骨も残すな「別にお前のためじゃないからな!」
「それフリ?」
乱暴なノックに晒される寮室の扉を開けると、特に美少女ではない後輩が往年のツンデレ仕草をかましてきた。これが18歳の誕生日プレゼントだと言うのなら悪夢だ。残念ながら現実だけど。
宵越はノックの勢いはどこへやら、俺の言葉でぴたりと動きを止める。降り積もるような睫毛が丸い瞳に影を落とした。言葉というより疑問符の記号に近い吐息は白く煙り、眉間は加減知らずに距離を縮める。今は走り込みの後なのか頬が上気しているけど、黙っていれば白皙とだって評せる顔立ちだろう。なのにそこへ浮かぶ表情はどこまでも軽率だった。つまり感情に対して率直で、馬鹿みたいな間抜け面。ただまあ、可愛げだけはある。
「それふり……?」
「いや知らないなら良いけど。いやよくはねーけど、まあ俺には関係ないから良いや」
「ハァ?! 井浦てめ、いま絶対なんか隠しただろ!」
「そうだよ。よく分かったじゃないか賢い賢い」
宵越は煽られるまま前のめりになり、持っていたビニール袋が俺にぶつかりそうになった。けれどそれは強引に手元へと引き戻される。ビニール袋。黄色と黒が目を引くそれは、安さとそれ以上の胡乱さを売りにしたディスカウントストアのものだ。俺は息を吐く。目の前の男へ気づかせるために、目に力を込める。
「で? どうしたんだ、お前は」
ビニール袋。あの店は、部活終わりの放課後に行くには少し遠い。それなりのペースで走らなければ、この時間に寮まで帰ってこられないほど。真冬の空気は、有体に言えば身を切るほどの冷たさだ。その上かいた汗は恐ろしいほどの早さで体から熱を奪う。こいつは筋金入りのアホだが、明日も部活があるというのに意味もなくこんな無茶はしない。意味がある。何か、おそらく極めて感情的な、意味が。
宵越からの返答は、ぶつかったビニール袋だった。勢いとしてはぶつかった、ではなく、ぶつけられたと言った方が適切だろう。思わず一歩、後ろに下がる。柔い衝撃に導かれるまま、俺は顔を上げて。
「…………やる」
「あ?」
「タンジョービだから! やるっつったんだよ!」
言ってねーけど。
さすがにそんなことは口にはせず、また突き出された袋を見つめた。勢いのついたそれは、メトロノームのように俺と宵越の間を往復する。それをぼんやりと眺めながら、動きのあるものは良いなと思う。なんとなく、間を埋められるような気がして。現実逃避だ。
「いや待て。プレゼントならさっき貰ったな? ほら、後輩一同からって」
ちょうど袋が俺からいちばん離れた瞬間に、右手を突き出した。広げた掌は待てのサインだ。犬に教えるみたいな身振りだったからか、宵越は思い切り顔を顰めた。それでも差し出された袋は俺の前にあるから、いっそ溜息でもつきたくなる。
後輩一同からです! と笑ったのは水澄だった。焦げ臭い空気を吹き飛ばすほど朗々と響いたその声は、未だに鼓膜の浅瀬に漂っている。呼び出された時点で誕生日を祝ってくれるつもりなんだろうと、自惚れではなく呼び出した相手の善良さゆえに理解していた。実際旧体育館の扉を開けた瞬間に、馬鹿みたいな音量のクラッカーが鳴り響いた。俺は少し呆れて、多少の怒りもあって、けれどきっと喜んでもらえると心底思っている顔に毒気を抜かれる。だから笑った。笑って、そう、手当たり次第に頭を叩いてみせたりして、そのとき、宵越は。
宵越は?
分かりきった追憶を焼き切る、熱波じみた視線が俺を眼差す。
「開けろよ」
黒と黄の、危険を示す色。けれど俺は、躊躇わずに掴んでしまう。
「……半額」
「ヴッ」
菓子袋のいちばん目立つ位置に貼られたシールを読み上げれば、宵越は苦虫を噛み潰したような声をあげた。激辛だの唐辛子のイラストだのが扇状的に乱舞するパッケージの中で、燦然と値切りシールが輝いている。辛い菓子? 確かに辛いものは好きだけど、だからと言ってどうして。もう一度ビニール袋へ視線をやっても答えは無さそうだった。返ってきたのは、袋越しの間の抜けた声だけだ。宵越が同じくらい間抜け面の俺を見て、あげた声。
「……あ? いやだって、好きだとか言ってただろ!? あ、や、好きとは言ってねーが」
「はあ? 何の話だよ」
「これだよ! 夏合宿のとき、結構イケるなって」
「あー。ああ……?」
全く記憶にない。が、確かにパッケージには夏季限定の文字が踊る。それに合宿のとき、浮かれた誰かが菓子を広げていたような。いくら思い返しても、この菓子に対して特段記憶に残るほどの出来事があったようには思えなかった。だけど俺の記憶なんて、もはやどうでも良い。視線を上げる。怒られるのを待っているくせに、釈然としない面持ちでそっぽを向く横顔を眺めた。
「お前、合宿のときから今日までそんなこと憶えてたの?」
「悪いかよ」
「それでコンビニ行って、でも季節限定だから売ってなくて、結局ドンキまで探しに行った?」
「ああ!? テメェまだ俺のこと監視」
「してねえよ」
こいつは自分の分かりやすさを知らない。こんなのちょっと考えれば分かることで、それなのに俺は見開きかけた目に力を入れた。自分の予想が当たったことへの驚きではない。ではどうして。俺は、自分が間違ったことを言ったつもりでいたのか?
宵越は俺の眼差しを受けて、反射的に口を開きかけた。けれど言葉は出ることなく、真正面から俺を見返す。いくつもの感情がその瞳を翳らせた。それは観察しようとしても追いきれず、あるいは彼自身も扱いを決めかねているようであった。言葉を未定にしたまま、宵越はただ俺を見る。その瞳を直視しそうになって、そのまま目を逸らした。逸らしていた。理由の分からない挙動に胃の腑から温度が引く。俺はいま何か、何か分かっているはずのことを、考えなかった。
反証ばかりが蓄積する。けれど俺がそれを結論づけるより早く、宵越は息を吐いた。
「俺は今日まで、お前の誕生日なんか知らなかった」
「まあ、そりゃ話すこともないし、なあ」
「でもあんたは俺の誕生日、知ってんだろ」
「そりゃ知ってるよ。どんだけお前を調べたと思ってんだ?」
「なら俺だって、知らなきゃおかしかっただろ」
用法のトチ狂った順接は、けれど俺の退路を奪った。
だからそれはその、ワビ? っつーかなんつーか、ごにゃごにゃと捏ねられる言葉は、俺の頭へ記録されることなく流れていく。仕方ねえだろ。だって当然のような顔で、いっそ憮然とした表情で、宵越は嘘みたいなことを言ったのだから。なんて筋の通らない理屈。なんて傲慢! あまりにも身に馴染むその身勝手な語気に、眼差しに、俺は笑ってしまう。笑ってしまったから、彼の親切、まあ親切と呼んでやろう、を受け入れてしまったことに気づかされた。
「うん。ありがとな」
自分よりもいくらか高い位置にある頭へ手を伸ばしたのは、拒否をさせてやるつもりだったからだ。馬鹿にされて、それに反抗する。そんな分かりやすい八つ当たりの材料をくれてやれば、こいつも少しは気が済むだろうという打算。あるいは、もしかしたら、少しくらい本気の感謝を含有していたかもしれない。
今となってはもう分からない。髄まで焼かれる前の思考なんて、もう。
「……おう」
宵越がはにかんで俺を見たから、朝がきたと思った。光と熱を、何もかもへ下賜する男だった。瞳だった。
愚かにも俺は、彼の瞳を直視してしまった。途端、眼球は蝋のようにとろけて落ちる。可哀想に。二度と正常には戻らない。その赤は血なんか、たかだか人間の持つ色なんか、目ではないほど鮮烈だった。眼差しだけでこちらの都合などお構いなしに情緒を突沸させる。朝だった。だから始まりで、どうしようもないおしまいだった。何もかもを革新させる赤。そのくせ自分では、宵越だけは、自分の瞳がどれだけ圧倒的か気づいていない。ただそうあるだけの災害だ。
美しいだけなら耐え切れた。可愛げならばとうに知ってる。いっそ尊敬だって認めてやろう。けれど決して、あの瞬間までは、コート以外でこいつが欲しいだなんて死んでも思わない。思わなかったはずだった。それなのに。
カッコよかった。
馬鹿だろ。ガキみてーに得意げな顔で頭撫でられてる後輩が、自分が頭を撫でている男が、カッコよく見えるって? 終わってる。
あのとき、俺の瞳は正しさを遺失した。
だから俺は、あのときこいつに負けたのだ。どうしようもなく、惚れ込んでしまっている。
#
「ってことがあったなあ」
「んだよ急に」
「いいや? あの頃のお前はあんなに可愛かったのになあって思ってただけだよ、宵越クン」
わざと初めて会ったときのように呼びかければ、宵越はあからさまに顔を歪めた。そこには羞恥や、片手間に過去を混ぜっ返された憤り、どこか身に覚えのありそうな焦りに、僅かばかりの自負がごちゃごちゃと塗り込まれている。
この変に律儀な恋人様は、合鍵を使う前にわざわざ一報いれてくる。いつ来ても困らないと思ったから渡しているのに。俺はいつもそれを伝えようと思いながら帰路につき、扉を開けたときに聞こえる馬鹿でかい声量の「おかえり」に「ただいま」と挨拶を返してしまう。そのたびに、こいつが飽きるまでは付き合ってやろうと思わされるのだ。
ソファーに腰掛けていた宵越は、落ち着きなくそのでかい体を折り畳み直した。数値で表す以上に慣れ親しんでしまった掌が、彼の細い髪を乱暴にかき混ぜる。
「別に、去年のプレゼントだって俺は、そりゃ人見とかには止められもしたが」
「まさか今どきペアのハートのネックレスくれるなんて! 驚いたよ」
「るっせえな!」
ぶつくさと続けられる往生際の悪い声が愛おしくて、容易く愛なんて言葉を使ってしまうようになった己に溜息をつきたくなる。そんなものを、明確に他者へ向けることなんてないと思っていた。愛、になんか、取り憑かれることはないと信じて、一生笑い飛ばしてやるつもりだったのに。
「ま、宵越らしかったけど」
「……褒めてんのか?」
「さあな。でもまだ期待はしといてやる」
俺がそう言った途端、宵越の瞳は見開かれた。6,000度の赤色。彼が瞬きで散らした火花は、当然ながら俺へと引火する。燃えて、身を焦がして、けれども視線は逸らさない。
「見とけよ」
彼の言葉に吹き出すふりをして、俺は静かに目蓋を下ろす。見とけよ、だって? あーあ、ほんと、本当にこいつは何も分かってねえんだ。俺の瞳なんか既に溶け落ちていて、網膜だって真白い灰になっている。きっともう、いつかみたいに正しくお前を見つけられない。それでもなお、眼差すことがやめられない。
良いさ、それで。
「もちろん」
焼け死ぬことすら、とっくに想定内だ。