ただの夕立だと、初めは誰もが思っていた。日暮れ前に降り出したその雨は、いつしか土砂降りになり、やがて雷を伴う豪雨になった。
帰宅ラッシュのMIDICITY交通網に影響が出始めると、タクシー乗り場や駅構内は必然的に帰宅困難者で溢れていく。
そしてホームの柱を背に立つヤスとリカオもまた、行き場をなくしたミューモンのうちのふたりだった。
「…止みそうにねえな」
「……そうだな。」
「あんま濡れなくて良かったな」
「あぁ。」
「…ああいうショーって、あんま見た事なかったけど、案外悪くなかったよな」
「俺も、子供の頃以来だった。勝つと分かっていても応援したくなるあの感覚は…少し懐かしい気分になった…です。」
「あ、それちょっと分かるわ。シナリオとか決まってんだろうし、ぜってえ負けるわけねえのに『レッド頑張れ‼︎負けんな‼︎』ってなるの不思議だよな。…あと演奏も良かったし」
「彼に感謝しなければな…です。」
「あぁ」
「検査結果…何事もないといいな。」
「そうだな。……でもあいつも災難だよなぁ。入院とか慣れてるだ何だの言ってやがったけど、でも…折角チケット取れてたってのにな」
「ま、その代わりバイガンは俺たちがバッチリ見てきたから良いか。土産もあるし」
「そうだ、俺の分も忘れないうちに入れさせてくれ…です。」
そう言ってリカオが取り出したのは、入場特典のブロマイドと缶バッジ。2種類の図柄がそれぞれランダムに配布されると聞いて、開封するまでふたりで戦々恐々としていたのだ。被らなくて、本当に良かった。
「お前が誘ってくれたおかげで、今日は楽しかった…です。ありがとう。」
「おう。俺も楽しかった」
時間と共に増えてゆくミューモンの群れの中。
未だ友でも恋人でもないちぐはぐなふたりは、はぐれないようにと言い訳をしながら身を寄せ合って、そっと手を繋いだ。
頭上から流れる幾度目かの遅延アナウンスに、ちらほらと落胆のため息が聞こえる。
ざわざわと静まらないミューモン達の中で、ふとヤスが顔をあげる。
「………どうしよう、家まで帰れっかな」
「……このまま動かないようなら、家へ連絡して迎えを頼んだ方がいいかもしれないな…です。」
「母ちゃん、今旅行中」
「ん? そうなのか? …です。」
「あぁ、商店街のくじ引きでさ。明日帰ってくるんだ。……今頃は、ポロサッツーで美味いもんでも食ってんじゃねえかな」
「ポロサッツーか…。なら、雨の影響はあまりなさそうだな。」
「ああ。店は閉めてるけど心配しなくて済むように、在庫チェックも掃除も俺がいつもよりしっかりしといたし。多分、ちゃんと楽しんでると思う」
ヤスは、その瞳に母への心配を滲ませながら、自分に言い聞かせるように呟いていた。
「お前は本当によく出来た息子だな…です。」
「…………うるせ」
頭上から再度アナウンスが鳴りはじめる。
「あ、動いたのか。よかった……」
混雑具合を加味しても次の電車には乗れそうだと、リカオも胸を撫で下ろす。
ホームの端から、雑踏へ指示を出す拡声器の音が響いている。これから来る電車に備え、降車の邪魔にならぬよう善意によって場所が空けられていく。
前列のミューモンを押さないように各々が少しずつ乗車列を詰めて、リカオたちもそれに倣う。密度を増した喧騒に呑まれぬよう、ふたりは繋いだ手をぎゅっと握り直した。
「ほらリカオ、電車来るぞ」
「あぁ。」
電車を降りていくミューモンが途切れると、乗車列は一気に動き出す。リカオはヤスに手を引かれながら、既にミューモンでいっぱいの車両へと、身体を滑り込ませた。
ふたりはぎゅうぎゅうに押しつぶされながら運ばれてゆく……はず、だった。
別の駅で起こった混雑によるホーム転落。その影響を受けて停車したきり、ふたりを乗せた電車はかれこれ1時間、駅間から動き出せないままでいる。
詰め込まれていたミューモン達が、駅員の誘導に従いぞろぞろと降車していく。聞くところによれば、停車中に落雷による送電線トラブルが重なったらしい。どちらも怪我人が居なかったのがせめてもの救いだった。傘の下で寄り添いながら、狭く足場の悪い線路を伝って、駅まで歩く。
MIDIドームCITY最寄りから、わずか3駅。
ふたりがやっとの思いでたどり着いたのはFourthValley。
『復旧の目処立たず』のアナウンスがそこかしこで響いていた。
「…ここからUnderNorthZawaへのバスは無い。タクシー乗り場は向こうだ、行くぞ…です。」
「え、ちょ」
繋いだままの手に心の中で言い訳を重ねて、今度はリカオがヤスを引っ張って歩く。勝手知ったる駅構内で、混んでいるからといって今更迷いはしない。
……そしてたどり着いたタクシー乗り場はやはり、ふたりと同じように家路に着きたいミューモン達によって占拠されていた。
「……あーあ。こりゃあ当分帰れねえよな」
タクシー乗り場の端の端で、どうすっかなぁとヤスが呟いた。
「「なあ。」」
同時に口を開いたふたりは、これまた同時にどうぞどうぞと譲り合う。もう一度リカオが促してやれば、ヤスは素直に言葉の続きを発した。
「カラオケのオールってやろうと思えば出来るもんなのか?」
「いや…高校生の22時以降のカラオケ店利用は、MIDICITY健全育成条例で禁止されている…です。例え、保護者同伴でもだ。」
「…………マジか」
「……マジだ…です……。」
「そっか。ならしゃーねえな。……んで? あんたの話、何だって?」
先頭の見えない行列を横目に、彼がこちらを見上げた。本当は不安だろうに、ヤスは目を細めて微笑んでいる。だからこそ、これから発する一言はきっと、彼の不安を和らげる一手になるはずだ。
「…歩きはするが、車なら出せないこともない。」
「………………マジか」
「マジだ…です。」
「それって、もしかしてリカオん家だったりすんのか?」
「……する。」
「…マジかよ……」
「マジだ……です。」
「「……………。」」
紡がれたのは先程と同じ掛け合い。思わず見つめ合った数秒の沈黙に、どちらからともなく吹き出す。ふたりはせめて迷惑にはならぬようにと必死で声を抑えながら、腹を抱えて笑い合った。
「さて……一時的とはいえ、お前を上げるにあたって許可を貰いたいのだが…お袋さんに連絡はつくか?…です。」
「……! 許可、出たら…上がってもいいのか…?」
「…あまり、良くはない、かもしれないが…その、緊急事態だからな…です。濡れたまま帰すのも良くないだろう。」
「わ、わかった。俺ちょっと、母ちゃんに電話してくる!」
ヤスが母親へ事情を話し、リカオが代わる。
「…本当に良いんですか?ヤッちゃんの事、お願いしても」
「ああ。俺が責任を持って預かる…です。」
「リカオさん、ありがとうございます」
「必ず何事もなく、彼をあなたの元へお返しすると誓おう。……それに、天気が崩れた段階で帰宅を勧めなかった俺にも、責任の一旦はある…です。」
「…あなたのおかげで、あの子はひとりで濡れながら朝を待たなくていいんですから、それだけで充分ですよ。どうか気負わないでください」
それにね、と彼女は付け加える。
「私はいつでもリカオさんとヤッちゃんの味方なのよ?」
そう言ってスマホ越しの彼女は笑う。
「…リカオさん、大丈夫よ。あなたが息子を大切にして下さってる事は、もうよ〜く分かっていますから。だから…」
「…息子を、どうかよろしくお願いします」
電話口から放たれたその台詞は、酷く真剣な声色で。
…だからリカオも、真っ直ぐに返した。
「——はい。」
「なあ。母ちゃん、何だって?」
「なんでもない。お前をよろしくされただけだ…です。ほら行くぞ。」
一向に先頭が見えないままの行列から抜け、ふたりは銀糸の雨が降り注ぐ街へと駆け出した。
———
土砂降りの中を駆け抜けて、ふたりで家の中へ転がり込む。ヤスをドアの前に待たせたまま、リカオは真っ先に風呂場へ向かう。
通りがかりに湯張りボタンを押してから湯船を覗くと、栓が閉まっているのを指差し確認。バスタブに蓋を乗せ、脱衣所からバスタオルだけを引っ掴んで再び玄関へ戻っていく。
「これを使え。今風呂を沸かしているから少し待っていて欲しい…です。」
「ん、サンキュ。…ってリカオお前しっぽ! 水めちゃくちゃ垂れてんぞ…!」
「あ、いや俺は…。」
渡したタオルがそのまま尻尾に押し当てられる。滴っていた水分がじゅわりとタオルに吸い込まれていく。
「…?………??」
「…いや……どうせタオルでは足りないから別に良かったんだが…まあ、気持ちは嬉しい。ありがとう…です。」
「………え?…………うわ…まじか…」
ヤスの手に残るのはべしょべしょに変わり果てたバスタオルと、未だ水分をたっぷり含んだままのリカオの尻尾。双方を見比べて呆然としているヤスに、リカオはくすりと笑う。
「…タオルも絞ってくるから、少し貸してくれないか?…です。」
「…タオル『も』?」
「タオル、も、だ。」
「…お、ぁ…やばい! ま、待ってくれ。これ、動かしたら垂れそう、つか垂れる!」
「…あー…床はあとで拭くから、多少濡らしても大丈夫だぞ…です。」
「わ、悪い…」
「別に構わない…です。ほら、タオルを貸してくれ。」
ヤスを洗面所に招き、リカオは靴下をカゴに放り込んでから、裾を捲って浴室に立つ。受け取ったタオルを数回に分けてきつめに絞り、再びヤスに手渡す。
「大きなタオルは替えがなくてな…です。尻尾の後で申し訳ないが、とりあえずそれを使って欲しい…です。」
「ん、大丈夫。気にしてねえよ」
「言ってもらえればすぐまた絞る…です。」
「あぁ、分かった。ありがとな」
素直に頭や尾羽を拭き始めるヤスを横目に、リカオは軽くしゃがみ込み、自分の尻尾を両手で握った。そのままタオルと同じ要領で絞っていると、脱衣所から見ていたらしいヤスが声を上げた。
「うわ」
「なんだ、どうかしたか?…です。」
「いや、しっぽ……それ、痛くねえの?」
「……流石に加減はしているので痛くはない…です。」
「そういうもんか…?俺のと違うから分かんねえな…」
自分の尾羽を見つめながらヤスが言う。
「俺やクースカのように、尻尾も毛足も長いミューモンは大体雨に難儀しているはずだ…です。」
「……あ〜…双循も梅雨は毎日機嫌悪かったな…。いやまあ、ジョウに突っかかってる時は楽しそうだったけど」
「喧嘩は、ほどほどにな……。」
「これでも前よりマシになったんだぜ」
「…そうか。あぁ、そうだ…風呂が沸く前にお前の着替えを出そう。確か新品のTシャツがあったはずだ…です。」
「借りて良いのか?」
「勿論だ。濡れた服を着直しても風邪を引くだけだぞ…です。」
「そっか、ありがとな」
「どういたしまして…です。」
「ほらあったぞ。これを着てくれ…です。」
「サンキュ。…一応…彼シャツってやつになんのか? これ。めちゃくちゃバンTだし新品だけど。つーかそもそも俺ら付き合えてねえけど」
収納から引っ張り出したTシャツを手渡したところで、リカオはひとつ、失念していた事柄に気がついた。
「………そういえば、脚の装備を全く考えていなかったな…です。」
「…あ〜……」
リカオは収納の更に奥へと手を伸ばす。
「見つかんなくても別に良いぜ。コンビニで下着は買えてるし、別に困りはしねえだろ」
「…お前は良くても俺が困っ、あ、いや…なんでもない。」
「……ふ、…なに想像してんだよ」
「も、黙秘する…です。」
ヤスは半笑いのままで、すけべ とリカオを詰った。
「ま、あんたが困るんなら探してもらうしかねえな」
「あぁ。だから今探して……お、水着が出てきたぞ。新品ではないが…。」
「おぉ、じゃあそれ借りていいか? 俺の為に、色々ありがとな」
「構わない。俺がやりたくてやっているだけだ…です。…ん?」
リカオがぴこっと頭上の耳を傾けて聞こえたのは、湯張り完了を知らせる音声通知だった。
「…丁度風呂が沸いたな。よく温まってくるといい」
「ん、悪いな。…あ、石鹸とか適当に使って平気か?」
「問題ない。俺は書類を片付けているから、上がったら声をかけてくれ…です。」
「おう、分かった。じゃ、行ってくる」