道の向こうに変な人がいる。細くて長い足を組んでベンチに座り、ぼうっと海を眺めているようだ。
具合の悪そうな顔だとか、黒っぽい服を着ているところとか変なところは沢山あるけれど、何より奇妙なのは髪が燃えているところだ。その人の項の辺りまでを、ふわふわと燃える青い炎が覆っている。初めて見た、一体どんな魔法なんだろう……僕がじっと観察していたのに気が付いたのか、その人は此方を見た。気怠げだけどどこか鋭い、そんな視線だった。
「……何か用?」
地を這うような低い声だった。こちらを向いたその顔は30代ぐらいだろうか。もっと若くも見えるけれど、目の下にべったりと隈が貼りついていて草臥れた印象を受ける。何も答えないでいるのも気まずいので、僕はちょっと尋ねてみることにした。
「こんな時期に観光?」
ここは一応、観光地の部類に入る地域でもある。青い海に白い砂浜、美しいと評判の海岸だ。しかしそれは夏に限った話であり、冬真っ只中の今、空は厚い灰色の雲に閉ざされている。何とも陰気くさい印象を受けるこの時期にわざわざ来るだなんて、よっぽどの物好きに違いない。
「嫁がどうしても来たいって言うから」
青い髪の彼はそう言って薄く笑った。気味の悪い笑みだったけれど、声は先程より優しく聞こえる。きっと奥さんのことが好きなのだろう。肝心のその女性の姿は辺りに見えないけれど。
僕は何となくその人の隣に腰を下ろした。あんまり不審者がうろついていても心配だし、それより何より、もうちょっとこの人を観察してみようと思ったのだ。僕の行動にその人はぎょっとした顔を見せた後、小さく息を吐いた。
「おじさん、名前は?」
「田舎の人間って何でこうもグイグイくるの? パーソナルスペースって知ってる? まあいいけど……あと未だおじさんって歳でもないし」
辟易した顔で、小声で捲し立てる。物静かそうに見えたけれど、案外饒舌のようだ。
「じゃあ何て呼べばいい?」
「別に何でも」
素っ気ない返事に苦笑する。名前を教えてくれるつもりはないようだ。夏に観光に来る人たちはもっと気さくで優しいのに。
「仕事は? 何やってるの?」
「職質か? ……うーん、研究者ってとこかな」
「じゃあハカセだ」
僕がそう呼べば、その人は満更でもなさそうな顔をした。ついでに僕の鞄を一瞥する。
「……それ、」
「? このキーホルダーのこと?」
「マジカルデュエルのグッズだろ」
マジカルデュエルとはトレーディングカードのことだ。略称はマジデュ。世界的に愛好者がいることで有名なカードゲームで、何枚も集めてオリジナルのデッキを作るのが醍醐味の一つである。
その人はジャケットの裏ポケットを探り、何かを取り出した。そのケースには僕にも見覚えがある。あれは……。
「デッキ!?」
「何をそんなに驚いてるのさ。君も“決闘者”だろ」
「そうだけど」
僕もこのカードゲームをこよなく愛している一人である。しかしエレメンタリースクールでは大勢いたデュエル仲間も、ミドルスクールに入るころには減少の兆しを見せ始め、ハイスクール入学を半年後に控えた今はほとんどいなくなった。
僕はちょっと興奮して、ハカセに尋ねてみる。僕も鞄からデッキを取り出した。こないだ徹夜して組んだ、渾身のデッキだ。
「ハカセ、一戦交えない?」
「スタンバイ」
ハカセは即答した。先ほどまでの煮え切らない態度とは大違いだ。そのままベンチの空いた部分にフィールドを拡げ始める僕ら。ハカセのカード捌きは非常に手慣れている。これは……強い! 僕は確信した。
そのままバトルに必要なやり取り以外は無言で通していた僕らだった。けれどハカセはずいぶん腕前が良いようで、僕は苦戦させられてしまう。年の功か様々な戦法を熟知して駆使しており、とにっかく隙が無いのだ。
でも僕だって店舗大会で優勝した経験がある。このまま負けてはいられない。取り敢えず心理的な動揺を誘おうと、雑談を投げかけてみることにした。
「ハカセの奥さんって、どんな人?」
「と、突然なに……君ってデバガメとか言われたりしない?」
ハカセは「うーん」と唸り、顎の下を手で触っていた。いろいろ言いつつも話してはくれるらしい。
「普通の人間」
「ハカセが言う普通って、たぶん普通じゃなさそう」
「言えてる」
ハカセはニヤリとした。その口元からはギザギザした歯が覗いている。やっぱり普通の人間には見えないんだよなぁ。
今度は遠くを見るような目で海のほうを見るハカセ。海には暗い色の波が揺蕩っていて、時おり岩にぶつかって白い飛沫を上げている。
「彼女、違う世界から来たんだって」
「は?」
それは設定盛り過ぎでは? そう思った僕に、「分かっている」とでも言いたげに頷いている。違う世界、異世界ってことだよな。小説や漫画じゃよくあることだけど、現実にそんな人間を見たことなんてないし。
「なんか異世界転生チートとか持ってる人?」
「君みたいなガキ、嫌いじゃないよ……別に、普通の人さ」
ハカセは山からカードを一枚引き、それを見て「お」と呟いた。良いカードに当たったらしい。ちくしょう、運までハカセに味方してる。これじゃ勝ち目がないじゃんか。
そんな僕の焦りを尻目に、ハカセはどんどん饒舌になっていく。調子に乗りやすいタイプだな、これは。
「魔法も使えないし、頭もそんなに良くない。身体が頑強なわけでも、美貌だとか能力だとかをもってるわけでもない。本当に普通の女の子だったんだ」
ハカセは奥さんのことを「普通」だと強調する。しかし卑下しているわけではなくて、何故だか親しみのようなものを感じた。
「ハカセと奥さん、どこで知り合ったの?」
「学校。嫁はちょうど今の君くらいだったかな」
ずいぶん早い時期からお付き合いしてたんだなぁ。僕もハイスクールで彼女できないかなぁ。そんな期待が漏れていたのか、ハカセはあからさまにため息を吐いた。分かってないなぁ。そういう態度が見て取れた。
「当時は別に付き合ってなかったし。そもそも拙者、男子校の生徒だったし、そういう展開は無理無理の無理ゲーでしたわ」
「ふうん。ハカセ、まさに男子校出身って感じ」
「失礼か?」
「まあ、僕もそうなりそうなんだけど」
「どこ?」
「ナイトレイブンカレッジ」
入学許可証が来た時は嬉しかったけれど、よく考えてみるとNRCは全寮制の男子校である。彼女なんてできそうにもないな……そう悲観した僕に、ハカセは意味深に笑って見せる。
「ドンマイ」
「ハカセに言われるとむかつくな。ってか、男子校ってことは奥さんとどうやって知り合ったの?」
ハカセは一瞬だけ言葉に詰まった。どう説明すべきか考えあぐねているらしい。自分の結婚相手について話すときって、そんなに悩むものだろうか。もしかして、想像上の嫁だったりして。
「ま、どーせ忘れるだろうから」
そのうちそう呟いて、ハカセは語り始めた。別に、僕の記憶力に問題は無いはず。じいちゃんみたいに物忘れなんてしないよ、そう言い返したが、ハカセは「忘れるんだよ」ともう一度言っただけだった。
「拙者のいた学校に突然現れたんだ、彼女は。最初に見た時はダボダボの衣装を着てたし、その後もみすぼらしい格好をしてたから男だと思ってたんだけど」
「それがどうやって結婚まで漕ぎ着けたのさ」
「他人の話は最後まで聞きなよ。そんなんだからミドルスクールでもカノジョできないんだろ」
物言いは概ね的確だけど、一言余計なんだよなぁ。むっと唇を尖らせた僕に、ハカセは素知らぬ顔で手札を吟味している。
「在学中に色々あったけど、彼女は特段拙者のことが好きってわけじゃなかったと思う。酷いこともしちゃったし。拙者が卒業した後にはもうすっかりお別れだと思ってた」
いっきに自虐的な色を見せるハカセ。情緒不安定な人だなぁ。ここまで来て、僕はそう確信した。
「卒業した後にばったり街で出くわしたんだ。ほんと、たまに出かけた日に限ってツイてない」
「奥さんに対して辛辣じゃん」
「それくらい酷い女なんだよ」
なかなか奥さんのことを貶しているようにも聞こえるけれど、それはこのハカセの物言いのせいなんだろう。現にハカセは奥さんのことを話すたびに笑みを深めていく。
「再開したとき、彼女はすっかり「女」になってた。スカートを履いて化粧もして、髪だって長くなってて……」
「おっ、そこで一目惚れ?」
「いや拙者の好みじゃなかったし……別の男の好みだったんだよ」
「! 奥さん、元カレいたんじゃん。もしかして略奪愛?」
「笑止。拙者みたいな陰キャにそんなことができるとお思いか?」
今度は忌々しげに手札を投げつけるハカセ。怒っていても戦局は冷静だ。これは心理戦は無理っぽい。僕は正攻法で挑むことにした。
「ハカセ、顔は良いし」
「でゅ、でゅふっ、そんなわけないでござろう」
「喋り方でマイナス三千点って感じだけど」
「きみ本当に失礼な奴だな」
実際、ハカセの顔立ちは整っている。掘りの深い顔に、吹き出物一つない日焼け知らずの肌。僕はそばかすだらけの自分の鼻にそっと触れた。
「その時の彼女は泣いていて、半ば無理矢理お酒に付き合わされたんだけど」
「意外と強かだったんだ、奥さん」
「うん、昔からそれはもう強かな奴だった。オーバーブロットに遭遇してもそこまで動じてなかったし、魔獣と同居してたし」
オーバーブロットが平気で魔獣と一緒に住むとか、どんな女性なんだ。僕は頭の中でモンスターのような女性を連想していた。きっと母さんの何倍も怖いんだろう。ハカセ、そういう趣味なのかな。
「それから彼女が恋に破れるたび、ヤケ酒に付き合わされて。何度も失恋話を聞いてやった。こっちの腸が煮えくり返ってるのにも知らずにペラペラと」
「それもう恋に落ちてるじゃん、ハカセ」
「当時の僕は認めたくなかったんだ」
うんざりしたようにそう言うハカセ。その時の横顔はずいぶん年上に見えた。人生の苦楽を味わいつくしたと自称する、じいちゃんみたいだ。この人、本当にいくつなんだろうな。
まあ、次の瞬間には子どもっぽい顔に戻っていったけれど。ハカセはその細く長い指で一枚のカードをベンチに置いた。
「ほらほらぁ、次のカードはどうなさるおつもりか?」
「ウワッ! ハカセ、大人げない!」
「フッ、甘いでござる。こういうのは真剣勝負じゃないと」
五枚の手札で自らを扇ぐハカセ。北風の吹く外だって言うのに、何をやってんだ。半ば呆れて僕が睨めば、ハカセは「ふひっ」と変な笑い声を漏らす。
「で。奥さんは結局、何でハカセと結婚したわけ?」
「あー、色々あって僕のところに連れてった」
僕は暫く言葉の意味を考え込んでいたが、理解できるにつれてハカセのその笑顔が怖くなっていった。ハカセはどこまでも子どもっぽい。その分、無邪気さが過ぎて、今の僕は恐ろしさすら感じていた。
それでも唇の震えを悟られないように、僕はニッと笑ってハカセに声を掛けた。
「……奥さんに愛想尽かされないと良いね」
「君、賢いと思うよ」
けっきょく動揺させられたのは僕のほうだった。大人しく負けを認めれば、ハカセは満足げに一つ頷いた。
それぞれカードを纏めていると、向こうのほうから誰かがやって来るのが見えた。近づいてくるにつれて、それが若い女性と子ども……子ども?だということが分かる。
「お、やっと戻って来た」
「え? ってことは、あれハカセの奥さん!?」
ハカセの奥さんはどこからどう見ても普通の人間だった。背格好も服装も歩き方も、すべてが平均的。街ですれ違っても違和感を覚えないほどに。てっきり魔獣みたいな人だと思ってたから、拍子抜けしてしまった。珍しいと言えばその髪と瞳くらいで、あまり見たことのない色をしていた。
「お待たせしました……って、あれ?」
奥さんは此方を見てちょっと目を丸くした後、すぐに微笑みを浮かべた。
「イデアさん、遊んでもらってたんですか?」
「逆でしょ。僕が遊んでやってたの」
ハカセが口を尖らせても、奥さんは特に気にした素振りも見せない。きっと慣れているのだろう。このハカセを適当にあしらえる辺り、もしかしたら普通じゃないのかもしれない。てかハカセ、イデアって名前なんだ。
奥さんの傍らにはもう一人いた。身長は僕よりちょっと低いくらいで、幼い顔の周りでハカセと同じ色に髪が燃えている。そして特撮に出てくるロボットのようなスーツを着ていて、それに少しだけ地面から浮いていた。
何だろう、この服。僕がハカセのほうを向くと、したり顔で彼はその人物について紹介する。
「拙者の弟」
「へー、歳離れてるんだね」
いろいろ抜きにして僕が率直な感想を零せば、その弟はニコッと笑った。ハカセみたいに不気味な笑顔じゃない、人好きのする表情だ。
「兄さんが旅先で人と話すなんて! 兄さんと遊んでくれてありがとう!」
「あ、うん」
何となく察していたけれど、やっぱりハカセはコミュ障らしい。奥さんと弟にフォローされて、彼自身はちょっと居心地が悪そうにしている。そのうちハカセは奥さんのワンピースの袖を軽く引っ張った。奥さんはゆっくりとハカセを見上げる。二人の身長差が凄くて、僕はちょっとだけ驚いた。本当、奇妙な三人組だなぁ。
「はー。ほんとにこんなところ、何で来たがったのさ」
確かに観光シーズンでもないのに、なぜ彼女はこんなところに来ようと思ったのだろうか。それは僕もちょっと気になっていた。
奥さんは少し考えて、それからにこにこしながらハカセに答えた。
「この冬の空の写真が、故郷の空と似ていたので」
懐かしみを込めたその言葉に、流石のハカセも押し黙っていた。
さっきのハカセの話がホラじゃないとしたら、この奥さんこそ異世界人ということになる。どう見ても普通の人なんだけど……堪らず僕は彼女に問いかけた。
「ねえ、ハカセの奥さん」
「ハカセ? ああ、イデアさんのことか。確かに当たってる」
「異世界って、こっちの世界とあんまり変わんないの?」
空が赤色だとか、変な生き物が空を飛んでいるだとか、大気の組成がまるで違うだとか……もしそうだとしたら、ぜひとも話を聞いてみたい。
僕の質問に、奥さんはぎょっとしていた。すぐに我に返ってハカセに詰め寄っていく。
「ちょっと、どこまで話したんですか?」
「ヒッ、どうせ忘れるんだからいいでしょ」
奥さんのあまりの剣幕にタジタジしているハカセ。尻に敷かれてるな。奥さんはちょっと困った顔で僕の方に向き直った。珍しい色の瞳の奥には、様々な色が見え隠れしていた。
「空の色はそんなに変わらないよ」
そう言ってにこりとした奥さん。表情も声音も優しいのに、それ以上は聞かないで、そう釘を刺された気がした。
「さ、そろそろ帰りますぞ」
そろそろ暗くなる時間だ。雲に覆われた空の向こうを見て、奥さんは一つ頷いた。ハカセはどんよりとした空と海を背に、僕に別れを告げた。白くて尖った歯を見せて笑っている辺り、僕との時間はそう悪いものでもなかったらしい。
「さようなら」
じゃあね、とか簡素に挨拶を済ませそうだと思ってたのに、その別れの言葉は案外しっかりとした声をしていた。