ふたりの秘密と世界の損失「皆さん、『たおる』と飲み物です!」
れっすん合間の小休憩にて、篭手切がてきぱきと江の者たちの汗を拭ったり水分補給を促していく。松井は豊前の隣に座って、篭手切のその動きに感心しながらその光景を眺めていた。
そのうちに二振の元にも篭手切が来て、タオルと飲み物を渡していく。
「こちら、りいだあと松井さんの分です」
豊前と松井は篭手切に礼を言いつつ、タオルと麦茶の入った紙コップを受け取った。ふと、篭手切の目が松井の白い首筋に止まる。
「松井さん……その首の、どうなさったんですか?」
心配そうに松井の顔を覗き込んでくる篭手切。篭手切が指差した箇所には、絆創膏が貼られていた。松井は豊前と軽く目配せをして、それから篭手切の顔を見た。
「これはその、大したことはないから……」
「ま、まさかとは思いますが……そこから瀉血なさった、とか……!?」
一瞬目を丸くして、それから穏やかな微笑みを見せる松井。
「頸動脈からいくのは、瞬間最大流血量を考えると確かに魅力的だろうけど、やるつもりはないよ。安心してくれ」
流石に命に関わるからね、と優しく言いながら篭手切を宥める松井。そうしているうちに、松井は昨夜から今朝の記憶を振り返りはじめた。脳裏に浮かぶのは、豊前から与えられた甘美な快楽と多幸感。肌を這う手も触れてくる唇も、見つめてくる朱の瞳も、全てが甘やかで優しかった。壮大な法悦に二振で溺れているうちに、松井の中で豊前への愛しさの輪郭がますます浮き彫りになっていった。
そして今朝の洗顔中、鏡に映る己の首筋に、松井は紅い痕が残っているのを見つけた。その紅色が新雪のような白い肌に映えて、松井は鏡から目が離せなくなってしまう。そのうちに豊前も洗面所にやってきて、鏡越しに松井と目が合った。
鏡を眺めている松井を目にした瞬間、豊前は眉尻を下げて、申し訳無さそうな表情をした。豊前曰く、松井の首筋の痕は、心が昂ぶって衝動的につけてしまった痕だという。それを告解してきたときのしゅんとした表情が愛らしくて、松井は鼻血が出そうになるのを必死に堪えた。
内出血の痕を絆創膏で隠すのは、豊前の発案であった。松井に刻んだ所有印をひけらかすよりも、その痕は二人だけが知る秘密めいた関係の証にしておきたいというのが豊前の意向である。松井もそれに同意して、痕の上から絆創膏を貼った。そしてれっすんが始まるまで時折その絆創膏を撫でながら、松井は豊前からたくさん受け取った愛情を噛みしめていた。
そして、
「あっ、もしかしたら虫刺されとかでしょうか?」
篭手切の声が、松井の意識が甘やかな追憶から引き戻した。ここは話を合わせておこうと考えて、松井は相槌を打つ。
「うん、多分そうだろうね。最悪手入れをすれば治るだろうから、あまり心配しなくてもいいよ」
「いえ……虫刺されだとしたら、原因から絶たないといけません。早速ですけどれっすんの後、部屋にくん煙剤を焚きます」
篭手切の目には、固い決意が宿っている。
「それで明日にでも、皆さんの寝具で洗えるものは全部洗って、お布団も干させてもらいますね。ああ、そうなると誰かに手助けを頼まないといけないな……歌仙あたりならやってくれるだろうか……?」
独り言をこぼす篭手切。自分の嘘に付き合わせるのが申し訳なくなってきて、松井はおずおずと声をかけた。
「篭手切……それは、その……大袈裟、なんじゃないか」
「いえ、これは必要なことです。松井さんの白磁のようなお肌に傷がつくのは世界の損失ですから」
「……やっぱり、大袈裟じゃないか?」
強弁する篭手切と、その勢いに圧倒される松井。松井の隣では、昨夜まさにその白磁のような肌に痕をつけた豊前が、気まずそうに二人から顔を逸らしていた。
「りいだあもそう思いますよね!?」
その豊前に対して、篭手切が突然話を振ってくる。急に矛先を向けられて、豊前は飛び上がりそうなほど驚いた。
「ど、どうした?」
「松井さんの白くて美しいお肌に、絶対傷なんてつけたら駄目ですよね!」
豊前の顔を伝う汗。昨夜所有印を刻んだときの記憶が脳裏に去来して、豊前は一瞬目が泳いだ。そのまま篭手切の勢いに圧されて、豊前は思わず首を縦に振ってしまう。
「そ、そうだな。篭手切の、言う通りだよ」
豊前からの同意を得て、篭手切は若草色の瞳を輝かせた。
「ほら松井さん、りいだあもこう仰ってるんだから、全然大袈裟なんかじゃないですよ!」
今度は松井が羞恥で耳まで赤くなって、篭手切から顔を逸らしている。
桑名江は、その向かいで繰り広げられる三振の会話を様子をぼんやり眺めていた。やがてそこへ村雲江がやってきて、桑名にぼそっと話しかける。
「……ねえ、桑くん」
「んー?」
「豊前が滝のような冷や汗かいてるように見えるのは、俺の気のせい?」
「気のせいじゃないと思うよぉ」
だよねぇ、と呆れ気味に言う村雲の声。桑名は篭手切から貰った飲み物の残りを一気に飲み干した。