――寝過ぎてしまった。
昨夜までおおきめの仕事をこなしていて、そりゃあもう銃弾雨あられに飛び交う怒号、掻い潜って用心棒と剣戟、しまいに大爆発。幸いにもこちらに怪我も向こうの死者もなく、お目当ての情報も手に入り、首尾は上々だった。
が、代わりに戦闘で精神が昂ってしまって、セーフハウスに戻ってなお昨夜はなかなか寝付けず、起きた時にはすっかり太陽は中空に昇り、ベッドの反対側はもぬけの殻になっていた。
まだ頭が動き切っていない。スリッパを突っ掛けてのそのそと廊下を歩いていると、
「……、……」
(……ありゃ?)
ドア越しにくすくす楽しげな笑い声が聞こえたから、モクマの足はぴたりと止まった。
くるり首を回した扉の先は……サンルームだ。冬の深いこの地で、短い昼のあわい陽をまるごと食べられるような大口あけた窓のあるこの部屋を気に入って、チェズレイは休みの日になるとよくここで本を読んでいた。だから、居ること自体に違和感はない、けれど……、
この家に、モクマのほかに話す相手はいない。となれば、
(電話かな……?)
……にしても、随分と楽しそうだけれど。
ルーク相手か、と思っていや待てよ、と否定が入る。今日は平日だし、エリントンは今明け方だ。愛息子に常日頃睡眠の大切さを説いている彼が、主義に反するようなことはしないはずだ。
……じゃあ、誰と?
(――いやいや)
頭に浮かんだ疑問を、頭を振って追い払う。チェズレイにだって、そんな相手がいたっていい。自分だって方々に知り合いがいるし、電話だってするし、ミカグラに戻ればおカンやガコンもいる。余計な詮索は不要だし、そんな権利はない。たとえ生涯を誓った相棒だって、口付けて抱き合って愛を囁く関係だって、あくまで独立した個人なのだ。そこの領分を踏み越えてはならない。彼の故郷で互いの不理解を知ったからこそ、尚。慎重に、丁寧に……、
(それに、ビジネスの話かもしれないし……)
まあ、それにしては声が明るすぎるのだけれど。ルーク相手と同じくらいに優しく、それよりもう少し丁寧で、更に愛しげな甘さが混じっている。
……だめだ、盗み聞きはよくない。足裏を無理やり剥がして、一歩を踏み出そうと……、
「ええ、そうなんです。片割れがいつもどこかへ行ってしまって。何度言っても直らないし……」
「え」
吐息じみた言葉が喉を震わせて、浮いた腿が元の場所に逆戻り。
耳に届いたのは、困ったような声だった。眉を下げた表情がありありと浮かぶ。だけどそれよりも引っかかったのは……、片割れ?
(……俺のこと?)
片割れ。対のもののもう一方。が……どこかへいってしまう? それを、相談している? え、いやいや、
(いなくなってなくない!?)
盗み聞きはよくない。わかっているけど、話題が自分となると話は別だ。しかも心当たりないし。まさかスーパーで買い物中にいなくなること!? いやそれはいいつまみがあると目移りしちゃうだけで……、最後はちゃんと合流していたし……、
(……いや、待てよ)
不意に頭を過ぎるチェズレイの声。あ、まさか、去年自分で稼いだ分は自分で処理なさい、と押し付けられた売上の計算とそれに伴う税金の処理がしんどすぎて、今年は話題を振られるたびに逃げ回っていたことの方……?
(……これじゃない!?)
見つけた心当たりに叱られる前の子どものように背が伸びる。ドアに近づいて耳をそばだてると、
「いえ、全て私一人でということはないですよ。基本は彼も協力的ですし。ご心配には及びません」
続いた言葉が穏やかな内容でほっとする。更に「彼」ということは、やはり勘違いではなく話題の中心は自分で間違いなさそうだ。
そうそう……確かに事務処理はちと苦手だけどいい加減この休みにはやろうって思ってて……、いや、今日やろう、絶対に……。
……などと拳を握って心に決めた、その時。
「えっ、うちに来たい? 私ならば溜めずに全て片づける……? フフ、なんとも魅力的なお誘いですねェ……あなたが来てくだされば百人力だ」
漏れ聞こえた朗らかな同意に、みたびモクマは廊下で固まった。
(――え!? うちって、組織に!? 百人力!? まさかこの電話の相手、税理士の先生とかだったのか!? た、確かにそりゃあ、税の扱いはうまいだろうけど……! 別に今だって基本的にはそういうのは外に任せてるじゃん! 別にわざわざ引き入れんでも……!)
たちまち想像が頭を走る。オフの日、二人きりの聖域だったセーフルームのリビングに『そいつ』が割り込んで、顔突き合わせて事務仕事をして、チェズレイがこんな、甘くほどけた声をさせ微笑む様が、そこに入れない自分の姿が、ありありと目の前に浮かんで――。
「~~、その話、待ったあ!!」
気づけば身体が動いていた。扉を勢いよく開きながら叫ぶと、
「――、」
光り輝くサンルームで、細くて長い金の髪を光に透かした美しい人がゆっくりと振り返る。
「……おや、モクマさん」
それで聞こえたのは、モクマの嵐のような内心などどこ吹く風の涼やかな声と笑み。
彼は、予想に反して読書中ではなかった。
そうではなくて、この部屋の、本来の使い方。広い部屋を横切るように渡された目の高さほどのポールに、濡れた服を纏ったハンガーがいくつも掛かっている。予期せぬ電話だったのか肩を上げて首を傾けてその間に小型の通話用タブレットを挟んで会話しながら、器用に細い指が干されたシャツのしわを伸ばしていくのを唖然と見て、一拍遅れて気づく。――ああ、溜まっていた洗濯をしてくれていたのか。
……ごめんね、他の家事は俺がやるから、とか。
そもそも電話の邪魔は、してはいけないとか。
相棒だって恋人だって、易々と侵してはならぬ一線があるとか。
わかっている。むしろ、そういうのはうまい方だと自負していた。なんせ伊達に二十年、人付き合いでいったらもっと、逃げ回っていたわけではないのだから。
それなのに。――それなのに!
無言のまま歩み寄って、手首を掴んで口を開く。
「待って、売り上げの処理、もう溜めんから! 頭使う仕事も覚えて手伝うから! だから……っ」
我ながら必死だと思う。なんとみっともない。
だけど、もう、今さらだった。去る者追わずの称号なんて、唯一、この人の前では、あの銀色の国に向かう切符を買った瞬間に、とっくに破り捨てたのだから。
「……なるほど。これからは逃げずに立ち向かうと?」
完全なマナー違反に、けれどチェズレイは怒る様子もなく、掴まれていない方の手でタブレットを耳から離して、目を見つめて問われる。
真剣な光。二人きりの世界は二人して黙るとしんと静かだ。ごくり、唾を飲む音が響く。
「う、うん」
小さく頷くと、何年見たってちっとも慣れない完璧な美貌が、その眉が……へにゃりと下がった。あれ、それはモクマのとっても弱い……。
「――洗濯物も、ですか?」
「……えっ?」
それで、哀れっぽい顔と声を湛えての、追加の質問は……、だいぶん、予想外のジャブだった。
え。は。……洗濯物? 思わず固まってしまうと、チェズレイはわざとらしいため息をこぼして、
「あなた、洗濯物溜める上に、靴下をいつも一方しかランドリーボックスに出さないではありませんか。聞けばどうやら昔からの悪癖とのこと。見かねてお母さまもこちらまで出向いて家事をしてくださるとまで言ってくださいましたよ」
すらすら続いた言葉を、なんとか咀嚼して……、
「靴下? ……おふくろ……!?」
全部が一本の線に繋がった瞬間、ぼっとモクマの顔が真っ赤に燃え上がった。
えー、つまり。電話の相手は、こちらの実母! 洗濯物干してて靴下が片方ないのに気づいての愚痴! だからこそ丁寧かつ気心知れた話し方! ていうか多分、途中から聞いてるのバレてた! 『うちに来たい? 私ならば溜めずに全て片づける?』とか、わざと聴かせる為に繰り返していたに違いない! ……どうやらいつの間にやら、すっかり手のひらの上で踊らされていたようだ。
恥ずかしいやら情けないやらで、頭がクラクラしてくる。このまま逃げ出したいところだけど、させてなるものかと目の前に差し出されたタブレットをのろのろ受け取って耳に当てて、「あ~」とみっともない鳴き声。
「……前も言ったと思うけど、俺たち世界飛び回ってるからちと来てもらうのは厳しいかもだが、ちゃんと努力するし、次そっち行ったときには俺が全部家事するから! ちゅうかチェズレイ忙しいんだから連絡はほどほどに……あ~、もうそれでいいから! 気をつけます! それじゃあね!」
「おや、お別れの挨拶すらさせていただけないのですか? ……お母さまは何と?」
何年経っても何年離れていても、母親には敵わない。終話ボタンを押してぜえはあ肩で息をしていると、いかにも楽しそうな声。ギギギと錆びついたブリキのおもちゃみたいに首を捻って、光を背負った眩しい相棒に目を細めながらうめく。
「しっかりした人と一緒になれて本当によかったわ、だけど嫉妬はほどほどにしないと重たいわよ、と、ありがたいアドバイスをいただきました……」
いいながらしおしお小さくなっていく。本当、子どもじみた嫉妬心だ。恥ずかしくて仕方ない。目の前の人に荒療治を受けてこの方、知らない感情ばかりが生まれて全くコントロールできない。
「フ、フフフ……」
「あっ、笑わないで、へこむから……」
「いいえ、あなたが下衆なのはこの私が一番よく知っておりますので……、嫉妬、重い感情、隠さず明かしていただけて嬉しいですよ……?」
さらには低くて楽しそうな声でちくちく追い討ちをかけられて、ついにモクマの羞恥心は限界を迎えた。
「……あ~! チェズレイ、洗濯物これだけ!? 俺も干すから! 下衆だけじゃないってこと証明するから! あと靴下も見つけてくるから!」
「おやおや、殊勝なことですねェ……」
言うなりカゴの中のタオルを掴んで物干し竿に手を伸ばすモクマは、名誉挽回で頭がいっぱいで。だから、後ろから見つめる相棒が、モクマが思うよりもずうっと熱っぽい瞳をして、
(……まったく、鈍い男だ。去る者追わず、優しさと甘さゆえに人間関係のしがらみを疎む生き物を、約束でなんとか縛って満足していたというのに。
そのあなたが、私を追って無茶をして、子どもじみた独占欲を向ける……、そんなの、昂りこそすれマイナスになるはずがないというのに……!)
等と、甘ったるくてちょっと舌も出ちゃうようなことを考えていたのは……、けれども、チェズレイも相互理解の必要性をもう知って、変わろうとしているので。その日の夜までの短い間だけ、彼の心の中だけのひみつであった。
おしまい!