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    dentyuyade

    @dentyuyade

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    dentyuyade

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    食事に関する長編。美味しいって何か、考えたら立ち止まってしまう話。

    貴方の食事に焦がれて止まない「ねえ。男の人ってさ、どんな感じ?」
    「……ええ」
    どんな感じって、言われても。小さい顔に備えられた大きな瞳がぱちくりと瞬いて見上げてくるのを、笠田はいなすこともできずに間延びした声を上げる。沈黙に呼応するようにして伝わっていく珈琲の熱が、じんわりと痛みすら与えてくるようだった。当惑も熱のように伝搬する。笠田の眉尻を下げた姿に何か察したのか、引き結ばれていた唇が緩められ「あー」とソプラノを映すのを、笠田はどこか夢見心地で見ていた。
    「なんかさ、あるじゃん。男の人の、感じ」
    「いや、ないだろうそんなものは」
    「えー……わかんないかな。なんか」
    「……わからないよ。感じって、抽象的すぎる」
    口数が少ないわけではない。ただただ、カケルの言葉はいつも足りていない。伝わらないのだ。これが果たして女子高生全般に言えることなのか、それともカケルがおかしいのか、笠田は判断がつかなかった。少なくとも自身が高校生だったころは、もう少し話ができる生き物だったように思うが。それとも生きた年数分だけ言葉が伝わらなくなってしまうのか。いけるって、と適当なことを言ってずずっとコーンポタージュを飲むカケルに、笠田は何とも言えぬ感情を抱いた。
    カケルは笠田の下宿先の隣に住む娘である。この下宿先というのが気のいい中華料理屋で、昔から鍵っ子だったカケルをよく空いている席に座らせていたり、ちょっとした食事を出したりしてやるものだから、カケルもしょっちゅう居ついてはテレビを眺めたり、漫画を読んだりして馴染んでいるのだ。当たり前だが、新参者の笠田よりもカケルのほうがここにいる時間は長い。だから、邪険に扱うわけにもいかず、笠田もまたカケルを構わざるを得ないのである。笠田がこうして缶に入ったそれを奢ってやっているのも仕方のないことだった。これが学友だったら絶対にびた一文出していなかったことだろう。
    「やば。お腹すいたかも」
    「……さっきおかみさんにチャーハン貰ってなかった?」
    「あ、ほんとだ。さっき食べてた」
    「しっかりしてくれ」
    実のところ、笠田はこのカケルという少女のことはそこまで嫌いじゃない。話の通じなさが一周回って面白いのだ。だからなんだかんだこうして構ってしまうし、ついつい甘やかしてしまう。下宿先の人々もそうなのだろう。こんなことを話すと学友にはやれ小児性愛だの幼女趣味だの言われてしまうが、そういった下心というわけでもなく……というか、女子高生相手に小児だの幼女だのとするのもおかしな話ではあるのだが、とにかく笠田はカケルのことを邪な目では見れない。それこそ親戚の子供のような気持ちで接している。呆れて思わず笑いを漏らす笠田に、カケルはわずかにむっとして、「チャーハンじゃなくてさ」と不平を零した。
    「答え、思いついた?」
    「そんなこと言われてもね……」
    瞳を少し反らして否定を示す。もうちょっと具体的にしてくれなきゃ、と口にしてからもう一つ転じて「そもそもなんでそんなこと気になったの」と付け足した。こちらが具体的に聞かなければ、カケルは恐らくまた伝え方を失敗する。そうすればもう一周である。それはさすがに笠田でも手間だと感じる。
    「なんか、兄貴がさ」
    「へえ。お兄さんいるんだ」
    「うん、いる。私より年上なやつ」
    そりゃあ年上じゃなかったら兄貴とは言わないだろう。笠田はつっこむのも億劫なので黙っておくことにした。いもうと。妹なのだ、彼女は。そんなことを何気なく思い知らされて、笠田はおもむろに実家の床を見つめる、母の空虚な表情を思い出した。笠田に妹はいない。
    「兄貴が……なんかちょっと、違う? みたいな」
    「違う?」
    「そう。なんか、違ってて」
    「違うって、どう」
    圧倒的に情報量が足りていない。それでも少しずつ分かってきた。要するに兄の何かを案じていて、同性の笠田に意見を仰ぎたいのだ。普通なら一分で済む会話の導入である。笠田はもどかしい気持ちの先に達成感を感じてしまったことが無性に悔しかった。なんならまだ話は二転三転しそうな勢いなのに。全ての原因となる少女はぎゅっと眉を寄せて、うーん、と人差し指を下唇に押し当て目を伏せる。なんだろうね。返される問いに、当然笠田は答えを持っていなかった。
    「なんか、食べないんだよね。ご飯とか、一緒に」
    「……拒食症とか、ってこと」
    「いや、ちゃんと食べてはいると思うよ。私の前で食べてないってだけで」
    笠田は思わず絶句してしまった。それは、非常にナイーブな家庭の問題というやつではないだろうか。男の人って、人前でご飯とか食べたくないことあるのかなって。そう、妙に真っ当な顔をして呟かれる疑問に、笠田は「うーん」と答えることしかできない。神妙な顔をして唇を引き結んだって答えどころか思考は何も進まないのに、カケルの寄せる期待だけは増幅していくのだから困り者だった。
    「……それは、僕ではちょっと力になれないかもしれないな」
    「えっ。ダメ?」
    「僕にはそんな経験もないし……その、何か原因があるのだとしても、面識のない僕が適当言っていいものでもないだろうし」
    「えー……そっか。わかった」
    缶、捨てて来るよ。カケルは笠田に手を差し出す。その仕草に呼応するように苦みしか感じないそれを飲み干してから感謝と共に手渡せば、小さく「ん」とだけ返事が置かれた。遠ざかっていく背中を見つめながら、笠田も立ち上がる。何にも覆われていない耳が刺されるように痛かったのを、ねえ、という声が温める。アシタ、アイテル? がすんと間抜けな音を立てて缶が鉄くずになるのを脳が先に認識してしまって、一瞬意味が分からなかった。
    「会ってみてよ、兄貴に」
    面識持ったら、何か変わるかもじゃん。そう言ってカケルは振り返って笑う。あまりにも綺麗な笑みに、笠田はすべての判断能力を奪われ、ただ頷くことしかできなくなっていた。


    笠田には兄弟と呼べる存在がいない。だから、それがどういうものかをよく知らないし、世間一般的なイメージが果たして正しいのかもわからないが、まあ得てして親族というのはどこかしら似ているものなのだと思う。生物学的にも、遺伝という事実が消えるわけはないのだし。だから当然のように、カケルの兄というのもカケルに似て、どこか浮ついた感性を持つ、変わった人間だと思っていたのだ。聞いていた話もあったから、余計に。
    「いやあ、ほんとすみません。わざわざ来てもらっちゃって」
    明日、適当な時間に来てよ。そう言われたままにかの家のインターフォンを押して現れたのは、切れ長の瞳に人好きしそうな笑みを浮かべた青年で。なんというか、面食らったのだ。どうぞ、だとかあがってくださいだとかを恐らく言われたのだと思うが、笠田は処理しきれなくて固まってしまった。その様子に、人懐こげな笑みはみるみるうちにその眉尻を下げて困った、泣きそうにすら見える顔に化ける。感情の起伏が曖昧なカケルとはとても似つかない、わかりやすい表情。どうしました、と見るからに当惑していますと言わんばかりの声に、笠田は慌てて首を振る。すみません、なんでもないんです。そう無理に笑みを作って見せれば、呼応するようにして彼もまた安堵を浮かべ口角をあげた。
    「笠田さん、ですよね?」
    「はい。……えっと」
    「笹井です。僕ぁ、笹井優一といいます」
    「えっと、ささ……」
    「優一、で結構です。翔ちゃんとややこしいでしょう?」
    「……優一さん。これ」
    玄関で靴を整えるのもそこそこに、笠田は手にしていた紙袋を優一に押し付ける。わ、と小さな声をあげてきょとんとした彼は、がさがさとそれを開いて瞳を丸くした。イチゴ大福じゃあないですか。露骨に喜色を滲ませたその姿に、笠田はひそかにほっとした。即席で用意したのだが、どうやら喜んでもらえたようだった。どういった食べ物が喜ばれるのかよくわからない笠田が、こうして当たりを引けたというのはまあまあな幸運だろう。明らかに顔をほころばせながら、それでもどこか申し訳なさそうに視線を泳がせる様子を嬉しく思った。
    「ほ、ほんとすみませんね。いつも翔ちゃんに構ってもらってるのに、こんな手土産まで」
    「いえ、いつもその……カケルちゃんにはお世話になっているので」
    「はあ、お世話に、ですかぁ」
    あの子が、とどこか居心地悪そうにする優一は、笠田の描いていた兄のイメージとはずっとかけ離れていた。兄というのは、こんな風に妹を語るものなのだろうか。笠田の友人たちが語る妹像というのは大概ひどく、それを語る彼らにも良くも悪くも遠慮がない。だから、兄妹というのは互いを邪険に扱いあいつつそれで距離を保っているものなのだと思っていた。それとも年が離れていればまた話は違うのか。それとも、そのあたりに共に食卓を囲めぬ理由があるのか。優一に連れられ家の奥のリビングへ通されながら、その間も話し続ける彼の言葉もそこそこに、笠田は思索を巡らせていた。
    「お茶出しますんでちょっと待っててください。せっかくの大福なのに、大した茶葉でもなくてあれですが」
    「あ、いえ。僕は」
    「いやいや、せっかくだから食べてください。美味しいんですよ、ここの」
    あ、もしかして甘いもの苦手でした、と小首をかしげる仕草に、笠田はそれは違うと言わざるを得なくなる。苦手なわけではない。ただ、何とも思えないだけだ。カケルちゃんや親御さんの分が、と適当にお茶を濁そうとすると、優一は不満げに唇をゆるく尖らせて、そういうわけにもいかんでしょうに、と呟く。
    「大体、父の帰りなんて待ってたら大福がいくつあっても足りませんから。翔ちゃんの分は確保しておきますし、ね?」
    「……はあ、まあ」
    「こういうのはすぐ食べたほうが美味いですから」
    そう、にぱっと笑って優一はキッチンへと引っ込んでいく。想定外とはいえど、結果的には良かったのかもしれない。これで彼が食事をする様子を見ることができるというものだ。カケルも少しは安心するだろう。もっとも、優一の口ぶりを鑑みるにそのカケルは不在なようだが。人を呼びつけておいてそれはない、と不満な気持ちもないではないが、カケルなら平気で悪意なくやりそうなので、笠田は深く考えるのを止すことにした。代わりに室内へ何気なく視線を滑らせる。小綺麗というか、端的に言って物が少なかった。最低限、食卓と椅子とテレビ、それだけ。ここはあまり使っていないのだろう。そう感じさせるくらいには、この空間は整っていた。……ちょっと、違う。カケルがあのとき何かを形容したのは、こういうことだったのかもしれない。そう、あのとき形容されたのは。
    「すみません、殺風景な部屋で。翔ちゃんも僕もここはあんまり使わんもので」
    「……リビングなのに?」
    「ご飯をここで食べんのです。あの子はお隣……笠田さんとこのおかみさんの店で済ませちゃいますし、僕は僕で大学で食べて帰ることも多いですから」
    「へえ、そんなに遅くまで講義が」
    「あはは、まさか。早めの夕食取ってるだけです」
    ほんとはもっと帰ってあげるべきなんでしょうけど、と皿を片手に引け目たっぷりに優一は零す。それを直視し続けるのが何だか憚られて、笠田は手元に視線を落として甘味を手にした。この手の食品はどうやって食べていいかわからなくなる。中に入った巨大な苺の扱いを掴みあぐねて、仕方なく大口を開けてかぶりつけば、案の定形が崩れてそれはイチゴ大福の体をなさなくなった。酸味と甘みが交錯して、舌の上で働きかけてくる。美味い、のだと思う。適当に咀嚼して嚥下すれば、それは喉につかえることなく臓腑へと落ちていった。しかし依然として口の中に小豆の持つ甘さが張り付いている気がして、笠田は一口茶を煽る。湯呑越しに、茶を淹れてくれた男の顔がぼんやりと映った。
    「……何か?」
    「あっいえ。つい……その」
    澄ました顔でイチゴ、丸っと食べちゃうもんですから。思い出したようにくすくすと笑う姿に、どうにもいたたまれなさを覚える。恐らく露骨に顔を顰めてしまったのだろう。慌てたように、気を悪くしないでくださいよう、と情けない声があがった。別に馬鹿にしたとかそういうわけじゃないんです、と言い訳じみた言葉が付け足されていく。
    「ただほら、食事には人の内面が出ると言いますでしょう? だからその、結構、あの……」
    「……別にいいですよ、そんな。その程度で怒るような人間じゃないし」
    「あ、あぁそうですよね。すみません、僕ぁちょっと、その」
    緊張してまして、と蚊の鳴くような声で呟かれるそれに、笠田は思わず同じ言葉を繰り返す。キンチョウ? どこか実感の伴っていない、間の抜けた音に、優一はへへっと肩の力を抜ききれないまま頷いた。
    「あなたが来るって、翔ちゃんから昨日聞かされて……その、怖い人だったら嫌だなぁ、と思っていたもんですから」
    「ははあ。それで本当に怖い人が来たから怯えているわけですね」
    「ち、違いますよう! 僕ぁ本当に、笠田さんがいい人でよかったと……」
    顔を真っ赤にして優一は必死に弁解する。調子のいい口だなぁ、と笠田は他人事みたく思いながらも、どこかその言葉をこそばゆく感じていた。いい人。その言葉が含む意味には、どんなものがあるのだろう。たかがいちご大福一つを差し入れただけの男にそんなことを言ってしまう彼が、ひどく純朴な人間のように思えてしまって、笠田はカケルの相手をしているときよりもずっと、幼い子供を手篭めにしているような、そんな罪悪感を覚えていた。バカみたいな話である。こんな、大人の男に向かって。
    「君、いくつですか?」
    「え、あ……ああ! 僕は20です。はたちですな」
    「ああ、やっぱり年下なんだ」
    「や、やっぱりってなんですか。どう見たって同じくらいに見えるでしょう」
    背だってそりゃあ笠田さんよりは多少低いですがね、と不貞腐れ頬を膨らませる彼に苦笑する。別にそこまでの他意はない言葉だったのだが。いや、多少のそれは無意識に含まれてしまっていたかもしれない。先ほど自分は内心彼を、カケルよりずっと稚い存在として扱っていたのだから。当人から否定され、その馬鹿馬鹿しさを改めて突き付けられたことで笠田は少し安心した。そう、ハタチの男なのである。自分より数センチ小さいだけの、大人の男なのだ。自身の抱いた感想は、お門違いもいいところであろう。
    「ちなみに僕は二十一です。よろしくね、優一君」
    「一つ上ですかぁ。年上だからって、苛めたりしたらやですよ」
    「君、そういう申し開きは……」
    逆効果だと思うけれど。笠田はそんな言葉を茶と一緒に胃へと流し込む。なんだか癪だったのだ。まるでそんなことを言ってしまっては本当に彼を苛める気があるようで。別にそんな気はない、そんな趣味はない。黙りこくってしまった笠田を不安げに窺ってくる優一に、首を横に振って見せる。途端に眉を下げて困ったような顔をするのがわかりやすい。大方、無理やり打ち切られた会話をどうしていいのかわからないのだろう。助け舟を出すつもりで、緩く口を開く。あー。僕も、ね。
    「もっと、取っつきにくい人を想像していました」
    「え。僕が、です?」
    「そう。カケルちゃんを大人の男にしたような人が出てくるとばかり思っていたから」
    「そりゃあ……すみませんね、ご期待に沿えなくて」
    ふざけるような言葉の裏に自信のなさが顔を出す。嫌だ。直感的にそう思った。笠田は卑屈になることが罪な理由が、初めて身にしみてわかったような気がした。居心地悪そうに視線を泳がせる優一に、少しだけ身を乗り出して告げる。
    「いや、むしろそっちが出てこなくてよかった」
    優一君がこんな感じで、安心しました。そう軽く笑ってやれば、しばらくの沈黙の後に突然、こんな感じって何ですよう、とおどけた声が上がる。隠しているつもりなのだろうが、どうにも喜色が抑えきれていない。感情の抑制が下手な、こども。大人の癖に。それを可愛らしいだなんて思ってしまう自分も大概だと思った。
    (こんな言葉だけで、喜んでしまうのか)
    カケルとは全く違った繊細さを持つ彼を、もっと見てみたい。その寂しさに、触れてみたい。欲深くもいろんな感情が膨らんでいく。自分は惹かれているのだ。カケルからの頼み以前に、笠田の感情がずっと関心を示していた。ねえ、と口走る唇を咎めることすら、笠田は忘れていた。
    「今度さ、改めてまた」
    数秒言いよどむ笠田に、優一はその吊り目がちの瞳を数度瞬かせてから、え、と呆気にとられたような声を上げる。また二人して陥った沈黙にもう気まずさを感じることもなく、どちらからともなく笑い声が上がってそれは破られた。何なんですか、これ。くすくす笑って目じりを緩く赤く染めあげている姿に、なんとも血の通った人間らしくていいなと感じる。
    「また、ですね」
    「うん。……そう、また」
    「連絡先教えときますね。無視したら嫌ですよ」
    ぎこちない会話にスマートフォンが挿入される。画面上にでかでかと表示された二次元コードを読み取って現れたアイコンに、ひどく心が躍った。また、連絡するから。そう言って優一、とそのままの名前で登録されているトーク画面に一つ「テスト」と吹き出しをつける。返ってきた猫のキャラクターは初めて見るもので、そんな得体のしれない存在に顔を綻ばせている自分が信じられなかった。


    「はぁー! 女子高生の次は年下の男っすか!」
    趣味がいいっすねぇ、とけらけら笑っているその顔が、後方にいて見えないにも関わらず容易に想像できる。同調するように残りの二人も「真面目な顔してそういうところがある」とか適当なことを言い始めて、収拾がつかなくなりそうだったので笠田は足は止めないままに後ろを振り返った。手に持つリードが繋がれた先で、犬がわずかにスピードを落とすのを感じ取る。人間よかよっぽど賢いな、と笠田は一つ息をついた。
    「勝手なことを言わないでくれ。……別に、どっちもそういうのじゃないから」
    心底心外だと言わんばかりのトーンで苦言を呈しても、特に怯んだ様子はなく「はいはいいつものね」とあしらってくる。気安い仲と言えばそうなのだが、こういったときにはどうにも扱い方に困る友人たちだった。
    矢野と平山と本川と笠田は、同じ大学内でそこそこよくつるむ、いわゆる友人グループである。本川が同じ学部の矢野を、寮を出るまで同室だった平山と笠田に紹介したのが始まりで、それから数年、なんやかんや揉めることもなくゆるりと関係は続いている。この朝一の散歩も、早起きの習慣をつけたいという本川の声から始まったもので、笠田の下宿先の看板犬の散歩という名目をつけ、わざわざ朝七時に四人で集っては犬を連れて歩いていた。全員、散歩代として出してもらえる賄い目当てになっていて、犬の名前もろくに覚えようとしないのだから世話ないが。
    「そういうんじゃないって言うけど、実際どうなん? 自分、告ってくる女の子全部振るから、男好きとしか思われへんねんけど」
    「いや、普通になんとも思ってない子に、はい付き合いましょうとはいかないだろう」
    「矢野、ちゃんと聞いたか今の」
    本川が矢野の背中をぱしりと叩いて反省を促す。矢野の交友の、それも異性への関係の仕方の粗雑さは、少しでも矢野を知っているものの間では有名な話だった。というか、笠田が見ている限り、矢野に対してのいい噂というのは基本顔以外では聞かないのである。そもそもが割にまともではない。気安い態度とその器量の良さで緩和されているが、大概ろくな人間ではないのだ。笠田がそれなりに気を使いながら留年の理由を聞いたとき、へらへらっと笑いながら「いやー」と言うだけなのを見て、笠田は彼を詮索するのをやめた。これは深淵である。そこにはまる女性もいるのだろうが、笠田には正直恐怖でしかなかった。今年の数か月の失踪を経て多少まともにはなったようだが、それもどういった心の動きなのか、確認するのも気が引ける。まあ端から見ている分には面白いので交友は続けているが。今はちゃんとしてますって、と手をひらひらさせる矢野に懐疑的な視線を向ける本川に少し共感する。でも確かに最近ちゃんと労働はしてますよね、と平山が助け舟を出してそこで言葉が一度途切れた。そろそろ代わりますよ、と右から声をかけられて、それを言うタイミングを探していたのだなと、感謝と共にリードを手渡す。
    「ありがとう。助かる」
    「……私の個人的見解なんですけど」
    「うん?」
    「笠田さんって、年下好きですよね?」
    リードの先を数度手先に巻き付けながら、平山は平然と言う。急に突き付けられた推測に、笠田は一瞬反応できなかった。いや、と言うまでもなく後ろに並ぶ二人が過剰に反応するのがわかって、笠田は思わずうんざりとする。自分のことを詮索されるのはあまり好きではない。言いたいように言わせておくかと喧しい二人には思っていられるが、平山相手にはそうもいかなかった。彼の目は、すべてを見透かしているようで、時折怖い。うわ、イヌ、待って。そんなことを口走りながら引きずられていく平山に、そんな自覚はないのだけれど、と慎重に苦笑して見せる。小柄な体で小走りに犬についていかんとする平山を見かねて、もらうわ、と本川がすっとそのリードを掠め取った。
    「すみません本川さん。……いや、別に大した論拠があるわけでもないんですけど。笠田さん、甘やかされるの嫌そうだし、どちらかといえば甘やかしたいほうでしょう」
    「あー、確かにそんな感じするな笠田は」
    「君たちは僕の何を知っているんだ」
    笠田の言葉など聞く耳も持たず、矢野なんかは既に訳知り顔で「はあー、なるほど。それが件の女子高生と青年に繋がってくるわけっすね」などと言って頷いている。別にそういうわけでもないと思うのだが。少なくとも笠田が今まで年下をそういう目で見たことなどはない、はずである。そもそも本気で他人に恋愛するだなんて行為からほど遠い人生を送ってきたから、嗜好だとか言える段階にもないのだ。しかしそんなことを知る由もない彼らは、やっぱりロリコンなんか笠田、と際どいことまで言ってくる。君が変なことを言うから、また僕はひどい風評被害を被る羽目になった、と平山に恨み言を告げれば、平山は事も無げな顔で「えー、でも事実そうだと思いますけどね」と言い放って笠田の脇をするりと抜けていった。
    「ほら、イヌ。おやつ」
    「平山くん、いい加減に犬の名前ぐらい覚えてあげたらどうっすか。ね、肉まん」
    「ちゃうやろ、餃子やんな?」
    白くて聡い犬は、そのどれもを自分の呼称だと認識して、律義に全てに返事をする。賢い犬である。どれ一つして正解ではないのに。今日はまだ近い料理だからマシだが、ひどいときにはカレーだの親子丼だの、各々が食べたいものの名前で呼ぶのだからひどい。仮にも中華料理屋の看板犬にそんな名前つけるわけないだろうに。おやつを与えられ道の脇で尻尾を振っている彼の頭を、笠田も混ざってわしゃわしゃと撫ぜる。シューマイ、と呼びかければ、犬はことさら嬉しそうに尻尾を振った。その姿に、一瞬だけ、面影が重なる。人懐こそうな笑みだ。
    (……さっきあんな話になったから)
    仮にも成人した男を犬に重ねてしまうことの罪悪はすさまじい。結局あの後数度交わしたメッセージで簡単に次の予定は立てられてしまって、柄にもなく笠田は浮かれていた。サークルにも属さず、高校時代にも部活動に参加していなかった笠田には、年下という存在がそもそも身近ではなかったのだ。だから、というのは言い訳ではないだろう。そうそうシューマイ、と言いながら犬を囲む男たちにこんなことを話せばきっとまた揶揄われるだろうから、絶対に言わないけれど。


    「兄貴とまた、会うんだって?」
    「あ、うん。そうなんだ」
    カケルちゃんも来る。そう尋ねれば少女は静かにそのさらりとした髪を横に揺らした。私はいいや。夕食時の中華料理屋の煩雑とした空間の中で、彼女の清廉な態度はひどく目立っている。もともと目鼻立ちが派手な顔つきだから、化粧っ気が無くても何か、引くものがあるのだろう。兄の涼やかな顔立ちとはいまいち似ていない。そんなことを何気なく漏らせば、カケルは中華丼を頬張る口元を落ち着かせてから「よく言われる」と笑った。
    「まあ、仕方ないんじゃない」
    「そういうものかい」
    「だって食べてないし。同じ釜の飯」
    この場合は、そのままの意味なのだろう。笠田はあの、生活感のないリビングを想起していた。あの空虚な空間に、魂が灯った最後はいつなのだろう。休日でも一緒にご飯食べないのかい。何となく心配になって出た疑問に、カケルは平然と頷く。見たことないかも、ご飯食べてるとこ。しばし言葉を逡巡するようにして視線を泳がせたのは、記憶を浚っていたからか。己の想起する家族像とは幾許か離れているらしい実情に戸惑う笠田に、カケルは淡く笑って、違うよと言った。
    「仲悪いとかじゃないから、別に」
    「……ごめん、勝手にいろいろ想像してしまって。お兄さんはそんな人じゃないって、僕にもわかるよ」
    「じゃあ、どんな人だと思った?」
    「え」
    「そんな人じゃないなら、どんな人なのかなって」
    レンゲにのせられた米が、てらてらと光を反射して光っている。だからというわけではないが、笠田は思わず唾を呑んで言葉に詰まってしまった。白いそれが少女の口に飲まれていく。それに比例するように、言葉は出てこなくなる。
    ――食事には人の内面が出ると言いますでしょう?
    あの時の優一の情けない顔がおもむろに浮かんだ。なんだか、ひどく悲しくなった。優一はどんな風に食事をとるのだろう。一緒に食べるような素振りを見せておいて、結局あの日、大皿にのせられたイチゴ大福は、一つを除いてそのままだった。自分がいなくなってから、一人で食べたのだろうか。彼があの大粒の赤色を食む姿を想像してみる。きっと、目の前の少女のような迫力は、彼にはどうしたって出せないのだ。
    「あれ。おーい、笠田さん」
    一瞬飲まれていた笠田を、ゆるりとした声が引き戻す。訝しむのを隠すつもりもない素振りは、まさしく裏表のない子供だった。別に、何も恐れることはないのだ。自分があのレンゲの上に乗ることは、決してないのだから。そう言い聞かせて、笠田は深刻さをできるだけ隠すように「ごめん」と息を抜く。考えさせちゃった、と小首をかしげるカケルに、笠田は縦だか横だかすら曖昧に首を振った。
    「優一君は……素直な人だな、と思ったよ」
    「あー、わかる」
    「カケルちゃんの言った違ってるっていうのも、なんかわかった。原因は……皆目見当もつかないけれど」
    素直すぎて多分隠せないのだろうな、と思う。少し言葉を交わしただけで透けてしまうそれは、何に由来するものかはわからないけれど、それでもきっと、優一の心に深く根差してしまってどうにもできないのだろう。何も考えていないようで、自分よりずっと世界に過敏なカケルは、きっとそれを傍らでずっと感じ取ってしまっていたのだ。食事を共にしてくれないことだけでなく、そういった所々ににじみ出る何かにずっと気を揉んでいたのだろう。それでもどうすることのできないもどかしさをそのまま、親しくなったばかりの笠田に投げかけてきた。その結果が、あの問いかけか。
    ――男の人って、どんな感じ?
    男だとか、女だとか、そんな考え方はどうにも型にはまった考え方だと思う。女だからこう考えるとか、男だからこうするとか、そんなものは一般論にすらなりえない。無根拠で無秩序であるとすら笠田は考えている。自分の父親が、そんな考え方に固執していたから余計に。けれど、カケルの持ち寄ってきた疑問は、どうにもそんな思想の偏りとは無縁なものに思えた。あるとすれば、それはきっと解釈している己の偏りだ。多分カケルは、自分が共感しきれない感性を統括して『男の人』と評したのじゃないだろうか。兄から掬い取れなかったそれを、自分と全く違う存在である笠田なら……男なら、受容できると期待した。もちろん本当のところだなんて、笠田にはわかりようもないのだけれど。
    「わからないのは、寂しいよね」
    「……うん」
    カケルには、もしかしたら一生わからないかもしれないと思う。そも、人の持つ空虚というのは、決して共有できるものではないのだ。けれど、それを見せてくれるのと見せてくれないのとでは大きく違う。わからなくても、見せてくれるだけで安堵することもあるのだ。笠田はへらへらと笑う友人の顔、そして虚ろな瞳で腹をさする母の顔を思い浮かべた。笠田は他人の持つ空虚を見るのが、とても怖い。どうにかしなくちゃいけない気持ちにさせられると同時に、何もしてやれない寂しさが、苦しい。ある日突然空虚に飲まれ姿を消した矢野は、しばらくしてそれはもうあっさりと戻ってきた。母も、流れる月日と共に徐々に自分を取り戻していった、ように見えた。それが見えただけなのかどうかは知る由はないけれど、どちらも自分の預かり知れぬところで、自分の手だか、もしくは誰かと勝手に、その穴を埋めて平然とした顔を取り戻していた。けれど、優一は。家族にすらうまく関われないような彼は、その穴をどうやって。
    「……多分兄貴は、私じゃダメだからさ」
    よろしくね、笠田さん。そう言って淡く笑う。そんな言葉を真っ直ぐ目を見て言えてしまう、その強さが何よりも苦しいと思った。


    この週の日曜はどうだい。その日はちょっと買い出しがありますね。一人? ええ、まあそうです。なら。そうやって半ば強引に次の約束を取り付けたのは、端から見れば自分らしくないように映るかもしれない。自分らしさが何かだなんて、想像上にしか存在しないけれど。不安そうにちらちらとこちらを伺い見る彼には、今日の自身はどう映っているのか、笠田はわずかに興味がある。
    「あの、本当に良かったんですかぁ。今からでも間に合いますよ」
    「何を以て間に合うと言っているのかわからないけれど、僕は別にいいよ」
    「でも、でも、本当に買い物するだけですよ? 面白いものなんて買いませんし……」
    「僕が勝手に面白がるから大丈夫だよ」
    面白がらんでくださいよ、と眉尻を下げてわずかに声を張る。エスカレーターの一段下から眺める彼の瞳は、どうにも不安で揺らいでいた。何をそんなに恐れることがあるのかと呆れながら、「まあ荷物持ち程度に思ってくれたらいいから」とあしらえば、観念したのか知りませんよ、と一つ息をついてそっぽを向いてしまう。困っているのだろう。こういう時、どうしたらいいのかがわからないのだ。それで、どこから行くの。下方に見える大型ショッピングモールの地下一階を見下ろせば、数多の人がせわしなく動き回って、それでいて一つの波を作っている。自分たちもその一部となっているのかと思うと、なんだか随分と変な気分だった。
    「えっと、じゃあまずは……あ、降ります。降りてください」
    「バスじゃないんだから」
    「似たようなもんでしょ」
    「暴論だ」
    くすくす笑いながら黄色い線が吸われていくそこを跨いで降りる。人流から一旦はけた瞬間、施設の広大さが嫌に目について、少し呆気に取られてしまった。ショッピングモールに来るのなんて随分と久しぶりだ。柄にもなく気分が高揚するのは、その場所の特異性からか、それとも。ちらりと隣を見ると、優一はそのほっそりとした指を口元に押し当てて、何やら考えている様子だった。階数でも間違えたのかい、と揶揄うように尋ねてやれば、彼は露骨に不本意だという顔をして「違いますよう」と唇を尖らせる。
    「どの順番で行くのが、一番楽かなって」
    「そんなこと考えるのか。マメなんだな」
    「そりゃあ考えないと手間ですし。あっち行ったりこっち行ったりするの嫌でしょう」
    「それもそうだ」
    笠田さんて、そういうの僕よかしっかりしてそうなのに、そうでもないんすね。ふわっとした感想を零して、優一は少しだけはにかんだ。なんだいそれ、と笠田も呼応するようにして少しだけ笑んで、でもその通りだと内心感心した。いつだってもっともらしい顔だけしている自覚はある。品行方正そうな顔をしているのは楽だった。本当は、表に出せるような大した人間性がないだけなのだけれど。だから、少し見られただけで、適当な人間だと気づかれてもしまうのだ。
    「期待外れだったかい」
    「えっ! ……まさか」
    少し苛めてやろうと嗜虐心のままに繰り出した質問に、返ってきたのは想定外の言葉だった。優一はゆるく横髪をいじりながら、視線を泳がせて自虐的に笑う。イメージ通りの人間のが、よっぽど怖いでしょう。隙のない人間てのも付き合いにくいもんですよ。そうやって口を回す姿は、なんとも調子が良く、それでいてなんとも必死だった。
    「笠田さんが適当人間くらいなほうが、僕的にぁ願ったり叶ったりですな」
    「そういう言い方をされるとどうにもなあ」
    こくりと一度だけ喉を鳴らしてから、笠田はそんなことを言ってみる。
    「いいでしょ別に、喜んでるんですから」
    愉快そうにけらけら笑っている優一は、すっかり肩の力を抜いているようだった。じゃあまずは雑貨屋に行きますよ、と足向きを変えて歩き出すその後ろ姿に惹かれて笠田も筋肉を弛緩させる。思いの外、緊張していたのかもしれない。先ほどの質問の答えに無意識下で怯えていたのだとしたら、それは大層滑稽なことだと思った。自分で聞いておいてどういう心づもりなのか。なかなか呆れたものだと苦笑しつつ、ゆるく唇を撫ぜて落ち着かんとする。
    (適当人間くらいな、ほうが)
    隙があるほうがいいと、面と向かって言ってくれる人間は存外多くはない。例え内心そう感じていたのだとしても、それを口にするとおかしなことになってしまうからだ。だから、笠田がへまをしたり、人並み外れた行動をとることに対して、多くは茶化して笑うか、恐ろしい顔をして叱りつける。真っ当な、男らしい人間でいなさい。耳元で忌々しくも己に似た、低い声が響いた気がした。真っ当な人間だなんて実現不可能だということを知っているから、あの時それを真に受けたりはしなかったけれど、それでもその言葉が残した傷は、しこりとなって未だに笠田の心中に巣食っているらしい。彼の空虚を確かめようとしに来たはずなのに、これではいけないな。そうお得意のもっともらしい顔を取り戻して足に力を込める。
    「雑貨屋ってどこなんだい」
    「笠田さんここあんま来ない感じなんです? こっちっすよ、こっち」
    「僕は適当人間だから、店の場所なんていちいち覚えられないんだ。悪いね」
    「うぇ、もしかして結構怒って…… ? 悪かったですって、許してくださいよう」
    二人してくすくす笑いながら並んで歩く。ただただ単純に、楽しい時間だと思った。


    「妹に、クリスマスプレゼント」
    「そう。……えっ、気持ち悪いですかね!?」
    「いや……僕には兄妹がいないから、あまりそういう感覚はわからないのだけれど」
    まあ少なくとも僕の知り合いはあげてないね、と告げれば露骨に肩を落とす。別に悪いことをしようとしているわけでもないのだから、いいと思うが。そう肩を叩いてやっても、項垂れたままに「嫌いなやつからのプレゼントとか、普通に迷惑じゃないすかぁ」と視線を反らしてうじうじとする。別に嫌われちゃいないだろう。その態度を若干面白がりながら、相変わらず歯切れは悪いままの言い訳だか自己卑下だかを聞いた。
    「あの子は態度を取り繕えるようなタイプでもないだろうに」
    「いやまあそれはそうなんすけどねぇ。ほんとに嫌われてないのかなぁ」
    「……そんな気にするようなことをしたの?」
    「いやいやいやいや、してないすよ。むしろ……」
    なにもしてやれてなくて。小さな声でまるで懺悔でもするような呟きに、笠田は大きな反応を返さない方がいいと思った。引け目に感じているのだろう。痛いほどに透けて見えるその表情に、なんとも言えない気持ちになる。なら、何かしてあげたら。カケルの淡々とした様子を思い浮かべながら無責任にそんなことを促した。歩み寄りを求めている少女は、多分何をあげても喜ぶだろう。慌てたように「そ、そっすよね」と声を明るくする優一に、なんだか寂しい気持ちになる。
    「普通に一緒に何かするとかでも喜ぶと思うけれどね。 ご飯、一緒に食べてくれないって言っていたよ」
    「……あの子、そんなこと」
    「クリスマスディナーとまでは言わないけどね。ケーキくらい買って帰ってあげればどうだい」
    「そうですねぇ……一緒に。一緒に、かぁ」
    歯切れ悪く口元に手を当てて、瞳だけで笑っているポーズをとる。何か都合が悪いことがあるのは明白だった。やっぱり何かあるのか。それともこれは、これ以上は切り込みすぎだろうか。笠田、割とごり押すとこあるよなぁ、と友人が呆れているいつかの声が聞こえてくるようだった。別に嘘をついてくれて構わないんだけど。そう早口の言い訳をまくしたてて、口は勝手に先走る。君は、もしかして、とまで駆けたところで、ひどく頼りない声が制止した。その聞き方はずるいでしょう。苦しそうに床へと視線を流して、それでも力なく無理やり笑っている。上目遣いの一つでもすれば、まだ可愛げがあっただろうか。そんなことを彼には期待するべきではないな、と思いながら、笑い話にしてしまいたい優一の意図を汲んでやるか迷った。
    「僕はずるい人間なんだ。悪いけど」
    「……僕ぁ、摂食障害ではないですよ」
    「そうかい」
    それならいいんだ、と肩の力を抜いて笑って見せる。戦闘態勢を解いたのと同義だと思った。もうこれ以上は追及したりしませんよ、というポーズ。傷つけたくない、よりも嫌われたくない、が核にあるそれはどうにも醜く感じられて辟易する。ずるいのだ。自分は、ずっとずるい人間でしかあり得ないのだと突きつけられている気分だった。優一はちらと、伏せられた瞳を期待するように上向きにして、すぐにバツの悪そうな顔をする。あー、と。聞かないんすか、いろいろ。首元を抑えて、いやいやと言わんばかりに尋ねるその思考が、笠田にはよくわからなかった。
    「……聞いてほしいのかい」
    「や……そりゃあ聞いてほしかぁないですけど」
    「じゃあ」
    「でも気になるって顔してるの、わかります。そのくらい、僕にだってわかる」
    今にも泣き出しそうな顔をしながら、何を以てそんな必死に自分の不利になるようなことを、食い下がっているのだろう。当惑はそのままに、けれどわずかな好奇心がゆっくりと顔をもたげてきているのを感じる。気になるって言ったら、教えてくれるの。たっぷりと狡さが含まれたそれは、想像よりもずっとはっきりと輪郭を持って、口から飛び出てしまった。なんだか苛めているような気持ちになって嫌になる。こくり、と小さく頷いて薄く引き結ばれていた唇が、緩く開いて咥内に収まっていた舌をちらと見せた。
    「別に、隠してるわけでもないですから言いますけどね」
    僕は、人と一緒にご飯が食えんのです。溜息のようになされた告白に、笠田の息が閊える。用意していたはずの言葉はすべて抜け落ちてしまって、そこにあるのはただただ意味をなさない文字の羅列だった。優一は秘密を明かしてしまって吹っ切れてしまったのか、これで満足かと言わんばかりに笑っている。そう、なんだ。そんな箸にも棒にもかからない他人事極まりない返事にも、彼は非難を寄こさない。
    「だからご飯は食ってますよ。まあ笠田さんのようにゃ、どうしたって筋肉はつきませんが」
    「……カケルちゃんは、それ」
    「知りませんよう。言ったって、ねぇ。心配かけちゃうだけでしょうに」
    痩せがちの腕をさすって、優一は気まずそうに遠くを見た。空虚だ。そう感じた瞬間、何だかたまらなくなってその腕を掴めば、ぎょっとした顔でその視線をかち合わせてきた。な、なんすか。困惑からどもる優一に、笠田はさらに掌に力が籠ってしまうのを感じる。痛いだろうか、と彼のことを気遣う余裕すらなかった。
    「君のそれは、何に機縁するものなの」
    「急にめちゃくちゃ立ち入ってくるじゃないですか。やですよ。大体そんなこと聞いてどうするんです」
    「……治せるかも、しれない」
    「治せ……そんなの僕はあなたに求めちゃいません」
    それは明らかな拒絶の言葉だった。笠田にだって、まあそりゃあそうだろうと思う冷静な自分がいた。それでも引けなかったのだ。何とかしてやりたいと思った。否、何とかしたいと思ったのだ。自分が、それを望んでいるのだ。笠田は、他人の空虚が怖い。怖いから、何とかしたいと思う。それに。
    「僕は……僕は、君と食事がしたい。君がものを食べてるところに興味があるんだ」
    見たいと思う。彼がどんな風に物を食み、咀嚼し、嚥下するのか。カケルとは似ても似つかない彼の食事が、どのようであるのか。知っていたいと思った。自分だけでも知っていたいと思った。その感情をうまく説明する術がなくて、笠田は見切り発車に切り出した言葉の収集が付けられなくなる。結局、先に口火を切ったのは優一の、露骨な呆れ声だった。
    「変態くさ……」
    「う、うるさいな。悪かったよ。別に変な意味じゃない」
    「いやぁ……その言い訳はちょっと、通用せんでしょう。必死すぎます」
    気づけば優一はくすくす笑っている。その姿に笠田は途端にばつが悪くなってしまって、ぱっと手を離して宙に浮かせた。僕にそういう嗜好は本当にないからな、と何を言っても言い訳じみるのに嫌気がさしながらも釘を刺すと、はいはい、とわかっているのだかわかっていないのだか曖昧な相槌が打たれる。上げた手をなんとなしに口元にやって、拍子に己の頬の熱さに気が付いた。何を必死になっているのだか。なんだか笠田も馬鹿馬鹿しくなってきて、一つ大きく息を吐いて気を落ち着ける。事も無げな顔は、まだ帰ってきてくれそうにもなかった。その様子を優一は一瞥すると、ふっと肩の力を抜くようにして微笑む。臨戦態勢を解いたのだ。
    「……理由は、ちょっとまだ、話すの抵抗あるんで無理なんですけどぉ」
    「うん」
    「でもその、ご飯とかはその、僕も吝かではないと言いますか。……あの、有り体に言うと、行けるようになったらいいなぁ、と言いますか」
    「治したいと思ってくれたの」
    別に治したくなかったわけじゃありませんよ、と不満げに口を挟む優一は、しかしすぐに眉尻を下げて困った顔をする。人にものを頼みなれていないのだろうな、と笠田はそのさまを微笑ましく思いながら黙って見守っていた。
    「だからその、ね。知ってしまった以上は、協力してほしいなぁ、と思うわけです。僕ぁ」
    「まあ、僕が言わせたようなものだしね」
    「ほんとですよ。苛めないでって僕は最初に言ったのに」
    これはいじめた扱いなのか、と苦笑しながらも笠田は妙に納得していた。何となく強引にせざるを得ない気分にさせられる、そういう男なような気がする。ごめんね、と小さく呟く。何に対して謝っているのかもよくわからなかったが、優一は勝手に解釈したのか「いいですよぉ」とへらへら笑っていた。


    ピーク時を超えてわずかに人の気が引いたレストランフロアは、それでも人々の雑踏を色濃く届けてきた。そんな中で笠田はぼんやりと、備え付けソファで横に座っている青年について考えてみる。そもそも人との食事と、一人での食事の線引きというのは、一体どこにあるのだろうか。例えば、自分だけが食事を取っていて、相手はそれを眺めているだけであれば、それは一人の食事足りえるのだろうか。では通話しながらなら、店員と向かい合うカウンター席は、と異例なぞいくらでも思いつきそうなものであるが、果たして。そんなことを優一に聞いてみると、「はあ。確かにその疑問はもっともですな」と頷いてしばらく瞳を閉じて何かを思い出すような素振りをし始めた。考えたことなかったのかい、と少し呆れる。まあ僕一人の問題のうちは、そんなこと考える理由もありませんしねえ。解決する気がまるでなかったという旨にしか思えないその発言に、笠田は少しぞっとした。これからもずっと一人で食事を取り続けるというのは現実的ではないし、そもあまりにもそれは。
    「……一人でご飯食べ続けて、寂しくないのかい」
    「えー……いやまあ作法とか気にせんでいいのは楽ですよう」
    「別に気の置けない仲ならそのくらいどうとでもなるだろう。僕の友人にも異様に食べるのが下手な奴がいる」
    「笠田さんもあの大福の食い方は大概でしたけど」
    あれは上品に食う方が難しいじゃないか。思わず反論してしまう笠田に、優一はおかしそうに笑って「まあかくいう僕も、あれはかぶりついて食べたんすけどね」と何かを食べるようなジェスチャーをして見せた。というか、ちゃんと食べたのか。半ば感心して目を丸くすると、優一は心外だと言わんばかりに「そりゃあそうでしょう」と眉を顰めた。
    「ちゃんと翔ちゃんにもあげましたよ。おー、って言って食べてました」
    「様子が目に浮かぶなあ」
    「ありゃかなり嬉しい時の、おー、でしたね」
    「わかるんだ、そういうの」
    「……まあ、一緒に飯は食わんでも共有する時間はそれなりにありますから」
    少しだけ陰りを見せる表情に、笠田は目を瞑ることにする。さんざ嫌なことを話させてしまった後なのだ。これ以上の負担をかけるのは些か酷というものだろう。それで、結局どういう食事ならできるんだい。すっと話を逸らしてやれば、優一は安堵の色を浮かべてその話題に乗った。そうですなあ、と改めて少しだけ思案してから、まずカウンター席とかは余裕です、と人差し指を立てて遠くをさした。あんな感じの、と示された指先を辿れば確かにバーを模したであろう作りの席が、間接照明でぼんやりと照らされている。優一は指先をすぐに引っ込めて腕を組むと、眉を顰めてそもそもね、と視線を滑らせた。
    「初対面の相手……その場だけの相手なら多分行けると思うんすよ」
    「へえ。そういうもんなのかい」
    「多分ね。まあ初対面の人間の前でいきなり吐くことになっちゃあマズいんで、試す気もないんですけど」
    「は、吐くことになるのか……」
    思わず面食らって暗い声を出す笠田に、優一は慌てたのか「あっ違くて!」と激しくかぶりを振る。別に何も違うことはないのだろう。大したことはないのだという必死の言い訳を程々にいなしながら、でも、吐いたことあるんだろう、とダメ押しにそれだけ尋ねると急激に少なくなる口数が、見ていて痛々しかった。失敗したな、と思う。あまり心配するような素振りを見せても、彼はきっと恐縮してしまって重要なことを教えてくれないようだった。
    「別に僕相手に遠慮したってしょうがないんだから、話を迂遠にするのはやめたらどうだい」
    「う……すみません。僕ぁその、遠慮しているつもりはないんですが」
    足の間に放り出されている手が、所在なさげに擦りあわされている。それをじっと見つめながら、笠田は何と言っていいものかわからなくて、ただ「まあいいけれど」とだけ呟いた。ぴくりとその薄い肩が揺れて、視線がさらに流されていく。あからさまにしょげている姿が見ていられない。すうと一つ息を吸って肺に酸素を入れてから、笠田はおもむろに立ち上がって優一を見下げた。驚いたようにはっと顔をあげて真正面から見つめてくる彼の瞳は、暖色の照明を反射していくつもハイライトが入っている。それがなんだか可笑しくて、笠田は思わず笑ってしまった。
    「な、なに」
    「……ううん。それよりさ、ちょっと試してみないかい」
    「試すって、何を」
    「食事」
    「い、いやです」
    そりゃあそうだろうな、と一蹴された提案を反芻して思う。時刻はもう午後二時過ぎ。食事を取るにしては遅い時間で、笠田の胃はずっと悲鳴をあげていた。優一だってそれは変わらないだろう。それを言ってみれば、「いや、それはそうですけどぉ」とあからさまに焦ったような顔をして押し黙ってしまった。食えんですよ、さすがに。そう震える声でようやく絞り出された反論にも、怯まずに「うん」とだけ答える。
    「うん、って」
    「だからさ、僕は君が食べてるの見てるから」
    「え。……えぇ?」
    「何を食べるかは君に選ばせてあげるよ」
    やっぱり、そういう性癖なんすか。絶句した末のコメントがそれで、笠田は声をあげて笑ってしまった。そう思いたいならそれでもいいよと言いながら、近くにあったフロアマップを見に足を進めれば、慌てたように背後で立ち上がって横に並ばんとする気配がして、その慌ただしい様子にまた笑みが浮かぶ。それだけで自分の空腹は気にならなくなっていた。


    「食事をするときって、何を考えてる?」
    「……え」
    なんすか、藪から棒に。そう呟く浮かない顔の下で支えられているトレーの上には、紙袋に包まれたハンバーガーと、目に痛い色の容器に入ったポテトが広げられている。流石に一人だけで食べるのにレストランはない、と必死に主張する優一たっての希望でやってきたフードコートは、食事を取っている人間というよりは、惰性で駄弁り続けている人間の溜まり場、といったほうが正しかった。そこそこ埋まっている席の合間を縫って、二人掛けの席に向かい合って座る。別に何というわけでもないんだけどね。言葉と反対に、氷をじゃらじゃらと鳴らしながら吸い上げたコーラは、舌先に刺激と甘さしか齎さない。しかし、腹は膨れる。笠田にはそれで十分だった。
    「何をって……美味いとか、不味いとか、そういう話ですか」
    「そういうの含めてさ。何考えてるのかなって」
    「……別に何も考えちゃあいませんけど」
    美味いもん食べたら美味いって思うのは、思考っていうより反射みたいなもんでしょう。優一は机の上で躊躇うように指先を遊ばせている。宙に浮かされた肘はひどく所在なさげだ。笠田はそんな様子に気づいていながら、できるだけ視線を逸らすべく自分の手元へと下げる。紙カップの側面をじっとりと水滴が浮き上がっては滑り落ちていくのをぼんやりと見つめていると、なんだか気をやりそうだった。反射かあ。そう呟いた声が、嫌に遠くで聞こえた気がして、少しだけ嫌な気分になる。
    「甘いものを食べたらさ」
    「はい」
    「甘い、って思わない?」
    「は? ……いや、まあそりゃあそうですけれど」
    そんな身も蓋もない、と怪訝な顔をする。想像していた通りの反応だというのに、どこか鈍く悲しみが広がっていくようだった。そうだよな、と思う。彼の言う通り、身も蓋もないような感性の人間なのだ、自分は。それを肯定してほしいとは思わない。引け目には少し思うけれど、それだって隠していればどうということはないのだから。笠田はすっと手を伸ばして、トレーの上に広げられたポテトをつまみ上げる。もらうね、という事後承諾に優一は文句を言うでもなく……むしろどこかほっとした顔で、どうぞ、と言った。もさもさと咀嚼して、味蕾に神経をとがらせてみる。ジャガイモの味だ、とただそれだけを思った。
    「お腹空いてるんですかぁ? 残りも食べていいですよ」
    「食べられないんだろう」
    「うっ。す、すみませんね」
    「僕が席を外せば食べられそうかい」
    「……ポテトはちょっと、多いかもです」
    その言葉を聞いて、黙ってポテトを自分のトレイの上へと移す。どこか別の席へ一旦移ってしまおうかと辺りを見渡せば、その素振りを見た優一が「先に笠田さんが食べちゃってくださいよう」と期待したような顔をして見上げてきていた。なんなんだ、一体。呆れつつも中腰になっていた体を再度椅子に押し付けると、優一は悪びれもせずに「いや、笠田さんが物食ってるの見たいじゃないすか」とへらへら笑っている。変態臭いのはどっちだ、と思わずにはいられなかった。早く一人になったほうが楽だろう、というのは笠田の勝手な想像だったのだろうか。じい、と頬杖を突きながら己の口元を凝視してくるのにいたたまれなさを覚えながらも、笠田は先ほどと同じようにポテトを口に運ぶ。なんだか自分ばかりが見られてばかりで、悔しい。機嫌よさそうにニコニコとこちらを見上げてくるのを視界の隅でとらえていると、ふっとその唇が何か言いたげに戦慄くのがわかった。
    「僕も笠田さんみたいに飯が食えたらなあ」
    なぜ、と唱えずにはいられなかった。意味が分からなかった。
    「普通の食べ方だろう、僕は」
    「そうすかぁ? まあ僕ぁ普通を判じられるほど人の食事を見ちゃあいないんで、何とも言えませんが」
    自嘲気味にそう口にしてから、優一は嬉しそうに瞳を細めて笑った。笠田さんの食い方は何だか気持ちがいいですよ。その言葉に息が詰まるような思いがする。そういう見方をされるとは夢にも思わなかった。笠田は無難な食べ方を心掛けているだけだ。食に人並みほどの感情を抱けない以上、せめてきちんと残さず食べようと思っているだけである。食べ方だって、際立って汚くはないだろうが、別に大層丁寧なわけでもない。食事の場では目立ちたくない笠田なりの、真っ当な食べ方でしかないのだ。それを褒められても、なんというか、反応に困るのである。指先が無意識に唇に触れる。余計な言葉を口走らないように、咎めているみたいだった。
    「……気持ちがいいって、なんなんだ」
    「そこがうまく言えないから曖昧な表現をしたんですよう。あ、もしかして照れてます?」
    「照れないよ。嬉しくもないから反応に困ってるだけ」
    「喜べばいいじゃないすか。褒めてるんだから」
    照れてほしいからもうちょっと詳しく言いますが、と優一は緩く握っていたカップを指でタンと叩いて笠田を見る。何となくその仕草が気になって無意識に真似すると、それに目敏く気付いたのか優一は、にいと笑って「あのね」と言った。一生懸命食べてるなぁ、ってな感じがするんです。そんな風にしみじみとした声で話されているのが、自分のことだと思うとなんだか狐に化かされたような気すらする。一生懸命に食べるっていうのも、曖昧だろう。当惑の末、自分の感情を混ぜた発言をするのは何だか迂闊な気がして、笠田はそんな、無難なことを言う。そんな、子供みたいな評され方をして、怒らないのももしかして可笑しいのだろうか、と口にしてから気が付いた。うまくできない。どうにも、上手くできないのだ。
    「まあ僕みたいなのは、食に対して不真面目ですからねぇ。余計にそう思うのかも」
    「僕だってそうだよ」
    「あんなに真面目な顔して食べてるのに?」
    「……それは、そうだよ。だって」
    逡巡する。言うべきかどうか迷った。優一も自分に問い詰められたときはこんな気持ちだったのだろうか。そう思い立つと、余計に言わねばならないという気にさせられる。唇が緩く戦慄いて、悲鳴をあげている。こんな時にすら繋ぎの言葉一つ出てこないことが、自分の真っ当に縛られた人間性を象徴しているようだとさえ思った。
    「僕は食事を取って、美味しいと思ったことがないもの」
    「……え」
    「ごちそうさまでした」
    極めて平静を努めながら、息を吐くようにして言葉を吐いた。音が鳴らないように手を合わせて、それからトレーと共に立ち上がる。じゃあ、僕は一旦席を外すから。それ、食べ終わったら連絡ちょうだい。ひらひらと手を振ってその場を離れんとする笠田に、優一は何か言いたげな顔をしてぱくぱくと口を動かした後、観念したようにはい、とだけ言って下を向いた。ただただ、自分がそんな大人げない行動に出ているのが、信じられなかった。


    罪悪感というのはつくづく遅効性なものだと思う。肩に圧し掛かる「悪いことをしたな」という意識は、笠田がいなさないのをいいことに、刻一刻と重みを増すようだった。感情的ではない方、になれるように務めているというのにこの体たらく。はあ、と息をついて雑踏に混ざるままに足を進める。かと言ってあまり離れた場所に行くのも変なので、結局笠田は改めてさっきの雑貨屋に入って、意味もなく小さなクリスマスツリーの群れを眺めていた。世の中のいかほどの家がこれを飾っているのだろうか。少なくとも笠田の家にこんなものが飾られていた試しはない。ケーキくらいは食べていたのだろうか。なんだかそんなことすらひどく曖昧だった。どうせあの父親はそんな発想すらないに違いないし、母にそんな芸当ができたとも思えない。あの家では、皆自分のことに精一杯で、他人を慮る余裕なんて誰一人として持ち合わせてはいなかったのだ。別にそれを責める気は今更ないが、どうにも未だにどこか、しこりとしては残されているらしかった。
    (彼の家では、クリスマスがあるのか)
    灯るイルミネーションの光にそんな幻想を見た。例え食卓を共にできなくとも、プレゼントを贈ったり、祝いの言葉を唱えたり、特別な日ではあるのだ、きっと。行事ごとというのは同じ時間を共有するための口実に過ぎないのだと思う。笠田の家には必要がなかったからそれが無かっただけで、彼らの家にはあるに違いなかった。もしかしたら仕事で忙しくしている親も、年末だから帰ってくるのかもしれない。笠田が想像する幸せそうな家庭というのは、そんな現実味のないふんわりとした存在だった。四角四面な型にはまったイメージの外にも、勿論幸せが存在しているのは知っている。友人たちと集って無為に過ごすのも幸せなのだと、笠田はここ数年で学んだ。けれど、やっぱりそんな定型にも存在していてほしいと思う。それだけに、優一が家族と同じ食卓を囲めないというのは、寂しいと思った。もうあと数日で解決できる問題とも思わないが、何とかならないものか。そこまで考えて、ポケットに粗雑に突っ込んだ端末が震えているのに気づく。一気に気まずさがぶり返してきて、笠田はこくりと唾を飲んだ。
    「……もしもし?」
    『あっ笠田さん。今どこです?』
    「さっきの雑貨屋のクリスマスツリーの前。……その、さっきは」
    『そっちまで行くんで動かんでくださいね!』
    さっきはごめんね、という言葉は彼の声にかき消された。まあ直接言えばいいか、と妙に腹が座ってきている自分に苦笑する。適当なのである。優一は電話からたった数分ほどでやってきた。クリスマスツリーってこんな種類あるんですねぇ、と周囲を見渡しながら言う優一に、君の家にはあるのかい、と思わず聞いてしまった。ちょうどあんな感じのやつがあります、と指さす姿に安堵する。やっぱり彼にはクリスマスが来るのだ。うちも出さないとなぁ、と腕を組んで気恥ずかしそうにはにかむ姿は、何とも幸せそうで、笠田は何も言えなくなる。さっきの話を蒸し返せば、この顔は少し曇るだろう。それは嫌だな、と思いつつも放っておけるほど笠田の心は強くなかった。さっき、ごめんね。色とりどりに輝く木々を前にしてそんなことを言うだなんて、どうにも現実感が無くて居心地が悪い。優一はぎょっとしたように笠田のほうを見て、それから気まずそうに下唇を噛んだ。いいすよ、別に。小さな声が溶ける。
    「まあびっくりはしましたけどね! ノータイムで席外しちゃうし」
    「いや、ほんとごめん……」
    わざと明るい声を出して茶化してくれているのだと察する。それだけに罪悪感が増長してしまった。
    「始めて話したんでしょ。僕と一緒だ」
    「そう。……君が話してくれたから、誤魔化すのも、ね」
    「そう思ってもらえたなら僕も急所を曝した甲斐があったってもんです」
    急所。そうなのだ。彼にとっては間違いなく触れられたくない、弱い部分なのだ。それにあっさり踏み入ってしまった自分の不用意さを、笠田は改めて恥じた。自分のそれを曝すことで帳消しにできるとは思えないが、それでも何もしないよりはまだマシな気がする。対等でありたいと思った。色々と思うところがあって押し黙ってしまう笠田に、優一は話が一区切りついたと思ったのか、笠田さんは、と視線を流してくる。
    「なんで、僕をご飯に誘ってくれたんですか。その、言ったら何ですけど、楽しくないでしょう、ご飯」
    「まあ……否定はしないけれど。でも別に食事の席がダメなわけじゃないし」
    「はあ。そういうもんですか」
    「……僕は、君が美味しそうにご飯を食べるところを見たかっただけだよ、多分」
    すぐに顔に出るだろう、君は。そう言って笑うと優一は途端に顔を赤くして「そ、そんなことないですよお」と声を荒げる。そういうところだよなあ、と笠田は思った。自分にはないものだ。見掛け倒しで事も無げな顔を見せることしかできない笠田とは、正反対の素直さ。なりたいとは思わないけれど、普通に好ましいなと思わされてしまうのが悔しかった。優一は、少し落ち着いたのかあたふたするのをやめて、唇を尖らせて「揶揄わんでくださいよ、もう」と拗ねている。ごめんごめん、と適当に謝って、彼に買い物の続きを促した。ああそうだった、と手を叩いて、しかしそれでも動こうとしない姿に違和感を覚える。どうしたの、と言うよりも先に彼の喉が鳴った。
    「……その、もう一つ聞きたいことがあるんですけど」
    「そんな畏まられても困るよ」
    「別に嘘をついてくれて構わないんですが、あの」
    笠田さんのそれは、何か原因があるんですか。文頭につけられたそれは聞き覚えがあって、笠田は確かにずるい聞き方だ、と思った。それでも答える義務があるだろう。自分の問いには、答えるべきだ。これは嘘じゃないんだけれど、と前置きして一呼吸置くのを、優一が心配気な顔をして見ているのを感じた。
    「別に何きっかけというわけでもないんだよ。昔から、ずっとそうなだけ。ただその」
    「……」
    「僕の家は、多分よそと違ってあまりその……そういう感覚を共有しあえる感じではなかったから。それが原因かもしれない、とは」
    どうにも歯切れが悪くなってしまう。あの居心地の悪い食卓を振り払うように、笠田は肺に溜まった二酸化炭素を吐き出した。優一はどんな顔をしているのだろう。困ったようにまた眉を下げているのだろうな、と思いはらった視線の先は、想像と違って静かな真顔だった。優一は、少しだけ口を開いて小さな声で「一緒の机にいても、一人なんでしょう」と呟く。心臓をぎゅっと握られたような感覚が走った。
    「わかりますよ、その感覚」
    「君は」
    「一緒にご飯食べたいですね、やっぱり。僕も笠田さんに美味しいって言ってほしいです」
    「……うん。そうだね。ありがとう」
    僕ら二人とも頑張らなきゃですねぇ、と笠田の脇を通り抜けて歩き出す優一の顔は見えない。今の一瞬でひどく突き放されたような気がした。己の感情に理解を示してくれたというのに、随分と寂しく思うのだ。空虚が見える彼の根底に触れるのが、とても怖い。それでも一人にはしておきたくなくて、笠田は慌てて優一の横へと並び立った。幸せの象徴の光が、背中へと消えた。


    あ、と笠田が小さく声をあげたのは、スーパーマーケット特有の巨大な駐輪場を見た時だった。宣言通り荷物持ちよろしく、小さな袋を下げながら隣同士の家、もしくは下宿先に戻ろうとしていた最中のことである。どうかしたんですかぁ、と顔を覗き込んでくる優一の耳は赤く色づいていて、見るからに寒そうだ。これ以上付き合わせるのも悪いか、と逡巡していると、指先から寒さが体内に染みてきて痛みを感じる。さむい、と口をついて出た意味のない宣言に呆れることもせず、優一はおかしそうに笑った。寒いすねぇ、と同調してからわざとらしくその大きな建物を指さす姿は、悪戯を思いついた子供染みていて、笠田も可笑しくなってくる。
    「あっちは暖かいかなあ」
    なんとも白々しい演技である。気遣われたのだとすぐにわかって、でもそれを指摘してやるのもどうにも野暮な気がして、笠田もまた、わざとらしく「少なくともここよりは温いだろうね」と真面目な顔をした。それは行かん理由がありませんなあ、とニヤニヤする。気づけばすっかり自動ドアの前だった。カゴを取ろうとする優一を制して、さっさと中に入るように促す。薄っぺらい体を押しながら入った店内は暖色の照明に照らされており、今まで曇天の灰色の下にいたこともあってひどく輝かしく見えた。冷え切っていて機能不全になっていた指先が徐々に熱を持っていく。笠田は冬特有のこの感覚が好きだった。
    「ひえぇ、生き返りますな」
    「本当に。外に戻れなくなりそうだ」
    「ここの地縛霊になる前にさっさと買い物をしましょう」
    何買うんです、と小首をかしげる優一に、笠田はスマートフォンを取り出す。ええとね。そう友人グループから送られてきたメッセージを確認しようとすると、優一は極力画面を見まいと顔を逸らした。別にみてもいいよ、と笠田は苦笑する。「あ、ほんとですか」と嬉しそうに横並びになって画面を覗く姿はなんだか新鮮だった。大抵友人たちは、無許可にスマートフォンのロックすら外そうとしてくるからである。
    「ええと……僕はたこ焼き粉と紅生姜か」
    「たこ焼きするんですか」
    「毎年クリスマスにやるんだ。関西人が主催だからたこ焼き」
    「ほんとに持ってるんですねぇ、タコ焼き機」
    妙に感心したように言う。もう何度目かになることなので今更何も疑問に思っていなかったが、確かにたこ焼きを焼くためだけの機械というのは、皆持っているものでもないのかもしれない。笠田も本川に出会うまで見たことがなかったのだ。関西圏の外では物珍しく思われても仕方がないのだろう。あれって素人がやってもできるんすか、と興味深げに尋ねる優一に、かつての自分を重ね合わせて笑う。やってみないとなんとも説明しがたい感覚を言語化するのも難しくて、「僕はできるようになったけれど」とだけ口にした。反面、不器用な友人は回転させるのはおろか、鉄板からすら遠ざけられているのを思い出す。向き不向きと、練度の問題だと思う。彼は、どうだろうか。
    「今度やるかい。ご飯食べれるようになったら」
    「えっいいんですか。っていうか笠田さんも持ってるんです、あれ」
    「まあ言えば貸してくれるだろう。どうせ部屋の隅に転がってるだけなんだし」
    「そんな雑な扱いなんですかタコ焼き機……」
    当惑した様子の優一を連れ立ちながら、小麦粉やらが並ぶ棚へと移動する。いくつ作れるのかを確認するために、たこ焼き粉と銘打たれたそれを一つ一つ手に取っていく。自分含め四人と、毎度のことながら矢野の下宿先でやるだろうから、その主人の分も入れて五人。毎年一人いくつ食べているのだっけ。考えるとなんだか気が遠くなりそうになって、とりあえず一番大きい袋を手にした。多い分には困らないし、もし足りなければ途中で買い出しにでも行けばいい。そこまで考えて顔をあげると、優一はたこ焼き粉てのがあるというのもすごいですなあ、と自分の目線よりも高い位置に並べられた袋に釘付けになっているようだった。真面目な人はちゃんと小麦粉とか使うんだろうけどね、と少し左側に指を滑らせれば、キョトンとした顔で「たこ焼きって小麦粉で作れるんすねぇ」と後を追うように視線を動かす。
    「粉もん、とか言うだろう。ああいうのはほとんど小麦粉」
    「はー、一つ賢くなりました」
    「友人の受け売りだけどね」
    僕も関心なかったし、と己を振り返る。未だって別に関心を抱けているわけではない。ただ、こういった風に誰かと共通の話題にできるという意味では、食の話も悪くないと思う。郷土料理も、家庭の味も、全て個人を形作るワンパーツに成りうるのだ。この粉だってそうなる。なんとなくずっしりと重いそれを思うと嬉しくなる。自分も誰かと時間を共有できているという喜び。そういう意味では食事だって、日々の行事ごとのようなものなのかもしれない。その楽しみ方を教われなかったのだから、そりゃあこうなって当然か。笠田は半ば吹っ切れたような気持ちになった。
    「食事の話を楽しくできたらいいよね」
    「してるじゃないすかぁ、今」
    「こういうのを、続けられたらいいなって話だよ」
    嘘をつかずに。その一言で優一は途端に切なそうな顔をして、それから「練習、あるのみですな」と笑った。


    日々の食事の報告をするようになった。言葉にするとなんだか生活指導でもされているかのようだが、実際は互いに毎日三食、たまに二食になったり四食になったりするそれを写真に撮るなりして、送りあうだけである。それでも存外効果はあるもので、栄養ゼリーだけで済ませることも多かった笠田が、一応文化的な食事を取るようになっただけでも意義があると言えるだろう。ゼリーのパックの写真を送ったときの優一のドン引き様は忘れられない。
    「あ、どうぞ」
    目の前の平山が真顔でずいとメニューを突き出してくる。二人の食事は随分と久しぶりに感じられた。人間文化学部の二人が早朝から駆り出されているのだ。他所の学部のことなどまるで知らないが、せっかく付けた早起きの習慣のさらに上を要求されていて、笠田は平山と一緒に少しだけ同情した。しかし一蓮托生というか、そういう時に限って笠田たちもまたツキがなく、おかみさんが腰痛で賄いを出せないという。そこで仕方なく二人して朝から開いているチェーン喫茶店でモーニングでも食べようか、と入ったわけである。喫茶店だろうと中華料理だろうと、メニューなど見たところで笠田は結局何でもいいのだが、選択肢があると考えなければならないのも事実だった。仕方がないのでざっと見るふりだけして、モーニングセットの欄を上から数える。
    「注文呼んでいいかい」
    「私笠田さんが何にするのかわかりますよ」
    「……いいよ、聞こうじゃないか」
    呼び出しボタンを押そうとした指を引き戻して、笠田はちらと平山の顔を見る。彼がそういうはったりを言うのは珍しい。相変わらず真面目そうな顔をして、というより彼は実際真面目に生きていてなお抜けているタイプなのだと思うが、とにかくそんなもっともらしい顔で、見事笠田が注文しようと考えていたCセットを当てて見せた。そんなことで嘘をついても仕方がないので、笠田も普通に感心して「おお、当たりだ」と軽く拍手をする。平山は少し自慢げになって、笠田さんはわかりやすいですからね、と改めてメニューを広げた。
    「三番目でしょ。いつも」
    「え」
    「あれ、違いました?」
    だってどの店に行ってもメインの中から三番目のメニューじゃないですか、と不思議そうにする。いや、確かにあってはいるが。まさかそんな細かいところまで見られているとは思わなかった。動揺のあまり声が出なくなる笠田に、平山は流石に心配になったのか「別にそんな引け目に感じることでもないと思いますけど」といまいちフォローになっていない言葉をかける。
    「ああいや、ごめん。……びっくりして」
    「他は誰も気づいてないと思いますよ。気づいたところで何、って話ですし」
    「うんいや、そうだよな。っていうかそんな、なんで」
    「たまたまです。たまたま」
    食べたいものが決まってる時と決まってない時で、メニューを見る時間ってムラができて当たり前なんですけど、笠田さんは毎回絶対同じぐらいだから気になって。だから別に笠田さんのことだけを常に注視しているわけではないです。そう若干不本意そうに注釈して平山は呼び出しボタンを押す。すぐに飛んでくる店員に彼が応対をしている間、笠田はただただそれを眺めていることしかできなかった。気づけば勝手にドリンクも決められている。ふと手元のメニューを見たらそれも上から三番目で、笠田はますます閉口する。
    「面倒くさいんでしょう。わかりますよ」
    注文を取り終えて去っていった店員を見送りながら、平山は笑う。私もその日の服とか考えるの面倒なんで、一番最初に目に入ったやつ着ますし。そう組み合わせた手をゆるゆると動かしながら語る姿はなんだか探偵のようだった。君は本当に細かいところを見てるな、と呆れた風に呟く声はわずかに上擦ってしまう。私の知り合いがそういう人なんで、うつったかもしれませんね。愛おしそうな声に、笠田は自分の知らない側面を垣間見たようで何とも言えない気持ちになった。
    「まあばれたくないなら今度から時間差をつけることですね」
    「いや、そこで気づくのなんて君くらいだから」
    「いやあ……どうだろうなあ。メニューの件はともかく」
    笠田さんの味覚馬鹿っぷりは露呈しやすいと思いますよ。さらっと運ばれてきた紅茶に礼を言って、すぐさまに口をつける。熱っ、と小さく悲鳴をあげてカップを置く姿に、笠田はひそかに安堵した。自分の知っている平山というのはこういう男である。それだけで味覚馬鹿だと称された恐怖を、なんだか許せてしまう気がした。というか、メニューの決め方にすら気づくのに、そこを見逃すわけがないというある程度の前提があったから、今更大きく驚けなかったのかもしれない。
    「味覚馬鹿とは酷いじゃないか」
    「いや、何食べても適当に美味い美味い言う人間はそう称されても仕方ないですよ」
    「う……適当じゃないつもりだったんだけれど」
    「うーん。まあ短い付き合いなら騙せるでしょうけどね」
    実際優一は騙せていたのだ。結局それも笠田が自白してダメになったわけだが。口にしないだけで本川や矢野も気づいているのだろうか。ぞっとする思いだった。急に顔を青くする笠田に、平山は小さく眉を下げ何か言葉をかけようと口を開き、そして閉じる。いつも能弁に語る彼らしくない動きだった。固まった空気を打ち破るように、トーストやらスープやらが忙しなく並べ立てられていく。ああ、パンを焼いた匂いがする。笠田は現実味のない食事風景に向かって、そんなことを他人事みたく思った。
    「久しぶりに朝からパン食べますね」
    「確かに。いつもご飯だものね」
    「本川さんたちに自慢しましょう」
    平山が緩慢な動作でスマートフォンを取り出し合成されたシャッター音を鳴らすのに誘発されて、笠田もまた同じ動きをした。例の人に送る用ですか、と身を乗り出して画面を覗き込まんとする。それに負けてトーク画面を開いて見せてやれば、少し見るなり「うわあ」と心底不可解そうな顔で指を動かしていった。何を管理栄養士みたいなことしてるんですか。呆れたと言わんばかりの顔でトースト片手にスマートフォンをいじっているのは、少しばかり可笑しい。
    「なんです? これ。会話に困った男子中学生でももうちょっとマシなアプローチしますよ」
    「いいだろ別に。少しでも食事を楽しもうとだな」
    「苦肉の策すぎません?」
    一頻り見終わったのか、律義に電源を落として端末が返される。それから多少冷めたであろう紅茶を一口含むと、何か思い出したかのように少し動きを止めて、それからカップを置いた。
    「さっきはちょっと遠慮したんですけど、やっぱり気になるんで言いますね」
    「うん」
    「そんなに知られたくないですか。その、私たちにも」
    別にその程度で離れていかないことくらいわかるでしょう。その声は話してくれなかったことへの怒りだとか悲しみだとかではなく、ただ単純に疑問だと思っている、そんな印象を与えるものだった。そういう聞き方をされると、とても困る。対照的に自分の不誠実さが浮き彫りになる気がするからだ。笠田は迷ってばかりの脳を無理やり動かして、平静を取り戻すべく一口サンドイッチを食んでから、小さく頷いた。
    「そうですか」
    「……うん。そうなんだ」
    「まあ我々ではないんでしょうね。貴方にとって、その役目は」
    突き放すような言葉だが、確かにそうなのだと思った。笠田だって、別にいまさら友人相手に嫌われる心配をして遠慮しているわけではない。ただ、気遣われたり心配されたりするのは、違うと思うから言わないだけだ。美味しいと思えない、だなんて話をすれば食事を提案してくる回数が減るかもしれない。そうでなくとも、優一に笠田がしているように、何とかしようとしてくれるかもしれない。その厚意自体は有難い。ありがたいけれど、違うのだ。矢野が失踪前にも後にも何も言わなかったように、優一がカケルに誤魔化しを続けているように。……母が、自分に何も言わなかったように。友人たちに笠田は、それを求めていない。
    「……ごめんね」
    「ほんとですよ。私ばっかり気づくからいつも損な役回りだ」
    「まあ慧眼の代償ってことだよ」
    「何ですかそれ」
    適当なことばっかり言うなあ、と呆れかえる平山に、笠田はしたり顔で答える。適当人間くらいな方がいいんだ、きっと。その言葉に平山は意外そうに目を丸くして、それから「はいはい、そうかもしれませんね」と笑った。


    寒空の下に、少女が一人。周囲の緊張した冷気が全てそこに集約されているような、そんな凛とした雰囲気を何かが齎している。赤いマフラーにすっと綺麗に引かれた鼻筋を埋めて、はあと白い息を吐き出す姿は、雪がなくとも確かに冬を体現していた。伏せられた瞳から伸びている睫毛は、少し離れた笠田の位置からでも確認できそうなほどに長い。
    「……カケルちゃん?」
    「あ、笠田さんじゃん。おはよう」
    「どちらかと言えばこんにちは、じゃないかな」
    やや心許ない声量で問うたにも関わらず耳聡く聞き取った彼女は、ふっとその大きな瞳を以て視線をもたげる。その口が開いた瞬間に空気がわずかに弛緩して、感じていた寒さもいくらか逃げて行ったような気がした。何してるの、と問いかけてすぐにその視線の先に目が行く。笠田の下宿先であるそこの扉は固く閉ざされていて、貼り紙が一枚増えていた。店主不調のため休業。瞬時に腰を抑えて痛がっていたおかみさんの姿が浮かんで、笠田は「ああ」と唸り声をあげる。
    「ご飯食べよっかなって思ったら、これ。おばさん大丈夫なの?」
    「ぎっくり腰だよ。いつものやつ」
    「あー、じゃあ明日にはあくかな」
    ご飯どうしよ、と腕を組んで考え込むそぶりを見せる彼女の鼻先はわずかに上気して赤くなっている。寒いのだろう。いくら家が隣とはいえここで貼り紙を読んで、さらに立ち話までしていては体も冷えるに違いない。ここでじゃあさようなら、と回れ右ができるほど笠田は非情ではなく、それなりに少女のことを心配せざるを得なかった。何か奢ってあげようか、と動きそうにないカケルに声かければ、途端にその人形のような貌に色が灯る。いいの、と遠慮を全く感じさせない返事は彼女の愛嬌と言えるだろう。
    「一応優一君に連絡するんだよ」
    「任せて。送っとくから、メッセ」
    褒めてくれと言わんばかりの顔つきでスマートフォンを取り出し、文字を打ち込み始める。やばいよね、兄貴、スタンプめっちゃ可愛いんだよ。指さされた画面を覗かせてもらえば、簡素な文面の後に見覚えのある猫のキャラクターが引っ付いていた。そのアンバランスさに、優一が試行錯誤している姿が何となく投影されて、笠田は思わず笑ってしまった。そのキャラクター、気に入ってるのかな。二人してそんなことを話しながら自然と足を動かせば、気づけば見慣れた商店街へと踏み入っている。まあこの辺で食事を取るならここだよな、と辺りを何気なく見渡すと、カケルが不意に「チキン。チキン食べたいかも」と声をあげた。優しそうな老紳士が微笑んでいるそこは、笠田もよくお世話になる店だ。焼き肉だとかを提案されたらどうしようと内心戦々恐々としていた笠田には、大変ありがたい申し出である。請われるままに店内に入ると、昼時なだけあってさすがに賑わいを見せていた。先に二人分席を取って、レジスターの列の最後方に並んだ。学生らしく日頃よく来るからか食べるものはある程度決まっているらしく、笠田も特に考える必要がないので、二人してメニューも見ずに駄弁って待つ。
    「二十四、二十五日の予約はお早めに、だって」
    「え。……ああそうか。クリスマスに売れるからか、チキンは」
    「そーそー。笠田さんは食べないの、チキン」
    「たこ焼きするからね。一緒に食べるようなものでもないし」
    いいじゃん、たこ焼き。そう言ってくるくると何かを回すようなジェスチャーをする。たこ焼きを作る動き、のつもりなのだろうか。そんなんじゃないだろう、と笑うとカケルも可笑しそうに「だってやったことないから、イメージ」と手をひらひらさせた。カケルちゃんは、クリスマスは家で? そう何気なく繋ぎのつもりで尋ねると、カケルはううん、と軽く首を横に振って答える。あ、いや朝と夜は家いるけど。当たり前のことを注釈してから話してくれたそれによることには、どうやら毎年友人宅に御呼ばれしているらしい。そこで夕食時まで一緒してから、家に帰って兄とまたささやかなお祝いをする。食事抜きの、プレゼントの交換。なんとも可愛らしい話である。優一が雑貨屋で真剣に悩んでいた理由が、笠田にも理解できた。
    「優一君、気持ち悪がられてたらどうしようって怯えてたよ」
    「えっなんで? 気持ち悪がる理由ないじゃん。普通に嬉しいけど」
    「言ってあげなよ、優一君に」
    「えー、なんでわかんないんだろ。……これもほら、去年貰ったやつだよ」
    大事にしてるんだけど、と店内に入るときに外していたマフラーを抱え直して、複雑そうな顔をする。その柄は、笠田にもかなり見覚えがあり、去年から冬場にはつけて出歩いていたことが伺える。彼女が言う通り、大事にしているのだろう。せっかく喜んでもらえているのに、その好意を上手く受容できないというのは優一だけでなく、カケルにも切なさを齎してしまっている。あの卑屈さはやっぱり問題だな、と笠田は再認識した。
    「ちゃんとアピールしないとダメだね。私、伝わりにくいし」
    「まあ露骨すぎるのも変だし、難しいよね」
    僕もそういうのは少し苦手だ、と渋い顔をして見せた。カケルはただ「ね」とだけ返すと、それから少し黙ってしまった。別に機嫌を損ねたわけではないのだろう。本当に他意のない思考癖なのだ。こういうところが誤解されやすい原因なのだろうな、とは思わないでもないが、かといってそれを指摘してしまうのもなんだか違う気がする。自然体でいてほしいのである。しばらくフリーズするカケルを忘れて笠田もぼんやりしていると、気づけば目前に合った人の列は消え、レジスターが目の前にあった。カケルちゃん、何にする。そう揺り戻すように声がければ、はっと正気を取り戻したのかその豪奢な作りの瞳を丸くして、えっと、と若干たどたどしく店員に注文を話し始める。その後を笠田が引き継いで会計も済ませると、カケルが「ごちそうになります」と手を合わせて軽く拝むようなポーズを取っていた。大袈裟である。
    「何考えてたんだい」
    「あー、いや。私からのプレゼントどうしよかなって。……あと」
    パパが返ってくるから、早めに帰んないとなーって。トレーを覗き込みながらそんなことを言う。パパ。そう鸚鵡返ししてしまったのは、笠田にとってあまりにも無縁な単語だからである。女の子は父親のことをパパというのが一般的なのだろうか。遠い常識に半ば関心するような気持ちになりながら、笠田はよかったじゃないか、と笑う。お父さん、久しぶりに会えるんだろう。白々しくならないようにゆっくりと言葉を吐く笠田に、カケルは「まあね」と呟いた。席に座りながら行われる逡巡するような瞳の動きはやがて止んで、ストローに口づける動きに全てを持っていかれる。彼女らの父親というのは、どんな人なのだろう。笠田はそれがかなり気になったが、自身のコンプレックスを徒に刺激する恐怖に負けて、ついぞ尋ねることはできなかった。


    美味しい食事というのは、多分存在しないのだと思う。万人にとって等しく美味しい食事だなんてものは存在せず、おそらくそれは最大公約数的最適解に過ぎないのではないか。美味しいというのは、あくまで感情なのである。同じ時間を体験していても、感じ方は人の数だけあるように、舌に触れたそれは脳の手を加えられて、個人の感覚として還元される。テストで満点を取ることは、多くの人間にとって良いことたり得るから「嬉しいこと」と扱われるだけでそれは所詮一般論に過ぎないように、美味しいものもまた、単純化、画一化できるものではないのだ。それなのに人は、美味しいということをまるで甘いや辛いと同じような物差しで見る。食育はそこの擦り合わせの作業だ。刷り込みと言ってもいい。親が美味しいと言ったものを子は、ははあこれを美味しいと言うのかと思い、そしてその感覚を身に着けていく。自分が何故それを美味しいと感じられているかだなんて、完璧に言葉にして説明できる人間を探すほうが難しいだろう。それでも多少の個人差はあれど美味しいものという形容がまかり通る以上、この啓蒙は成功していると言わざるを得ないのだ。しかしそんな教育は、適応できない人間には優しくない。あぶれる人間。それが必ずどこかで出てくる。それは前提となる教えを授かれない人間か、あるいはそもそも適応できない人間か。笠田がそのどちらにあたるかは自明だった。家庭の在り様というのは存外、味覚に密接に関わっている。そこで生まれた歪みを矯正しようと思えば、まず家庭の歪みを直したうえで再構築をするか、もしくはそれに代わる新たなコミュニティで一からそれを学ぶしかない、のかもしれない。そういう点では、笠田は機会に恵まれているのだろう。上手くできた球体を頬張りながら、密かにそんなことを考えていた。これは多分、美味しいものにあたる。
    「笠田ー、粉ってもうない?」
    「その袋が空になってるならもうないね。一袋しか買ってないから」
    「えっまじで!? 俺全然足りひんねんけど」
    小麦粉だけじゃできひんかな、と勝手に本川が冷蔵庫を漁り始める。当然そんなところを探し回ってもたこ焼き粉など出てくるわけもなく、ただ呆れ顔の家主を引きつけただけに過ぎなかった。人んちの冷蔵庫を好き勝手しないでくれるかい。眉間に皺を寄せながら背後に立ってくる坂井に驚いたのか、本川は「うわっ」と跳ねあがって後ずさる。拍子に冷蔵庫にぶつかったのか、豆腐のパックが頭上から振ってきてもう散々だった。
    「もー……お金出したげるからもう一袋買ってきなよ。千円あれば足りるだろう」
    「うわっ坂井さんあざっす! お釣りでアイス買ってもええすか」
    「もう少し遠慮というものを知りなさい」
    苦言を呈しながら財布からお札を一枚取り出すと、坂井はそれを本川ではなく笠田へと手渡した。君が一番マシだから君が買い物に行くんだと言付けられたそれには有無を言わさぬ圧力があって、笠田は咄嗟に頷く。こういう時に真面目な振りは損だなと思いつつ、変なことを考えながら食事を続けるよりは一度外の空気を吸っておく方がいいような、そんな気もしてくる。外套に袖を通す面倒くささすら超えてしまえば、後はクリスマス特有の街の雰囲気に浮かれるばかりだった。行く人皆、大きな箱やらビニール袋やらを下げている。ケーキやチキンを彼らもまた家に運んで、誰かと囲むのだろう。そう言った特別は味に関わらず、美味しい、になるのだろうか。だとすれば、人は食に関する喜びをただ、別個に形容しているだけなのかもしれない。食べているものがどれだけ質素であろうとも、好ましい人間と共に囲めばそれは美味しくなる。なら、何も感じられない笠田は。
    (……こんなことは考えるべきではない)
    寒気の中激しくかぶりを振ると、冷気がさらに首元に纏わりついて熱を奪っていく。改めて感じる寒さに嫌悪というより寂しさを感じてしまって、笠田は早く用事を済ませることに専念する。いち早くスーパーへと着くべく足を動かした勢いのまま、商品を手に取ってレジを済ませて、それでもなお何かに追い立てられるような気持ちは変わらない。そんな早送りされていく視界の中でふと、何かが引っ掛かって減速していく。それを理解するより先に、その何かが小さく笠田の名を呼んだ。
    「……かさださん」
    自分の口に振り回されている。そう言わんばかりに急いで口元を抑えたってもう遅い。その声は確かに届いてしまった。振り返って見てしまった。温度のない顔を。穴を、埋めてほしいと思う心を。
    「優一君」
    肺に入り込んだ空気と共に吐き出す。途端に彼はくしゃりと顔を歪めて、泣き出しそうな顔をした。それだけで笠田は何を言っていいかわからなくなる。何が正しいのか、わからなくなる。迷った末、黙っていることが何よりも苦しくなって吐き出した言葉は、何とも意味のないものだった。
    「……寒いね」
    俯いたままに小さく首が縦に振られる。その耳は確かに赤くなってしまっていて、見るからに痛そうだ。よく見ればその服装もおおよそこの気温にはふさわしいと言えないもので、何も手にしていないことを鑑みても、彼が計画的に外出していないのは明らかだった。笠田は周囲をわざとらしく見渡して、何してるのと尋ねる。また沈黙が冷えた空気を揺らした。諾々と飲み込んでいる。その薄い体いっぱいに、空虚を飲み込んでしまっているのだ。笠田はどうすることもできなくなって、己の首筋に触れる。熱を持っているそこは確かに脈打っていて、少しだけ落ち着きを取り戻せそうな気がした。
    「ああその……風邪、ひくから」
    とりあえずついておいでよ。無理やりに一致させた目的地の提案に優一は肯定することも否定することもしない。冷え切っているであろう体にマフラーを巻いてやってその手を掴めば、血など通っていないように錯覚するほどの冷たさが伝わってきた。虚ろな顔をして後に続く優一が、笠田はとても怖い。怖くとも、この手を離してはいけないのだと思った。


    雪崩れ込むようにして扉を開いた先に真っ先にやってきたのは、矢野のにこやかな笑顔だった。
    「戻ったよ。……その、風呂、借りていいかい」
    「えっなん……わあ。先生!」
    笠田君が人間拾ってきたんすけどぉ。矢野はそう部屋の奥へと声をかける。茶化している風ではあったが、異常を察して勝手が利く家主を真っ先に呼んでくれたのだろう。君じゃないんだから、とぱたぱたスリッパを鳴らしながら飛んでくる坂井は、遠くから見慣れぬ人影を認めた瞬間その速度を上げる。暢気なのか演技なのか意気揚々と優一に挨拶をかます矢野よりもずっと、坂井のほうが近くにいるような気がした。
    「ちょっとちょっと、何。どこの……いや、とりあえず先にシャワー浴びて。お風呂すぐ沸かすから」
    「すみません、いきなり。ほら優一君、あの人についていって」
    「笠田君も腐っても矢野君の友達だと言うことがよく分かったよ」
    「よかったっすね、笠田さん。俺の友達認定されて」
    ぽんと肩に腕を回して体重をかけてくる。それをうんざりしながら跳ねのけると、矢野一人分の重みと共に、無駄に入っていた力も抜けたような気がした。はあ、と一つ息をついて「悪いね」と口にする。せっかくの集まりをかき回してしまって。今になって己の突発的な行動によって起こる影響に思い当っては自己嫌悪に陥っていく笠田に、矢野はその整った瞳をぱちくりと瞬かせて変な顔になる。別に、ゲストが一人増えただけだしいいんじゃない。数秒かかった割には適当な回答だ。それでも笠田は、なんだかそう言ってもらえるのがひどく嬉しくて、外で冷えた体中に熱がぶり返して行くような感覚を覚える。ありがとう。改めて口にする恥ずかしさよりも感情の昂ぶりが勝って、思わずそんなことまで口走ってしまった。それに対して矢野もまたどういたしましてでもなく、ただ変な笠田君、といつも通り笑っていた。
    「まあそもそも迷惑こうむんの先生だし。その分には俺は全然」
    「何が全然だまったく」
    いつまでも玄関で話していないで、早く上がって説明しなさい。ぽすんと手にしていたバスタオルで矢野に襲い掛かりながら、坂井が戻ってくる。その眼が移しているのは露骨な心配だ。何かまた変なことに巻き込まれたのではないかと、そう不安に思っている目。そりゃあ彼と何年も一緒に生活していたらそういう風になるよな、と笠田は思わずにはいられなかった。坂井は絶対的に面倒見のいい男なのだ。だから矢野のような心配の尽きない男とは相性がいいとも言えるし悪いともいえる。そのどちらにつかずとも、特別にはまる何かはあるのだろう。それが矢野の穴を埋めていればいいと、笠田はひそかにずっと思っていた。自分の先を行ってリビングの扉を開く二つの背中を見つめながら、そんなことを考える。
    「お、おかえり笠田。お疲れさん。人間攫ってきたんやって?」
    「違いますよ本川さん。唆してきたんですって」
    「どっちも違うしそんなに僕を犯罪者にしたいのか君たちは」
    ずっと抱えていた袋を炬燵に入っている本川に渡して、ついでに平山の手元を確認する。二十個作れるタコ焼き機は、彼が座っている側の数個分だけ見事にぐちゃぐちゃになっていて見た目が悪い。平山にやらせたのか、と言外に訴える笠田に、矢野は「一回やっぱ見ときたくないすか? これ」と邪悪な動機を語った。食べれるのか、と心配になってピックを借りて刺してみる。ずぶ、とあからさまに蛸が出て行ってしまったであろう無抵抗の感覚がして固まった瞬間、今から坂井さんがリカバリするからと本川はひらひら手を振って笑った。
    「いやあ、できると思ったんですけどね」
    「毎年言ってるだろう平山君は……ほら、僕がやるから席代わって。それで今のうちに笠田君は顛末をきちんと話して」
    はあいと緩く返事をして立ち上がると、平山は坂井に席を譲る。それからきょろきょろと辺りを見渡して炬燵にはもう空きが無いことを悟ると、別に備え付けられた机のほうへと移動して座った。笠田もその流れで向かいへと座る。顛末と言われても、と苦心しながら語った自分の行動はやはりというか無茶苦茶で、笠田は飛んでくるヤジは交わすこともせずにただただ受け入れるつもりだった。しかし、まあお前はそうするだろうな、という顔を全員がしていて、文句というよりかは笠田のその行動に呆れていると言ったほうが正しそうな様相にしかならない。滞った空気を断ち切るように切り込まれた「そんで結局優一君は何で外おったん」という疑問には誰も答えられなかった。
    「わからないけれど……話したいなら自分から話すだろうし、とりあえずは触れない方がいいんじゃない」
    坂井がくるくると器用に崩れてしまった残骸をたこ焼きへ戻しながら言う。
    「そっすね。変に詮索されてもしんどいだけだろうし」
    「じゃあそういう方向性で行くってことで」
    それに炬燵組が同意して、話は一区切りを迎えた。笠田はふと真正面に座る平山の顔を見る。彼もまた、何かを伺うように笠田を見ていた。なに、とその机上にだけ通用する声色で問いかける。平山は言葉を選ぶようにして宙を一瞬見てから、ぱちりと目を閉じて口を開いた。
    「貴方の役目ですよ」
    あの子も、当たり前ですけど我々じゃダメなんですから。その言葉に笠田はどういう意味か問いかけて、すぐに口をつぐんだ。ガチャリと扉が開く音がしたのだ。丈はあっているのにどうにも布が余って見える着方をしている体が目に入って、思わず目を逸らす。あ、俺の服勝手に貸しましたね先生。どこまでも自分のペースの矢野がそんなことを呟くのが嫌に良く響いた。優一君、こっち座りなよ。とりあえず自分の隣を指さしてパスを投げてやると、優一は既に自分を取り戻していたのか「あっはい」と常の平均よりやや高い声で返事をしてそこへ収まる。お噂はかねがね、と軽い会釈をする平山に動揺したのか、いえこちらこそとよくわからない返事をしている姿はどう見たって平静の彼だった。
    「君があれっすよね。あの、件の男子高校生」
    「いや、違いますよ矢野さん。高校生なのは女子ですって」
    「え、この子があれなん? あの笠田の性癖の……」
    「えっえっ……えっ!?」
    「間違っても本気にしないでくれ」
    おどおどとしながら笠田の顔と勝手に進んでいく話とを交互に確認する優一に、笠田はわざとらしく首を横に振る。それを若干不思議そうに見つめながらも、とりあえず自己紹介をするべきだと悟ったのか、あの、と緩く手をあげて発言の許可を求めた。その瞬間この空間の主導権が優一に移行する。坂井だけが変わらず黙々とたこ焼きを焼いていた。
    「僕は、笹井優一と言います。その、いきなりお邪魔してしまってすみません。服も……お借りしてしまって」
    だぼつくパーカーの裾を摘まみ上げ、確認するように矢野のことを伺う姿に、矢野は「いいでしょその服」と笑う。
    「いくら汚してもいいっすよ、先生が何とかするから。あ、俺は矢野葵と言います」
    「平山です」
    「俺、本川」
    それぞれ雑に手をあげていくのを、優一は必死に確認している。矢野さん、平山さん、本川さん。律義に復唱する姿に、やや誇張しすぎな拍手が起こった。戸惑う優一に、笠田は安心させるように優しく語り掛ける。まあそういうことだから、とりあえずゆっくりしていきなよ。躊躇いがちに視線を揺らしながら、それでもしっかりと頷く青年に、心配せずとも他の友人たちは興味津々なようだった。
    「優一君たこ焼き好き? 焼く?」
    「へっ!? いやぁその、僕ぁ先ほどご飯を食べたのでちょっと……」
    「焼くだけ焼いてみたらどうだい。食べる人間はいっぱいいるから」
    「じゃあ俺食べる担当で」
    「あ、ずるいですよ矢野さん」
    躊躇する暇すらなく、あれよあれよと優一と炬燵を囲むお膳立てがなされていく。お皿多くて邪魔ですね、ちょっと洗いましょうか。おいちょっと待て平山一人はあかんって。俺が見張りの役目っすか、仕方ないなぁ。そう言って平山と矢野が皿を持って厨房へと消えて、炬燵にスペースが空いた。そこに優一の足を押し込むと、笠田はその隣に陣取ってピックを握らせる。タコ焼き機には今ちょうど液が広げられたところらしかった。本川と坂井はたこ焼きを咀嚼しながらクイズ番組を真剣な顔をしてみている。妙に緊張しているらしく肩肘張っている優一に、笠田は大丈夫だよ、と笑った。
    「失敗しても僕が食べるし」
    我ながらおかしな自虐だ、と笠田は少しだけ自分に呆れる。一瞬変な顔をして、それからすぐに意味を理解したのか微妙な顔をする優一は、やはりというか平静よりか取り繕えていないようだった。それは突然見知らぬ場所に連れてこられて見慣れぬ人間に囲まれているから、だけではないのだろう。何があったんだろうな、と笠田はその若干擦られた後がいまだ残っている目元を見つめて思った。
    「表面が焼けて固まってきたら、刺してこう、くるって」
    「く、くるって、ですか」
    「そうそう。まあやってみたらわかるよ」
    今はせめて、ただ楽しんでほしいと思う。いつも一人で食事をしている彼が、せめて食卓の楽しさの末端でも味わえればいいと。一つ試しに回してみた優一が「おお」と歓声をあげる。炬燵と喜びとで上気する頬は赤く、笠田は温かそうなそれにひどく安堵を覚えた。


    「うわ」
    「いけないんだ、煙草なんて吸って」
    「えっばれるかな。換気扇回しとんねんけど」
    坂井さん煙草に厳しいからなぁ、とそれでも一切消すつもりは見えない煙を燻らせながら、本川は笠田を見て片眉を上げる。そろそろお開きという時間が近づく中、ばたつかないように取り合えず洗い物を済ませてしまおうと一人出向いた厨房の中でのことである。換気扇の下とはいえ、狭いキッチンの中だ。どうしたって匂いは多少残るだろう。普通に気づくんじゃない、とシンクに汚れた皿を置いて腕まくりをする笠田に、いそいそと近寄ってきては小箱の中身を見せる。お前も吸う、と尋ねるのは共犯にしたいからだろう。断るべく笠田はその腕を軽く跳ねのけるジェスチャーをしてみせた。
    「そういうのは、その……不味いんだろう」
    「いやいや、そんなん吸うてみなわからんやん」
    確かにそうだろうと思う。笠田だって本気でそんなことは思っていなかった。美味いもわからないのに不味いなんてない。結局これも一般論にすぎないのだ。結局のところ、笠田が煙草を拒む理由はただ、何となくでしかないのである。何となく、真っ当っぽくないから嫌っているだけなのだ。でもそんなことは言えない。言いたくない。だから言わない。当惑して黙ってしまった笠田に、本川は吹っ切れたように笑って「まあ俺も不味い思うねんけどな」と呟いた。
    「じゃあ何で吸ってるんだよ」
    「こういうのってさあ、美味しい不味いとちゃうやん。飯と一緒」
    「……一緒?」
    一緒ではないように思う。笠田が怪訝な顔をしていると、彼はまあ聞けや、と一度煙を含みなおして吐いた。喫煙時特有の匂いがする。この匂いの元がニコチンなのかタールなのか、それとも植物としてのタバコそのものの香りなのか、それすら笠田には判別がつかない。よく知らないのだ。何を楽しむためのものなのかも、美味いとか不味いとかそういう次元のものなのかも、知らない。本当は、食事もそうなのかもしれない。
    「煙草も飯も変わらんよ。どっちも娯楽」
    「食事は、そうじゃないだろう。生きていくための……」
    「生きていけたらええって思うんやったら何も美味いとか感じる必要なんかないやろ。むしろ感じん方が都合ええぐらいや」
    「そう、かな」
    「そうやろ。なんでも食えた方が生き残りやすいに決まってる。まあ勿論毒とかに気づくために不味いと感じるっていうのもあるんやろうけど」
    それにしたって美味い、はいらんと思わんか。いつになく饒舌になっている本川が、笠田はほんの少しだけ恐ろしかった。実際畜生は多分美味いも不味いも思わんと飯食うとる思うで。そう語られる言葉に、微妙な気持ちになる。なら、笠田はきっと畜生と同等か、それ以下だ。
    「美味しいっちゅうんは、無茶苦茶な感覚やと思うよ。味覚はまあ、それこそさっきみたいに食えるもん判別するために使ったんやろうけど。生物としての人間には必要ないやん、美味しさって」
    「……随分と跳躍するじゃないか」
    「まあ黙って聞けや。飯食って寝て生殖する。これっていわゆる三大欲求やん。畜生にも備わっとる機能や。何かから命を奪って、一時的に個を存続して、そして命を生んで種を存続させる。これが生物」
    「身も蓋もない言い方だけれど、そうだね」
    「食事は生命活動の根幹の行為や。でも人間はそれ以外の……別の理由をつけてしまった。生命を存続することじゃなくて、食事をすることそのものに楽しみを見出した。それが美味しいという感情なんやないか」
    そしてそれは、生命活動すら楽しもうとするという、ある種神への叛逆なんとちゃうか。熱に浮かされた瞳で本川はそこまで捲し立て上げて……そして途端にその色を落ち着かせた。いや、俺かて迷走してる自覚はあるねん。そもそも俺理系とちゃうから生物学とかよくわからん。わしわしとその頭を掻いて、居心地悪そうに視線を彷徨わせる本川は、笠田の知るいつもの本川である。なんとか発作は収まったようだ。彼はいつも、思考に耽りきると暴走して、こうして熱弁してしまう悪癖がある。大抵好きに話させておけばそのうち正気に戻るのだが、如何せん話題が悪かった。冷え切った心臓を激励するように胸元を抑えると、とくとくと脈打ったそれが手先まで温めていくようだった。改めて皿洗いに着手するために蛇口を捻ると、さーっという音が響き渡る。少しだけ声を大きくして、笠田と本川は話を続けた。
    「かなりスピリチュアルな結論に帰結したようだったけど、まあ話としては面白かったよ。何に着想を受けたんだい今度は」
    「いや、えー、なんやろ。あ、そうそう。俺さぁ蛸嫌いやねん」
    「へえタコが……えっ蛸」
    「そう、タコ焼きの蛸。八本足があるあれ」
    ついさっきまで平気な顔をして食べていたじゃないか。そう思わずツッコむと、本川は平然とした顔で「まあ食えんわけじゃないからなー」と言うばかりである。なんだそれは、と眉間に皺を寄せる笠田に、本川はまあまあと煙草の火を消すと隣でスポンジを握った。手伝ってくれるつもりらしい。
    「俺さ、蛸嫌いやねんけど、たこ焼きやんのは好きやねん。それってなんでかなぁと思ってさ」
    「まあ場の楽しさが味に勝つんだろう」
    「まあそう……っていうか、多分味ってほんま、大して関係ないんやと思うねんな、俺」
    「……どういう意味?」
    「結局美味しい、ってさっき言ったけど娯楽やろ。楽しいと変わらんねん。だからそれ以上に強烈な楽しさとか悲しみとかあったらそれが薄れる。母親の葬式でテトリスやったってなんも楽しないやろ」
    それは大層不謹慎な例えではあるが、先ほど笠田が優一と出会う前に考えていたことに近い。何か気にかかることがあった時、食事の味がしないと形容したりするのは、その延長線上の話なのだろう。本川はきっと、蛸の不快感以上にこういう場が楽しいのだ。だから、自分からこぞってたこ焼きを提案するし参加する。笠田だって似たようなものだ。ロジックがわかってしまいさえすれば、ひどく単純なことだった。
    「だからきっと、飯食うのに味を楽しみにするっていうのも手やけどさ。代わりになるもんがあるんやったらそれでもええんやと思うねん。不味いもん食ってみんなで不味いって盛り上がれたら、それはもう美味しかったんと同じようなもんやろ」
    「そう、かな」
    「そうやよ、きっと。だから俺が言いたいのは……大丈夫とちゃうか、って」
    お前も優一君も、蛸が嫌いなんかネギが嫌いなんか紅ショウガが嫌いなんか知らんけどさ。何気ないように落とされたその言葉に、笠田はこの不器用な友人がひそかに心配してくれていたことを悟った。平山の言う通りばれていたのだ、しっかりと。もう笑うしかない。不意に笑い声をあげる笠田に、本川は落ち着かなさが頂点に達したのか、なんやねんと怒る。なんでもないよ、と誤魔化すのも難しくて、笠田は笑い声の合間に「いや」と言っただけだった。最後の一枚を洗い終えて、笠田は手についた泡を落とすと蛇口を捻って止める。優一君は、何が嫌いなんだろうね。息をつくと同時に呟かれたそれは、左隣の友人に聞くと言うよりかは、自分の心中を振り返るような意味合いの言葉だった。
    「さあ……そもそも俺は今日会ったばっかりやし」
    「そうだね。僕もまだ、出会ってすぐだから」
    「でも多分、お前のほうがわかるよ。あの子、よう似とるから、お前に」
    「……どうだろう」
    曖昧に笑ってしまう笠田に、本川は複雑そうな顔をして溜息をついた。まあ知らんけど。関西人お得意のそれを言われてしまっては、もう太刀打ちできない。ずるいなあそれ、と文句を言う笠田にもただ、人間なんてみんなずるいよ、とにっとするだけだった。時計はもうここに来たときから長針が何周もしている。そろそろ帰らないと泊りコースになってしまう、と二人して時計を見てひと騒ぎした。優一は帰れるだろうか、あの家に。……あの寂しいリビングに。そんな弱音を吐けば、本川に呆れたように「お前んち布団もう一組ぐらいないんか」と背中を一発叩かれた。


    矢野と坂井に見送られて外に出て、寮に帰る二人とも手を振れば、あっと言う間に二人に逆戻りだ。同じ空間にいたのになんだか随分と久しぶりに話す気がするのは、優一が他の面子に良く構われていた証拠だろう。楽しかったかい、と同じ歩調で進みながら尋ねれば、彼は噛みしめるようにして「はい」と頷いた。
    「久しぶりにあれだけの人と話しました。大人数だと一緒にテレビ見るだけでも楽しいもんですねぇ」
    あ、もちろん翔ちゃんとみるのも楽しいんですけどね、と心配されるのを厭って先手を取る優一に、笠田は苦笑した。ちゃんとわかっている。そんなことはカケルの懐きようを見ていればわかることだった。きちんと仲がいいのだろう。ほんの少しの遠慮が、距離を浮きだたせて見えるだけで。笠田が本当に心配なのは、もう一人のほう。
    「今日、お父さん帰ってきてるんだって?」
    「えっ。……ああ、翔ちゃんから聞きました? そうですよ、今年はちょっと早めに帰ってきてくれたんです」
    露骨に表情が一瞬曇った。笠田も父親の話をされたら同じような反応をしてしまうのかもしれない。必死に口角をあげて平静を保とうとしている優一に、笠田は確認するように尋ねる。
    「帰りたく、ない?」
    「……」
    はた、と足音が止んだ。その貌はどこを見つめるでもなくただ下へと向けられていて、さらさらとした黒髪がわずかに揺れている。伺える横顔から唇が強く引き結ばれているのが見えた。答えられないのだろう。否定すれば家に帰らなければならない。肯定すれば、その理由を話せばならなくなる。どちらも選べないから、優一はそこで留まるしかないのだ。十二月の夜は冷える。動かなければ寒さは蓄積するばかりだ。せっかく温まったのに、それではいけない。笠田は彼の前に回り込んでしゃがみこむ。そしてその瞳を見上げて笑った。まるで、星みたいに輝いている。
    「僕の部屋、物がないからスペースはあるんだ。布団は多分借りられるからさ」
    「……どう、して」
    「帰りたくないんだろう。そんなときくらい誰にでもあるよ」
    それに僕も、あれだけ皆といたから一人になるのはちょっと寂しいんだ。だから、来てくれたら嬉しい。収まりが悪そうにしている優一の手を捕まえて、ほんの少しだけの力で引く。それだけで簡単に彼の体は頽れて、笠田のほうへと倒れ込んできた。軽くて、それでいてずっと重みのあるそれにそっと腕を回す。小刻みに震えているのはきっと寒さのせいじゃない。彼の顔は電灯のささやかな灯りだけでもわかるほどに赤く、なにより笠田のコートの上から伝わってくるほどにその体は温かかった。生きているのだ。下手くそに。人間の六割を構成するそれをぽろぽろと零しながら、優一は笠田の肩口に額を押し付けていた。
    「大丈夫、大丈夫だよ」
    必死に不格好な呼吸を繰り返しながら、優一は泣いていた。感情が昂るたびに泣きそうな顔をするくせに、実際の泣き顔は見せてくれないのかと、彼の後頭部を見ながらどこか俯瞰した自分が考えていた。必死に嗚咽を抑えようと口元を押さえつける動作に心配になって、ぽんぽんとその背を叩く。ごめ、ごめんなさい。しゃくりあげる合間合間に必死に伝えようとする言葉は、笠田が欲しいものではなかった。
    「泣いてていいから」
    そう口にして、ふと母の顔が脳裏によぎった。ずっと、こう言ってあげたかったのだ。流産をしてショックを受けた母は、それでも決して笠田の前で泣かなかった。おそらく父の前では余計にそうだった。本当は、泣きたかったに違いないのに。だから母は最後まで一人で抱え込んで、その結果壊れてしまった。あの虚ろな目をして窓を見つめながら薄い腹を擦る姿は、笠田にとって後悔の象徴だった。空虚が怖いのは、また壊れてしまうのを見るのが怖いからでしかなかった。
    「泣いてくれるくらいで、いいんだ」
    平気な顔なんてされるより、情けなくとも泣いてくれた方がいいに決まっている。寒空の下、道路の真ん中で膝をついて泣いているのは、まるで現実味がなかったけれど、どうか本当であってほしかった。優一が泣ける場所がちゃんとあって、よかったと思った。


    「話半分に、聞いてくださいね」
    笠田の部屋の畳の上で、優一はじっと身を守るように膝を抱え込んで、ぽつりぽつりと語り始めた。ココアを入れてきたときにおかみさんがくれた菓子盆をちゃぶ台の上に置いて、それからすぐに後悔する。そういえば優一は食べられないのだった。バツの悪そうな顔をして、せめて自分だけでもと食べようとする笠田に、優一は苦笑する。個包装のやつ、後で持って帰らしてもらってもいいですか。その言葉に安堵して、優一は自分用にいれたお茶を持ち直した。自分が食べても勿体ないだけである。
    「……僕の両親は、翔ちゃんが小学校はいる前くらいに離婚したんです。今の家を父がそのまま使って、母は出て行くって形になって」
    原因はよく知らないんですけど、きっと立ち行かなくなったんでしょうね。そう言って優一は痛ましくも笑った。家庭が立ち行かなくなる理由だなんて、世の中にはごまんと転がっている。笠田の家だって、それを拾ってしまったうちの一つなのだろう。元々他人の寄せ集めだ。そこに目を瞑って、どれだけ騙し騙しやれるかなのだ、家族というのは。それが限界に達した時に、家庭は機能不全に陥ってしまう。他人事のようには思えなかった。
    「そして翔ちゃんは父に、僕は……僕は、母さんに引き取られた」
    「え。……いや、すまない。少し驚いてしまって」
    「あはは、わかりますよ。今あの家にいるんだから父に引き取られたって思いますよね」
    優一の言うことには、彼の母親は優一だけは絶対に引き取ると言って聞かなかったそうだ。逆にカケルには興味も示さなかったのだと言う。それはなんというか、笠田にはひどく不気味な言い分に思えた。多分、母さんは父の代わりにしたかったんですよ、僕を。自嘲気味に呟かれる優一の見解は、到底自分の親に抱くべき推測ではない。
    「母さんはそんなことになっても父が好きでした。父しかいなかったんです、あの人には。僕ぁ祖父母の顔すら知りませんから……絶縁でもしたんじゃないかな。そうまでして結婚したかったんです、きっと」
    「……それなのに」
    「そう。それなのに離婚しちゃったから、母さんはもうどうしようもなくなってしまった。ダメになった人間と、父の代理品の僕とが一緒に暮らしてたんです。……まあ、わかるでしょう」
    上手くいきませんよ、そんなのは。優一はもうすっかり投げやりになっていた。カップに入れられたココアを啜って、おいしいです、と心ここにあらずな状態で感想を告げる。よかった、としか笠田は言えなかった。
    「母さんは、いつも僕と食事を取っていなかった。同じ机にいるのに、母さんは父と食事をしていた」
    「……」
    「母さんはいつも言うんです、寂しいって。僕はいつも、僕がいるよって言うんですけど、これほど虚しいこたぁありませんよ。母さんは初めから僕なんて見えちゃいないんだから」
    優一は自分の膝に顔を埋めた。くぐもった声だけがあたりに響く。ある日を境に母さんは帰ってこなくなりましたよ。その声が震えを孕んでいるのに気づいて、笠田はずりと彼の側へにじり寄った。でも、それ以上に何もしてやれなかった。その悲しみを笠田は決して理解できないからだ。理解したような気持ちになっては、いけないのだ。母さんがいなくなった日にね。そう子供が内緒話をするように少しだけ顔をもたげにこりとして優一は語った。握りしめられたスキニーの膝のあたりは、皺がひどいことになっている。
    「僕は一人でご飯を食べたんです。いつも、お弁当だったから。そしたら、当たり前なんです。当たり前だけどおんなじ味がして」
    「……優一君」
    「どうしてなんですかね。僕はその時、ああ、僕はずっと一人でご飯を食べていたんだなぁって。母さんとは一緒にいれたことなんて、なかったんだなぁって」
    「優一君……!」
    笠田はたまらなくなって優一の腕に触れる。その体制はまるで、自分自身を抱きしめているようで見ていられなかったのだ。優一は濡れた瞳で笠田を映して、切なげに笑う。アンビバレンスなそれに息が詰まりそうだった。堪えている嗚咽に合わせてただただ二の腕と肩のあたりを叩いていた。優しいですね、と笑っているがそうじゃない。それは、自分の呼吸のための行為でしかなかった。
    「怖くなったんです。誰かとご飯を食べて、それでまた、あの時と同じ味だったらどうしようって。一人の時と、変わらなかったらどうしようって」
    「……そっか」
    「父と一緒にいるのだって、そう。母さんのことを思い出して、ああこいつさえ母さんを捨てなければ、って。そんな風に思ってしまうのが、嫌で、怖くて。気づいたら、家を飛び出してて」
    「……そう、だったんだ」
    その先は笠田の知る通りなのだろう。着の身着のままに飛び出して、そこで偶然笠田に出会った。もし、自分が買い出しに出かけていなければ。もし、優一が笠田に声をかけていなければ。笠田が気づかなければ。優一は母と同じように一度壊れてしまっていたかもしれない。それを思うと笠田は腹の底がずんと重く、冷えていくような心地がした。彼の抱えるそれを知った。教えてもらった。そのうえで、自分は彼に何をしてやれるのだろう。ようやく見せてくれた彼の穴を、自分はどうやって埋めてやればいいのだろう。呼吸音としゃくりあげる声の沈痛な空気間の中、笠田はぐるぐると考えていた。優一の抱えるそれは、人前で食事を取れないことじゃない。
    (自分が一人じゃないって、信じられないんだ)
    幼いころにつけられた傷を、彼は今でもずっと抱いているのだ。治すこともできず、誰かに見せることもできず、ただじっと野生動物のように留まって痛みをやり過ごそうとしてきたのだ。笠田が度々感じていた、優一の幼さはきっと、進むことができないが故のものだった。ずっと、一人を実感するのが嫌だから、一人を選んできていた。本当は誰よりも人が好きなくせに。
    「ずっと、寂しかったんだね」
    味なんてずっとわからなかったに違いない。感じていたとしたらそれは多分、孤独の味だけだ。膨大なそれを前に、舌から伝わる感性だなんてきっと意味をなさないのだ。だから、それを取り除いてやらなくては彼はずっと、このまま。優一は笠田の言葉に、聞きたくないと言わんばかりに顔を歪めて、それから堰を切ったように泣き出した。十数年経ってようやく指摘されたそれは、あまりにも彼にとっては毒だった。もっと、早く誰かが気づくべきだったのだ。……気づいてもらえるような子どもだったら、彼はこうはならなかった。
    「僕は、ちゃんと君と一緒にいるから」
    あんまりにも大きい声で、それこそ幼子のように泣くものだから、聞こえていないのかもしれない。それでもいいと思った。聞こえていないなら、また伝えるまでだ。自分だけじゃない。カケルだっていることだし、これから彼は他人が側にいることをきちんと受け入れる、そういう練習をしなくてはならない。一緒に、ご飯を食べるためにも。あやすように彼の頭に手を回して、その髪に指を通す。彼がこの温度になれるまで、何度でもそうしてやりたいと思った。冬のしんとした寒さはもう感じない。


    「おかえり、兄貴」
    「……うん。ただいま」
    明朝だと言うのに、鍵を回した途端カケルは飛び出してきた。それからしばらく逡巡して、結局それだけを言った。優一もそれだけでいっぱいいっぱいなようだった。間を持たせるために小ぶりな袋にまとめたお菓子をカケルに手渡す。メリークリスマス、と言うと、カケルは真面目な顔で「朝帰りのサンタさんかぁ」と呟いた。優一は堪えきれなかったのか口元を手の甲で押さえて笑っている。晴れた朝にふさわしい、穏やかな時間だった。部屋着のカケルが一つくしゃみをする。
    「寒いだろうし、僕はそろそろ戻るよ。シューマイの散歩もあるし」
    「シューマイ……?」
    「犬だよ、犬。あのお隣の、めっちゃ白いやつ」
    「ああ、あのめっちゃ舐めてくる……」
    納得した様子の優一に、じゃあそういうことだからと笠田は背を向ける。完全に移動する体制に入る寸前に、カケルが持ち前の澄んだ声で「ありがと」と声を張った。そして返事も聞かずにきょとんとした顔をする優一の背を押して、扉の向こうへと引っ込んでしまう。この話はまた今度だなと、笠田はそれを見送ってから友人たちが待つ中華料理屋の前へと急ぐ。自分の姿を見とめた彼らが、大きく手を振って騒ぎ出すのが、鬱陶しくも心地よかった。
    「わー! あの後お持ち帰りっすか笠田さん!」
    「あいつ本命には意外と手早いんやな」
    「まあなんやかんやごり押しがちなとこありますからね」
    「そういうんじゃないってば」
    三対一は随分と分が悪い。これから数十分の散歩で誤解は解けるのだろうか。最も彼らだって本気で言っているわけではなく、ただ揶揄いたいだけなのだろうけれど。厄介だなあと思いながら、賢く散歩を待っている犬にリードを繋いで、小屋から出してやった。ご機嫌にこちらを見上げて期待に瞳を揺らしている姿は可愛らしい。行こうか、シューマイ。その名を呼べば、なぜだか滅多に食べないメニュー下方に陣取っている料理が急激に食べたくなった。焼売。もう一度呟くと、今度は犬は返事をしない。代わりにじわりと唾液腺が刺激されて、笠田は思わず息を呑む。
    「どしたん。カラアゲ、散歩行きたないって?」
    「いや……僕がちょっとぼうっとしてた。悪いね」
    「まあ詳しいことは今から聞きますから、さっさと行きましょうよ」
    うきうきとしている平山に促されて、笠田も急いで立ち上がる。それを合図に犬は冬の町へと駆け出した。歩きスマホはいけないことと知りながらも、笠田は少しだけとその背中を写真に撮る。高く、澄み渡った空を背景に、白い犬はよく映えた。優一にそれを送るとすぐに返信が来る。想像以上に焼売ですね。よくわからないコメントに、笠田は思わず声をあげて笑ってしまった。それに気づいた本川が、若干引きながら「……俺がリード持ったるわ」とシューマイを引き継いでくれる。早々の持ち手交代に犬は不思議そうにしながらも従順にしていた。
    『今日の昼、空いてますか?』
    ダメかもしれないけど、焼売食べたいです。そのメッセージに驚くほどにドキリとして、それから笠田は急いで返信を打ち込んだ。少しずつ進んでいく。優一の時間も、笠田の時間も。あと数日で今年も終わって、そうしたら新しい年が来る。共有できたらいいと思った。新しい年も、その次の年も。食事を通して得られる美味しさだけじゃない何かを、ずっと感じていられたらいい。笠田は立ち止まって握りしめていたスマートフォンの電源を落として、ポケットへ突っ込んだ。心地よい風が頬を撫ぜて、やがて来る時間へと先走っていった。
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    Replies from the creator

    dentyuyade

    DONE性癖交換会で書いたやつ短編のやつです。割とお気に入り。
    星になる、海に還る輝く人工色、眠らない町。人々はただただそこで足音を鳴らす。唾液を飛ばす。下品に笑う。息を、止める。その中で自分はただ、誰かの呼吸を殺して、己の時間が止まるのを待っている。勝手なものだと、誰かが笑ったような気がした。腹の底がむかむかとして、思わず担いでいたそれの腕を、ずるりと落としてしまう。ごめん、と小さく呟いていた。醜いネオンの届かない路地裏の影を、誰かが一等濃くする。月の光を浴びたその瞳が、美しく光る。猫みたいでもあり蛇みたいでもあるその虹彩の中で、自分がただ一人つまらなさそうな顔をしていた。
    「まーた死体処理か趣味悪いな」
    「あー……ないけど、趣味では」
    「いや流石にわかっとるわ」
    「あ、そう?」
    歪む。彼の光の中にいる自分の顔が、強く歪んでいる。不気味だと思った。いつだって彼の中にいる自分はあんまりにも人間なのだ。普通の顔をしているのは、気色が悪い。おかしくあるべきなのだと思う。そうでなければ他人を屠って生きている理屈が通らない。小さく息をついて、目の前のその死体を担ぎなおす。手伝ってやろうか、と何でもないように語る彼に、おねがい、と頼む声は、どうしようもなく甘い。
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    dentyuyade

    DONE息抜きの短編。百合のつもりで書いたNL風味の何か。こういう関係が好きです。
    観覧車「観覧車、乗りませんか」
    「……なんで?」
    一つ下の後輩はさも当然のようにそんなことを提案した。園芸部として水やりに勤しんでいる最中のことだ。さっぱりとした小綺麗な顔を以てして、一瞬尤もらしく聞こえるのだから恐ろしいと思う。そこそこの付き合いがある自分ですらそうなのだから、他の人間ならもっとあっさり流されてしまうのかもしれない。問い返されたことが不服なのか、若干眉をひそめる仕草をしている。理由が必要なの、と尋ねられても、そうだろうとしか言えない。
    「っていうか、俺なのもおかしいやん。友達誘えや」
    「嫌なんですか」
    「いや別にそうでもないけど」
    「じゃあいいでしょう」
    やれやれと言わんばかりにため息をつかれる。それはこちらがすべき態度であってお前がするものではない、と言ってやりたかった。燦燦と日光が照っているのを黒々とした制服が吸収していくのを感じる。ついでに沈黙も集めているらしかった。静まり返った校庭に、鳥のさえずりと、人工的に降り注ぐ雨の音が響き渡る。のどかだ、と他人事みたく思った。少女は話が終わったと言わんばかりに、すでにこちらに興味をなくしてしゃがみこんでは花弁に触れている。春が来て咲いた菜の花は、触れられてくすぐったそうにその身をよじっていた。自分のものよりもずっと小づくりな掌が、黄色の中で白く映えている。
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