好意の天秤「……これって」
職権乱用ですか、と底冷えした声が響く。授業開始数分前、涼しい顔をして席についているその姿は模範的であって、理想的ではない。膝に手を置いて、訝し気な視線で、品定めするような瞳で。そのあからさまともいえる非友好的な態度に、浅野は背を冷房の力なく冷えた汗が伝うのを感じる。いや、今日土岐先生に代わってって。そう笑みに尽力して答えれば、はあ、とため息にも似た返事と共に不審の色が濃くなった。私は土岐先生からそんな話を一切聞いていませんが。どう説明するつもりだ、と言わんばかりのトーンに思わず言葉に詰まって、身じろぎ一つできなくなった浅野を救うように、授業開始のベルが鳴った。よろしくお願いします、と形式上の挨拶がその他大勢の声の中にも、一人だけ浮いている。
本当に自分に非が無くても、見られるとまずい瞬間というのは存在している。浅野にとってそれは先日の出来事であり、そのまずい瞬間を見たのこそが、目の前の砂川という、己が勤務する個人経営の塾に通う少女だった。
「要は、釘を刺しに来たんですよね」
「いやちゃうんやって……」
本当に、いろいろな偶然が重なった出来事だったのだ。土岐とその日の勤務時間がたまたま被っていて、流れで飲みに行くことになって、それで。思い出すだけで困惑を覚える事象に浅野は、未だ先週末に飲んだ酒が抜けていないような錯覚を覚える。そう、酔っぱらった挙句、なぜだか土岐は好意を零してきた。職場のある通りの繁華街、その雑踏に紛れるとでも思ったのだろうか。残念ながら掻き消えなかったそれは未だに浅野の耳奥で残響が残っていて、さらには涙をこぼしながら気絶するように倒れ込んできて眠りに落ちた彼の記憶からは、どうやらすっぽりと抜けているのだから質が悪い。いや、どないせえっちゅうねん。怒りをぶつけようにも当の本人は全てをすっかり忘れてしまっていて、それを掘り起こすのもパンドラの箱なような気がして身じろぎが取れない。しかも、しかもである。
(あん時おもっきし砂川さんに見られたんよなあ……)
土岐の全体重を支えながら途方に暮れていた浅野を、流れの中にある石のように人混みの中、じっと彼女は止まって凝視していた。目が合って、声をかけなくては、と判断するよりも早く砂川は浅野の隣をすっと泳ぐように通り消えて、人混みに消えていく。その露骨に顰められた横顔に、浅野はとりあえずこれはよくない、と脳がサイレンを鳴らすのを感じて、そっとシフトを変えた。土岐に頼んで変わってもらったのである。
「言われなくても、別に誰に言ったりだとかはしませんよ」
「ああ、うん。それは助かるねんけど」
「他人の恋愛事情にとやかく言う権利なんて、私にはありませんし」
「いやっ、うーん……せやんなあ……」
浅野は何と話を進めていいのかが、もうよくわからなかった。というか、話以前にこの問題をどう解決していいのか、途方もない海原に突然身一つで放り出されたような、そんな手に負えなさを抱いていたのである。言い逃げのような形で伝えられた好意は、伝えてきた当人にも、ましてや周囲にも吹聴できるようなものではなかったのだ。砂川さんはさ。藁にもすがるような思いで口にする。これこそ職権乱用よな、と理性的な自分が呆れたようにつっこむ。
「その、聞こえたりとか、した?」
「……聞こえたり、とは」
「俺らの会話。っていうか、土岐先生の声」
「……」
気まずそうにふいと視線をそらす。聞いていないと言えば、嘘になりますね。どこか具合の悪いといった様子で吐き出す彼女に、浅野はつい「聞いてたんやったら、悪いんやけど」と声をかけてしまう。授業を進めずにこんなことを話している。これってばれたらクビか。一瞬だけそんなことがよぎっては消えた。
「ちょっと、相談乗ってくれっていったら、怒る?」
隣の机でだるそうに明後日の方向を向いて、それでも握りしめられた拳には力が入っているのを見ないように正面を向く。小さな声が迷うように「あ」とだけ漏らして、しばらく返事が返ってこなかった。怒りは、しませんが。いかにも言葉を選んでいると言わんばかりの声色と、気づけば机の上に投げ出された手がゆるゆると指をすり合わせてるのが見えた。
「土岐先生を……その、彼の告白を断る相談なのであれば、私は辞退します」
「あーいや、そういうのじゃないっていうか……その段階じゃないっていうか」
「はあ」
土岐先生、多分俺に言ったこと全部忘れとってさ。状況を正しく伝えるための精一杯の文に、砂川は何かものを言おうとして口を開いて、そしてゆっくりと閉じた。そんなこと、あります? 己を疑うかのような発言に、上手い反論なんて一つもないから困っているのだ。
「好きなもん注文していいよ。俺が出すから」
「いえ」
大型チェーンのドーナツ店は、平日の夕時だからかまばらにしか人がいない。壁際に置かれたショーケース沿いに進み、自分が好ましいと思うその円形を取っていくシステムは、奢りたい側の人間にはあまり適していなかった。涼しい顔をして自分の分のトレーを手にしている砂川に、非常に後ろめたい気持ちになる。女子高生に己の痴情の縺れを相談しようというだけで自己嫌悪が果てしないというのに、その上気まで使われてしまってはもう立つ瀬がなかった。やっぱり無理にでも塾内で話を済ませておくべきだった、と浅野は一人後悔する。面談室を使おうと提案したのを一蹴してこの場所を提案したのは他でもない砂川だった。
「せ、せめて飲みもんだけでも奢らせてくれへん? 俺の話に付き合わせてるお詫びも兼ねてさ……」
「自分で支払いをするのは、私なりの意思表示なので」
お気になさらず、と冷めた顔をしながら浅野の脇をするりと抜けてチュロスへとトングを伸ばす。そう言われても、浅野にはその意思とやらが表示されていないのだから納得できるはずもなかった。しかし自分が食べたいものは既に回収し終えたのかしれっとレジスターの前に並んでしまっている以上、どうすることもできない。一つ溜息をついてから自分も適当に、一番有名なトレードマークとも呼べるドーナツをトレーにちょこんと乗せて、その後ろに並んだ。ドーナツ食べたかったん、と何気なく尋ねてみれば微妙な顔をして「まあ」とだけの返答がその場に残されたきりだった。
「ホットコーヒーと、リンクドーナツおひとつで、四百三十二円になります」
明るい店員の声と同時に珈琲が加えられたトレイを受け取って、一足先に少女が座っている机を目指した。日がな授業時には隣り合って座るシステムなせいで、改めて対面させられると強く威圧感を感じてしまう。冷たい瞳をしながらストローを唇で食む姿は、どうにも穏やかではなかった。
「……それで、結局あなたは私に何を話したいんですか」
「え。いやな、さっきも言ったと思うねんけど土岐先生は多分俺に言ったこと……」
「それはもうわかりました」
にわかには信じがたい都合のいい話ではありますが、とトレーの上に置かれたそれら一切から手を放して、机の上で握りしめる。問題は、その先。そう遊ぶ唇はストローを食んでいた時よりかはずっと緊張をはらんでいた。あまりにも真面目な人間なのだと、その時気づく。真剣に取り合いすぎるが故に、彼女はこの場にひどく責任を感じてしまっている。軽率な行動だったという後悔は、もう遅い。
「あなたが私に釘を刺すだけなら、それでよかった。私だって端から誰にも言う気なんてありませんでした。でも、あなたは私に、それ以上を求めるんですよね?」
「……ごめんな。やっぱり、相談はなしにして……」
「私の対応を見て引き下がろうとするのは、とても不誠実だと思いますが」
窓の外をちらりと見て、砂川はため息をつく。別に何もかもを責めているわけではありません。その含みのある物言いに、浅野は息が詰まりそうだった。えっと、俺は、どうしたらいいんすかね。気まずさから無意識に出る息継ぎに、砂川は事も無げに「私への要求をどうぞ」とまたストローでアイスティーを含む。
「……俺は、どうしたらいいんやと思う?」
「具体性のない質問ですね」
「しゃ、しゃーないやんけ……」
「まあ、要は土岐先生の告白を、これからどう扱っていいのかわからないってことですよね」
何でもないように纏め上げて見せた彼女の台詞に、浅野はただただ耳障りの悪さを覚える。告白。そう、彼のあの言葉はまさしく告白と形容されるに足るものだった。酔いの回った頭で、アルコールでしびれた舌で、それでも漏れ出た言葉は決して他人の言葉ではなかっただろう。肩に置かれていた手が震えていたのも、睫が震えて職場の蛍光灯の下よりもずっと輝いて見えたのも、酒の影響ではなくきっと緊張で、きっとそれほどまでに。その先の言葉を珈琲を流し込んで濁す。その態度を見とめたのか、砂川はふっと視線をあげて浅野と目を合わせて口を開いた。
「……先に聞いておくのですが」
もし土岐先生にそのまま記憶が残っていたとして、あなたはどう返事をするつもりだったんですか。核心に迫る質問に、浅野は答えを持ち合わせてはいなかった。それがわからないから、今ここにいるのだと言っても過言ではないのだ。考えなかったわけではない。けれど、何度シミュレーションをしたとて、出てくるのは回答ではなくエラーでしかなかった。笑えるくらいわからないのだ。だって、自分にとって彼は、土岐は、あくまで後輩でしかなく、まさか泣くほど自分が好きだっただなんて、微塵も知りえなかった。
「……どうする、っていうか。多分保留にしてたよ、俺は」
「彼のことをそういう風に見れないなら、潔く振ればいいでしょう」
「そんな簡単にできるわけ」
「できますよ」
それをしないのはあなたの甘えでしかない。吐き捨てるように一言投げかけると、眉を顰めながらチュロスを口にして、さらに溢れ出てそうな言葉と共に咀嚼し飲み込む。少なくとも浅野には彼女の行為がそう映った。珈琲の苦みが残る口に、浅野も真似るようにしてドーナツを突っ込む。広がる砂糖にうんざりしてまた黒いそれを飲み干せば、程よく緩和されて些か言葉がスムーズに出てくる気がした。
「甘え、かもしれんけど。それでも俺は、ちゃんと考えたいよ」
「……ひどい人ですね」
「やっぱりそう思う?」
「期待させるという行為は、一番残酷ですよ」
いくら待ち望んでいたとて、自分からはどうすることもできないドツボにはまるということですから。疲れ果てた顔をして指を軽くおしぼりで拭う。それはあからさまに土岐への同情と、浅野への敵意を孕んでいた。まあでも、よかったですね。手のひらに頬を乗せて、ちらりともこちらを見ずにそう口ずさむ。よかった、と反復するよりも、彼女の言葉が流れるほうが先だった。
「幸い、あの人はあなたに告白したことすら覚えていないんですから」
「幸いって」
「せいぜい保留を続けて、うやむやにでもなさったらどうですか」
冷笑。そんな単語がよく似合う笑みだった。そんなつもりじゃない、と言おうとした喉がぐっと理性で締まる。本当にそうなのだろうか。もし仮に、彼に記憶が残っていたとして、保留のままうやむやにしなかったと言い切れるのだろうか。冷えていく腹の底で、砂川ではなく自分が笑っている。もし仮に、ではなく今の自分もきっと、同じ結末を迎えかねないのは自明だった。そこまで見抜かれたうえでの、嘲笑なのだと思った。
「……ちゃんと、答え、出すから」
「それを私に宣言されても困りますね」
「ううん。砂川さんに宣言させて」
土岐先生を大事に思ってる砂川さんに、ちゃんと誓うわ。あからさまに動揺する砂川はあまりに年相応で、浅野は思わず気が緩む。わずかに赤くなった耳を戻すべく、先ほどよりもずっと速いスピードで減っていくアイスティーは、あまりにもわかりやすかった。砂川は居心地悪そうに一つ舌打ちをかますと、眉間に皺を寄せて「どうぞ、ご勝手に」とだけ呟いた。
「土岐君」
「えっ、あっはい!」
ちょいちょいと手首でその影を招けば、不思議そうな顔をしてにじり寄ってくる。どうかしたんすか、と低く戸惑いを含んだ声が、浅野の耳を心地よく突いた。少し長く明るい髪色に隠された瞳が、じっと自分だけを映していることに、わずかに居心地の悪さを覚えて咳払いをする。一度その心中を吐露されてしまえば、公平に物事を処理することが途端に難しくなってしまうのだから、困りものだと思った。いや、別に大したことないねんけどさ。そう罪悪感のままに息を漏らせば、いよいよわからないと言わんばかりに土岐は「はあ」と声を上げる。シフト表をゆるく指さして、もう上がりやろ、と確認するまでもないことをわざとらしく尋ねるだなんて、なんだか馬鹿みたいだ。
「俺ももう上がりやからさ、飯でもいかん?」
「飯、ですか」
「えっあかん!?」
「いやっ! ちょっと面白くて」
めっちゃ真面目に聞くやんと思って、つい。そう手の甲で口元を隠して笑いを収めようとしている土岐に、浅野の肩の力も抜けていく。確かに少しかしこまりすぎたかもしれない。何も難しいことじゃないのだ。少し、もう少し彼と話してみたいと思っただけで。柔く楽しげな雰囲気を発し続ける土岐に「ごめんごめん」と軽く謝ってから、何食べたいとかある、と聞く。この辺て何がありましたっけ。窓の外に広がる街並みを追うようにして揺れた視線を追いながら、近くの飲食店をざっと脳内に思い浮かべた。飲み屋街故に、酒を飲まないとなると途端に選択肢が狭まってしまうのは、この町の悪いところだ。出来れば居酒屋には行きたくない。しかしそれを態度に出してしまっては何か勘繰られてしまう気がして、慌てるままにファストフード店をいくつか挙げては相手の出方を見ることしかできなくなる。
「あー、ファミレスいいっすね」
「結局なんでもあるからいいよな、あそこ」
「よく行かはるんすか」
「えっ、うーん。まあ一般大学生ぐらいに、そこそこ」
煮え切らない物言いに、土岐はまたおかしそうに笑う。改めて思うけどめっちゃツボ浅いな、と妙に感心してしまった。ツボの浅いことは、別に悪くないと思う。打てば響くように鳴る笑い声は、会話を潤滑に見せる作用を持っているから。思わずそのご機嫌な様子をじっと眺めてしまう浅野に、土岐は今度はどうしました、とまた笑う。何となく、脳のブレーキ機能が緩まってしまったような気がした。
「いや、めっちゃ笑ってくれるやん、と思って」
「……? そりゃまあ、面白いなら笑いますね」
「土岐君て、なんかぱっと見、笑わなさそうやん。俺の勝手なイメージ」
「どんなイメージっすか」
全然笑いますし、俺めっちゃゲラですよ、と何でもないようにロッカーを閉めながら言う。そうなんや、と声と心が同時に発した。前々からこんなに笑ってくれていたのだっけ。意識する前に話した時の記憶が、どんどん朧気になっていく。そもそも自分は彼のことをほとんど知らないのだと、改めてわからされてしまって申し訳なく思った。それでいて、心の反対側でいいな、と感じる。楽しそうに自分と話してくれる姿は、結構、いい。
「浅野先生も結構笑いはりますよね」
「えっそう? 俺そこまでゲラでもないけど」
「いや、授業見てると結構笑ってますよ」
俺もたまにちょっとつられる、と困ったように眉を下げて、でもどこか嬉しそうな姿は、一度や二度の思い出だけで語っているのではないと想像ができる。確かにいつも席が近いが、そんな風に認識されていたとは。彼のほうがずっと自分のことを知っているらしく、自分を恥じる思いのままに、彼のことをもっと知らなければならないのだと、彼に告白してしまえたなら良かったと思った。今度から気いつけるわ、と多種多様な後ろめたさから目を背けるようにして視線を落とせば、「えー」と竹を割ったようなさっぱりとした非難が目前で鳴る。
「今度からつられてないか見とくからな」
「うわー、やりにく!」
じっと、背後から強い視線を感じる。ふと気になってそちらを向けば、砂川が座席表を見るようにしてそっと様子をうかがっていた。なんとなしにピースだけをひらひらと振ってみせると、呆れたようにふっと笑ってから、すぐ真顔に戻って席へと向かったようだった。なんだかんだ、応援されているのだろうか。とりあえず今度から、授業時間にも少し意識を配ってみることにはしようと、浅野は心に決めた。
「土岐君はさあ」
「はい」
「……ごめん、いろいろ考えたけど普通に決まらんかったわ」
今日俺、土岐君にいろいろ話聞こうと思っててんけど。ドリンクバーに二人して並びながら意味のない会話を振る。土岐はなんすかそれ、とにやけながら浅野にコップを差し出すように、ジェスチャーだけで要求した。何にします。その端的な言葉に思ったままの返答をするのも芸がないように思われて「じゃあ一緒のやつ」なんて告げてみれば、少しだけ驚いた顔をしてから小さな声で、じゃあコーラで、とボタンを押した。
「それも俺に聞きたかったことの一環っすか」
「あー、まあそうかも」
「俺の飲みもん知ってもしゃあないっしょ」
「ほら、こういうのの積み重ねやから、人間関係って」
「えぇ……?」
「微妙な顔せんとってや」
返ってきたコップに触れれば、氷で冷えたそれの温度が手に染みる。コーラだなんて久々に飲むかもしれない。一口軽く含んでみれば舌先でぱちぱちと痛みが弾ける。これこんな辛かったっけ。辛さを誤魔化してはくれない砂糖の味が、終えかけの一日の疲れを増長させるようだった。あんま飲まないんすか、コーラ。意外そうに尋ねてくる土岐に浅野が頷くと、「まあそっちのが体にはいいですよね」と苦笑する。
「土岐君は好きなんや、コーラ」
「あー、そっすね。っていうか炭酸が好きで」
「炭酸好きなんや。ぽいな」
「俺のイメージどんななんですか」
土岐君のイメージ。何となく反復してみるそれに、土岐は居心地悪そうに目線を逸らす。そんな素振りにわざと気が付かないふりをして、俺土岐君めっちゃ面白いと思うで、と告げれば若干眉を下げて「浅野先生、面白い人間は炭酸好きそうだと思ってるんすか」と可笑しそうに笑った。いやそういう相互関係はないけどさ、と茶化しつつ場を和ませようとメニューを開く。じゃあイメージで土岐君が好きそうな飯当てるわ。突発的な思い付きに土岐は興味を惹かれたのか「当てられたら結構ビビるかもしれないっすね」と身を乗り出して多様な食事の画像を眺め始めた。素直やなあ、と率直に思う。
「えー、何やろ。ハンバーグとか」
「まあそれなりに好きっすね。てか誰でも好きでしょ」
「何点ぐらい?」
「……七十点、とか」
「割と高いやん。じゃあパフェは?」
「三十点っすね」
激低いやんと笑えば、甘いもんあんま得意じゃなくて、と言い訳が聞こえる。意外だな、と思った。なんとなく甘いものが好きそうだと思っていたから。本当に根拠のない、それこそイメージによる偏見だけれども。じゃあ辛いもんとかは。そう赤系統のデザインで纏められている食品群を指さす。結構、好きですね。何気ない目的語の失われたその言葉に、なんとなく心臓が痛んでしまって困った。
「じゃあ今日もこういうの注文するん」
「あーいや……俺、浅野先生に合わせます」
「えー、責任重大やな」
「俺も浅野先生の好きなもん知りたいんで」
しれっと告げられるそれは、試しているのかと勘繰りたくなるほどに明け透けだった。土岐君そういうとこあるよな、と思わず半笑いで突っ込んでみれば少しだけ耳が赤くなる。いや別に変なこと言ってないですよ、俺。手の甲で口元を隠しながら嘯く土岐は、数週間前までなら意外と感じていたはずで、でも不思議となんだか納得してしまうような隙の多さだった。
「どうでしたか。土岐先生との食事は」
「いや、普通に……普通に飯食って解散したで」
「あれだけ私に大見得を切ったのにですか?」
授業前の十分間の休み時間。先ほども授業が入っていたらしい砂川がするりと隣に座ってくるや否や投げかけてくる質問に、なんと返していいかわからずにたじろいだ。揶揄うようなその口調に、初対面のころから明らかに変わった取っつきやすさと、同時に居心地の悪さを感じる。思いの外年相応に、他人の恋愛話に興味があるのだろうか。もっと何かないのか、と言わんばかりの不満げな顔に、何とか答えを絞り出そうとしても、やはり大したことは思い浮かばなかった。話したことだなんて、結局何でもない取り留めのない話ばかりだ。炭酸が好きだとか、それは姉の影響だとか、家には小学生のころから飼っている犬がいるだとか、毎朝その散歩に行っているだとか。あとはそう、甘いものはあんまり好きではなく、どちらかと言えば辛いものが好きだとか。そんな、言ってしまえば中身のない話ばかりで、割におしゃべりな彼がころころと話題を変えていくのをただただ堪能する時間でしかなかった。イメージ通りの青年で、同時に自分はそのイメージすら彼にろくに抱けていなかった自分を再確認できたけれども、言ってしまえばそれだけでしかない。食事に行くのはこれで二度目。酒の力を借りなかったのはこれで一度目。そんなもんだろうと砂川に語り掛ければ「私に言われても」と呆れたように突き放される。そこまでは責任をもってはくれないらしい。
「まあでも、少なくとも貴方が前より彼に興味を持っているのは、わかりますね」
「いやそら、今まではマジで関わりなかったからな。前に比べたら」
「さっきの授業の時も、こちらを伺っていたでしょう」
「……よくおわかりで」
あまり先生を困らせないでください、とため息をついて視線を逸らす。その横顔はどこかつまらなそうで、浅野は少しぞっとしてしまった。その表情の下にどんな感情が渦巻いているのか、理解するには浅野はまだ彼女のことを理解できていない。土岐の隣に座っているときの、あまりに穏やかな笑みと、己に向けられる幼さの残る冷たさには、どうしても違和感を感じずにはいられなかった。気になりますか、とリップの塗られていない色素の薄い唇が揺れる。それって本当に気になるだけなんですかね。捨て置くように吐き出されたその問いに、とっさに飛び出しそうだった答えは授業開始のチャイムに阻害されて、胃の底へと溶け消えてしまった。よろしくお願いします、と無慈悲な線引きが無理やり空間に引かれる。自動操縦モードになった唇が同じ言葉を呟くのを、土岐は聞いているのだろうかと、ふと気になった。
「浅野先生、砂川さんと仲悪いんすか」
「えっ……いや。いや……?」
「どっちですかそれ」
砂川さんの授業メモよろしくお願いします、とファイルを手渡しにきた土岐に「さんきゅ」と告げれば、件の少女に似た動きで隣に座ってくる。そのはずみで投げかけられた世間話に、浅野はうまく乗っかることができなかった。曖昧な返答に口元を隠して笑う土岐に、なんとかして会話を続けたくて同じような言葉を打ち返す。土岐君は結構仲ええよな、と世間話の延長線上にある仕事話にも土岐は嫌な顔一つせず、どうなんすかね、と肩をすくめた。いや、仲いいっていうか相当懐かれてるやろ。度々目にする砂川の土岐への肩の持ち方を思い描きながらつい突っ込んでしまう浅野に、土岐は困ったように笑う。
「他人からの好感度って、自分ではわからんくないですか?」
「あー、それは……確かに」
「でしょ。だから改めて言われてもあんまり実感わかんというか」
言葉にされない好意は、思いの外相手には伝わらない。浅野はそれを身をもって実感しているだけに、何とも言えない気持ちになってしまった。土岐が抱えているそれも、ああして酒の勢いで飛び出さえしなければ、浅野は決して気づくことはなかっただろう。それこそ、一生だなんて形容すら許されてしまうほどに。……今ですら、半ば信じられないほどに。
(俺、まじで土岐君のことわからんかも)
彼は、何を思って自分を見ていたのだろう。一切返ってこなかったであろう視線を、何とも思っていなかったのだろうか。そんなわけはない。浅野はどこか自嘲気味に笑う。思うところがあったからこそのあの日の吐露で、瞳から滴り落ちる涙が存在し得たのだと思った。無自覚は罪ではないが残酷さは随一だ。そして今もなお、無自覚の振りをしている自分は、ずっとグロテスクな存在なのだと改めて理解してしまった。甘え。それでしかない。あの日彼女が言ったことは正しかった。ときくん、とどこまでもぎこちなく掠れた声が、喉から噴き出る。キョトンとした顔をして、しかし従順に「はい」と返事をする彼に、自分は。
「……いや、何でもないわ」
「えっ、めっちゃ怖いですよそれ」
「土岐君が思ってる以上にきしょいこと言いかけた忘れてくれ」
「そんなことあります?」
いつもに増して変っすね、と一頻り不思議そうにしてから土岐はじゃあ俺次も授業あるんで、と言って立ち上がる。ああうん、頑張れ。そうかけた言葉は、果たしてうまく発音できていたのだろうか。隣がいなくなったデスクで、配慮する必要がないのにずっと口を覆っている。不用意な言葉をこぼしてしまうのは、それこそいい結果には繋がらない。そんなこと、わかっているはずなのに。
(俺今、何言おうとした?)
その名を呼ぶ上擦った自分の声が、ずっと耳奥で反響している。気色が悪いと、率直に思った。好意は口にしなければ伝わらない。さっき彼の好意が実は伝わっていることを口走りかけたのは、彼の恋慕がなかったことになるのが嫌だったからだなんて。あまりにも傲慢が過ぎる考え方に辟易する。自分はこんな人間だったのだろうか。一方的に知っているという優位な立場にいることが、自分という人間をこれでもかというほどにダメにしていると思った。否、それすら責任転嫁でしかなく。砂川の亡霊がじっと自分を見ているような気がする。彼女の責め立てるような温度感の理由が、ようやくわかったような気がした。
正しい振る舞いだなんていうものは自分には不可能だと思う。浅野は常々そう思って生きていた。自分はそんなに品行方正には生きられないし、がちがちにルールで自分を縛ることもしたくない。ほどほどに緩く生きられたらそれでいいが、しかしそれを手にするためには多少なりともその、正しい振る舞いというやつをしなければいけない。ずっと倫理的に間違ったことばかりしていては社会生活だなんて物は全うできないし、そもそも自分も疲れてしまう。だから、ほどほどに七十パーセントくらいで良い人間でありたい。それがおそらく、一番楽な生き方だと、信じているから。
(多少の間違った行動くらい、別に俺は許せると思っててんけどなあ)
完璧主義とは程遠いところにいたはずなのに、気づけば自分の嫌なところに目を向けて絶望している。笑えるくらい不毛な時間だと思った。気にしたところでどうしようもないのだ。むしろこんな中途半端な思考のままにすべてを彼に明かしてしまうというのも、残酷すぎて罪悪だろう。傷つけない結果にしたいと思った。土岐のことも、ひいては砂川のことも。もしここで、土岐のことを好きだと告げてみたら、丸く収まるのだろうか。ふと、そんなことを考えてその傲慢さにぞっとする。思考放棄の末にある好意の鸚鵡返しは、きっとろくな結末を迎えない。初めからわかっていたことだ。だからこそ、砂川の前で保留を選ぶと言ってしまった。
「……ひどい人」
ひどい人の対極にあるのは、やはり優しい人なのか。浅野は自分を優しい人間だとは思ったことがなかったが、同時にひどい人間だとも思ったことがなかった。例えば自分が土岐のことを好きかどうかもわからない状態で、すべての可能性を無為にして彼の告白を断っていたとしたら、それは『正しい振る舞い』だったのだろうか。そんなことをぐるぐると考えてしまう。もしかしたら、好きになる可能性だってあるかもしれないのに。瞼を閉じて土岐の姿をぼんやりと思い起こしてみる。恋愛云々を抜きにして、普通に好ましいとは感じるのだから困りものだった。自分を慕ってくれている存在というのは、普通に可愛いと思う。話していてもそれなりに楽しいと感じてしまって、だからこそ思考が纏まらない。友人としての好意を、状況も相まって勘違いしてしまいそうになっていると言われれば、もうそれまでだと思った。彼とのこの距離感を手放すのが惜しいと思うほどには浅野は人間的で、それでいてどうしようもなく罪悪感を感じてしまうのだから、もう身じろぎ一つできない状態のままに息をするほかない。
(そもそも土岐君なんで俺みたいなんを好きになってんねん……)
土岐と接していると、本当にすごく気持ちのいい人間なのだと思う。見た目は多少浮ついていても、真面目で、素朴で、優しい青年だと。普通の恋愛だってできたはずだ。こんな、職場の大して話してもいなかった先輩相手に一方的に感情を向けて、それでたまたま二人で飲んだ日に泣きながら告白するだなんて不毛極まりない恋をする必要は、全く以てなかったのに。俺、そんな大した人間じゃないよ。そう小さく、声が漏れてしまう。土岐君にそんな思ってもらえるような、すごい人間じゃないよ。伝えたい相手どころか誰一人いないワンルームで、ソファに横たわって呟くには、あまりに虚しい言葉だと思った。
「……おはようございます」
「おう、もう日暮れてるけどな」
エレベーター前で静かに佇んでいる黒髪を見かけて、浅野は務めて明るく声をかける。古い雑居ビルにおいて、人気のない空間というのは薄ら寂しく、雨の音が何重にもなって染みわたっているような気がした。エレベーター、はよ来んかな。気まずい思いからぼんやりと視線を揺らしていると、言いにくそうに砂川があの、と喉から声を絞り出す。エレベーター、今日点検でやってないです。心許ない人差し指でさされた張り紙には、今日の日付がでかでかと赤文字で書かれている。そういえば、そうだった。数日前から目にしていたはずのそれの内容が、全く頭に入っていなかったことに呆れて乾いた笑い声を漏らせば、冷たい視線が無言で差し向けられる。
「あれ、じゃあ砂川さんはなんでこんなとこおったん」
「……ちょうど階段へ向かおうとした瞬間に貴方に声をかけられたんですよ」
「……そらすんません」
「別に、その程度で怒ったりはしません」
ほんまか、と若干疑いの気持ちがないではなかったが、さすがにそれを指摘するのは気が引けるので黙っていることにする。底の高いスニーカーをぱたぱたと鳴らして階段のほうへと惹かれていく少女の後へ続くのは、なんだか変な気分だった。手に持った長傘が床に触れてかつりと硬質の音を響かせる。雨音と、よく似合っていると思った。雨、やばいよな。何気なく振った世間話に砂川はふるりと肩を揺らすと、少しだけの身じろぎでじっと浅野を見つめる。ええ、そうですね。冷たい声が踊り場で揺れているのを肌で感じた。
「どうですか、進捗は」
「……どうなんやろう」
「貴方がわからないのに、私がわかるわけがないでしょう」
かつり、かつり、と一つ一つ丁寧に階段を下っていく。四階から地上へは、驚くほどに遠く感じられた。くるくるくるくると、らせん状になった階段をあと何周回れば終わるのだろうか。申し訳程度につけられた窓からは、驚くほどに光が入っては来ない。砂川さん。問うために呼んだその名に、少女は返事一つすら寄こさなかった。
「何を以て、人を好きって言えるんやろう」
「……そんなの、どうとだって言えるじゃないですか」
「どうとも言えんけどなあ、俺は」
「少なくとも、私は」
そんな疑問を感じている時点で、好意は確かに存在していると思いますが。軽やかだった足並みが、最後の一段で驚くほど重く響く。そんなことを考えるのって、好きじゃないと言い張りたい人か、好きだと思い込みたい人かの、どちらかだけでしょう。地上に降り立った少女は振り向くこともせず、そう言って見せる。事も無げだったはずの涼しげな声は、なぜだか悔しさすら滲んでいるように思われた。かける言葉が見当たらなくて、そうなんかな、と小さく呟く。知りませんよ、そんなこと。無責任な言葉の放棄が、会話の終着点だった。浅野もまた、同じようにして最後の一段を踏み込む。自動ドアの向こうに見えた曇天が、薄暗かった階段のせいでひどく明るく見えた。
「……」
「そういえば、傘持ってないん?」
「持っていないと言えば、貸してくれますか」
「いや、そんな風に聞かんくても全然貸すけど」
はい、と長傘を手渡せばふるふると首を横に振られる。その優しさは、私じゃない相手に行使してください。すっとバックパックから取り出した折り畳み傘を広げると、ぺこりと会釈をして人混みへと泳ぐように消えていった。その姿があの日と重なって、少しぞっとする。様々な因果の末に、今ここにいるのだと改めて理解してしまった。誰もいなくなったはずのロビーに、足音がいまだに踊っているのが聞こえる。
「あれ、浅野先生」
雨やばいっすね、と一切の重力すら感じさせない勢いで階段を下りて隣に並んでくる土岐に、因果は積み重なっていくのだと実感した。傘、忘れたん。震える声で尋ねれば「あー、まあそんな感じで」と曖昧な解答だけが与えられた。こういうのって、どうするんが正解なんやろう。少しだけ思考を巡らせて、まだ浅いところに残っている記憶を浚う。優しさを、行使する相手。例えそれが彼を徒に弄んでしまうような結果になったとしても、それは。
「……俺の傘、入る?」
「えっ」
いや、いいんすか。明るい前髪のかかった視線が、期待を咎めるようにして揺れる。それは濡れずに済むことになった喜びとは、明らかに一線を画していた。ひどいことをしている。ひしひしとその事実が、雨粒のように染み入ってきて、痛い。それでも、こうする他ないと思った。こうしたいのだと、思った。申し訳ないです、と手の甲を口元に持っていく土岐に「いや、俺の傘めっちゃでかいから気にせんとって」と少し無理して茶化す。別に、深い意味などないのだと互いに言い聞かせるように。
傘の下というのは、思っていたよりもずっと密室に近いのだと思った。この世の中で最もパーソナルなスペースと言ってもいいのかもしれない。基本的に一人しか入ることを想定されていないそこは、雨粒によって完全に世界と遮断されてしまって、狭い。何も言わない土岐に段々冷静になってくる頭が、少しの後悔を連れてくる。思ってたより狭いし近いな。そんなことを明け透けに呟いてしまっても困らせてしまうのは明白で、なんと言ったものかと浅野は水たまりの上に視線を泳がすことしかできないまま。
「……やっぱり好きなんです、浅野先生のこと」
しみじみと、息をするような感覚で吐き出されたそれを、不幸にも耳に拾ってしまったあの日を思い出す。その日も雨こそ降っていなかったが、泳げてしまいそうなほどに湿度が高くて、息が苦しくて、それでいて、近かった。口元を隠して、ごめんなさいと呟く今にも泣きだしそうな瞳に何も言うことができないのをいいことに、土岐はずっと、耐えきれないと言わんばかりに一人で話し続けていた。言うつもりなかったのに、今日、楽しすぎて、すみません。その頬が焼け落ちてしまいそうなほどに赤く見えたのは、アーケードの暖色の光のせいではなくて、じわじわと今にも溢れだしそうなそれは雨粒とよく似ていて、悲鳴をあげてしまいそうなほどに透き通っていたのを、今でも手に取るように思い出せてしまう。
「……土岐君!」
いくら大きくても決して二人で入るために作られていないそれは、結局はいくらか体を濡らす。髪から滴ったそれが、頬を滑り落ちていくのを見たとき、浅野はもう黙っていることができなくなっていた。突然大声をあげた先輩に驚いた顔をして、土岐はびくりと肩を揺らす。どうしたんすか、浅野先生。当惑の混ざったぎこちない笑みが、傘の柄越しの横顔に浮かぶのが、いやにゆっくりに見えて、心臓が跳ねる。なんと言ったらいいのだろう。なんと言えば、正しく伝わるのだろう。感情が伴わない言葉なんて、いくら伝えたって意味がないのに。
「俺、はさ……なんて言うんやろう。土岐君、に」
「……はい」
「土岐君に……あー! うまく言えんくてイライラしてきた」
「あははっ! なんすか、このまえから。もー」
ずっと色々考えてはると思ったのに、まだ決まってないんすね。けらけらと笑いながら浅野の顔を覗き込んでくる土岐に、ひそかに安堵を抱いて息をする。いやほんま、ごめん。俺最近マジで言葉纏まらんからもうだめかもしれん。そんなどうしようもない謝罪に似た言い訳にも、土岐は上機嫌に笑い声を零すだけだ。いいな、と思う。彼のこういうところがあるから、自分は。
「やっぱり、笑っててほしいと思うよ。土岐君には」
「え。……えっと、あの」
青くなったり赤くなったりと変化していく顔色を悟られぬようにするには、口元に添えられた手に平はあまりに小さい。心許ない戸の立てられた喉元からは、震えた情けない声が途切れ途切れに漏れては、落ちていった。俺、そんなこと言ってもらえるようなやつじゃ。気づけば止まっていた歩みに合わせて、浅野も動きを止める。完全に切り離された世界で、浅野だけが、土岐の声を聴いていた。もうちょっとだけ話そか。土岐の手を引くようにして傘の柄を引き受ければ、戸惑いながらも後に続いてくれる。知らない、シャッターの閉まった商店の軒下で十分だと思った。
「俺さ、ずっと嘘ついてた、土岐君に。……知ってるねん、全部」
一つ大きく息を吸って、告白と共に二酸化炭素を吐き出す。また一つ、小さな世界が生きづらくなる。土岐は可哀そうなほどに動揺してしまって、声にならない声で「全部って」と問うた。土岐君が俺に思ってくれてたこと、全部、聞いたよ。顔を見ずに雨雲に向かって呟かれるそれは、しかし間違いなく土岐には届いている。
「全部、知ってたよ。……答え出るまで黙ってるつもりやったのに、なんか土岐君見てたら、ダメやった」
「……知ってた上で、俺のことご飯誘ったり、こうやって傘入れてくれたりしてたんですか。それとも、知ったからですか」
「きっかけは、知ったから、やけど。でも、今は……今は多分、違うよ。俺の意思で、土岐君を傘に入れた」
「なんですか、それ」
ハッキリ言ってください。ハッキリ言ってくれな、俺わかりません。ぎゅうと握りしめられた拳が、彼自身を咎めるようにして手のひらに刺さっている。決して浅野のほうを見ようともしない瞳は、悲しいほどに期待を拒んでいた。砂川の言葉が雨音に紛れて聞こえる。期待は、一番残酷。それを土岐は痛々しいほどに理解しているから、これ以上傷つかないために、早く結論を出してほしいと願っているのだ。なんと、言葉をかけるべきなのだろう。否、べき、とかじゃないのだ。何が正しいとされるだとか、そんなことはどうだっていい。ただ、自分の感情だけを裏切らぬように、答えを出すだけ。
「……俺な、未だにわからんねん。土岐君のことは好きやよ。でも、それが土岐君と同じかどうかはわからんねん」
「その言葉は、優しさなんかじゃないですよ」
「わかっとるよ、だからこれは俺のエゴ。ほんで、そのくせ土岐君には笑っててほしいのも、俺のエゴ」
「なにそれ。……あーあ。ほんま、最悪」
顔を覆って、そのまま崩れ落ちるようにしてしゃがみこむ。ギリギリ濡れないだけの軒先では、それだけの動きがひどく大きく思われて、浅野の視線は一瞬追いつくことすらできなかった。膝にうずめられた貌はどうあがいたって確認することはできず、ただただ言葉だけが二人を繋いでいる。墓まで持っていくつもりやったのに、なんで言うかなあ。自問自答のはずのその答えを、なぜだか浅野だけが手にしているのに、それを口にすることはどうしてもできなかった。
「俺は、言ってくれてよかったと思ってるけど」
「……そんなおめでたくないです、俺は」
「言ってくれな、きっと一生気づかんままやったよ」
「それでいいんですよ」
もともとその程度の感情だったんです。自嘲気味に笑って、懐かしむようにして息を吐く。浅野先生が悪戯に水をやるから、こんなことになったんですよ。恥じらいや動揺よりももっと深いところにある、諦念のような自棄のような、そんな感情の滲んだ声だった。聞いた時点で振るか、知らないふりでも続けてくれたらよかったのに。そんなこと微塵も望んじゃいないことが嫌というほどに透けているのに、当の本人はそれにすら気が付かない。そんなこと、できんよ。雨粒のように本心が落ちる。
「でしょうね。優しいもん」
「……どうやろ。俺、土岐君にそう言ってもらえるようなやつじゃないよ」
「優しいっすよ、浅野先生は。……それに気づけんかったら、こんな好きにならんかった」
また、そんなことを言う。酷なことを聞いていると理解していながら、止めることができなかった。土岐君は、なんでそんな、俺を好きやって言えんの。ぴくりと肩が揺れて、それからしばらくの沈黙が続く。本当の静寂ではないそれを打ち破ったのは、「別に、大した理由なんてないです」という小さな声だけだ。大した理由。それがないから自分はこんなに二の足を踏んでいるのに。浅野はそう思わずにはいられない。
「……強いて言うなら、仕事始めたばっかりの時、いろいろ教えてもらったから」
「えっなにそれだけなん!?」
「ちがっ……くは、ないですけど。それで、印象に残ったからなんとなくずっと目で追ってて、じわじわ。教えるの上手いし、優しいし、かっこいいしで、その」
「……えっと、ありがとう?」
「……はい」
もうこれ以上は何も言うつもりがない、と言わんばかりに口をつぐんだ土岐は、しばらくして思い直したように浅野の顔を見る。浅野先生は、そういうの、ないんですか。段々恥ずかしくなったのか尻すぼみになっていく言葉を耳にするや否や、「ないなあ」という返答が自然と口から出ていた。好きとかそういうのは、よくわからない。好意を抱くものはこの世にたくさんあるけれども、それは全て同じベクトルなように思われて、一等特別視される恋愛感情となると、とても自分の中にあるようには思えなかった。夢を見ているのかもしれない、とも思う。存在しないからこそ、それにひどく焦がれて、幾重にも誇張してしまっている可能性は、否定しきれない。
「そういうのはないけど、でも土岐君を好きになれたらいいな、とはちょっと思った」
「……それ、良く言ってるだけで振ってるのと同じっすよ」
「いや、うーん。そういうんじゃないねんけどなあ。難しいな」
ものすごい熱量を以てして思ってくれている彼に、生半可な感情で答えたくはないのだ。だから、自分も同じだけのそれを手にして、彼に返したい。ロマンチストもいい結論ではあるが、それがすべてなのだと思った。俺も、好きになってほしいですよ、と土岐が唇を尖らせて言う。精一杯期待しないようにここまで来たのに、こんなことになって、また諦められんくなる。はっきりと告げられたそれが、ひどく嬉しいのだから自分はきっとすごく手酷い人間なのだと思った。
「俺、浅野先生のこと嫌いになるの頑張るんで」
「……うん。頑張れ」
「それより先にもし俺のこと好きになってくれたら、教えてください。諦めなくていいよって、笑ってください」
「わかった。……ごめんな」
「ほんとっすよ」
ノリでも適当でもいいから、付き合うって言ってくれたら、俺も潔く諦められたのに。土岐はそう言って目元を拭いながら立ち上がる。笑みを浮かべている口元は、いつもはあれほど好ましく思えていたはずなのにひどく所在なさげで痛々しかった。何か言葉をかけようとして口を開閉しても、言葉なんて一つも出てきやしない。自分が口にすることを許されている言葉だなんて、今は一つもないのだと思った。でも、それじゃダメですね。目を細めて、まるで眩しいものでも見るかのように浅野をその瞳が映す。
「付き合うって言ってくれる人なら、始めからこんな好きになってなかった」
ほんま、趣味悪いですね、俺。小さな溜息は、雨粒によって道路に叩きつけられて、霧散する。いつか、その欠片を拾い集めて大事にしてやれたなら、好いと思った。
「期待させたまま、振ったんですか」
「……まあ、そうなってしまったな」
「早く嫌いになられてしまえばいいのに」
ドーナツ店は、八つ時を過ぎてしまえばもう自然と混まなくなる。誰も並んでいないショーケースの前でそう吐き捨てられて肩を落とす浅野に、砂川は被害者面しないでください、とさらに冷たく追撃を食らわせた。はい、と全面降伏の姿勢をオーバーに見せながらチョコレートのかかったそれをトングで掴む。柔いそれは、力を加えた途端に姿を歪めて、戻ることのないままにトレーの上に収まった。
「……ごめんな」
「別に、私に謝られても困りますね」
「いや、いろいろ気回してくれてたやん」
「……まあ、全て土岐先生のためです」
そのリングドーナツ取ってください。ガラス張りのドーナツの家を軽く指さすその顔が光の反射で見えてしまう。好きなんやな、土岐先生のこと。自明だった事実を改めて突きつけてみれば、砂川は居心地悪そうに口ごもった。私の好きも、きっとあなたが彼に抱いているのと同じですよ。数十秒の沈黙の後、吐露された本心に、浅野の手にしていたがカチリと軽い音を一つ立てる。
「だから、私は勝手に憧れているだけ。相手に何か行動を求められるほど、私の感情は大きくないから」
「……そっか」
「でも、貴方は違うでしょう」
貴方は行動せざるを得ないほどのものを、あの人から向けられているんです。だから振るか、それに応えるかしないといけなかった。真面目な顔をして、怒るというよりは懇願するような声で、砂川は浅野に向かって言い放つ。泣いているのだと思った。涙も嗚咽も一つとして表には出さないけれど、冷えたその表情筋の下で、確かに激情が渦巻いているのだと思った。
「……私は、貴方がうらやましい」
そう言って席へと一足先に駆けていく砂川の後ろ姿を見送る。完全に自動操縦される体に任せたまま会計を終えた。羨ましい。それは、どういった形での羨望なのだろう。浅野のほうこそ、砂川の強さは羨ましいと思うのに。しかしそれと同時に、先ほどの眉を顰めながら剥き出しの感情を声にだけのせていた姿が浮かぶ。砂川の強さはきっと、身につくべきではなかった強さだ。自己防衛のための、仕方なしの強さでしかなかった。他人に何かを求めることを、極端に恐れているのがよくわかる。自分はなにも返せないと思っているから、初めから与えられないように相手をはね除けてしまう。そんな歪さが彼女にはあった。だからこそ、無意識に他人に働きかけ、また自分も何の意図もなく施すことができる土岐に惹かれてしまうのだろうと思った。寂しいなぁ、と思う。いつか、彼女がそういったしがらみから解放される日が来れば良いとも。切ない思いのままに席に戻れば、気まずそうに頬杖をついて窓の外を見ている砂川の姿がそこにあった。
「ほい、アイスティー」
「え。……ああ、ありがとうございます」
丁寧に手を合わせて、いただきますと口にする砂川を確認して、自分もコーラを口にする。やっぱり辛いし甘い。ジャンクな味すぎて、到底ドーナツには合わないなと苦笑してしまった。何となく選ぶには、あまりにも説得力のないドリンクだ。砂川さん、と真顔で咀嚼を続けている彼女に声をかける。口元を隠しながら訝し気に視線を上げる姿に、なんとなく聞いてみたいと思った。
「俺、土岐君のこと好きになれるかなあ」
ぱちぱちと瞬かれる瞳に、一瞬の驚きと喜色の光が灯る。それからふっと目を細めて、なお覆われたままの口元から、明らかに物の入っていない声色が聞こえた。
「土岐先生のこと、気になりますか」
「うん」
「なら、なれるんじゃないですか」
誰だって、最初は気になるだけから始まるでしょう。穏やかなその声が、ひどく優しく耳を打つ。そっか、と返す小さな声に、砂川は今度こそ何も答えずに笑った。