すごろくのみち 1 チェズレイにとって他人とする初めての口づけは、ひそやかでおごそかで、けれどくっつきあった場所から情の溶岩が流れ込むような、百の言葉をならべるよりも雄弁なものだった。
すきなひとの唇はやわらかく、すこしかさついていた。リップクリームをあげなくちゃ。感情の波に押し流されて、浮かぶのは明後日のことばかり。
永遠のように感じられたが、たぶん数秒のことだった。モクマが首をあんまり引っ込めないので、接触を終えてなお、同じ空気を食みあえるくらいに近いまま、かわいた唇が先んじて動いて、
お前を。抱きたいよ、チェズレイ。
言葉が耳に届いて頭が処理するより、読唇術のが早かった。今日はぜんぶちぐはぐだ。
だけど、たぶん、つまり、かれはそういう――けっこう即物的で俗物的なことを、えらくまじめな顔をして、ほたるの灯のようなしずかな声でもって、言った。
――は。
意味を反芻して、また、世界が、時間が止まる。
この部屋に来た時にうるさくて仕方なかった波音は、もうすっかりと遠ざかっていた。ふたりで波打ち際をあるいたときに見たこぼれんばかりの満天の星のかがやきも、今このしろい天蓋の降りたベッドまでは入ってこれない。
ふたりきりだ。いま、止まった世界にわたしたちだけがいる。
思いが重なって、知らないふれあいをして、振り返ればみっともなく舞い上がっていたのかもしれない。
……というか、きっとおんなじ欲の火はこの身の奥にすでに宿っていたのだ。
「ーー、」
時をすすめたのはチェズレイだった。反射的にうなずくと、目の前のくぼんだまぶたが見開かれて、それからふは、と吹き出された。吐息が鼻にふれる。
「話が早くて助かるが――そんな勿体ないことしたくない。せっかく時間があるんだから、ひとつひとつ進んでいって、それをぜんぶ覚えときたい」
またへんな顔をしていたか、思案する前に答えがくる。同時に所在なくシーツを掴んでいた手に手が重なる。燃えるように熱い手だった。こちらの手は緊張で少し冷えていた。温度は反対だったけど、汗ばんでいるのはおなじだった。
「私が不慣れな感覚に戸惑ったり羞恥に辱められる様をつぶさに観察したいと? さすが下衆だ……」
「うん。下衆だからね、お前のことひとつも取り落としたくない」
「……まァ……」
その感覚は、正直わからなくもない。こちらだって、どうせならつぶさに相手のあらたな顔を観察したい。
言い淀むと、肯定と捉えたのか、モクマはにっこり笑って、指をいじりながらまとめにかかった。「じゃ、決まり。今日は寝よう。明日の夜、また、別のことするからさ。楽しみにしてて」言うなり空気をすっかり相棒にチューニングして、さっさと布団に寝かされる。おやすみと頬に口付けられて、流されるまま目を閉じる。
……。
………。
いや、いやいや。いやいやいや。
浮かされていた熱がようやっと引いてくる。別のことって、なんだ。キスに始まり、そしていつかセックスに続く道。を、療養時間を目一杯使って、じっくり観察されながら、すごろくの如く一マスずつ進んでいくと……? それって、もしかしなくともとんでもない羞恥プレイなのでは……?
もしかして、自分は。
(とんでもない約束をしてしまったのでは……?)
交わした約定を反故にするなどという発想のない律儀者は、想像の羽を目一杯広げながら、もんもんとした夜を……過ごすかと思いきや、モクマ印の子守唄であっさり眠りに落ちるのであった……。
いちにちめ おわり