百億の天国に勝るここから先は総力戦。
カルデアの運命を、人員を、魔力を、資源を、武器を、経験を、思想を、肉体も精神も何もかもを闘いに注ぎ込む全体戦争。
けれど確かに、私の闘争。
#
先遣隊として、回避と防御力に優れたアサシンでパーティを組んだ。威力偵察が目的だった。今にして思えばそんな目論見、全くもって甘い考えだったとしか言えない。私は結果として、及び腰のくせに生贄だけはしっかりと化物の眼前に突き飛ばした。だから愚かなマスターの目の前で、人の形をした、エーテル仕掛けのサーヴァントは、きらきら光る鉱物に成り果てていく。私は、私は、知っていたはずなのに。鉱物に成り果てて、砕けて、奪われていった。わたし、知っていたはずなのに。
「ア、あ、ああ!」
「マスター!」
データが、私たちと彼らたちを繋いでいた縁が、音もなく断ち切られる。霊基一覧の欠落は墓標よりも容赦がなかった。隣でマシュが私に呼びかける声が聞こえない。くだ、くだけて、砕かれた、地球の姿。音も光もでたらめなのに、命だけは決して許さない宇宙。戦死を寿ぐ神と、現実を透過する青年が望む終末。ただそこにある化物。それは世界に対して、一瞬だけの極彩色と永劫のブラックアウトをのべつまくなしに下賜する。そうして食われれば不可逆な結晶となると、そうだ。そう、わたし、私は、知っていたのに!
知っている。もう遅すぎるけれど、やっと理解できた。
敵はORT、たった1体。賭けるのは全て。
だから、ここから先は総力戦。負けたら世界がおしまいなのは、まあ、今まで通り。でしょ?
意味さえ定めてしまえばあとは結実させるだけ。ストーム・ボーダーの内で、ORT戦の作戦が立案されていく。悪路をドリフトしていく揺れに身を任せながら、私は再び赤く灯った令呪を胸に抱いた。体のあちこちが脈動する。それは疲労のせいか、それとも。分かりきった仮定に首を振った。たとえどれだけ散漫であっても、余分な思考なんかに割く余力はない。目の前の敵だけに専心するよう、殊更丁寧に深呼吸を繰り返した。
サイレンが短く、鋭く、車内を割く。作戦立案を司るストーム・ボーダーからの入電だ。つまり、戦闘開始の合図で。
「解析出ました! ORT、暫定クラスはセイバー!」
「ビリー、出て」
標的に付けられた剣のマーカーを見た瞬間、マシュの声を待たずに私は彼の名を呼んだ。それなりに実現可能性の高い最悪の展開だからと、何度も何度も脳裏で練習していた台詞だった。反射になるよう、胸中に刻んでいた言葉だ。
ここから先は総力戦。
愛しいものから死地へ差し出せ。
ビリーは柔く微笑みながら、私を眼差した。燻んだ青い瞳が銀の陰を帯びる。銀の、いつか彼に弾き渡された破邪の祈りと同じ、光。
「ここで僕を呼んでくれなかったらどうしてやろうかと思った。光栄だ、マスター」
使命とか、希望とか、慈しみとか、そういうあんまりにもこの場に相応しくない意志でもって、ビリーは瞳を輝かせていた。ここから先は一欠片の悲劇も許容しないと宣誓するような、目にも鮮やかな誇りに満ちた微笑み。
「鉄砲玉の役目を、君が期待する以上に果たして見せよう」
私は煮崩れた唇に気合いを入れ、不恰好な弧を描かせる。笑え。だってひとは死地へ進むとき、笑うのだ。マシュも、ドクターも、ダ・ヴィンチちゃんも、さいごは微笑んでいた。彼らは笑って、私に笑いかけて、死んだ。だから私も笑う。それが彼への、私への手向と知りながら。
「鉄砲玉? 違うでしょ。いつだって最初に賭けるのは、いちばん良い手札であるべきだ。だからビリー、あなたなんだ」
ビリーはにこりと微笑んで、テンガロハットを目深に被り直す。つばの陰で悲喜の塗り替わる表情から目を逸らすのは、彼への誠意で礼儀だ。彼への敬愛を、もうこれっぽっちの所作でしか示せない。
「……僕のいないところで死ぬな」
それを私に、今からあなたを殺す人間に言うのか。
脳裏を過ぎる八つ当たりを、唇ごとくしゃくしゃに歪める。代わりに黒い手袋に覆われた左手に指を伸ばし、彼の手の甲をなぞった。そこにある関節のひとつ、骨の1本、今は見えない象牙の皮膚をこの指に刻みつける。たとえこの両の眼が盲いても思い出せるように、白皙の頬に浮かぶ笑窪の微かな陰を、薄い唇から覗く微笑みの欠片を宿した歯の形を、この身に、この記憶に刻みつける。
「もちろん。ビリーも、必ず取り戻すから」
刻め。あなたが消えてしまっても、形見なんて無いのだから。
そうしてビリーは出撃する。
三度の霹靂の後、彼は捕食された。片足を鉱石にされながらも、ビリーはORTへ引金を引いていた。けれどその腕が緑の光を浴びると、固まりつつある首を傾けてこちらに視線を向けた。口角は持ち上がりきる前に固着した。太陽を待ち侘びた藍の瞳に目蓋の陰がかかる。今目前で乱暴な宇宙線に乱される金髪の、その柔らかさを知る私の指がモニターへ伸びた。掴めるものなどないと知っているくせに。マスターが自分から目を逸らすはずがないという傲慢な自覚のもとで、末期の視線は見えもしない私をまっすぐに撃ち抜く。ビリーが、私を、見た。
「勝てよ、リツカ」
彼は明確にこちらへ後を託して、やりきったような顔で捕食された。あーあ。自分は負けて、切り札をうしなった私に、ただ勝てとだけ言いのこすんだ。それってちょっとひどくない? 恋人なのにさ、励ましじゃなくて仇討ちを示していくんだ。
「とう、ぜんでしょ。ビリー。わたしが、私たちは、勝つに、決まってるじゃない」
私がそう在りたい私のことを、あなたは本当に理解しているんだ。
「あなたを、全部を取り戻すため、殺し尽くす」
そんなことを言われたら、泣いてる暇もないね。ねえ?
#
返せ。
総力戦だ。これが、総力戦。自意識も記憶も蕩けて、それでも殺意だけは加速度的に増加していく。境界記録帯に刻まれた影法師の散り様は流星雨のよう。私は、生きている私は、だんだんと固着していく。ぶちぶちと断絶していく。ばつばつと壊死していく。
返せ。
内臓はどろどろに沸騰し、頭蓋の内で脳味噌が柔らかく爆ぜ、血液は静脈を逆上する。今まで自らの意志でこんなにも重たい肉と骨を動かせていたことが、冗談か何かだったように思えてきた。宇宙線を防ぎきれずに先から剥離する爪、爛れ落ちる目蓋。鼓膜は衝撃を飽和し、三半規管が嘘っぱちの音を奏でているみたい。人体のあらゆる部位から生じる悲鳴は思考をジャミングし、同時にただ闘志のみをチューンナップする。鋭く、速く、取り返しがつかないように。
返せ。
目の前の世界の終わりを睨めつけて、私は血でべちゃべちゃの唇を歪めた。色気のない口紅だけど構いやしない。お前は、私の恋人でないのだから。
かえせ!
「喰らいな、ORT。これこそが、人類最新の化物退治」
黒死した指を振る。私は私を炉に焚べる。魔術回路が焼けた。せかいが輪かくを失うかわりに、サーヴァントはちからを得る。はじけるのはほしの輝き、カルヴァリンの祝砲、きんせいの火矢、星のうち海の花びら、おん讐の遠らい、ちを濡らすいしゆみ、たい陽のほん流、開びゃくのらい鳴、死をいとう夜啼鳥のさけび、しゅうまつの羽音、つるぎの八重がき、大りんのひまわり、終世のだくりゅう、そして、あまたのものがたり。ばかになったしかいには、なにもかも、まぶしすぎる。
ばけもの。私が殺す。
だから、そうしたら。
「虫けららしく、這いつくばって死ね」
わたしたちを、かえせ。
#
戦争の終わりとは何なんだろう。
戦火からの復興? 以前と同じ日常への回帰? 経済活動の再燃? それとも、新たな戦争の開始か。そもそも今回の作戦は便宜上総力戦と称されていたけれど、歴史的に言うところのtotal warとはまるで関係がない。だからこんなのは結局ただの言葉遊びで、概念のお手玉で、本質なんて示唆しえないのだ。
「マスター」
私を呼ぶ声がする。二度と聞こえなくなると思った声。何故かと言えば私が彼を死地へ向かわせたからであり、それとは関係なく私自身がぽっくり死にかけていたからだ。
「なぁに」
ビリーの声に応える。寝起きのとろとろとした思考が駆逐されていく。寝起き。自分がベッドに寝かされていると知る。知った。思い出した。自覚したそばから全身を鈍痛が襲う。まるで目覚まし時計だ。なんて、ああ、つまらない比喩!
「……生き、てる?」
「もちろん」
鷹揚に頷いてやろうとして、首筋がいかついギプスで固められていることに気づいた。怪我をした憶えもない箇所まで保護されていると、ビリーの視線の揺らぎで理解する。揺らぎ。水面の向こうからこちらを眺めるような水っぽさ。大きな青の瞳は、そこに宿る色の通りに湿り気を帯びる。
初めておいていかれた子供の眼差しだと思った。死人なのに、死人だから? 他者においていかれることに慣れられない。筆舌に尽くしがたいであろう苦しみを、私は彼に与えた。ようやっと、そんなことを自覚する。
「そう。よかった、本当に、良かった、よ」
薄い唇から漏れた声は、溺れているみたいに掠れていた。爪と指先の狭間にある、最も柔らかな皮膚が私の頬を掻く。私を傷つけないための努力で、ビリーの指は震えた。鼓動を再現したような震えだ。生きてるみたい、なんて、この錯覚はどこまでも愚かしくて、取り繕うことのできないほど愛おしい。
「勝てよ」
私はビリーの遺した言葉を繰り返した。宝石箱からとっておきの首飾りを取り出すように。確かに、あなたへ見せつけるために。
「私は勝ったよ、ビリー。だから今、生きてる」
どうしようもなく眠くて、目を閉じた。そうして曇空の楽園を、微睡の淵を照らす焚火を思い出す。生き返るためのさいごの試練。私のための闘争。戦って、勝ったの。勝ったけど、ね。
「神様に会ったよ。死んだ私を、待っててくれるんだって。戦いで死ぬ者は、等しく報われるべきだと、そう言ってね。でも私、死後に報われるために戦ったり、生きたりしてるんじゃないの」
報いがあると、救いをあげると、何度となくそう言ってもらえるのは、とても喜ばしいことだ。それはきっと彼ら、彼女らにできる最大限の優しさの表象なのだろう。けれどいずれきたる救済は、私の闘争の報酬にはあたらない。だってもう、許しはいらない。自分が最早、あらゆる許しに値しない人間であると知っているから。それでも。
私のために死ぬ、私が殺す、あなた。今も終わらない戦いに呑まれて、それでも私が取り返した、あなた。
「ビリーにおかえりって言うために、私は生きている」
あなたの在る今日は、幾千万の救済にも、百億の天国にも勝る。この戦争の報いならば、それだけでもう充分だ。