ペンギンのあなたを愛するペンギンが好きだ。海を泳ぐその荘厳な雰囲気も地上に降り立った瞬間に拙くなる動きも。ペンギンのことを愛くるしいなどと表現する人もあるが、あれは何もわかっていないのだ。いつだって、ペンギンは美しく、したたかで、何を考えているのかよくわからない。そしてそれは、隣の男にも同じことが言えて。
「わ、ペンギン」
泳いでるとことか、俺初めて見ました。そう言ってへらりと笑う彼は、何時だってその本質を見せてはくれない。ただそこにいて、何をするでもなく、笑みの中に表情を隠して、じっと自分を見るのだ。今だってそう。そのセリフを本当は何人に向けているかだなんて、俺にはわからないのに。
「しゅーさん」
「はい」
俺がここで好きだと言えば、彼はどんな顔をするのだろう。きっと今と大して変わらないその姿を思い浮かべて、そっと溜息をついた。そもそも俺は一度その瞬間を見ている。あの時も、たしか。
「……早く次、行こ」
はい、と頷いてペンギンに興味をなくすその姿にうんざりとした。今日俺は、俺を好きでもない男とデートをする。
「佐野さん、ペンギン好きなんですね」
「……え」
なんで、と言おうとして彼の微笑みに遮られた。すべてを見透かしたような目でものを見る。俺よりも俺を知っているような。俺の後ろにある何かを見るような、そんな目。そう見える、といたずらに尋ねてみる。そう映ったから声をかけてくれたことなどわかりきっているのに。しゅーさんは若干会話のつなぎ方に違和感を覚えたような顔をしながらも「流石にわかりますよ」と力を抜いて笑った。
「じっと、見てたから。……それこそ、嫉妬しちゃうくらいに?」
いたずらっぽく俺の様子をうかがう瞳にイラっとして、口から出かけた暴言を呑み下すのに躍起になった。何をほざいているんだこいつは。俺のことが好きなわけじゃないのに、どうしてそんなことをいうのか。ぐ、とこぶしを握り締めたせいで伸びかけていた爪が痛いほど手のひらに刺さる。ああ、熱を持ってしまう。
「……俺の気持ちわかっててそういうこと言うの、マジで最悪。わざとやってる?」
「あはは、どーでしょうね」
本当に嫉妬していたのは俺だということを、きっとこの男は理解している。俺はあの瞬間、ペンギンを見て笑む彼を見て、確かにペンギンじゃなく俺を見ろや、と思っていたし、そもそもペンギンを凝視していたのだって、ペンギン越しに彼を見ていたにすぎない。そういうこと全部わかっているくせに、そういう察しの良さが人一倍あるくせに、知らない振りが下手なのが彼の一番質の悪いところだった。ペンギン、好きだよ。曖昧な意識の境界線の中、唇は勝手に動く。
「好きだけど、嫌い」
「無茶苦茶言うなあ」
「言葉全てに理屈があったら、それはそれでしんどいでしょ」
「そうですかあ? 理屈があったほうが、わかりやすくていいでしょ」
ロマンがわからないやつ、と当てつけのように言葉で刺す。彼はそれにもおかしそうに息をこぼすだけだった。彼の世界はすべてが理論づけられているのだろうか。そうであればいいと思った。それなら、自分の言葉が、感情が、うまく伝わらないのに理由付けができる。少しは、惨めな気持ちが軽減される。苦しくなってきて、下唇を噛んでうつむいた。少し下を向くだけで、彼より背の低い俺の世界からは、彼の姿が消えてしまう。
(なんでしゅーさんは今日、俺と出かけることを良しとしたんだろう)
仲が悪かったわけではない。むしろ彼の友人の中でも、俺は結構近い位置にいたように思う。一つ年上のくせに、方言が出るのが恥ずかしいからと敬語を頑なに外さない彼が気になりだしたのは、出会ってからそう時間はかからなくて、でもそれは本当に伝えるつもりなんてなくて。ただただ温め続けていくつもりだったのに、ぽろりと落としてしまったのは、間違いなく俺のミスだった。好きだよ、と零してしまったのは久しぶりに会って、その感情の昂ぶりに堪えられなくなってしまったから。
「……趣味悪いですね」
ほんの一瞬だけ困ったように眉を下げてから、彼はただそう返事をした。意味が分からなかった。好意を伝えた暁に、そんな言葉が待っているだなんて夢にも思わなかったから。それ、どういう意味。悔しくて上ずる声に、彼はただ曖昧に笑うのだ。俺は、好きとかは、よくわかんないですね。嘲笑のようにすら感じられたその言葉に、かっと全身の血が沸騰しそうなほどに滾って、でも、緊張から変わらず指先が冷たさを訴えていたのをよく覚えている。ごめんなさい。何が悪いかもよくわかっていない、子供のような謝り方に俺は、なんと返せばよかったのだろうか。
「泣きそうな顔してる」
「え……つめたっ!」
「なんか落としました?」
俯いて感傷に浸っていた俺を冷気で持って襲撃して、逸れた視線のいた場所を不思議そうにしゅーさんは眺めた。別に、なんも落としてないよ。そう首を横に振って見せれば「あ、そうなんすか」とさらりと流した。刹那、表情に安堵の色が見えたのはきっと俺の希望的観測なのだろう。いよいよ幻覚すら見えてきたか、と己のどうしようもなさに笑みをこぼせば、しゅーさんもつられて笑った。びっくりしました?、と無理やり右手に握らされた物体をゆるゆると触れば、さっきと同じ温度が伝わる。青いパッケージの缶。描かれたたくさんの泡のイメージに、ごくりと喉が鳴ったような気がした。
「ソーダ、好きでしょ」
「あ、うん。ありがと」
そういうところが、ずるいと思った。好きなものをちゃんと覚えているような優しさを、彼は誰にでも振舞うことができる。浮かない顔をしている人間を見たら心配するし、落とし物を探している人間には無条件で探すことに付き合おうとする。人でなしじゃないのだ、彼は。一切の貴賤なく他人を見て、笑みを浮かべて、手を差し伸べて。南極に住むペンギンは、どんな人間にも容赦なく近づくというから、やっぱり似ているのだと思った。
「これ、いくらだった?」
「あー、いいですよ別に。おごられといてください」
「……じゃあ今度は、俺がなんか奢るから」
「たかがソーダ一個で大袈裟やなあ」
無理やり次の約束を取り付けようとする俺を、否定するでも肯定するでもなくしゅーさんは曖昧な返事をする。いいから、と強引に告げれば、ただただその場を凌ぐためだけの「はいはい」という言葉をもらった。次はやっぱり、彼的にはないのだろうか。なんだか自分も次は無いほうがいいような気がした。こんなひどい男を思い続けているほうがきっと、精神によくない。そこまでわかっていてなお、諦めきれない自分が悲しいけれども。彼のおざなりな返事にあからさまに凹んでしまった自分を見かねたのか、「佐野さん」と甘い声を出して機嫌を取ってくる彼が、嬉しくて、憎い。
「……ほんっと、俺のこと好きなんすねえ」
「……悪かったね」
「いやさすがに悪いとは言いませんけど」
前に言ったろ、と文句を言ってやりたい気持ちが少しだけ首をもたげて、すぐに引っ込んだ。趣味が悪いと言われたことに関しては、特に異論がなかったのだ。他の人を好きになれればよかった、と思わない日などないほどに、自分は彼に恋することに後悔続きで負け続きなのは、否定しようがない。
「俺、結構どうしようもないですよ」
「……知ってるよ。たまに血が通ってるのかすら怖くなるもん」
「ひっどいこというなあ」
「ほら、また笑うじゃん」
どれだけ俺がひどいことを言おうと……好意を告げようと、すべて反応は変わらない。それを嫌味のように伝えてやれば、彼はひどく面食らったような顔をして、それから探るように「俺が笑ってばかりなのが、いや?」と尋ねた。いや、なのだろうか。よくわからないと思った。俺の冗談で笑う彼は、嫌いじゃない。俺が何か彼にとって不都合なことを言ったときの、あの誤魔化すような笑みが嫌いなだけ。しゅーさんは。一つ一つ慎重に言葉を選びながら告白する俺の指先は、あの時と同じように冷たくなっていた。
「しゅーさんは、都合悪い時もずっと笑ってるから、なんか、人間じゃない、みたいな」
「ロボット、みたいに見える?」
「……ペンギンみたい」
「ペンギンかあ」
それは不気味やなあ、とけらけら声をあげて、それから少し考え込むような素振りを俺にしてみせた。ペンギンみたい。そう、ペンギンみたいなんだよしゅーさん。そうそっと、心の中でつぶやいてみる。何時だって何を考えているのかわからない瞳がじっと、俺の前にあった。怖いんだよ、俺。シューさんのことが怖い。怖いのに、こんなに好きだから困っているのだ。試すように彼はまた俺の瞳を覗き込んだ。俺、見たまんまの人間なんで、これからもきっとペンギンですよ。疲れたように、しかし口角は依然あげたままに彼は呟く。どれだけ親しくなろうが、恋人になろうが、俺のこれはもう、そういう性分なんで。その言葉はきっと牽制だ。それでいてきっと、悲鳴なのだと思った。俺は決して特別な人間じゃないからきっと、同じようにして彼に迫った存在が今までにもいたのだろう。貼り付けたままの笑みが、どれだけ他人を苦しめるかを彼は知っている。知っていてもうどうしようもないのだという、ある種の弱音なのだ。
「俺はさ。ペンギンのしゅーさんを、好きになったよ」
「……それは知的好奇心でしょ? その奥にいるかもしれない……いやしない人間の幻影を好きになったんですよ」
「俺はペンギンのままでも、しゅーさんの気持ちが知りたいの」
表情は変わらないままでいい。それでもその奥底にある喜怒哀楽を、少しでも見せてほしかった。俺はサイダーが好きで、ペンギンが好きで、しゅーさんが好き。それと同じような感じで、快しかない彼の感情表現にもう少し彩を加えてほしいと思ったのだ。全部が知りたい。彼の全部をわかりたい。余裕のなくなったしゅーさんは、戸惑ったように指の腹をすり合わせて「俺、好きとか、よくわかんなくて」と手探りで逃げ道を探していた。
「だったら俺が教えてあげる。俺が、しゅーさんの全部を変えてあげる」
「……また言ってる。いつもそう言って俺の世界を変えようとする」
「俺のこと、好きになって。好きに、変わって」
いたずらに手を重ね合わせれば、控えめに握り返される。何時になく不安が伝わってきて、それが表情ではなく指先からなものだから、おかしくてたまらなかった。好きだよ、しゅーさん。どうしようもなく、好き。教え込むように、刷り込むように囁けば、彼はばつの悪そうな顔で「あっそうですか」と苦笑してお茶を濁すだけ。でも不快感はなかった。口先よりも、指先のほうがずっと雄弁だったから。
「……変わりたいですよ、俺も」
だから、せいぜい頑張ってください。ダメ押しのように手の甲をつねりあげて、彼はすくりと立ち上がる。ちょっとゆっくりしすぎちゃいましたね、とすたすた歩いて行ってしまう後姿は嫌に小さくて愛おしかった。荘厳で、美しくて、強かで、怖い。けれども確かに、ペンギンは可愛いのかもしれない、だなんて。結局俺もそんな俗説に流されかけるくらいには、相当参ってしまっているのだ。