【仙楽太子謝憐と兵士花城】足音はしなかった。
それでも目が覚めたのは、その少年が狼のような冴えを持っているからであった。戦地帰りで感覚が鋭敏になっているのも大きいだろう。
家の周囲を何者かが伺っていることを確信すると、刀を持ち、裸足のまま扉の横に音もなく身を添える。
シン……と静まり返った夜半、こちらから蹴り開けてやろうかと目を細めたそのとき、消え入りそうな声で「さんらん」と声がした。
声をかけられたわけではない。その場でただ言ってみた、という調子の声。
しかし、それを聞いた少年は一も二も無く戸を叩きつけるように開け放った。
「殿——」
「三郎!!」
呼びかける前、今度は喜色に満ちた華やかな声と共に、腕の中に白い鳥のような人が飛び込んできた。
「た、太子殿下」
「無事で何よりです。三郎」
慌てながらもふらつくことなく受け止め、自分を三郎と呼ぶただ一人の人を強く抱きしめた。
謝憐がこうして彼の住処を訪ねてくるようになったのは少年——花城が13の歳からである。
謝憐は花城を三郎という愛称で呼び、非常に可愛がった。
幼い頃命を救われて、大切な言葉を貰った恩を生涯の糧とし、尊敬と親愛、無類の献身を捧げる少年を好く思わないわけがない。また、謝憐はいつかの戦場で彼の太刀筋の素晴らしさに気がつき直々に相応しい師を見つけてやった。時には謝憐が稽古をつけることもあった。
仙楽は戦争を多く行う国ではないが、今回花城は遠征に向かっていた。およそ一月ぶりの再会であった。
「また王宮を抜け出してきたんですか。こんなに冷え切って……直ぐに声をかけてください」
謝憐は「疲れてると思って」と頬を掻いた。
花城の部屋はサッパリとしていて物があまりなかった。豪奢なものがあったら、それは大抵が謝憐への贈り物だったり、謝憐から贈られたものだったりする。寝台もまた質素なものであった。火を入れる間も無く、先ほどまで花城が眠っていたそこへと二人で潜り込む。その方が温かいし、早い。
太子殿下が真夜中に出歩き、一介の兵士の自宅にやってくることに戸惑うような顔を浮かべていた少年は、少しも経たないうちに布団の中で謝憐の胸元に顔を埋めスンスンと匂いを嗅いでいる。
そんな少年の長い髪に指を梳き入れ、謝憐はクスクスと笑った。首筋に吸い付かれるくすぐったさに抑えが利かない。
すると、謝憐の道衣の隙間から手を差し入れていた花城がふと顔を上げて、「何故、私が帰ってきたことがわかったのですか?」と疑問がった。
「花が」
「花?」
「君はいつも長く離れることがあったら、花をくれるから。王宮に珍しい花があったんだ。聞けば君の遠征地に咲いているものだった。戦地から引き上げるときに、わざわざ枯れないように小さな鉢に入れて花を一輪だけ持ってくるなんて君以外誰がするの?」
それを聞いて、花城は目を丸くした。そして「仰る通りです」と目尻を下げて心底嬉しそうに笑った。年相応の無邪気さの中に、抑えようのない包み込むような愛情の籠った笑みであった。
「哥哥」
甘えきった声色でそう呼ぶ癖に、やっていることは全く可愛くない。
瞳の奥はユラユラ燃えていて、甘えた声の中には熱っぽい響きが溶け込んでいる。謝憐が抵抗しないのをいいことに、身体を温める寝台の上で二人で溶け合ってさらに熱を燃やす。寝台は二人の重みでギシギシと高く低く鳴った。謝憐はいつからかこの7つも年下の少年に、寝台が軋む音の生生しさを覚え込まされた。
初めての時は、花城の想いに気づいていながら毎晩のように此処に通い、自分から誘ったようなものだったと今でも思う。
あの歳の離れた弟のように可愛がっていたはずの子を、愛してしまって早幾年。
花城が帰ってきていると分かって、時間も人目も考えず、飛び出してきてしまった。
人知れず逢瀬を重ねて、王宮を抜け出すのも随分と慣れた。
謝憐は命を懸けて仙楽のために闘ってきた愛する少年を飴を蕩かすようにドロドロに甘やかした。
寝台の中で愛で、褒めて讃えて愛を囁き……そんなことをされれば、血気盛んな若い恋人は自制を失うに決まっていた。
一心不乱に貪りつかれた謝憐は、朝日が昇る頃にヒンヒン泣いて腰を押さえながら王宮へと帰っていったのだった。
***
花城は上官と連れ立って城へやってきた。
紅衣に隻眼で、特異な太刀筋の刀使いは戦場で大層な活躍を見せたようである。国主から直々に褒美を取らされて、恭しく受け取っていた。
謝憐も同席していたが、花城は彼に対しては恐縮したように跪いて拱手するのみで、一言も無い。目すら碌に合わなかった。謝憐は胸のうちが痒くなったようにもやつくのを感じた。
昨夜はあんなに甘えてきていたくせに、なんと他人行儀な姿か。
直後、あまりの自分の幼さに気づき、謝憐は失笑せざるを得なかった。
公的な場では決して、身分の尊卑を揺るがさない花城のほうがよほど現実を理解している。本来ならこうして顔を合わすこともできないような関係なのだ。上手く立ち回ることは一刻も早く、堂々と謝憐の傍に居られるようになるために必要なことだった。
でも、それでも帰り際に謝憐は花城を待っていた。
太子殿下が待ち伏せなど国師や父王に見つかれば何を言われるか分かったものではないので、慎重に隠れる。すると、なんということか柱に身を隠した一瞬で花城を見失ってしまった。
戸惑って、周囲を伺うと横から手がすらっと伸びてきて謝憐を壁に引き寄せた。
口づけと同時によく知った匂いと力強さに包まれる。無意識に受け入れるように目を閉じていた。
「殿下。直ぐに貴方の隣に立っても恥じない人間になります」
君が隣に立って恥じることなど、何がある?と謝憐は思った。
けれど、二人にとってはそうでも、世界は二人のものではなく、この世の多くはそれを許さない。
「信じて」
瞼を開けた先には、黒く輝く力強い瞳が一つだけある。もう片方の包帯の下を見たことがある。
一番、彼が見られたくないと言った、彼が醜いと言う何より美しい赤を見せてくれたときからこの秘めやかな関係ははじまったのだ。
若き武者は謝憐の手の甲に口づけを落として、さっと赤い影を翻し、帰っていく一団に紛れた。
紅衣の背が見える。会うたびに強く美しく成長していく彼に堪らない気持ちになる。もうとても子供とは呼べやしない。
やがて、この花城は順調に頭角を現し、戦場で功績をあげ、御自ら(おんみずから)戦場にて類まれなる剣の腕を振るい兵を鼓舞する謝憐を公私共に支えてゆく存在になる。
この先二人の試練は数多くある。国民皆に愛される国の宝を自らのものにするのは並大抵のことではない。殿下の周りだけでも、彼の侍従二人に父王皇后、師父に、厄介極まりない従兄弟……多くの敵が立ちはだかっている。しかし、二人はお互いを手放す気はなく、数多の困難を共に打ち破っていくことになる。
しかし、それはまだずっと先の話である。
続