「痛っテェ…」
お世辞にも綺麗とは言い難いコンクリートの地面に倒れ、薄れていく場地の視界に真っ黒なスニーカーが映る。
あれは、たしかナイキの何とかってモデルの。ダチが騒いでいた気がするがもう随分と昔の話だ。まだガキで金もなくて、ショーウィンドウ越しに「いつか欲しい!」と騒ぐそいつのキラキラした目がガラスに反射していたのを覚えてる。
「ひとの店の前で何してんの?邪魔なんだけど」
どこか甘やかさのある鋭い男の声が場地の頭に落ちる。組織の人間じゃなさそうだが、顔を確認するよりも場地の意識が落ちるのが先だった。
◆
カサカサと紙の擦れる音を聞きながら、場地は薄く目を開ける。知らない天井と薄暗いダウンライト。どこかで嗅いだことのある様な、鼻の奥にしみるにおいと脇腹の痛みが場地の顔を歪めさせ少し掠れたうめき声が漏れてしまった。
「あ。目ぇ覚めた?水持ってくっからちょっと待ってて」
聞こえてきた声は、意識を落とす前に聞いた少し鼻にかかるハチミツの様な甘さのある音。どこか、知らないヤツの所にいるらしいとだけ理解した場地はとっさに起きあがろうと、ズリズリと片腕の力だけで寝かせられていたソファーの背に上半身を預けた。
ガチャリと音を立てて扉が開いて、500mlの水のペットボトルを手にした男が戻ってくる。手には刃物も武器もない。黒のTシャツと黒のタイトパンツだが、小型の銃ならウエストにも挟めるだろう。
場地は最大限の警戒をしつつ、近付いてくる男を噛み付かんばかりの視線で睨み上げる。
「はい。水。飲める?」
「いらねッ、ゲホッ、ッッ…!」
「あー、傷、縫ったばっかだからあんま動かねぇ方がイイと思うよ。あと別にお前の事どーこーしよーとか思ってねーから」
安心して?と付け加えて、パキリとフタを切った水を2cm程飲むと場地の座るソファーに投げて寄越した。
男から視線を逸らさないまま、ペットボトルに口をつける。ごくごくと飲み込むと、乾いて張り付いた喉がうるおって、代わりのように撃たれた脇腹が軋むように痛み出した。
そうだ。撃たれたんだ。
些細なミスをして敵対組織の襲撃をまともに受けた場地は、不意打ちで殴られ騒ぎに紛れる様に撃たれた。
撃たれた部分を手でさすりながら己の体に目を落とすと、肩からわき腹にかけて真っ白な包帯で斜めに巻かれているのが分かる。目の前の男が手当てをしたんだろうか。何のために。
「これ、オマエが?」
「いんやー?傷縫ったのは隣の中華料理屋のジィさん。包帯巻いたのはそこのバァさん」
「は?何言ってんだよ…中華屋…?」
「そ。決まってんだよ。怪我したら中華屋のジィさん。ガキ生むなら風呂屋のババァ。風邪ひいたら諦めろってな」
「……救急車呼んだりすんじゃねーのフツー」
「お前が“フツー”じゃなくて、救急車呼ばれたら困る様に見えたからだよ、場地」
場地は男に突然名前を呼ばれ身構えた。どうする。応戦できるような武器もない。窓もないこの部屋の出入り口はあのドアひとつだけ。
「俺のこと、知ってたのかよ」
「あっはは!ユーメージン気取りヤメロよ。場地のケータイ。悪いけど預からせて貰ってんの。こっから出てく時返すよ」
「なんでそれと名前がカンケーあんだよ」
「メニューゼロ?」
あぁ。たしかそんな機能があったな。場地は機械に疎い。設定されたまま渡された携帯の個人情報登録は“場地”のままだったんだろう。次は設定を消しておこう。ここから逃げられて、次があるならば、だが。
じわりと傷の痛みから額に汗が滲んでくる。
それを目に止めた男は、部屋の隅に放られた段ボールを漁るとビニール袋を片手に場地のすぐ横まで戻り、ソファーの脇に膝をついた。
男がガサガサと漁るビニール袋には処方薬らしきパッケージやら、小さなジップロックに入った剥き出しの錠剤が乱雑に入っている。
「あった。ほら痛み止め。飲んどけよ。多少マシなんじゃね?」
「信用していいのかよ」
「さぁ。俺は別にどっちでも」
生ぬるい部屋の空気に流されたのかも知れない。場地は受け取った錠剤を喉に流し込むと再びソファーに重く凭れた。
痛み止めのお陰か、徐々に冷静になってきた頭で部屋を見渡す。8畳ほどの部屋には、いま場地が座っている大きめのソファーと部屋のど真ん中に置かれてこの空間を占領しているビリヤード台、奥には電源の入ってないダーツマシンが捨て置かれている。
男はビリヤード台をテーブルにする様な形で椅子に座り、何か手元で作業をしている様だったが場地の角度からはそれが何なのかが確認できなかった。
「なぁ。オマエの名前は?俺だけ知られてンの気分ワリーわ」
「ハネミヤ、羽宮一虎。カズトラでいーよ。ヨロシクネ?」
視線も合わず、何ならお互いの姿さえビリヤード台のせいで見えない。よろしく、という心の本心はどこだか知れない。
場地は軽やかに自己紹介をしてくる得体の知れない男の顔を、いま一度見たくなった。水を渡された時にも思ったが、整ったきれいな面立ちをしている。
柔和な笑顔で薄膜を張ったその顔はどこか、胸の奥深くをジクリと痛ませてくる様な気さえした。
「これ。なにしてんの、一虎」
ソファーからフラつく足で立ち上がり、ビリヤード台に手をつく。そのビリヤード台の上では、一虎が折り紙の様な白い紙に茶色い葉を巻いている。
「あ、お前まだ立たねえ方がいいのに。キズ開いても知らねーよ?」
ガタガタと一虎が引っ張ってきてくれた椅子に座り、また元の作業に戻ったその手元を見つめる。
「んで、それなに?一虎プッシャーなん?」
「ちげーよ。これは内職。ただの紙巻きタバコだよ」
「フーン。一本くれよ」
「お前ひとの話聞いてた?内職だからやるわけねーじゃん」
「じゃあ一本買わせてくれよ」
「ふふ、こんなゴミみてーなの吸わねぇ方がいいよ」
一虎は白い紙の端に一直線に茶色い葉っぱを置くとクルクルと手前から奥に巻いていき、小さな容器に入った水に小指を付けて紙の端にスーッと線を引くようにのせて糊付けをする。手馴れた様子のその作業はいつまで見ていても飽きそうにない。
「…じゃあ一虎のタバコ一本くれよ」
「俺吸わねーから持ってねぇの」
意外だった。いかにもチャラそうな見た目で、とか、この部屋の捨て置かれた様な雰囲気であったりとか。その指先に細い紙巻を挟むのが、場地にはまるで絵のようにハマると思えた。
「意外とマジメなんだな」
手持ち無沙汰で、一虎が度々小指をひたす水に指を付けようとして「触んないで」と怒られた。
「タバコってにおい残んじゃん?あれ嫌なんだよね」
「一虎、ケッペキショウ?」
「ちげーけど、なんかあったじゃん。昔ドラマの歌で“あなたと別れても、あなたと同じ香水の香りとすれ違って振り返る”みたいな曲」
なんとなく聞いた事があるかもしない。たしか月9のドラマで、学生時代の恋人同士が大人になって別れて新しいオトコと付き合って、結局ヨリを戻すやつ。まぁよくある恋愛モノの展開で、早々に飽きてしまって見たやつから結末だけ聞いた。
「それで、におい残んのが嫌いなのかよ」
「だってさ。気持ちわりーじゃん。相手が俺の事忘れても、ふとした拍子に思い出されて。それってさ、普段は忘れてんだから多分もう思い出さなくてもいいんだよ」
「思い出したいから、思い出してんじゃねーの?」
「じゃあずっと考えてりゃいいじゃん」
生きてる限り、そうはいかないだろうなと場地は考える。まぁ一虎の言うように、そうであればいいだろう。忘れたくない人をずっと想って生きていく。なんて理想的だろうか。それこそ月9のドラマの様だ。
「一虎はいんの?そーやって抱えてる人」
「……いないよ。もう、誰のことも覚えない」
伏せられた琥珀色の瞳は、過去の人を追っているのだと場地にも読み取れた。“覚えてた”“覚えていたかった”でもダメだった。だから“覚えない”だろうか。
ぐぅ、一瞬しんみりとしかけた雰囲気をぶち壊す様に場地の腹が盛大に鳴る。
「…腹減った、」
「ぶっ、はは!二日も寝てたらそーかもな。もう店閉めるからウチこいよ」
「は?二日も寝てたのかよ…どーりでカラダ痛ェわけだよ。つーか起きた時に言わねぇ?そういうの」
「今言ったからチャラだろ」
一虎が出入りしていた扉の向こうはカウンターが数席だけあるバーで、ここのマスターをしているらしい。老朽化の進んだビルの外階段は歩くたびにギシギシと錆びついた音が鳴った。
場地は一虎から借りた派手な柄のシャツを羽織り、脇腹を押さえながらゆっくりと階段を降りる。一虎は度々振り返っては「手ぇ貸そうか?お姫様抱っこする?」などと茶化してくるのが小憎たらしい。
この狭い階段でそんな事したら二人とも落っこちてしまいそうだ。
傷を縫ってくれたという隣の中華屋に顔を出すと、一虎はそこのジィさんに持っていた紙袋を差し出した。
「王ジィさんドーモね。これ約束の羊羹」
「どうも…アリガトウゴザイマス…」
一虎が王ジィさんと呼んだ男は、どこからどう見ても少し汚れたコック服を着た料理人のおじいさんだ。猜疑心が拭えないまま、それでも一応の感謝の言葉を伝えると、一虎と共に奥のテーブルの席に座る。
「いやなんで隣に座ンだよ。フツー向い側だろ」
「場地って普通にこだわりすぎじゃね?あんま長生きできねーよ?」
「なぁ、さっき何渡してたんだよ。金?なら俺が、」
「は?俺ヨーカンだぞってジィさんに渡してんじゃん。羊羹だよ。パチ屋の向かいの」
場地の目はそれでも一虎の言葉を信用しなかった。
どこの世界に羊羹一本で他人の世話をする人間がいるんだろうか。
そもそもいい背格好の男ふたりが隣同士で座ってメシなんて、このがら空きの店内じゃ違和感しかない。
それでも一虎は席を移動する気はないらしく、そうこうしているうちに大きなラーメンどんぶりに入った中華粥がふたつ運ばれてきた。
「これ、俺のオススメ。つうかバァさんいねー時はマジでこれ以外頼まねー方がいいからな」
「ったく口の減らねーガキだよ。兄ちゃんは傷どうだい、たいしたことねーだろ。わき腹かすめただけで、カスリ傷ダヨ」
そういって王ジィさんがコック服のポケットからテーブルの上に転がしたのは薬莢がひとつ。隣でフーフーとレンゲに盛った粥をさましている一虎が口を開いた。
「45口径のコルト・ガバメント。相手はお前を確実にヤリに来てるよ」
「まぁ、だろうな」
「でもいっこ疑問なのは、落ちてたのがコレだけって所かな。組織立っての殺しなら襲撃人数分、少なくても半数は銃持たせんだろ?それが撃ったのは多分ひとり、んで一発だけ」
「狙いに来たけど、殺す気はなかったとでも?」
「…もう店仕舞いだ。ガキどもはさっさと食って帰れヨ」
まるで関わりたくないとでもいう様に会話を遮った王ジィさんが立ち上がる。まぁそうだろう。場地とて他人を巻き込む訳にはいかない。それは一虎に対しても、だ。
「じゃあ、世話になったな」
店を出ると、一虎を真っ直ぐに見つめて告げる。きょとりと瞬く目は、その声に似たハチミツ色をしている。
「なんで?場地、ケガしてるし。ウチこいよ」
一虎が場地に貸したシャツは少しだけサイズが小さくて、筋肉の差か、僅かに場地の方が体に厚みがあるのかもしれない。
紫のシャツの端を掴む一虎の指は、すぐにでも振りほどけそうだった。
助けられたのは俺の方なのに、なんでオマエがそんな顔をしてんだよ。