ふたり揃っての完全な休日なんて、いつ以来だろうか。
擦り寄って来た恋人の、虹を散りばめたような金髪を撫でつけながら、布団のなかでそんなことを思った。
起き抜けの頭で日数を数えていると、不意に喉元の毛玉がピクリと動いた。むずがるように身じろぎする恋人になんとなく嫌な予感がして、リカオはそっと距離を取る。
一瞬動きが止まったと思った、その瞬間。ジャロップの角がリカオの目の前を勢いよく掠めていったので、勘というのも侮れないものだ。
「海、行こう!」
ジャロップが捲った布団の風圧でカーテンが舞う。その隙間から溢れ落ちる朝の陽差しが、まだセットされていない彼の髪をやわらかく煌めかせている。
「——、————。」
刺さるかと思った、なんて言うつもりで口を開いたはずだった。けれど彼に見惚れているうちにその気も失せて、結局文句の一つだって出てきやしなかった。
「…………、おはよう、ジャロップ」
「うん、おはよ♪ だからね、海。オレィと海見に行こうよ」
「分かった」
もそもそと起き上がりながら簡潔に答えれば、ジャロップの丸い瞳がさらに丸く開かれて、やがて嬉しそうにへにゃりと歪んだ。
「そんなソクトーしちゃっていいの?」
「今日はオフだからな。それに……ずっと、後回しになっていただろう」
「ジャププ、覚えてたんだ」
「当たり前だろう……です」
「最近忙しかったもんねぇ。オレィも、リカオちんも」
「おかげですっかり夏になってしまったな…です」
申し訳程度に布団を整えながら、リカオは壁のカレンダーからジャロップへと視線を戻す。
ジャロップはリカオと目が合うなりビシッとサムズアップしてみせる。その動きに合わせて揺れるペンダントが、キラリチカリと輝く。
「海はいつでもサイコーだから全然オッケーっしょ! 夏だから泳げちゃうし、それってゼ〜ッタイおトクじゃん?」
「……ちなみにあそこは遊泳禁止だ…です」
「ありゃ、そうだっけ? ——ま、ダイジョブジョブ♪ リカオちんいるし」
「それはなにか関係あるのか……?」
「わっかんない! でもふたりならハッピーでオールオッケー、的な?」
リカオちんもそうだといいな、なんて溢した彼に、リカオは小さく笑って頷き返した。
ジャロップが身支度しているのを待つ間、今日の新聞に軽く目を通しておく。
頃合いを見計らって洗面所を覗けば、丁度使い終わったところだったらしい。洗面台を漁っていたジャロップと交代して、リカオも顔を洗う。
「ねえこれ、オレィがオススメしたブラシ?」
「あぁ、お前のおかげで良い買い物ができた…です。ありがとう」
ブラシを変えてから、確かに以前より毛の纏まりが良くなった気がする。
そう正直に報告すると、瞬きひとつの間にジャロップの瞳の輝きがグッと増す。
彼はブラシの背をそっと撫でながら、うんうんと嬉しそうに頷いた。
「でっしょでしょ〜? でも今日はオレィにまっかせてね♪ オレィのキャリスマパワーでリカオちんのこと、もーっとバッチバチの爆イケリカオン族にしてあげちゃうから!」
「なんだそれは。俺は別に普通で良いんだが……。まあ、元々そういう約束だからな…です。お前の好きなようにやってくれ」
「うんっ! ほらほら、しゃがんでしゃがんで〜」
今朝はジャロップがいるから特別に、ヘアセットのオプションが付いている。
大人しく膝立ちになったリカオの髪を、ジャロップが慣れた手つきで梳かしていく。
彼はリカオを見下ろすとほんの少しだけ間伸びした声で、椅子買えばいいのにと呟いた。
「あっ、オレィが選んであげよっか?」
「断る……です」
ジャロップに任せていたらどんな突飛なデザインのものになるか分からない。リカオは丁重に断りを入れながら、次までにはシンプルで折りたためる椅子を探すべきかと目を伏せる。
——洗面所に椅子なんて、必要ないと思っていたんだがな……。
ジャロップがリカオにヘアセットをさせてくれと言い出したのは、恋人になってまだ間もない頃だったと記憶している。
あの時はそれなりに揉めたけれど、それはジャロップが美容師であり、リカオがその腕を信頼し評価しているだからだ。
プロであるのならば当然、その行為には正当な対価が支払われるべきだろう。
恋人からお金は貰いたくないと言うジャロップと、むしろ恋人だからこそ受け取って欲しいのだと主張するリカオ。
両者の攻防はしばらく続き、最終的に出た折衷案が〝ヘアセットをした日のデート〟だったというわけである。正確には成り立っていないのかもしれないが、ジャロップが用意してくれた対価の存在は、正しくリカオの心を軽くした。
ジャロップも本当に嬉しそうに破顔していたから、きっとこれはこれでひとつの正解のかたちだったはずだ。
問題があったとするならば、リカオはその約束を一度きりだと思っていたがジャロップはそうではなかった、ということだろう。
彼が当然のように繰り返し約束を行使するせいで、ふたりで朝を迎えるたび彼の好きなようにスタイリングしてもらうのが習慣となってしまったのだ。
まあ、リカオとしても不満があるわけではなく……だからこそこうして恋人の特権として受け入れつつ楽しんでいるわけだが。
だから椅子の件だって単純に、そろそろ潮時、というやつなのだろう。
「リカオちん? どしたの?」
「ぁ——、」
リカオはブラッシングの心地よさに震える尻尾を抱え直して首を振る。
「いや、なんでもない。椅子は俺が探しておくから大丈夫だ…です」
「そっか——というわけで今日は前髪をアゲアゲにしてみたんだけどどう?」
「視界が広い…です」
「さっすがオレィのスタイリング、これは絶対にモテモテのモテまくりだよリカオちん。ナンパも大成功間違いナシ!」
「…………そういうのは程々にしてくれ…です」
「ウェィ?」
声を出したつもりはなかったけれど、どうも口から漏れていたらしい。道具を片付けていたジャロップの手が一瞬跳ねて、そのまま空中で止まる。
「な、えっ、リカオちん、まさかのヤキモチ?」
「ちがっ、……くは、ないが」
「わお」
リカオが言い直した瞬間にジャロップの目が爛々と輝き出す。うっかり選ぶ言葉を間違えたかもしれない。彼が調子に乗ったのが分かってしまったので、リカオは既に後悔している。
「待てジャロップ。そうではなくてだな——うぐっ」
最後の整髪料を棚に戻し終えた彼は、何やら満足そうにこちらを見つめている。リカオが思わず身構えれば、タックルと言っても差し支えないくらいの勢いで抱きついてきた。首元に触れる髪がツンツンとくすぐったい。
「ジャププ、真っ赤になっちゃって〜。素直なリカオちんもキャワイイ!」
「チッ……。調子に乗るな。少しは懲りろ」
引き剥がして睨みつけてみても、ジャロップに例の事件を省みている様子はない。
こういうところこそ彼の「らしさ」だし、女性に声を掛けるのだって別に構わないのだが、一人の弁護士として正直に言えば、本当に懲りてほしい。
「とにかく、俺はあの時のような苦労は二度と御免だからな…です!」
買い置きのパンをトースターに放り込み、焼いている間に湯を沸かす。ケトルの見張りは追いかけてきたジャロップに任せ、テーブルに手頃な食器を並べておく。今日は食パンもコーヒーも、用意する皿もふたり分だ。
ルーティーンの隙間にジャロップがいる朝。それが無性に嬉しくなってしまうので、先ほどの憤りはどこかに消えてくれたらしい。
「尻尾ご機嫌じゃん!」
「軽口はいいからほら、冷める前に食べるぞ」
ジャロップがリカオの尾を指差してはしゃいでいる。それを適当にあしらいつつ、まだ熱いトーストにバターを塗っていく。ジャロップのパンにはハムとチーズを乗せて、リカオは別皿にたっぷりジャムを入れて、それぞれコーヒーと共に食卓へ。
そこへジャロップが持ってきた少し高価そうなレトルトスープも添えれば、なかなかに充実した朝食になった気がする。
「いただきます」
「いっただっきまーす!」
ふたりの朝のなんでもないこのひとときは、陽光に似たぬくもりを持っている。愛や恋の定義はミューモンによってそれぞれだが、胸の内にじんわりと広がるこのあたたかさは紛れもなく愛情と呼ばれる類のものだろう。
「ねえリカオちんのジャムって桃?」
「あぁ。昔弁護したミューモンが加工場を経営していてな。美味いので今でもたまに買っている…です。……お前も食べるか?」
「え、いいの? ありがと!」
リカオは頷き、ジャムの皿をジャロップの方へ寄せてやる。スプーンを口に入れた瞬間、ジャロップの目がカッと見開かれた。
「わ、ホントだメッチャおいしい……! なんかこういうのってさ、ウララギちんも好きそうじゃない?」
「……確かにそうだな、差し入れにしてみるか…です」
「うん! ゼーッタイ喜んでくれるっしょ!」
「なあジャロップ」
皿洗いまで終えたリカオは、携帯と見つめ合っているジャロップに声を掛ける。
「海の他に行きたいところはあるか? ……です」
「うーん、どーしよっか。ショージキ行ってみたいトコばっかで迷いまくりなんだよね〜」
「そうなのか?」
「そ! 新しくできたカフェがめっちゃ映えるんだって。けどレストランも気になるし、セッカクなら買い物とかもしたいじゃんね? あ、リカオちんはしたいコトとかないの?」
「そうだな……。強いて言えば甘いものが食べたい」
「ジャムはノーカンだもんね、オッケー任せて! ほら、キャワイイ子ちゃん達が教えてくれたサイト」
リカオの隣に座り直したジャロップが、操作していた画面を傾ける。
覗き込んだスマホには、近隣エリアのスイーツ情報がずらりと並んでいて、リカオは思わず唾を飲む。
レビューらしきサムネイルにはアイス、パフェ、かき氷にフルーツタルト……、とにかくたくさんの写真が表示されていて、咄嗟に抱えた尻尾がリカオの腕のなかでふるふると揺れた。
「さっき言ったカフェはココだよ」
ジャロップがリストをタップすると、一瞬の読み込みの後、見るからにふかふかそうなパンケーキが映し出される。
「おぉ……————っ!」
思わず漏れた感嘆の声を追うように、リカオの腹がぐうと鳴いた。
「ジャッププ、食べたばっかなのに元気な音! でもワカルー、オレィもパンケーキ食べたくなっちゃった。じゃあカフェは決定で、あとはうーん……」
すいすいとスマホを操作する彼の横顔は、まるで宝の地図を前にした子供のようだ。
ジャロップが顔上げてふたりの視線が交わると、彼の目元が柔らかく歪んでいく。
別に釣られた訳ではないけれど、きっと今、リカオも同じ顔をしている。
「今日も楽しみだね、リカオちん!」
その言葉に、リカオは微笑んだまま頷いた。