扉を開けると正面には板張りの台所。隅に寄せた古い冷蔵庫の中には缶ビールと水とヨーグルト。ヨーグルトは昨日買ったばかりの3連パック。ひとつずつ分けて残ったひとつは半分個にしようと言ったばかりなのに。そんなことは忘れ去られ言葉少なく押し黙ったまま水の一滴も通らず渇いている。
縦長の間取りの狭いこの部屋の隅から隅まで隊長の匂いがして居心地が良くて。居着いたオレに一言二言咎めたのは最初の内だけで、今じゃオレの着替えもドライヤーまで定位置と決めた場所で当たり前の顔をしているのに。今日に限って家主の心持ちに従うように急に居心地の悪さが這い上がる。
ぞんざいに手渡されたのは茜色の特攻服。オマエの分だ。隊長はそう短く告げてベランダの外へと視線を向ける。どうせ外に興味があるわけじゃない。オレの顔色を確かめる気もないってことだ。オレが隊長に従わないなんてこと、きっと考えてもいないんだろう。それとも興味すらないのかもしれない。隊長にとって、オレは外の曇り空と同じぐらい興味がない。隊長の頭の中なんて、どうせ1から10まで「イザナ」のことばっかりだ。
「…オレの分て、どういうことですか」
「横浜へ戻る」
戻る、そのひとことが隊長の正体だった。
目の前にいる黒の特服姿は偽物で。オレはそんなことただの一言も知らされていなかった。隊長にとってオレはその程度なのだと知らされたことに、そんなことを思う女々しい自分に、どうしようもなく怒りがこみ上げる。
ついて来いとも、ついてくるかとも言わず、横を向いたままオレを見ようともしない無機質な横顔にどうにも無性に腹がたつ。
相手を一発で殴り飛ばす硬いコブシが一転、オレに触れる手は滑稽なぐらい慎重だ。たったそれだけのことに、コロリと気を許した自分にヘドが出る。
ふたりきりの時にだけわずかに緩む視線が焦れったいとさえ思った自分に腹がたって腹が立って、からだ中の血液がぼこぼこと沸いて音をたて、煮えくりかえって駆け巡る。
とぐろを巻く怒りで頭のてっぺんからつま先まで濁流が渦を巻き、眼球の奥でチカチカと火花が散って胸の奥がキンと痛む。
首の根っこからひん曲がるぐらい力いっぱい殴られて、からだごと吹き飛ばされた気分のオレの痛みを隊長はほんの少しでも思うだろうか。オレを殴りつけた隊長の拳は、ほんの少しでも痛んだだろうか。
突然現れた痛みに渦を巻く感情の意味を、ズキリと痛む意味を、隊長が知ったらどう思うだろうか。それすらも仏頂面のままだろうか。
骨の形が浮き上がるぐらいに強く手を握りしめ、ようやく絞り出した声は果たしてこみ上げる震えを押し殺せただろうか。
「…行かない、って言ったらどうしますか」
オレとアイツと。どっちを選ぶのかなんて。そんな情けないことをいう気はなかった。聞くまでもない。最優先はあっちだってことぐらいわかっている。ほんの少しだけでも困らせたかっただけだ。
隊長はオレの魂胆なんてわかりきっているくせに、それを口にはしない。眉をゆがめて厄介だと思っているのがアリアリと顔に張り付いている。そうだよ。オレは隊長にそんな顔をさせたいんだ。アンタを困らせて呆れさせて、オレのことを考えてくれればいい。ほんの少しの間だけでもオレのものになってくれたらいい。
せめて。それが声に出てしまわないように、漏れてしまわないように奥歯を噛みしめて、けれど視線をそらしたくはなかった。それがせめてもの抵抗だった。
奥歯を噛みしめからだを強ばらせるオレに隊長は眉をひそめる。無言のままその瞳はわずかに揺れて隊長の厚い手のひらが目の前にヌっと現れる。叩かれる、と反射的に歯を食い縛って身構えた。なのにすくめたからだはグイッと凄まじい力で抱きしめられた。
一瞬のうちに頭からまるごと抱えられて長い腕に抱きしめられた。
片方の手は逃がすまいとして後頭部からがしりと抱え、もう片方の手は力任せに肩を抱きたぐり寄せ、からだごとすっぽりと胸の中に閉じ込められる。ごつと太い指が乱暴に髪をまさぐりしっかりと頭蓋骨ごと引き寄せる。肩を捉えた指は肩のくぼみに食い込みつかんで離さない。力まかせにかき抱かれてひとまわり薄いからだは軽く浮き、上向きになった軽い顎が隊長の肩に引っ掛けられて乗りあげる。すりと寄せる頬はざりざりとして、骨張った感触がたまらない。
抱きしめられた反射で浮いた両の手が行き場を探して彷徨った。それを捕まえるように一層抱きしめる力が強くなる。痛いほどに抱きしめられて、今度こそオレは隊長のからだを抱きしめ返す。抱きしめて抱きしめられて、たまらず肌の匂いを吸い込むと、辛いフレグランスとタバコの混じった見知った匂い。じっとりと下肢を濡らす、匂い。
「勘違いするなーーイザナは”王”だ」
耳元で漏らす吐息に鼓膜が焦れる。それに弱いのを知っていて、この男はわざと耳元に唇を寄せる。いつにない仕業にジンと小さなしびれが走る。
憎らしいのは恋しいのと同じ意味なのだと、この男に教わった。
例えばこの男を手に入れることが叶うなら、このからだも髪も目も唇も心臓も全部。いっそ奪われてしまいたいと。喰らいつくして仕舞われたいと。
そんな薄っぺらいお伽噺さえ浮かべるほどの浅ましさを、この男に教えられた。
背に回した腕は離れて仕舞わないように、しっかりと厚いからだに巻き付ける。
「アイツは強い」
抱き抱えたこめかみに唇が囁いた。ジン、と震えたのは鼓膜か心臓か。触れる息に
アイツには怖ェモノがねぇ。怖ェモンもとうに手離して残ってるのは狂気だけだ。
壊さなければ終われない、終われないという恐怖、だけだ。
-------走り書き~💦
そう漏らした顔はオレにはけして向けない顔をして。それに酷く狼狽えて知らずうつむき唇を噛んでいた。
「そんな顔すんな。意味わかんねぇなよな。…オレもなんでこんなことオマエに言い出したのかわかんねぇんだけどよ。…聞いて欲しかったのかも知れねぇな」
オレにもあった。誰にもわかって貰えねぇだろう諦めみたいな、壊れちまえば終われるんじゃねぇかってどうしようもねぇモンが。
アイツは…イザナにも同じモンがある気がして。終わりにしてやりてぇって思った。今も、思ってる。
アイツの終わりてぇって、壊してぇって願いを叶えて。
それでアイツの願いが叶ったら、オレの願いも叶うんじゃないか。叶えてくれるんじゃねぇか。終わりにできるんじゃねぇか。
オレは器用にはできねぇからな。一度決めたら最後までそうするしかできねぇから。最後までアイツを見届けねぇと、な。
だから三途。
オレの、最後は
ーーその時が来るなら、オマエに見届けて欲しい、と。
「オマエが抱えてるモンは、なんだ。」
びくり、
「オマエはなにを恐れてる」
何が怖くて、何を壊しちまいたいと思ってるーー?
「三途、頼みがある」
オレの骨を拾ってくれねぇか。拾って焼くなり撒くなりなんでも構わねぇから。
オレの欠片のひとつ残らねぇようにしてくんねぇか。
オマエに頼みてぇ
隊長は、欠片さえオレには与えてくれないーーそれなら、オレは