天井の端には蜘蛛の巣が張っていて、小さな蛾が主のいないその巣に絡められているのが見える。
豊前が静かな屋内を見回していると、いつの間にか、手を引いていたはずの刀剣男士が姿を消していた。薄暗い空間は静寂で満たされていて、一振きりだと心細さを否応なしに自覚してしまう。声を出して名前を呼ぼうにも、彼の名前がわからない。かくして豊前は、途方に暮れてしまう。
「こっちだよ」
静かに囁くような声が聞こえて、豊前は思わず顔を上げる。それと同時に、廊下の先に見える襖が音もなく開いた。豊前の息を呑む音が、静寂の中で微かに響いた。
(ま、まあ……向こうから開けてんのかもしれねーし)
豊前はひとまず、軽く深呼吸をする。そして意を決して、中へ誘うように開いている襖の奥へと踏み込んだ。
踏み込んだ先は和室だった。その和室には静寂と埃っぽい匂いがあるだけで、先程までいたはずの刀剣男士の姿は見当たらない。豊前は、引き返すことも一瞬だけ考えたが、
──フ、ありがとう。優しいんだね。
その脳裏に自分の手を引いていた刀剣男士の微笑が浮かぶ。何故だかその微笑を裏切ってはいけない気がして、豊前はその場に留まった。
「待たせて、しまったね」
囁き声が聞こえた瞬間、何者かが豊前に後ろから抱きついてきた。黒いシャツに縋りついてくる白い手指が美しくて、豊前は己の鼓動が早まるのを感じた。
「お、おう、全然いいよ。えーと……」
「ん?」
「……悪い。名前、なんつーんだ?」
豊前の背中越しに、小さく笑う声が聞こえてくる。
「僕はね、松井。松井江さ」
「……ん? 松井江って……どっかで聞いたな」
「フ、同じ江の者だからね。名をどこかで聞いたこともあるだろう」
松井の名乗りに引っかかりを覚える豊前。
「えっと……松井は、俺のこと……知ってんのか?」
「うん、知っているよ。豊前」
松井は、豊前の体を少しだけ強く抱きしめた。
「ずっと、待っていたんだよ。豊前が、ここまで来てくれるのを……」
松井の静かな声に、熱が籠もっている。豊前には、初対面であるはずの松井にそこまで求められる理由がわからない。それでもつい、豊前は胸を高鳴らせてしまう。
「な、なあ。松井のお願いってのは、何なんだ?」
「フ。それはね」
松井が、額を豊前の背中にぐっと押しつけた。
「僕を、抱いてほしいんだ」
低く甘やかな声が、静寂に溶けていく。豊前はその言葉の意図を理解できず、一瞬固まってしまう。
シャツに縋りついていた松井の手はいつしかその裾から潜り込んで、豊前の腹部を撫で回す。そこでようやく松井の目的を理解して、豊前は松井の体を振りほどこうとした。しかし、
「まだ体の使い方に慣れていないようだね。顕現したてなのかなぁ?」
松井は密着させた肌で豊前の筋肉の動きを感知して、豊前の動きを押さえ込む。
「くっそ……離せ! 離せよ!」
どんなにもがいても引き剥がせない松井の体。豊前は次第に恐怖を覚えて、無我夢中で後ろに向かって肘鉄を入れようとする。しかし何かに当たった感触はなく、豊前はますます狼狽する。そして、豊前が上体を捻って肘を松井の頭部に確実にぶつけようとしたところで、
「っ、」
豊前の肘が、松井のこめかみをすり抜けた。
「……え?」
信じ難い光景を目の当たりにして、豊前が固まってしまう。松井は小首を傾げて、何事もなかったように微笑んでいた。先程は純粋に綺麗に見えたその笑みは、今の豊前には美しくありながらも不気味に映る。蜃気楼のような松井の姿を呆然と見ているうちに、豊前は顕現して間もなく忠告された文言を思い出していた。
──万屋街には、松井江の姿をした幽霊が現れる。
──その松井江の姿をした幽霊は、豊前江の姿があるときに高確率で現れる。
「まさか、おま……お前、」
恐る恐る口を開く豊前。
「……幽霊の、松井……なのか?」
その言葉を受けて、松井はじっと豊前の紅い瞳を見つめる。怯えを孕んだ視線を浴びて、松井の桜色の唇が艶めかしく弧を描いた。
「なぁんだ。僕のこと、知っているんじゃないか」
そう言って微笑む松井の顔は、とても綺麗だった。綺麗すぎて、物恐ろしかった。豊前は腰を抜かして、その場にへたりこんでしまう。