王子と休日の月 王子は嘆息してベッドの上に寝転がった。そろそろ星の見え始める時刻だが、夜空を楽しむ気分には到底なれない。
王子はこの一ヶ月間、王室外交の一環として様々な国を訪問してきた。そして今日の夕方――つい先程、その最後の訪問先であるN国に着いたばかりであった。これまでに滞在した国はそれぞれ独自の文化や美しい自然を持っており、芸術を好む王子はそれらに大いに興趣を覚えたものだ。だが、一ヶ月というのは長過ぎた。伝統ある国の王子たる振る舞いを常に求められ、常に緊張を強いられる。気楽に話す相手も居らず、退屈でもあった。それに元来行動的で探究心の強い王子である。公務としてではなく、もっと能動的にその国のことが知りたいと常々思っていた。
ふと、窓の方を見遣ると月が出ていなかった。新月の晩――「思い」は「考え」へと変わる。
王子はなるべくラフなシャツとスラックスに着替えた。ジャケットを羽織り、肩掛けの鞄にスケッチブックと財布を入れると、そっと迎賓館を抜け出した。
月のない晩は暗いものだと思っていたが、N国の夜は明るかった。夜遅くまで街の灯が点けられた儘なのだ。人工的な明かりの夜景には何処か温もりを感じた。灯る光の下には誰かが居るからなのだろう。通りを行く人の数も多い。スーツを着たサラリーマン、路上で弾き語りを始めるミュージシャン、人気のない場所で何事かを囁き合うカップルなど様々な人間が居た。王子は大通りや路地裏をぶらぶらと歩き、時折街の様子をスケッチした。N国での王子の公務は明日からであり、この国のことはまだ資料でしか知らない。自分の意志で行動しながら眺める、見知らぬ外国の風景には、街の姿と人の営みがありありと描かれているように感ぜられた。自分たちとは異なる文化の下で生きている人々が此処に存在している。このことは実に興味深く、いつまで眺めていても飽きることのないものであった。
やがて王子は人の多い通りを離れ、今度は静かな公園のベンチで一休みをしながら、様々な色の街の灯を眺めた。それはさざめく波のように王子の聴覚を刺激した。暫くそうしているうちに徐に眠くなってきたので、ベンチの上で横になった。無論、こんな処で眠る積りはない。只、静かに瞑目して、子守唄を聞くように街の雑踏と光の音を聴いていた。
「もし、そこの御仁」
不意に声を掛けられて目を開ける。はっとするほど整った顔立ちの人物が王子を覗き込んでいた。
「このような処で寝ていたら、身ぐるみを剥がされた上、臓器まで売られてしまいますよ」
柔らかな声で物騒なことを言われ、俄に王子は起き上がる。
「この辺りはそんなに治安が悪いのかい」
王子の驚いた顔を見て、その人物は品のよい顔に優しげな微笑を浮かべた。
「嘘ですよ。ですが、身ぐるみ程度なら剥がされることもあるでしょう。あなたはとても身なりが宜しいから」
――嘘。王子は訝しみ、眼前の人物を改めて観察した。公園の薄暗い街灯の下であっても、優れて美しい顔貌をしていることが分かる。柔和な印象を受けるが、涼やかなその声は少し低めであり、僅かに膨らんだ喉仏は男のものだろう。
彼は玲瓏たる瞳で王子を見詰め返してきた。
――嗚呼、今晩は新月だが此処にひとつ月がある。
「どうされました」
男の言葉で、ぼんやりと男を見詰めていた王子は我に返る。
「いえ、先刻この国に来たばかりで、治安のことはよく知らなかった。忠告感謝する。気を付けるよ」
そう言って去ろうとする王子に対して男は言う。
「右も左も分からず大変でしょう。今晩泊まる場所はお決まりですか」
「知人の家に泊めて貰う積りだから、大丈夫だ。有難う」
王子は男と別れて公園を後にすると、先刻まで居た大通りへ出た。然し、迎賓館に戻る気分にはなれない。やはり絵を描きながら通りをぶらついていると、若い女に声を掛けられた。女は「ミセ」に来ないか、と王子を誘った。彼女に付いて「ミセ」へ行くと、其処はこの国の風俗店であった。入店し、勧められるが儘に酒を飲み、女達と談笑し、よい気分になって店を出た頃には大分夜も更けていた。迎賓館に帰らねばならないという考えは完全に失せていた。そうして、飲みすぎてふらつく足で向かった先は、先程の公園である。其処で野宿でもして、朝方にこっそりと戻ればよいだろう。幾分か蒸し暑く感ぜられたが、風の心地よい晩であった。街の灯りは相変わらず綺麗であり、酔った王子の目には一層魅力的に見えた。もう少しこうしていてもよい筈だ。王子は酔いの回った頭でぼんやりとそう考えた。
そうして、公園に入ろうとした処で王子は気付いた。先程の男がベンチの脇に佇んで空を見上げている。街の灯りが明るいために、視力のよい王子であっても星は見えない。然し、男はまるで星でも眺めるように夜空を見詰めていた。王子が男の方へ歩いていくと、彼は視線を上空へ向けた儘、
「お知り合いの家には泊めて貰えなかったのですか」
そう言って、王子の方へと振り向いた。
「彼は、その……、留守だったよ」
王子は適当に誤魔化そうとした。
「慣れていない土地へ来るのならば、準備はしておくべきです。宿泊の約束は事前に取り付けておかないと」
「旅先では想定外のことを楽しむのもいいんじゃないかい」
「そういう考えも出来ますね」
通りの灯りが男の表情を照らし出す。その美しい笑みに吸い寄せられるように、王子は彼に問い掛けた。
「君はここで何をしているんだい」
「私は月を眺めているのです」
男は空を仰ぎながら言う。然し勿論、月など出ていない。其処に在るのは月のように美しい男の姿だけであった。
「先程寝転んでいる僕に声を掛けたときも、そうして空を見上げていたのかい」
「ええ……」
「今晩は新月だよ」
「そうですね……」
王子の言葉に男はそう応じると、再び王子の方に視線を戻した。長い睫毛に縁取られた瞳が潤味を帯び、凝と此方を見詰めている。様々な街の灯りが彼の表情を様々なものに見せる。物憂い様子で考えに沈んでいるようにも、夢見心地で空想の世界を彷徨っているようにも見受けられた。王子は魔法にでもかかったように、男の方へ一歩また一歩と近づいた。彼の見ているものが知りたくて、その瞳を覗き込んだ。映っているのは王子自身の姿だ。
男はすぐ側まで来た王子を見上げて言った。
「もし他に泊まる当てがないのならば、私の家へいらっしゃいませんか」
王子のその夜の記憶は朧げであった。酔っていたためだろう。男のほっそりとしたシルエットを追い掛けながら、まるで夢の中を渡り歩くように光の街の中を進んだ。王子よりもやや小さく冷たい手に引かれ、閑静な郊外にある小さな建物まで連れられて行った。記憶があるのはここまでだった。
王子が気づいたときには朝になっていた。豪華な照明の設置された天井ではなく、質素な木造の天井が目に入る。王子は小さな部屋の中で蒲団の上に寝ていた。室内は仄かによい香りがしたが、王子には何の香りか分からなかった。光の明るい方を見遣ると、薄い紙のようなものが張られた引き戸があった。この国の家屋の特徴を資料で読んだことがあるが、そこに載っていた「障子」という扉と同じもののようである。柔らかい蒲団に包まれながら昨晩の出来事を思い返していると、障子の向こうで小さな声がした。
「もし、起きられましたか」
王子が起き上がって返事をすると、障子がスライドして男の姿が現れた。
「お早うございます。朝餉の準備は出来ておりますが、すぐに召し上がりますか」
男の後ろにはガラスの窓があった。そこから入ってくる光が障子に張られた紙を透過し、小さな室内を照らしていたのだろう。その朝の光は男の姿も照らし出している。昨晩、街の灯りの下で見たときとは異なって、彼の肌の白さや肌理の細かさ、絹のような髪の質感までもがはっきりと目に入ってきた。昨晩は特に気に留めることがなかったが、彼はN国の伝統的な着物を着ていた。薄紫色の衣は男によく似合っていた。王子が思わずその姿に見入っていると、男は「まだ眠いようでしたら、また時間を改めて……」と言って下がろうとする。昨晩は久し振りに熟睡し、大いに腹は減っている。王子は慌てて彼を引き止めた。
「食べられるのなら今、頂くよ。食堂は何処だい」
「此方へお持ちすることも出来ますが、そうですね。彼方で私もご一緒させて頂きましょう」
王子は洗面所で顔を洗った後、隣接した食堂に通された。男は王子にテーブルの椅子に座って少し待つように言い、台所と食堂を行き来する。程なくしてテーブルの上には様々な料理が乗せられた。米飯、スープ、野菜を煮たもの、卵料理、焼き魚などだ。王子の前には二本のスティック――王子はそれが箸と呼ばれる食器であることを資料で見て知っていた――の他に、ナイフ、フォークとスプーンも置いてあった。
「お口に合うかどうか……」
男は心配そうに言うが、テーブルの上に並べられた料理からはよい匂いが漂っている。
「とても美味しそうだ。この国のテーブルマナーを教えてくれるかい」
男に一通りの作法を教えて貰いながら王子は食事をした。箸だけは巧く扱えず、フォークなどを使うことになってしまったが。N国の料理は王子の国でも人気があり、専門店も多い。王子も何度か足を運んだことがあるが、繊細な味付けで美味しく、見た目も美しかった。男の料理は見た目こそ職人のような細工はなされていないが、その味は繊細さに加えて優しさと素朴さを感じさせるものであった。米飯を二杯もお代わりし、王子はとても満足して食事を終えた。
「ご馳走様でした」
男がそう言って手のひらを合わせたので、王子も真似をする。
「ご飯粒が付いています。折角の美男子なのに……」
男は笑いながら王子の頬に手を伸ばして米粒を摘む。
「台無し、かい」
「いいえ、美男子はご飯粒を頬に付けていても美男子ですね」
そうして、摘んだ米粒を食べてしまう。
「処で、あなたはこの後どうするのですか」
男はスマートフォンを取り出した。メールやニュースなどをチェックしているようであった。
「この国へ来たのはお仕事のためですか。それとも観光でしょうか」
仕事と云えば、仕事ではある。然し、今頃迎賓館では、王子が居なくなって大騒ぎになっているに違いない。帰るタイミングを逃し、拙いことになってしまった。王子が返事をせずにいると、男はスマートフォンをテーブルの上に置いて王子を見た。王子は男から目を逸らす。
そのとき、男のスマートフォンの画面が王子の視界に入ってきた。『S国の王子、急病で倒れる』王子が何気なく見た箇所にはそう表示されていた。ニュースアプリの画面である。どうやら王子は急病になったと発表されたようだ。ほんの少し羽根を伸ばす積りが、大事になったと思った。だが、過ぎてしまったことは取り返すことが出来ない。本日の公務の予定は全てキャンセルされることだろう。だとしたら、今日一日の時間を無駄には出来ない。これはチャンスでもあった。顔写真が報道されていないかが気になったが、今は普段とは違う髪型にしている。それに、N国の人にとって見慣れていない外国人の顔は区別が付き難いものだろう。
「済みません。答えたくない質問でしたら……」
王子は男を見ると、
「……いや。観光だよ。大学の長期休暇を使って気儘な一人旅をしているんだ」
そう、今日は王子の休暇だ。一人旅を楽しむ日にしたい。
「君はこの後仕事に行くんだろう」
王子は自分が男と別れるのを残念に思っていることに気付いた。人が月に魅了されるように、王子はいつの間にか彼に魅了されていたのだった。だが、仕方がない。昨晩のように一人で絵を描きながら街を回ろう。そう考えていたが、男は王子に言った。
「いいえ。今日の仕事は休みなのです。おひとりならば、私が案内を致しましょうか」
こうして王子の休日は始まった。
「何処か行ってみたい場所や何か興味を持っているものはありますか」
男は王子に尋ねた。
「この国のことを少しでも知りたいな。初めて来たから何もかもが知らないことばかりだよ」
「滞在はいつまででしょうか」
「一週間の予定だけど、今晩中に此処を発って別の地方も見て回るんだ」
王子は真実を微妙に折り混ぜながらそれらしい嘘を吐く。
「では、一日で見られる範囲に致しましょう」
ふたりは国立の美術館で国宝を鑑賞したり、博物館でN国の自然について学んだり、様々な物が売られている横丁を眺めながら散歩をした。男は博識であり、美術館や博物館の展示物について、そこに設置されている解説パネルよりも詳しい説明をしてくれた。王子が自分はA国出身だと言うと、A国のことについてもN国と比較する形で話に含めた。
「あなたは大学で何を専攻していらっしゃるのですか」
自然公園の中を歩いているとき、男は王子のことを聞きたがった。
「僕は美術を専攻している」嘘を吐きながら、王子はふと思いつく。
「君の絵を描いてもいいかい」
そう男に言ってショルダーバッグからスケッチブックを取り出す。
「構いませんよ。どうすれば宜しいですか」
「そうだね。その木の根元あたりに座ってくれるかい。そう、楽な姿勢でいいよ」
王子は男から少し離れた場所に座り、紙の上で素早く鉛筆を動かし始めた。
「君は何の仕事をしているんだい」
今度は王子が男に尋ねる。
「私は物書きをしております」
「物書き、小説家かい」
「小説を書くこともあります」
「僕でも読めるのかな」
「翻訳されている本もあります。A国でも出版されている筈です」
王子はS国での出版状況を知りたかったが、そう尋ねる訳にはいかなかった。
「探してみるよ」
「N国語でも宜しければ、これをどうぞ」
そう言って男は手提げ袋から一冊の本を取り出して王子へ差し出した。
「いいのかい。有難う」
王子は本を受け取った。
「最近出版されたものです。あなたほどN国語での会話が達者であれば、読む方も問題ないのではありませんか。この国に滞在した思い出に、宜しければ……」
「じゃあ、僕からはこれを」
王子はスケッチブックの頁を切り取って男に渡した。彼を描いたクロッキーだ。
「宜しいのですか。有難うございます」
男は恭しくそれを受け取ると、折れないように綺麗に丸めて手提げ袋に仕舞った。
ふたりはその後公園にある池で二人乗りのボートに乗った。男は体を動かすのが苦手らしく、王子が櫂を持ってボートを操作した。晴れて少し暑い日であったが、水上では涼しい風が吹いている。男の髪が揺れ、傾き掛けた日の光を反射して金色に輝いた。
「徐々に秋らしくなっていますね。夏ももう終わりです」
男はそう言って池に落ちた葉を見詰めた。その横顔は何処か寂しげであった。
「今夜には此処を発つ予定でしたね」
「楽しい時間はあっという間に過ぎるものだね。出来ればもう数日間は見て回りたいよ」
N国の晩夏は何処か物悲しい色彩で塗られた絵のように、王子は後々思い出すことになるだろう。そうして、その絵の中には常に彼が佇んでいる――。
「この国の古くからあるお伽噺をご存知ですか。竹の中から発見された不思議な女児が美しい姫へと成長し、周囲から結婚を迫られますが、対価として手に入れるのが難しい様々な品を所望します。結局約束の品を入手出来た者が居ないうちに、姫は故郷である月へと帰ってしまうのです。あなたは旅を続けて、大学が始まる前には故郷に帰るのでしょう」
王子は笑って言った。
「僕は姫ではない、只のA国の学生だよ。それに、月ではなく同じ地球上に居るのだから、メールでもチャットでもやり取りが出来る。君の本の感想をあとで送るよ」
男は、そうですね、とやはり何処か遠くを見詰めた儘だった。
「そうそう、今晩はこの近くの神社で祭りが催されるのです。最後に少し見て行きませんか」
日が暮れた頃、ふたりは神社へと向かった。鳥居前の通りには沢山の提灯がぶら下げられており、昨晩見た繁華街の灯りとはまた異なる趣があった。王子達は神社の境内で奉納される神楽を見物した後、通りに出ている屋台を見て回った。路上には溢れるばかりの人が居た。人の流れが複雑に入り組んでいる。目的の場所へ行くためには、何処かしらの人の流れに逆らって進まねばならなかった。その有様に王子が躊躇していると、男が王子の手を引いて誘導した。彼のように着物を着ている人も多かった。囃子や人のざわめきの中を、人や屋台が提灯の灯りに照らし出されているのは、王子にとって幻想的な光景だった。昨晩男に手を引かれて街を歩いたときのように、進めば進むほど現実味が剥ぎ落とされて、まるで夢の中に居るような心地がした。非常な人熱れの中で、王子の手を握っているやや小さな手の感触だけが、冷たく感ぜられて気持ちよかった。
男は王子を人気のない場所に連れていった。
「何か食べるものを買ってきますので、此処で待っていて下さい」
そう言って人混みの中へと消えていった。王子が少々疲れた様子だったので気を遣ったようであった。雑踏は問題なかったが、蒸し暑さは苦手だった。屹度この国特有の暑さなのだろう。王子は汗を拭いながら、暫く提灯の灯りや道行く人を眺めていた。処が男はなかなか戻って来ない。心配になり探しにいくと、祭りの中心から離れた場所で――王子から見ても――柄の悪い数名の男に囲まれている彼を発見した。何事かを揉めている様子だった。
「どうしたんだ」
王子が急いで駆け寄ると、柄の悪い男の一人が呂律の回らない口調で言う。
「何だ、外国の兄ちゃん。こいつの知り合いかよ。ぶつかって来られて腕が痛ぇのに、慰謝料も払わねえ」
「単に絡まれているだけですので、ご心配なく。ぶつかっておりませんし、ぶつかられてもおりません」
男は呆れた様子で自分を囲む男達を見ている。然し、男達から逃れるのは難儀のようで、肩を小突かれたり袖や腕を引っぱられたりしていた。
「汚い手で彼に触るんじゃない」
王子は思わず叫ぶと彼らの間に割って入った。男達は「何だァ、邪魔すんじゃねぇぞ」などと口汚く罵りながら王子に手を上げようとした。その時――。男が持っていたラムネ瓶の蓋を開けた。事前によく振っていたようで、中のラムネが勢いよく飛び出して男達の顔に掛かる。
「此方です」
男が王子の手を握る。男達が驚いている隙に王子と男は雑踏の中へ逃げ込む。背後からは男達の怒声が聞こえる。男は複雑な人の流れを巧みに縫いながら走る。その背中を王子が追い掛ける。男達の喚き声が遠ざかり、聞こえなくなるまで走り続けた先にあった場所は、ふたりが出会った公園だった。王子も男も汗まみれで息を切らしている。持久力の差か、王子よりも男の疲労の方が酷いようだった。王子が粗方回復した後も、男はまだ肩で息をしている。足元がふらついて倒れ掛けた処を、慌てて王子が支える。
「大丈夫か」
男は頷く。王子は男の背中を擦ってやる。特に怪我などはしていないようで、王子は一先ず安心した。漸く落ち着いた男は、王子から離れると、長い睫毛を伏せながら言った。
「あなたを巻き込んでしまって申し訳ありません」
「いいんだ。君が無事ならば」
ふたりは暫し沈黙した後、同時に笑い出した。
「でも、少しだけ楽しかったです」
「ああ、君にラムネを掛けられた男の顔が見ものだった」
少々怖い体験をした後の開放感から、王子も男も愉快な気分になっていた。一頻り笑いあった後、男は王子に言った。
「そろそろ、戻らなければならないのでしょう」
「……知っていたのかい」
「ええ。この国でS国のことが報道されることはあまりありませんが、あなたの顔写真は拝見したことがあります」
「今日一日は本当に楽しかった。君のお陰だ。有難う」
「そのようなお礼は不要です」
「……もっと君のことが知りたかったよ」
王子が男の細い体を抱き締めると、男も王子の背中に腕を回す。彼の家で嗅いだ芳香がふわりと香った。
「知る機会は今後もあるのではないですか」
「そうだね……」
王子は男の顔を見詰めた。男も王子を見詰め返す。
「けれども、あなたは戻らなければいけない。昨晩私はこの公園で月を見ていたと言ったでしょう。月など出ていなかったのに。ですが、月は何処かに存在しているのです。目には見えないけれど」
「君が月を見ていた理由が分かった気がするよ」
だが、彼が見ている月と王子が見ている月は違うものだ。男の大きな瞳から涙がひと粒零れ落ちた。彼の頬に流れ落ちたそれを、王子は指先で掬ってやる。男は昨晩のような玲瓏とした瞳で王子を見詰めた。明かりの灯った街に比べて公園の中は暗かった。けれども、ここにはひとつ、月がある。さえざえと静かに光る、美しい月が――。
王子は迎賓館へと戻った。
翌日のテレビニュースでは、S国の王子の容態が回復し、N国での公務が予定通り執り行われたとの報道があった。
数年後、S国の王子が美しい花嫁を迎えることになるが、それはまた別の話――。