ただならぬ気配を感じて廊下からあわててキッチンへと飛び込むと、チェズレイがコンロの前に立ち尽くしていた。
表情は見えないが、背中を見ただけでもあきらかに、深刻で重々しく、悲壮な空気が立ち昇っていた。
今日はひさびさの副業の公演の日だったから、モクマは朝から出かけていたのだ。一回目のときはかれも見にきてくれて、張り切ってバク転を何回もしたら、勢い余ってステージから落っこちそうになって笑われてちょっと恥ずかしかった。気を取り直して二回目も三回目はつつがなく完了、握手会で笑顔の子どもと触れ合って、心満ち足りた帰路だったのに。
それなのに、どうしてこんな、この家の中はかなしげに静まり返っているのだろう。
「――チェズレイ?」
呼ぶ声にも、すこしも反応を返してくれないのだろう?
……たとえば、目も当てられないような非道なニュースが、突然飛び込んだとか。
あるいは、例の軍事国家が予想よりはやく動き出した?
それとも、それとも。嫌な想像が彗星のように頭の中をかけめぐっていく。脚が一歩を踏み出せば、後は大股、ずいぶん早足。
「ね、どしたの、チェズレイ」
辿り着く前に重ねてかけた声だって、ひくく真面目になってしまう。
「!」
と、肩が震えた。やっと聞こえたのか。あの仮面の詐欺師が、こんなのはそうそうないことだ。
弾かれたようにこちらを向く、とがった顎、高い鼻、長いまつ毛。結われた髪のしっぽとリボンが跳ねて揺れて、
「あ、モクマさんーー」
おなじく紫色の瞳をゆらゆら揺らして、
砂漠の中にひとり取り残された旅人のよう、おそろしく途方に暮れた顔をして、
怒られる前の子どものような声をさせて――、
「……あなたがすきだから、たくさん入っていた方がいいと思ったんです。
いつもけちけちして、と思っていて。半分くらい構わないだろう、って……」
「…………」
ふらふら声の中身を追いながら、ぽかん、と、モクマの口が開く。開いたままで塞がらない。
実を言えば、解説はあんまり必要がなかった。
きれいなお顔のその向こう、コンロの上に乗っかった雪平鍋は……まるで、マングローブ生茂る熱帯雨林のようだったから。
銀いろの淵が見えないくらいにみっちりと、どころか四方から手を伸ばして外に飛び出そうとしているのは、深いみどりいろの、柔らかでつやつやとした塊。
そして、そのとなりにくしゃりと空気を抜かれて転がっている袋のラベルにあるのは……乾燥わかめの文字。
「ぶっ、」
ここまできたら名探偵じゃなくても答えは明白だった。
質量保存の法則からはずれてますよ、と言ったぶすくれた声がかわいくて、モクマはたまらず、相棒の薄くて長い身体に抱きついてしまった。
「あはははは、はは、あは……、は、あー、ふえるよねえ、これ、おもったよりね、あはは」
「…………っ、……ひどいです……相棒を喜ばせようとした健気な気持ちを笑いものにするなんて……!」
あ、復活した。
感情の変遷でいうなら、呆然、からの怒り、からのいつものかわいいやつまで辿り着いた。
うーん、でもこれ、多分ねえ。
ちょっと腕の力をゆるめて顔を覗き見ると、ああ、やっぱり。手を伸ばしてほっぺを包むと、こちらを見るのはばつの悪そうな、ぜんぜん作りきれてない、子どもっぽい表情。優しく骨の形を指の腹でなぞって、微笑みかける。
「ごめんごめん。けどもね、笑ったんじゃないんだ。嬉しくって」「嬉しい?」「うん」問う声も、また、素直な響きだ。幼いといってもいいかも。
――ああ、うれしいよ、チェズレイ。
だって。お前はきっと、今まで誰にも、こんな顔、見せることなく生きてきただろう。
それこそ子どもの時分から、ささいなミスも、それにただ呆然と立ち止まるのも、許されないで歩いてきただろう。
傷だらけの足で、そんなそぶりまったく見せず踊るように綱渡りをしてきただろう。
もういい、とは言えない。お前を止める権利はない。おれは下衆だから、お前を止めたくない。隣を歩いて、その夢をともにつかまえたい。
「ありがとね」
「なにが」
ちゅっと額の髪をはらって、つま先立ちで口づけすると怪訝な瞳がこちらを見た。「わかめが好きだから」返すとふ、と吹き出す音。
くすくすくす。よかった、どうやら機嫌は直ってくれたようだ。「そんなに?」問われて「うん、そんなに」と胸を張ると、チェズレイは目を細くして、「じゃあよかった」とささやいた。
その声と笑顔があんまりきれいで、おれはなんだか無性に泣きそうになってしまった。
今日の夕餉はわかめスペシャル -230703